【久野】狗奴国は「クノ国」の事である【久能】 [無断転載禁止]©2ch.net
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狗奴国は「クノ国」の事である。
「久野」「久能」を冠する地名が今もたくさん残っている神奈川から静岡にかけて
広がっていた大国の事である。
3世紀の東日本で最も規模の大きな古墳が集まっている「沼津」あたりが
都だったと考えられる。
その中で一番規模の大きな前方後方墳である「高尾山古墳」が卑弥弓呼の陵墓だと
思われるが、最近調査されている。 押井守、富樫義博、松任谷由実……
最低でもこれくらいの感性が無いと理解そのものが難しいみたいだね
悪い。邪魔したね とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
CGF 魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/upEVM8cM4dp
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地は高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 他のスレにも書いたことがあるんだけど、
三國志厨か何かなのか?
厨=凄いと思い込んでいる、思い込み
みたいな意味らしいんだけど 魏志倭人伝には「ノ」と読める漢字がない。
「ノ」の当て字も「奴」である可能性が高い。
狗奴国の読みはクナ国、クヌ国、クノ国のいずれか。
クナ国という国はないが、クヌ国、クノ国という国ならあった。
久努国造がその証拠。 仮に中国人が倭の奥地の神奈川、静岡まで行っていたら遭難する可能性だってあるのでは?
その頃の倭はほとんど未開の地だったし。 倭人伝には郡使が狗奴国に行ったなんて一言も書かれてないが。
狗奴国との戦争中に卑弥呼の使者が帯方郡を訪れて、狗奴国と戦争中である旨を
報告しに来たと書かれている。 毛野も狗奴国の領土の一部。
静岡から関東一帯までの広い領土だったと思われる。
ただし関東一帯には3Cの巨大古墳と巨大集落遺跡がない。
それがある場所は沼津周辺である。 狗奴国って倭人伝を見る限り王の卑弥弓呼の名を出して卑弥呼と日頃から仲が悪いと書いてる。
これ明らかに個人的な確執があり、面識まであるとも思える表現。
北九州の国々が争いをやめて卑弥呼を王に祭りあげたとき政治的な理由で卑弥呼の即位を認めなかったとかじゃないかと。
で邪馬台国は戦争に苦戦して魏に助けを求めるぐらいに追い込まれてる。
で卑弥呼が亡くなりトヨが後継者になるまでに内戦で犠牲者多数。
ここで狗奴国が侵攻してきたら一発で負けるよね。
だがそうなってない。イヨをリーダーに邪馬台国は再興した。
つまりのところ狗奴国はイヨの即位には反対せず和睦を結んだと解釈している。 >>747
そこまで妄想膨らませて良いなら、卑弥弓呼も死んだからイヨの代で再興したとも言える。 狗奴国は北九州とは異文化の南九州の縄文人の血の濃い熊襲や隼人だと思ってたのだが
倭人伝では異文化との記述は一切なく、その領土についての記述は女王国の南にあるとだけしか書いてない。
邪馬台国連合は北九州に広く勢力圏をもつ国だから狗奴国も南九州連合か?はそうじゃないっぽい。
卑弥呼が連合国の女王になったことに反対しているだけであって同じ文化圏の国だと思う。
ある資料では熊本の鉄鏃は多く出土してるのに鹿児島はごく少なく、
平安初期でも肥後の米生産は豊かなのに薩摩大隅は少ない。
熊本は薩摩大隅とはやはり別なんだよ。
狗奴国は通説通りに熊本で米も鉄も多い豊かな国だから単身邪馬台国連合に軍事的な脅威になってこと。 >>748
卑弥弓呼が死んだからこそ攻める理由がなくなった、もちろんそれも言える。 熊襲は熊本県球磨(クマ)郡から鹿児島県曽於(ソ)郡が領土
熊襲は熊本県というより南九州全域が領土 そう来たかw
では邪馬台国の南にある狗奴国はどこだ?
屋久島・種子島連合とか?www 6/18
【邪馬台国】被葬者は卑弥呼率いるヤマト王権の対抗勢力の首長? 高尾山古墳保存を議論 文化財協議会、静岡・沼津で全国大会
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1560855677/ >>749
卑弥呼が連合国の女王になったことに
反対しているだけであって同じ文化圏の国だと思う。
< この部分は十分に賛同できる部分だとおもう。 レスのつながりが解りにくいのぅ
皆同じ名前やからのぅ ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝・二千字の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋司馬懿(秀吉)は魏・明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった。大恩人・曹叡の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスをフォローし、西晋が呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたい。
2.魏の帝都・洛陽から見て呉(孫権の帝都・建業)との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
蘇州の「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
4.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳・朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)から儋耳・朱崖(べトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@ルート】と、「當在会稽冶之東」となる【奴国Aルート(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【1.奴国ルート】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「夷人不知里数、但計以日(7世紀隋書倭国伝)」、
それを南に2倍して東シナ海に浮かぶ幻の「陸行半月」九州島(南部)を付け足し、「陸行一月」として、【奴国Aルート(幻)】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「前方に氷山発見!!!!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだ!!!船長のくせに!!!このハゲェェェ〜ッ!!!」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン爆発四散!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ衝突し、再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野寺澤橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(大量の布留式土器と三角縁神獣鏡と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=3i7rDgy-aOY
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓〜Ω王墓担当の物部氏)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の「九州」説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は帰港できなくなるからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>758の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>759)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓〜〜〜_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
【呉】┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲投馬(都万)国┛┘宮崎平野=南「水行二十日」
建業┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島
東治┃〜〜│〜東シナ海(正).〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
蘇州┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
↓ ┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)〜↑「此女王境界所盡」
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜〜其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>758
>>760
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、◎四国説…紀伊水道、✖畿内説…鈴鹿山脈?)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらず、3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(下記参照)。消去法によって、九州説が正しい。
狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://sora07.exblog.jp/26083348/
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12288771975.html >>761の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政の説諭で卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…息子の垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、「倭の五王」へ)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任命される。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。
倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗征伐の鍵となる)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
推古厩戸…前方後円墳Ω担当の物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲(唐外交の火種「日出処天子」九州本家の多利思比孤を抹消)。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)〜欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 狗奴国が熊本だと叫んでいる基地害って全然勉強してないだろ。
久努国という国が史実として古墳期の静岡以東にちゃんと実在してるんだぞ。
妄想する前にもっと勉強しろゴミカス。 >763
いいところに目をつけたね
御前崎周辺は出雲王朝の東海の中心地
国造がそもそも忌部じゃんwwww 魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・奈良県御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
http://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単。
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武
※ 神武の時代が女王国であった。
ヒメ(踏鞴五十鈴)后もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。
狗奴国とは4世紀に久努国造が置かれた静岡の磐田・袋井である。 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國(中略)次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國
— 『三国志』魏書東夷倭人
訳文:女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載し得たが、その余の旁国は遠く険しくて、詳細を得られなかった。
次に斯馬国(中略)次に奴國有り 此れ女王の境界の尽くる所なり その南に狗奴國有り
斯馬国は伊勢志摩
奴國はナコが語源の名古屋
狗奴國は静岡の磐田・袋井 >>765
当たり前の話だが、5C初め頃に大和朝廷によって置かれた久努国(クノコク)は
4C中頃に日本武尊によって滅ぼされた旧・久努国とは別ものだがな。
魏志倭人伝に出てくる狗奴国こと旧・久努国は沼津あたりに都があった天竜川以東から
関東全域に及ぶ大国であった。 >5C初め頃に大和朝廷によって置かれた久努国(クノコク)は
久努国造はイカガノシコオの孫で4世紀第三四半期ころだと思うが。 狗奴国は前方後円墳、後方墳のあるところではなかろう。
なぜなら前方後円墳、後方墳とも物部集団の墓と考えられるからである。
だから3世紀と言われる神門古墳群のある千葉、
同じく3世紀の高尾山古墳のある沼津、
2世紀後半ともいわれる前方後方墳のある濃尾平野は狗奴国でははないと思われる。
磐田・袋井には4世紀中ころからの古墳はあるようだが、前期古墳はなさそうだ。
やはり三遠式銅鐸最終集積地でもあるここではなかろうか。 >>768
仲哀期だろ。
4C末〜5C初め頃だろう。
>>769
常識で考えなよ。
強大な邪馬台国と何十年も張り合い、戦争までした国が、そんな何にもない
磐田・袋井だけのショボい地域な訳がないんだわ。
静岡以東をよく見なよ。
静岡以東の東日本で、3Cの巨大古墳が集まり、巨大集落遺跡があるのは沼津あたりだけ。
東日本全体で唯一そこだけ。
しかも西に久能、東に久野の地名が今なお遺っている。
そこが狗奴国こと旧・久努国の都だとしか考えられないじゃないか。 たしかにあのへんには採鉱をする鬼が住んでいるという伝説がある 君は半分正しい
ただクナ国はもっと広いのよ君が思う以上に
ある意味地球規模 >>771
>4C末〜5C初め頃だろう。
仲哀がその時期になる事はあり得ない。
>静岡以東の東日本で、3Cの巨大古墳が集まり、巨大集落遺跡があるのは沼津あたりだけ。
>東日本全体で唯一そこだけ。
古墳で見るなら千葉の神門の方が古いし卑弥呼の時代に遡る。
つまり本当に前方後円墳、前方後方墳の地域がクナ国なのか、という疑問が残る。
そうではなかろう、銅鐸族の地域こそクナ国なのではないか、というのが俺の意見。 銅鐸を祭祀に使っていた一族って意味でしょ
いるいる出雲の方面だっけ >銅鐸族
カモ族。
カモ、カミ、クヌ、クマ、ガモウ、カン、コウ、などの地名を残す。 銅鐸がクマ除けなら単に熊が出る地域というだけの話になるがな >>773
>仲哀がその時期になる事はあり得ない。
日本武尊が狗奴国こと旧・久努国を滅ぼしたのが4C中頃。
仲哀天皇はその日本武尊の息子なんだから、どんなに早く見ても4C末頃に
しかならんぞ。
>古墳で見るなら千葉の神門の方が古いし卑弥呼の時代に遡る。
高尾山古墳は3C中頃の遺構なんだから、まさしく卑弥呼の時代にドンピシャだし、
規模が違うんだよ規模が。
>つまり本当に前方後円墳、前方後方墳の地域がクナ国なのか、という疑問が残る。
邪馬台国と対立していた時代の王の墳墓(高尾山古墳)が前方後方墳、
和解した後の時代の王の墳墓(神明塚古墳)が前方後円墳になってるだろ。
>銅鐸族の地域こそクナ国なのではないか、というのが俺の意見。
信仰上の対立から戦争に発展した可能性はあるだろうな。 >>
>日本武尊が狗奴国こと旧・久努国を滅ぼしたのが4C中頃。
>仲哀天皇はその日本武尊の息子なんだから、どんなに早く見ても4C末頃に
しかならんぞ。
古事記の没年干支を信用できるとして仲哀没年は362年。
応神元年は390年で間違いなかろうから神功皇后の摂政は28年。
何も問題はない。
>邪馬台国と対立していた時代の王の墳墓(高尾山古墳)が前方後方墳、
和解した後の時代の王の墳墓(神明塚古墳)が前方後円墳になってるだろ。
纏向古墳群にもメクリ1号という前方後方墳があるように、前方後円墳と後方墳は「対立」していたのではなく、
同族の本流と傍流との序列関係を示すものであろう。 >>783
記紀が半偽書な事くらい知ってるよな?
記紀の年代は全然あてにならんぞ。
それよりも沼津周辺で巨大古墳が突然造られなくなる年代(≒狗奴国が滅ぼされた年代)
から考古学的に割り出すべき。
そして、それは4C中頃なんだよ。
日本武尊はその数年後に若死にしてるから、そのとき幼少だった仲哀天皇が
即位するのは少なくともそれから数十年は先のはず。 古事記日本書紀が偽書だというような人がなんで仲哀天皇の実在性だけは信じているんだ。
それならば仲哀天皇って人の実在性の根拠をそもそもどこに求めるのよ。 >>785
偽書じゃなくて半偽書だカス。
事実に基づいて都合良く書き変えられているという意味だ。
事実、卑弥呼と台与の記載がないだろうが。
漢帝に会いに行って面会拒否された倭王の帥升の記載もないしな。 一部だけあなたの解釈に合わせて信用するとか言われてもね
あなたの中ではそうなんでしょとしか言いようがない >>786
神武以前の話は無くても不自然じゃないのでは? >>1
クノと呼んだところまで目の付け所が良い。
当時の漢字の音韻は中古音なので、
クノと呼ぶのが正解。
ただし、久野とか久能のことでは?とみるのは
間違いだな。 いやいやかなり当たってると思う
四道将軍のタケヌナカワの領土だべ >>790
久努国(クノコク)は静岡に実在していた国ですが何か? いや、クノと呼ぶのは間違い。
中古音だと、コノと呼ぶほうが正しい。
つまり、狗奴国とは、コノ国のこと。 中華に金印を貰ってホルホルするとか朗らかに日本人の感覚とは異なるでしょ、
やはり邪馬台国は古代韓国のことだろう 南は東の誤りというか、太陽が真東から登るわけではないので、
通常の日本地図を右下45度くらいに傾ければ良いのではないかと思います。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/183_2.jpg
奴国とは那古野が語源の名古屋。
出雲から主に畿内へ渡った銅鐸、そして弥生末期には静岡が銅鐸の最終集積地になります。
なぜなのか。
狗奴国が静岡であったから、というのが私の答えです。 天竜川の西が奴国だろ
浜名、恵那、伊那
天竜川の東が狗奴国=久努国(くののくに)だろ
久努、久能、久野
狗奴国の中心が3Cの東日本で最大の集落遺跡である沼津の足高尾遺跡群
その傍にある3C半ばの東日本で最大規模の陵墓である高尾山古墳が卑弥弓呼陵 とりあえず狗奴国=静岡は邪馬台国が畿内にあるという前提ね。
それでよし。
九州一周ローカルバスの旅みたいな説はみみちくてつまらん。 事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)后━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ后(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
以前にも言ったがトヨ津媛の一世代前の建甕尻は、先代旧事本紀・巻第四地祇本紀では、別命をタケミカヅチと書かれている。
ヒミコの死後、トヨの即位前に男王が立ち、千余人が死ぬ争いとは「タケミカヅチ VS タケミナカタ」の事であろう。
時系列が見事に一致する。
記紀では魏志倭人伝を説明してしまうため、あえて時代を変えて「神代」としたのであろう。
・敗れたタケミナカタ
長野県内各地にはタケミナカタの逃亡・諏訪入りにまつわる伝承のある場所がいくつか存在する[17]。
下伊那郡豊丘村に伝わる伝承によれば、タケミカヅチがようやくタケミナカタに追いついたところ、
タケミナカタが降参し、タケミカヅチと和睦を結んだ。
同村にある御手形神社には、終戦の印として両者の手形を彫り残したといわれる石がある。
その後、タケミナカタが豊丘村から隣の大鹿村に移って、しばらくそこに滞在したという[18][19]。
このことから、大鹿村鹿塩梨原にある葦原神社はかつて「本(もと)諏訪社」と呼ばれていた。(wiki) タケミナカタの敗走を時系列で説明すれば、諏訪の前に大鹿村にいて、その前に豊岡村にいたと言うことになる。
豊岡村は天竜川沿いにある。
その天竜川を下れば銅鐸最終集積地である浜松・磐田・袋井にたどり着く。
すなわち「タケミカヅチ VS タケミナカタ」の争いは狗奴国こと静岡での出来事であったのだろう。
敗れたタケミナカタが天竜川を遡り敗走、タケミカヅチが追いかけたのであろう。
まさに千曲川(血隈川)の伝承にある高天原(金剛山)の神々の大きな戦いである。 事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
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建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
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彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
古代史の鉄則だが「建」がついているのは「戦(いくさ)」と関係している。
ちょうどトヨ津媛の前に建飯勝や建甕尻(=タケミカヅチ)がいる。
彼らは狗奴国絡みで戦った人物で有ろう。
時代的にも魏志倭人伝と一致する。 >>799
久野は神奈川だから、領土は少なくとも静岡から神奈川まで
大きくて静岡から関東地方まで広がっていた国 ∩_
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| |r┬-| | / < 反日教育に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在沖ヒトモドキw
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(___) / >>806
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(___) / おてもやん「聖火リレーで馬鹿騒ぎ
五輪コロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 神話の世界は人間活動ではない
遺伝子組み換えとかまだ人類になり得てない頃のものかもしれない
血から神が生まれたとかエッセンスをとってるのかもしれない 狗奴国は出雲のこと。
出雲は当時「いぬ」国ともよばれていた。
狗奴と書いてイヌと読む。
だいたい、当時、邪馬台国が一部だった高天原と敵対していたのは出雲しかない。 じゃあ、邪馬台国は長野あたりにあったのか。
あるいは邪馬台国は日本中に散在してたような気もする。
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