凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part35 [無断転載禁止]©2ch.net
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荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。
・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
スレッドの住人間相互に尊重すること。
・落とし格子に関する議論をスルーしたりして妨害するのは禁止です。
以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。
前スレ
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part34
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1479478757/ コリアがcから始まる言語なんて珍しくもないんだが。
「Coreaと綴るのはJの下風に立つのを嫌う朝鮮人!」って・・・
病院行けよ あとこのスレには二度と帰ってくるなよ迷惑だから。 「倭城」って近世の城郭であって中世じゃないし
織豊城郭以前の城は石垣どころか明確な土塁も曲輪もないよ >織豊城郭以前の城は石垣どころか明確な土塁も曲輪もないよ
吉田城の石垣調査報告書なんか、分厚い城郭研究書には必ず引用されているのだが
もとより興味がないんだろうな、「出ていけ」と排除の論理が大好物な外国人が連投しているスレではw
日本sageだけが目的で日本史板に常駐しているんだろ、君 以前、どれが縦掘りか登城道かわからないなんて話が合ったけど
実際に目にすればわかると思うが中世の城郭とか明確な遺構がほんと何もない
日本城郭体系の縄張り図を妄信している人いるけど、あれも書いた人の感性次第だからな〜
堀なのか?道なのか?枯れ川なのか?曲輪も土塁もなければ整地されてないとこがほとんどで本当にこれ昔からあったのか具体的な形とかハッキリしないことが多い >>590
吉田城っていっぱいあるけど多分三河吉田城のことだと思うけど
池田輝政が入ってくるまで土塁の城だったって調査ではっきりしてるでしょ
つうか江戸時代に入っても土塁造りの城って結構あるよ
北関東や東北何て石垣ある方が珍しい 追記
西股総生は曲輪すべてが何らかの意味があるもので彼によると中国の兵法書やヨーロッパの戦術書の陣形図のように
巧妙に主郭を守るように出来ているらしい
でも本当に防衛を考えるなら小さな曲輪を無数に斜面に配置するとか、わざわざ進入路を作ってるようなもので
尾根上に兵がたくさん詰めれるような大きな曲輪をつくって斜面はすべて切岸にしたほうが合理的だし倭城は実際そうゆう構造をしている
まだ西股が必死こいて排撃してる藤木久志の戦国の城、避難民保護施設説のほうが説得力ある
ルイス・フロイスもそういう旨のことを書いてるし あの塹壕みたいなやつかな?
織豊城郭ではほとんど見かけない形式だから応仁の乱かすくなくとも中世にはあったと思う
あと中世の城ではよくあることなんだけど急こう配で這って進まないといけないような場所に巨大な土塁があったり
逆に緩かな所にはほとんど防御遺構がなかったりすることが多々ある
あれも何か意味があるのだろうか >>592
あぁ検索したらその「吉田城」がヒットしたのねw
その「吉田城」じゃないよ
つーか本当に専門書を読まずにドヤ顔してたんだな
>北関東や東北何て石垣ある方が珍しい
これも城郭本の定番ね
一冊ぐらい本を読もうよ
ちゃんと理由が書いてあるから じゃあ無知な俺に君の知見をどうぞ
少なくとも高石垣を作る技術を確立したのは織豊政権でそれ以前はなかったというのが現在(2017時点)の通説だけどな
これはシンポジウムで聞いた話だけど織豊城郭の形成に本当に穴太衆がどこまで影響していたか謎が多いらしいね
というのも織豊政権以前に穴太衆が組んだ石垣には勾配が内から このスレでは○○は駄目。
△△はとんでも。
XXは嘘つき。
というレッテル貼り大好き君が暴れているから、
どこの誰かは言えないけれど、「シンポで聞いた」だけでは、
どの程度信憑性があるのか判断しにくいね。 >>600
文明国と比較するのはやめてくれないか
卑怯だ 名古屋城天守閣、屋根の瓦は緑から「黒か茶」に
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171222-OYT1T50027.html?from=tw
駿府城もそうだが最上階のみ銅瓦剥き出しなのは冠をイメージしているのかね
後、名古屋城天守の1・2階の間は当初設計では福井城のように屋根は無かったと思う >>596
それはお前じゃね?
まともに石垣をそろえた吉田城といえば三河吉田城しかないだろ
本当に室町時代に江戸時代みたいな立派な石垣や御殿を備えた城があったと思ってるの?
お前の地元にも戦国時代の城跡でも見て来いよ
そんなものが立てれるだけの敷地がないって一目でわかるから 「日本の城 知られざる築城の歴史と構造」 香川元太郎
どちらが城として優れているかはともかくとして、朝鮮式山城が、かなりの費用と労働力を用いて入念に
造られていることは確かである。
石垣一つにしても、その石垣がいまだに残されてるのは、じつは驚異と言える。
戦国時代の城にも、時々石垣が使われているが、現在ではかなり崩れているのが普通だ。
安土城の石垣でさえ、現在でこそ整備や復元がなされているが、一九五五(昭和三十)年頃までは、原形を留めないくらい
に崩壊していた。ところが、城の石垣は、それより九00年も古いのに、水門部分などが残されていた。
倉庫群にしても、二九ページに見られるように礎石や瓦を用いたもので、これも中世の城のほとんどが掘っ立て柱、板葺や
草葺の建築だったことを思えば、驚くべき手間のかけようである。
「戦国山城を攻略する キャッスリング入門」 森本基嗣
いづれにしても、石垣は部分的にしか使用されず、土塁の
土止めや虎口(郭の出入り口)の一部分に付設される程度の技術しかなく、天然の断崖あるいは人
手を加えて急峻に仕上げた崖(切岸)の方がはるかに堅固であったようです。
また、防備面で尾根を切断する堀切や山の斜面を堅に区画する竪堀、建物も、礎石を用いた本格的
なものは稀で、大概は掘立柱を用いたものだったようです。無論、天守ようなものは存在してな
く、せいぜい物見櫓程度であったとのことです。 >>601
比較対象は朝鮮に限るとネトウヨルールで決まってるのにな
ブサヨの連中はルールを守れよ 韓国にしかマウント勝負を仕掛けられないクッソ情けないネトウヨ 吉田城といえば三河
他に何所があるのか検索しても分らない
日本sageが目的なので日本の城のことなんか知らない
朝鮮式山城は朝鮮人による朝鮮人の技術
九00年(←900年?)も完全に放置していたことが確実な(どこかにある)水門部分が残されている
比較対象は破却された安土城
数少ない朝鮮式山城?と数多く造られた中世の城を比較
都合の良いとこだけピックアップ
これが正しい比較考察w 半島の古代山城とか日本で言えば弥生古墳時代のものなのに何でネトウヨって1000年もあとの近世城郭と比較するの?
比べるなら同時代にすれば?
丸都山城と吉野ヶ里遺跡がほぼ同時代だぞ 城壁厨のガイドライン
ばればれの自演連投で、多数を装う。
=を多様するが、脳のキャパが極小なのですぐに混乱する。
自分を批判するレスはすべて同一人物によるものと断定する。
得意技は鸚鵡返しだが、意味不明な変更を加える。
基本的な日本語に不自由している。但し書きが理解できない。
前スレが900に達しないうちに次スレを立てて来たのに、間抜けなので後れをとる。
住人の意向に関係なく、勝手に間抜けなテンプレに変える。
嫌城壁厨という言葉を発明した。
住人に一方的に課した義務を自らは履行しない。
議論議論と連呼するが、専用スレで議論するほどの知識がない。
主目的は平和なスレを荒らすこと。
平日休日を問わず、2ちゃんねるに常駐している。 石垣や櫓を備えた本格的な近世城郭って築城にはどのくらいの経済力が必要だったんだろうか?大規模な中世城郭と比べても段違いに高価?だったのかな。
天正から元和までの短い期間とは言え、万石に欠けるくらいの国人領主の城でも近世城郭化してる例は結構あるみたいだよね。この↓備後相方城だって三千石程度の国人の城だけど結構ご立派。
https://i.imgur.com/O10oJOf.jpg
https://i.imgur.com/JNAP4mJ.jpg
https://i.imgur.com/q9us3wT.jpg
あの壮大な竹田城だってせいぜい二万石そこそこの大名の城だし。
日本もドイツみたいに、帝国騎士レベルの小領主の近世城郭遺構がうじゃうじゃ残ってたら面白かったのに。 >>612
石垣遺構は毛利の直轄城として整備された時代のものだそうだから
別に不思議はないでしょ。 竹田城も、秀長が縄張りしたものを秀吉の支援を受けて赤松広秀が完成ということだから、
赤松は但馬・播磨の境の拠点であり生野銀山をも管轄する豊臣の城の城番みたいな
立ち位置だったんじゃないのかね。 >>613
あ、そうなんや!
俺が見たサイトでは有地氏時代とか書いてあったから「三千石の国人がこんな立派な城?!」とちょっとびっくりしたんだけど、俺の早とちりなのね・・・ >>615
613ではないが、算木積みの石垣は毛利ではなく、福島治世下で築かれた可能性もある。
郷土史でも両説紹介している。 >>612
フランスでゲドロン城プロジェクトといのがあって当時の工法、当時の道具を使って材料も現地調達で中世の城を作るという試みなのだが
男女あわせて45人の労働力でも25年もあればこんな立派な城が作れるらしい
https://www.youtube.com/watch?v=MOsAXAwDJRc
ちなみに14世紀の神聖ローマ帝国では城壁がめぐらされた帝国自由都市が3000、帝国騎士の城塞は10000を数えたというのだから凄すぎる 岡本太郎をデスったり、石造を無条件にアゲたり…
例年世界史板では冬になると日本の建物をデスる奴が毎年何度も「日本の家は寒い」と書き込んでいたのに
数年前から全くみなくなったが、世界史板のように一面的なものの見方が如何に愚かか説明してやれば流れは変わるのだろうか、
それとも質問板の沖縄荒らしと同じキチガ…もとい偏執者には理屈は無駄なのだろうか。
そういやこの偏執者の登場時期は同じだよなぁ。
「みんな違ってみんないい」という言葉の対極だよな、この西洋マンセー。
「一人の思想、一人の言葉」にみんな従えというファシスト臭が臭杉。 朝鮮の次はマウントの対象をヨーロッパに切り替えたのか懲りないねぇ・・ネトウヨは
余計勝ち目ないだろうに
つうか岡本太郎って誰だよwwググったら城郭研究とは何の関係もない美術家の人やん 岡本太郎しらないのは逆に無知すぎなんだよなぁ... 世界史板で無条件日本マンセー朝鮮叩きなんてしてたら、ここより余計叩かれると思うけどね。
ここよりずっと左巻き多いし。
この前も漢帝国と弥生時代日本は同レベル。古代から日本は世界強国だったとかほざいてた馬鹿ウヨがもう叩き食らってたな。 >>620
ま、さすがに中高生くらいのお子様か日本人じゃないかだねぇ。 >>617
面白い試みだけど、教会ならともかく城に25年ってのは時間かけすぎだよなぁ。
でもまぁ、500人くらい動員できれば2〜3年でできるのかね? 江戸時代の250人/万石の軍役相当で
2万石の大名ならなんとか、って感じかね。 いいか、よく聞け。
本当に大切なのは日本人が誇りを持てる、愛国心を鼓舞する歴史を描かれるかということだ。
日本人ならわかるだろ?
重要なのは誇りの持てる歴史であって、史実だとか真実だとかどうでもいい。
日本人ならまずは国益を第一に考えよう。 >>624
ソレ、日本を韓国か朝鮮に置き換えれば、実にしっくりくる主張ではあるな。
いわゆる、歴史をコリエイトってヤツだけどなw 14世紀の沖縄の今帰仁城や首里城は敷地面積でも同時代の本土の土御門内裏や花の御所を大きくしのぐ総石垣造りの城だが
慶長年間の検地でも精々8万9000石程度ということを考えると三山時代にこのグスクを作った勢力は本土の中小国人とそう変わらない動員能力しか持たなかったはず
それでも本土とは隔絶した規模の築城を行っているのだから、経済力や動員能力ではなくて技術力如何だと思う あーそう、
じゃあブルンジでもスリナムでもガイアナでもレソトでも東ティモールでもブータンでも通るから無理に韓国を当てはめる必要なんて皆無だなw え、20万人もの娘達が強制連行・性奴隷にされたというのに何の抵抗をすることもなく
黙って見てたという誇らしい歴史を騙るのは韓国以外にないと思うが… >>626
沖縄は大陸渡りの技術もそれはあったろうけど、そもそも本島の1/3が琉球石灰岩という土地柄だから
建材として容易に入手しやすかったということがあるんでないの。 まぁ大規模な土木工事というのは、不労対策と為政者の施策の方向性次第だからね。
本土のサヨクは沖縄が如何に搾取されたかは声高に指摘するが、琉球政府が周辺諸島に
奴隷労働を強いたことや弾圧にふれることはない。
弱者に対する優しい視線とやらは何処いったっていう話。 >>629
そもそも日本自体が有数の石灰岩、花崗岩、玄武岩、安山岩の産地なんだよ
とくに山城は固い地盤が好まれることから、これらの岩盤の上に立てらていることが多い
そのため後世石切り場となって城の遺構のかなりが失われた城もあるんだが、そういった城に石材が使われているかというとそうでもない オランダみたいに陸地の3分の1が干拓地でろくな石切り場がなくて
海外からわざわざ石材を持ってきて城や教会作ってたしな 木曽山脈とか世界有数規模の花崗岩の塊だけどな
あと北上山地、筑波山地、八溝山地、阿武隈山地、朝日山地、飯豊山地もな ヨーロッパとか石材が露出してる地域がほとんどないから
地面深く掘り進んでまで採石してるけど
つうか東北に総石垣の城が少ないのは云々がいかに机上に空論かよくわかるな 石造の城を構築するには大量の石材が必要です。これを遠くから運送するとなるとそれだけで大変な労力とコストを要します。
ですので、多くの場合には、その土地に産するありとあらゆる石材が使用されているはずです。
場合によっては城を建てる敷地内に石切り場を設けてそこから切り出しています。
というか、適当な石材が採れることが城の立地条件の一つになっていたのではないでしょうか(例:Chinon城、Chateau de Coucy城、Chateau Gaillard城など)。
多くの場合には加工の比較的容易な石材である、hard chalk(硬質チョーク石)、flint(燧石)、lime stone(石灰岩)、sand stone(砂岩)ですが、
花崗岩のように加工が難しい硬石であっても適度の大きさの塊や玉石状になったものは使われています(北欧各地の中世の城)。
石の入手が困難な場所に建てられた城の場合にはどこからかそれを運んでこざるを得ないわけですが、例えば、
フランスのノルマンディー海岸にあるCaenの石灰岩(Caen stone と呼ばれる)は有名で、フランス国内の城や教会だけでなく、遠く英国まで運ばれて築城用にも使われています。
同様な石灰岩として、英国のコーンウォールで採れるbeer stoneがあります。 中世ヨーロッパも日本みたいに大小何百の封建領主の集まりで大した動員能力なんてないだろうに >>631
岩盤の上に築いている山城なんてのはごく一部だろ。
山城の大方は尾根筋を平削して曲輪を造り、掻き揚げ土塁、堀切、竪堀を巡らすのが普通だから、
岩盤が剥き出しのような山での普請は中小土豪では手に余りすぎる。 アイヌのチャシで岩盤を掘り下げて2〜3mのささやかな堀切を設けているところがあったけど、あれは大変な作業だったろうなあ・・ 江戸城だって天下普請の城だから
諸大名に伊豆から石材を運ばせられた
徳川が一大名だったら土塁の城だったろう >>640
いやむしろ違うってとこでがあるのなら教えてほしいわ
つうかお前は岩盤層と岩山の区別がついてないだろ
新城山城、東岩坂城、米ノ山城、大谷城、渋見城、備前富山城、豊前松山城、武蔵高松城、大除城、片山城
ああああああ〜もう上げたらきりがないから「城郭体系」でも読め
採石で崩されて縄張りの一部やあるいは完全消滅した城とか100とか200ってレベルじゃないからな
現在も違法採掘が続いて「城郭体系」通りじゃなくなってるとこも多い 中世江戸城なら千代田区まで入り江が入り込んでいたので
鎌倉石や房州石を海上輸送で搬入できただろ
凝灰岩なので加工コストも対してかからないし 勢力範囲とか意味わからん
お前の頭の中では中世日本はすべて地産地消の原始時代なのか?
刀剣や武具や衣服や紙や食器や農具もすべて領内で自前で揃えていたと思ってるの?
近場に石の産地があるんだからそこから買えばいいでしょ ゆとり世代の歴オタはゲーム脳が多いから戦国時代も年ガラ年中戦ってたわけではなくて普通に人々は国々を行き来してたって視点が抜けてるよね
磁器や木綿なんて16世紀半ばまでずっと海外からの輸入頼み >>643
オレサマ解釈の『岩盤』を語られてもなーw
ここの用語解説あたりが分かり易かろう。
ttp://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/yougo/A_kihon/kihon_ganban.htm
以下引用------
岩盤
安山岩や流紋岩などの火山岩、花崗岩などの深成岩および新第三紀以前の堆積岩
(新第三紀層、古第三紀層、中生層、古生層)が岩の状態で存在している地層を
岩盤と呼び、岩石や岩が総称的に用いられるのに対して岩盤はある広がりを持った
概念として用いられます。
一般に、平野は堆積物(土)に被われ、山地は風化土(土)に被われ、岩盤が
直接露出している個所は標高の高い山岳地帯、滝や急流沿い、崖地などに限られます。
これらのように岩盤が露出する箇所はいずれも侵食の激しい個所であり、
地表を被っていた土砂が侵食・崩壊によって失われている個所です。
平野や里山など、通常は岩盤が見当たらない個所でもその下位には岩盤が
広く分布しています。 643じゃないけどそれ全然反論になってないと思う
そもそも岩盤地層じゃない山ってないだろ >>649
>そもそも岩盤地層じゃない山ってないだろ
そうだよ。だから岩盤は遍く表土の下にある訳であって、>631で山城は岩盤の上に建てられていると
主張するのならば、それは露出した岩盤の上だということになるし、そうではなく表土に覆われている
岩盤ということであるなら、容易に採掘できるわけでもないので石材として使われてないのも当然という話。 極論すると埋め立て地に立てられた城でもない限りどの城も岩盤の上に建てられていると言えるよね ヨーロッパは氷河時代の名残りで表土が薄いから、岩盤まで掘り下げて基礎を置いてる城も多い、とか聞いたような気がするが・・・
日本の近世城郭は平城や平山城址公園が多いし、チョット無理そうだなあ >>646
近隣国が防備を固めるために石垣づくりの立派な城を築くことがわかっていて
石を供給するって随分おおらかな領主様だな きみの理屈だと領土に鉄鉱山がないところは武具もろくにないってことになるし
鉄砲も一瞬で全国に普及したことの説明がつかないよね
必要物資を自前ですべて用意できるのならともかく、手に入らないものは買うしかないのだから
領内に高く売れそうなものがあるのなら当然売るでしょ 関東での殺し合いに鉄砲が使われても、堺の商人は困らない
近隣同士の直接の利害関係を理解できないのか
簡単に買うと言うが数量や価格など完全に売り手市場だ 中世城郭好きとしては愛知県の古宮城が良い、と言ってみる。
縄張りの手ぬぐい欲しい。 >>657
鉄砲は全国津々浦々、堺の商人が売って広めたと思ってるの?
完全に買いて売りてが固定してる市場なんて存在しないんだけど欲しいものを買いたいなら自分も何かを売らないといけない
それがまだ理解できないの? 堺の商人に直接着て卸してもらうにしても必ず隣国は通るだろ
それともヘリから空輸でもしてたのかい? >>659
今川も北条も武田に塩を売らなかったから上杉が出て来る逸話があるのに
なにをほざいてるんだ?
金になっても売らないときは売らないものだ 今川や北条の塩留め伝説は江戸時代に入ってから出来たもので実際にはなかったというのが有力
だいたい今川や北条が禁止した所で越中から入って来るし、塩輸出停止した分の赤字はどこで補填するのって話
北条氏邦は実際に武田勝頼に対して塩止めを実施したことあるけど半年の期限を設けている
輸出がストップすれば当然自分もダメージ受けるし、これが限界だよね 金持ちじゃなきゃ軍隊も持てなければ戦争もできないでしょ
火縄銃やその弾丸の原料の鋳鉄や鉛も火薬に使う硝石もわざわざ南蛮貿易で手に入れてたんだよ 道灌の時代って領主権力はどこまで在地を掌握してたんだろうか?そんな商取引を根絶させるなんてこと強制できたのか?てのが一つと、
まだまだ中世的な広域権力がどっこい生き残ってたこの時代、そちらからも広域的な商取引を保護する力が働いてたりはしなかったんだろうか?
甲斐武田氏なんて最後まで「守護大名から脱皮できなかった」と主張する人もいるようだし、
軍を率いてじゃなくて私的な旅行として上洛する武将もちらほらいた事から考えても、
戦国時代ってものを「戦国大名が地域的公権力の独占に至った時代」と捉えることには抵抗があるなあ。 ある一方の領主が経済封鎖したところで、また別のルートを使うだけだろうな。
もし、その地域の権力者すべてに号令をかけて経済封鎖圏をつくれる広域権力とかそれこそ近世になるまで出てこない。
石山合戦でも毛利が兵糧の補給をするもんだから10年以上粘られたしな。 >>667
守護大名は云うまでも無いが、多くの戦国大名は直轄領が少ないんだよな。 中世が在地領主によって分断された社会なら京上夫とか公事を徴収できないでしょ
荘園もなくなったのは太閤検地からだからな 中世に石垣のある城がどれほどあったんだよ?
石だけあればできるものでもない それこそ六角観音寺城みたいな守護大名のような権力の大きいところしか石垣城は持てなかったよ。国人とかは無理。それもまだ加工技術も積み方も途上。 権力の大きい小さいとか関係ない
新田金山城を現在の形にした由良氏とか岐阜城の織田氏とか、それこそグスク時代の琉球なんてどれほどの力があったんだよ
問題なの技術力で石材の多寡だとか権力があっても作れる人がいないと意味ない 波賀城、唐沢山城、信濃霞城、長岩城、花尾城とか田舎の聞いたこともない豪族クラスの作った城のほうが
立派な石垣があるもんな
守護クラスの城はデカいだけで案外作りは大雑把な所が多い >>674
花尾城の麻生氏は、そこそこの国衆だと思うけど、一般的には無名なのかなぁ 対馬金田城とか668年の築城
国造軍が解体されたのが685年、庚寅年籍が完成して全国的な挑発が可能になったのが690年
時期的に考えると上県と下県の国造が部民を率いて対馬単独で作ったということに
古代の弱小豪族でも本気出せば近世城郭と遜色ないレベルの規模の築城もできるってことで それって国造が独力で築造したと断定していいんだろうか?
大和朝廷の大王に全国的な徴発の権限(国造その他を通してではあれ)があったこと、この時期の対馬の防備強化が大王の関心事であったことを考えると、ちょっと納得がいかないな 要地だからこそ大和の手が掛かっているんじゃないかと思うのは当たり前だと思うが
まだそこまで支配が及んでいないという証拠が出てくるなら別だけど 法制史と考古学の間では大分温度差があって、考古学者は朝鮮式山城は中央集権制がなければとうてい完成できないと
日本書紀の大化の改新の記述をナイーブに信じる傾向があるが、一方、「郡司制の成立 」など法制史側の研究を読むと
壬申の乱になっても、国造層の支持を集めたほうが勝つというヤマト王権時代と変わらぬ旧態依然の戦いをしているこを強調している
法制史的に考えると対馬のみならず全国の朝鮮式山城も神籠石もすべて豪族層の手によるもののはず
朝廷の人頭別広域支配はどんなに下らせても持統朝が下限だもの
>>678
古代国家を近代主権国家と同じものと考えてない? >>679
個別人頭支配の不在=全国的動員の不在、なのかなあ。
例えば律令国家の個別人頭支配は遅くとも10世紀頃には機能しなくなったわけだが、その後も一国平均役のような全国的賦課は続いてるわけだよね。 封建制のような重層的間接的支配だってかなり集権的になりうることは、マルクブロックあたりも書いてますよね >>680
>>681
荘園公領制を中央集権制と言ってる人はいないと思うけど
マルクブロックってヨーロッパの人でしょ
ヨーロッパはどうか知らんけど日本史では職の体系による重層的間接的支配が近世の中央集権制のはじまりとされていますけど 律令制以前の大和王権=守護、国造=国人みたいなものだと思えばよいよ
ただしヤマト王権に守護ほどの力はない
守護は大田文を通して土地別に税をかけることもできたけど大和王権は土地も把握できてない
当然一国平均役のようなことも不可能
重層的間接的支配すらろくに出来てない状態 律令制以前の大和王権=守護、国造=国人みたいなものだと思えばよいよ
ただしヤマト王権に守護ほどの力はない
守護は大田文を通して土地別に税をかけることもできたけど大和王権は土地も把握できてない
当然一国平均役のようなことも不可能
重層的間接的支配すらろくに出来てない状態 >>682
ん〜マルクブロックは余計だったな。もうけっこう酒が入ってるもんで失礼しましたw
>>680だけ読んでください。 いえいえ私も相当酒はいってる状態なので
要は律令制以前の大和王権は部族国家の寄せ集めという事です ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています