【久野】狗奴国は「クノ国」の事である【久能】 [無断転載禁止]©2ch.net
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狗奴国は「クノ国」の事である。
「久野」「久能」を冠する地名が今もたくさん残っている神奈川から静岡にかけて
広がっていた大国の事である。
3世紀の東日本で最も規模の大きな古墳が集まっている「沼津」あたりが
都だったと考えられる。
その中で一番規模の大きな前方後方墳である「高尾山古墳」が卑弥弓呼の陵墓だと
思われるが、最近調査されている。 >>31
戦争が勃発して千人殺し合ったのって、その辺だと俺は思うんだわ。
狗奴国人が邪馬台国領内に攻め込んだとは考えにくいから、やはり邪馬台国人が
狗奴国に攻め込んできて、袋井あたりで一戦交えたんだと思う。
だから狗奴国人は袋井あたりに銅鐸を並べて呪術的な防壁というか、結界を
張ったんだと思う。
>>32
12世紀とは限らないし、単なる間違いなだけだろ。 後漢書
自女王國東度海千餘里至拘奴國
雖皆倭種而不屬女王
女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。みな倭種であるが女王には属していない。
范曄が単純に要約してしまったか?、拘奴国は別の国か?、後漢書が書かれた時代には狗奴国が東に勢力を伸ばしていたか? 高尾山古墳は後方墳だね。
卑弥弓呼ではないと思う。
多分、古代物部。
ニギハヤヒの系統ね。
銅鐸族は古代出雲と関りが深いから、
関東に多い四隅陸橋墓か、
あるいは葛城の鴨族がそうであるように山の中腹の水源に住んでたと思う。 三重から舟で海を東に行けば静岡に着くじゃないの。
千余里が何kmなのか知らんけど。 対馬ー壱岐間が1000里なんだからその程度の距離だよ
九州説なら山陽か四国の九州に近い所
畿内説なら静岡だろうね 距離の単位も方角も間違いまくりw
要するに魏志倭人伝書いた奴は教養がなかったってこと。 魏志倭人伝の著者は中国語の通じる朝鮮を通って倭と思われるところに入ったのまではおそらく事実で。
距離も方角も適当だが奥へ奥へ行ったのが事実だから瀬戸内海通って、邪馬台国即ちヤマトの国があった機内まで来て、
言葉は解らないが南だと思っていた方角の更に向こうに久能の国があるらしいと聞いて帰ってきた。 台与の時代に和解が成立したんだろうけど、沼津あたりに4世紀までの古墳しかないから、
狗奴国は4世紀後半頃に邪馬台国に滅ぼされたと見られる。
その後は邪馬台国に解体され、邪馬台国から国造が各地に置かれた。
久努国造(くののくにのみやつこ)は滅ぼされた狗奴国の名残なのだろう。 >>40
違う。
魏志倭人伝はルポルタージュなの。
著者の陳寿が直接、邪馬台国を訪問して書いた旅行記じゃなくて、
陳寿が邪馬台国を訪問した魏使たちをインタビューして書いたルポルタージュなの。
だからかなり内容的に怪しいんだよ。 >>40
スマン
ルポルタージュの意味を勘違いした。
ルポルタージュじゃなくて、邪馬台国に行った魏使たちをインタビューして
書いただけで、著者の陳寿自身は行ってないの。
そういうのって何て言えば良いんだろうね。
伝聞録とでも言えば良いのか?? もちろん魏使も当時の日本語は分からないはずだし、中国に朝貢してる九州の一部の国だけは辛うじて中国語が通じるからそれを頼りに機内のヤマト国までは来れたが、その向こうは流石に言葉も民族構成も違ったのか伝聞に留まったというのがオチだろうな。
魏使の大半も恐らく九州や朝鮮に滞在していたのだろう。 魏使たちをインタビュー?アホかw
倭について魏使たちが書いた報告書や公孫氏の残した記録を読んでまとめたんだよ。 単純に日本人が東と言ってるのを南と誤訳しただけだと思う。陳寿は実際行ってないなら伝聞をまとめて日本列島を九州を付け根として南に伸びる島だと思い込んでもおかしくは無い。東と正しく報告した魏使の話も本人の思い込みで南と書き換えたりもあったのだろう。 西日本の弥生系と東日本の縄文系は言葉の疎通はどのくらいできたんだろうな。クノ国は蝦夷に繋がる縄文系だったのだろうか。 3世紀の静岡以東の東日本はまだ倭国じゃなかったんじゃねえか?
