旧幕領を預けられる事なった会津藩だったが
一方の旧幕領の領民達にとってこの決定は
正に青天の霹靂だった。

既に会津藩領になっている小千谷陣屋領等から
会津藩に年貢の前払いをさせられたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両、六日町からは
五〇〇両、浦佐村からは四八〇両など)
を負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両、脇差税として十両など)を設けた。
(小千谷市史下・越後歴史考)

会津藩の搾取ぶりを聞いていた旧幕領の庄屋達は
それぞれの代官達にこれまで通り代官所による統治の据え置きを望み
代官に会津藩による支配に反対する建白書を出す事になる。

「会津藩は、奥州若松から七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。越後が戦闘になったら
小千谷・小出島・蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。その上
預地となれば調達金や夫役を課せられ
私どもの村々は立ち行かなくなるだろう。」(十日町市史通史編3)

これが会津の圧政だよ。
領地にしたらとにかく税をむしり取る。
しかも信用がまったくない。
会津プロパガンダによる会津武士道が
いかに捏造であるか、史料を見たらよく分かる。