狗奴国は結局滅ぼされたみたいだから、東国史は邪馬台国の侵略の歴史なんだよ。 3世紀だと静岡以東どころか中国四国地方も倭国の範囲ではない
倭種の地域だよ。
狗奴国は東国じゃないしw 中国四国は倭国だろ。
女王に属する国名があるじゃないか。
對蘇国=土佐
伊邪国=祖谷
祖奴国=讃岐 3世紀の倭国は朝鮮半島南岸から北部九州にかけての地域。
中国四国は倭種や侏儒國、裸國、黒齒國。 倭国の位置が違ってるのに歴史作家は辻褄が合ってないことに気付かない
倭国は日本列島ではない 魏志倭人伝を読むと、何か遠い外国での出来事かのように見えるけど、
実は地元だったり、近場の話だったりする。
神奈川県人、静岡県人は自分たちの祖先の話なんだから、もっとアピールするべきだろうね。
俺たちの祖先は邪馬台国と戦争をしたんだと。 卑弥弓呼の陵墓は高尾山古墳ではなく、次に古い神明塚古墳の方かとも考えたが、
高尾山古墳は完成が230年頃で、実際に葬られたのが250年頃だとの事なので、
被葬者が亡くなってから造られたものであれば、完成と同時に葬られるはずだから、
被葬者は葬られる250年頃まで狗奴国王だった人物のはずである。
卑弥呼は卑弥弓呼と素より不和だったとの事なので、卑弥弓呼は卑弥呼が生前に
狗奴国王だった人物のはずだから、卑弥呼が崩御したのが248年頃だから、
250年頃まで狗奴国王だったと見られる高尾山古墳の被葬者こそが卑弥弓呼だ
という事になり、次に古い神明塚古墳が卑弥弓呼の陵墓である可能性は低くなる。 >>55
今の東日本人は基本的にヤマト人だろ。クノ国があったとして現在に血縁が繋がるとは思えないな >>57
繋がってるに決まってるでしょ。
クノ国人はみんな死んだんですか?
クノ国は4世紀後半頃に消滅したようだけれども、人民はふつうに生活してますよ。 日本人である以上、祖先の誰かしらに邪馬台国人、クノ国人が必ずいると
思いますよ。
アイヌや沖縄人でさえ、本土人の血が入っている人がほとんどなんだから、
祖先に必ず邪馬台国人とクノ国人が一人はいると思いますね。 侏儒国は侏儒が小人の意味だから小人伝説のある北海道の事じゃないかな?
裸国、黒歯国は舟で一年かかるから、樺太か千島かカムチャツカあたりか?? やっぱり尾張はここで邪馬台国の終わりってことで
三河から東が狗奴国なのかもね クナ国も大和朝廷も人種は変わらんだろ。
別に言葉は普通に通じていたみたいだしな。 樺太や千島やカムチャツカだと、まだ布というものを作る技術がなかったんじゃないか?
だから冬は毛皮を着ているが、夏は毛皮だと暑過ぎるから裸で過ごしていたんじゃないかな?
倭人が訪れたのは夏場だったから裸の国だと思ってしまったと。
黒歯国はさすがに分からん。 末盧国←松浦
伊都国←糸島
奴国←福岡市
不彌国←福間
投馬国←鞆
邪馬台国←奈良県
狗奴国←神奈川県〜静岡県 黒歯国はお歯黒と関連付ける人も多いが
実はビンロウなのかもしれない
もしそうなら東南アジアだな 小人伝説があった場所は北海道しかないし、侏儒国から方向転換の話が出てこないから、
黒歯国は北海道以北だろ。
水質によって歯が黒く変色する場所もあるんじゃないか? 静岡は昔から有名だけど神奈川ってなんだよ?
狗奴国神奈川説なんて初耳なんだが? 神奈川広いぞ。小田原あたりならクナ国の支配下だとしてもおかしくはないか >>71
地名からだよ。
神奈川の小田原に「久野」という地名がある事を知ったのは、このスレが初めての人が多いと思う。
近くの川はやはり久野川と言うそうですよ。
地名がある場所から30km圏内はクノ国領だと思われるので、そうすると神奈川県の大部分が
圏内に入る事が分かります。 >>70
小人伝説だけで侏儒国を北海道に断定するのは危険だと思いますよ 高尾山古墳はクナ国(磐田・袋井)に睨みを利かせる人物の墓であったと思う。
銅鐸族は前方後円墳や後方墳を造らない。
山陰の出雲で前方後円墳が出来るのは、完全に大和に制圧された4世紀以降。 神奈川のカナの語源は、
クナ、
韓(カラ)
鬼怒川と同じケノ(毛野)
あたりか。
秦氏は神奈川に移住してる様だが、
だからと言って韓(カラ)が語源となるとは考えにくい。 邪馬台国論争に神奈川が狗奴国として加われるのは喜ばしい(*´▽`*) 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國
— 『三国志』魏書東夷倭人
次に奴國有り 此れ女王の境界の尽くる所なり その南に狗奴國有り
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この狗奴國が「磐田・袋井」なら北に奴國がないとおかしい。
磐田・袋井の北には「伊那・恵那」という見事な「ナ国」がある。 つまりイナ、エナ、クナという国々があったのだろう。 そうすると福岡の奴国と、伊那・恵那の奴国と2つあったことになるが、
別に構わない。
例えば「ナカ、ナガ」。
那珂 那賀、名賀という地名が全国に多数あるから、
奴国も2つあってもいいのだ。 全国のナカ、ナガね。
https://goo.gl/k8AyU8
ナ国も一つではなかろう。 金(くむ) 銅(くり) だからクナ国も鉱山由来の名前ぽいね
くやかんこく、きんかんかや、も半島南部にあって倭人が掘りに行ってた地域だね
倶利伽羅峠なんてもろ、銅(くり)韓(から)峠だし、石川富山って銅の産地でいまも銅鋳物が地場産業だね 金属をカネと言ったけね?
神奈川の語源はそれかもね。
むかしチョソが韓川だと必死にアピ-ルしてたが。w 神奈川の語源は色んな説があるけど結局不明なんだよね。
小田原の「久野」の近くを流れる川が「久野川」という名前だそうだから、
関係あるんじゃないの? やっぱ邪馬台国と実際に戦場になった場所って、浜松から磐田あたりなんだろうな。
で、最前線が袋井あたりになったから銅鐸で防壁を築いたんだろう。 神奈川なんて出る幕あるのか?
考古学的には濃尾平野できまりだろ 地名優先、地名優先。
神奈川だって考古学的に矛盾しないし、そもそも濃尾平野は大昔から「オワリ国」でしょうに。
濃尾平野に狗奴国に似た響きの地名って何かあるか? 狗奴国の人が別の地域に移住してその名前を付けている可能性もあるから
地名だけで断定するのは危険だと思う
ただ、そうだとしても狗奴国の移民がいたわけだから研究する価値はあるけれども 王都の場所の問題もあるんだよ。
沼津って静岡の端っこの方にあって、20kmも行かないところからもう神奈川なんだよ。
王都をそんな国の端っこに持ってくるだろうか?
ふつうなるべく端っこの方は避けると思うんだよ。
ところが、神奈川を付け加えると沼津はちょうど真ん中あたりになって
地理的なバランスが取れるんだよ。
やはり神奈川の久野は狗奴国時代の名残なんだと思われる。 狗奴国は、邪馬台国の南。
甲信地方や関東、東北に邪馬台国があるわけない。 やはり久能山東照宮も元はクノ国の聖地か何かだったんだろうな そのものズバリの名前だから、大和の美輪山みたいな霊山なんだろうな。
4C後半頃から沼津に古墳が造られなくなるところから見て、狗奴帝国はその頃に
滅んだと思われる。
その後、帝国は解体され、静岡市あたりは駿河国になったが、聖地の名前だけは
そのまま残ったんだろう。 40 日本@名無史さん 2017/06/10(土) 08:33:20.30
魏志倭人伝の著者は中国語の通じる朝鮮を通って倭と思われるところに入ったのまではおそらく事実で。
距離も方角も適当だが奥へ奥へ行ったのが事実だから瀬戸内海通って、邪馬台国即ちヤマトの国があった機内まで来て、
言葉は解らないが南だと思っていた方角の更に向こうに久能の国があるらしいと聞いて帰ってきた。 考古学的に崇神が4世紀初頭から前半になりつつあります。
この時点で邪馬台国論争は終了なのです。
なぜなら崇神からほんの60年ほどさかのぼれば台与の即位の時代になります。
崇神から60年ほど前のトヨ(イヨ)の条件は2つ。
@最高位の女性であること。
A約3世代前にヒミ、ヒム、ヒメという最高位の女性がいること。
これで卑弥呼は簡単に決まります。
考古学的に崇神が4世紀初頭から前半というのは支持者が多いのにも関わらず、
今まで誰も崇神から60年ほど前のトヨ(イヨ)を探そうとしてこなかった。
「記紀に卑弥呼も台与も記載されていない」という固定観念があったからです。
自慢ではないですけど、私は探して見つけました。そして帥升まで見つけました。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
邪馬台国の都は葛城です。
纏向ではありません。 では葛城に卑弥呼の墓があるのか。
有ります。
ヒミコの墓に最もふさわしいところ、高天原(御所市高天)です。
これがヒミコの墓です。
https://goo.gl/DA7WRZ
日本最古の高鴨神社が今もお守りしてます。
社殿創建は3世紀中頃〜後半。
孝昭天皇の頃です。
もはや出来過ぎの話です。
ただヒミコだけの墓ではありません。
卑弥呼を産んだ一族、鴨族の代々墓です。
おそらく台与も眠ってるでしょう。 >>101
狗奴帝国を滅ぼしたのは日本武尊だと見ています。
日本武尊は東征の途中、火攻めに遭うのですが、逆に火攻めし返して、
敵を焼き尽くしたそうです。
これが焼津(やいづ)の語源になったそうです。
日本武尊の放つ火攻めによって、ついに狗奴帝国は落日したのです。 今も昔も都心に墓は作らんだろ。墓があるのは郊外だろ。巻向山と葛城の位置関係なら葛城が都心で纒向が郊外の墓だってだけ。纒向の方が平地だから逆かもな。 火攻めと言うより、国中に放火してまわる日本武尊と名乗るトンデモネエ連中が
やってきて、燃え盛る宮廷の中で狗奴帝は焼け死に、狗奴帝国は幕を閉じたのです。 土地勘がないので分からないのだが、
磐田・袋井近辺ににカモ地名は多い?
静岡全般でもいい。
鴨、加茂、賀茂、神(カミ、カム、カン)蒲。
又はミワ地名、
またはオオ地名、
太田、多田、大野、大谷など。
多田が転じてタダという地名なんかも有り。
まぁクナ、クヌがクマ、カムあたりからきたと言えなくもないのだが。 3世紀後半から4世紀にかけて小札革綴冑という中国製の冑が十数点出る。
1点だけが九州で、あとは残り全部が畿内から出る。
これは中国と通交してた主体が畿内であり、
邪馬台国が畿内であった有力な証拠である。
記録には残ってないが、おそらく台与の朝貢時に中国から持ってきたのであろう。
邪馬台国が畿内なら、クナ国は静岡であろう。
他に有力候補地はない。
ではなぜ卑弥呼と争ったのか。
祭器・銅鐸の扱いではないだろうか。
卑弥呼は仕方なく鏡祭祀を受け入れたようだ。
同じ「神(鴨)」族であったクナ国はそれを容認できなかったのではないだろうか。
神族にとっては鏡など異国の蕃神。
とても受け入れる事などできなかったはずだ。
と考えてます。 信仰の対象となってない古墳(たとえば箸墓や平原など)を卑弥呼の墓と言ってるやつは馬鹿ではないかと思う。
想像力の欠如を恥よ。
2世紀前半から3世紀後半まで続き、ヒミコやトヨを生んだ王朝は天皇家ではない。
その王朝の王族たちは神々に変わった。
そして今でも信仰されている。
ヒミコとはエベっさん「事代主」の娘さんだ。
ヒミコ、トヨを含め、その神々のお墓は、
今も日本最古の神社が高天原(御所市高天)でお守りしている。
今日も見ていただきましょう、これがヒミコのお墓です。
https://goo.gl/DA7WRZ >>116
全然違う。
扶余とやらが日本に来ていたとしても、
その生活習慣の違い、民族性の違いからむしろ差別の対象になった。
大阪の被差別部落の多くが百済系。
信太山、藤井寺の林、日本最大級の津守など。 中国製の甲冑は楽浪・帯方文物かもな。
卑弥呼時代の帯方郡の最初の外交官って高句麗戦で戦死して、
狗奴国との戦争を報告しに行ったときには別の外交官に代わってたでしょ。
高句麗からの攻撃に備えて帯方郡には中国製の甲冑がたくさん出回ってたんじゃないか? 間違えた。
帯方太守の弓遵が戦死したのは高句麗戦ではなく、ワイ戦と韓戦でした。
1年に2回も戦争があったようです。 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦(崇神時代)
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。
どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した、
そして魏志の台与と大和朝廷がこの冑によって結びつくのだ。 本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世が真剣に卑弥呼は誰か考えたあげく、
神功皇后だとするわけがない。
年齢がすでにトンデモになってるわけだから。
彼らは記紀編纂者が時代を大きくずらしたその意図を見抜き、
その心理を理解し、なおかつ自分たちも同調した。
真実を知らない方がよほど幸せなこともある。
しかし現代の日本人は中国へのコンプレックスなど微塵も持ってない。
明治人が日清戦争で取っ払ってくれた。
だからかつて日本が中国に朝貢してたことも余裕で受け止めれる。
そういう時代だからあえて言おう。
帥升とはスサノオだ。
つまり日本の歴史は後漢・安帝への土下座から始まった。
卑弥呼とはヒメ踏鞴だ。
神武は大王ではない。 中国へのコンプレックスじゃなくて、記紀を編纂していた当時は中国は敵国に
なっていて、反中国的な世論や政治思想が蔓延していたから。
その敵国に白村江で負けて、ナショナリズムは最高潮に。
とてもじゃないが、中国が日本よりも上の立場の記述なんか
できないような世相だったに違いない。
少しでも
中国をうえ‘ >>122
まず畿内であることを固めないと静岡が狗奴国にならないだろ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています