【久野】狗奴国は「クノ国」の事である【久能】 [無断転載禁止]©2ch.net
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狗奴国は「クノ国」の事である。
「久野」「久能」を冠する地名が今もたくさん残っている神奈川から静岡にかけて
広がっていた大国の事である。
3世紀の東日本で最も規模の大きな古墳が集まっている「沼津」あたりが
都だったと考えられる。
その中で一番規模の大きな前方後方墳である「高尾山古墳」が卑弥弓呼の陵墓だと
思われるが、最近調査されている。 神奈川なんて出る幕あるのか?
考古学的には濃尾平野できまりだろ 地名優先、地名優先。
神奈川だって考古学的に矛盾しないし、そもそも濃尾平野は大昔から「オワリ国」でしょうに。
濃尾平野に狗奴国に似た響きの地名って何かあるか? 狗奴国の人が別の地域に移住してその名前を付けている可能性もあるから
地名だけで断定するのは危険だと思う
ただ、そうだとしても狗奴国の移民がいたわけだから研究する価値はあるけれども 王都の場所の問題もあるんだよ。
沼津って静岡の端っこの方にあって、20kmも行かないところからもう神奈川なんだよ。
王都をそんな国の端っこに持ってくるだろうか?
ふつうなるべく端っこの方は避けると思うんだよ。
ところが、神奈川を付け加えると沼津はちょうど真ん中あたりになって
地理的なバランスが取れるんだよ。
やはり神奈川の久野は狗奴国時代の名残なんだと思われる。 狗奴国は、邪馬台国の南。
甲信地方や関東、東北に邪馬台国があるわけない。 やはり久能山東照宮も元はクノ国の聖地か何かだったんだろうな そのものズバリの名前だから、大和の美輪山みたいな霊山なんだろうな。
4C後半頃から沼津に古墳が造られなくなるところから見て、狗奴帝国はその頃に
滅んだと思われる。
その後、帝国は解体され、静岡市あたりは駿河国になったが、聖地の名前だけは
そのまま残ったんだろう。 40 日本@名無史さん 2017/06/10(土) 08:33:20.30
魏志倭人伝の著者は中国語の通じる朝鮮を通って倭と思われるところに入ったのまではおそらく事実で。
距離も方角も適当だが奥へ奥へ行ったのが事実だから瀬戸内海通って、邪馬台国即ちヤマトの国があった機内まで来て、
言葉は解らないが南だと思っていた方角の更に向こうに久能の国があるらしいと聞いて帰ってきた。 考古学的に崇神が4世紀初頭から前半になりつつあります。
この時点で邪馬台国論争は終了なのです。
なぜなら崇神からほんの60年ほどさかのぼれば台与の即位の時代になります。
崇神から60年ほど前のトヨ(イヨ)の条件は2つ。
@最高位の女性であること。
A約3世代前にヒミ、ヒム、ヒメという最高位の女性がいること。
これで卑弥呼は簡単に決まります。
考古学的に崇神が4世紀初頭から前半というのは支持者が多いのにも関わらず、
今まで誰も崇神から60年ほど前のトヨ(イヨ)を探そうとしてこなかった。
「記紀に卑弥呼も台与も記載されていない」という固定観念があったからです。
自慢ではないですけど、私は探して見つけました。そして帥升まで見つけました。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
邪馬台国の都は葛城です。
纏向ではありません。 では葛城に卑弥呼の墓があるのか。
有ります。
ヒミコの墓に最もふさわしいところ、高天原(御所市高天)です。
これがヒミコの墓です。
https://goo.gl/DA7WRZ
日本最古の高鴨神社が今もお守りしてます。
社殿創建は3世紀中頃〜後半。
孝昭天皇の頃です。
もはや出来過ぎの話です。
ただヒミコだけの墓ではありません。
卑弥呼を産んだ一族、鴨族の代々墓です。
おそらく台与も眠ってるでしょう。 >>101
狗奴帝国を滅ぼしたのは日本武尊だと見ています。
日本武尊は東征の途中、火攻めに遭うのですが、逆に火攻めし返して、
敵を焼き尽くしたそうです。
これが焼津(やいづ)の語源になったそうです。
日本武尊の放つ火攻めによって、ついに狗奴帝国は落日したのです。 今も昔も都心に墓は作らんだろ。墓があるのは郊外だろ。巻向山と葛城の位置関係なら葛城が都心で纒向が郊外の墓だってだけ。纒向の方が平地だから逆かもな。 火攻めと言うより、国中に放火してまわる日本武尊と名乗るトンデモネエ連中が
やってきて、燃え盛る宮廷の中で狗奴帝は焼け死に、狗奴帝国は幕を閉じたのです。 土地勘がないので分からないのだが、
磐田・袋井近辺ににカモ地名は多い?
静岡全般でもいい。
鴨、加茂、賀茂、神(カミ、カム、カン)蒲。
又はミワ地名、
またはオオ地名、
太田、多田、大野、大谷など。
多田が転じてタダという地名なんかも有り。
まぁクナ、クヌがクマ、カムあたりからきたと言えなくもないのだが。 3世紀後半から4世紀にかけて小札革綴冑という中国製の冑が十数点出る。
1点だけが九州で、あとは残り全部が畿内から出る。
これは中国と通交してた主体が畿内であり、
邪馬台国が畿内であった有力な証拠である。
記録には残ってないが、おそらく台与の朝貢時に中国から持ってきたのであろう。
邪馬台国が畿内なら、クナ国は静岡であろう。
他に有力候補地はない。
ではなぜ卑弥呼と争ったのか。
祭器・銅鐸の扱いではないだろうか。
卑弥呼は仕方なく鏡祭祀を受け入れたようだ。
同じ「神(鴨)」族であったクナ国はそれを容認できなかったのではないだろうか。
神族にとっては鏡など異国の蕃神。
とても受け入れる事などできなかったはずだ。
と考えてます。 信仰の対象となってない古墳(たとえば箸墓や平原など)を卑弥呼の墓と言ってるやつは馬鹿ではないかと思う。
想像力の欠如を恥よ。
2世紀前半から3世紀後半まで続き、ヒミコやトヨを生んだ王朝は天皇家ではない。
その王朝の王族たちは神々に変わった。
そして今でも信仰されている。
ヒミコとはエベっさん「事代主」の娘さんだ。
ヒミコ、トヨを含め、その神々のお墓は、
今も日本最古の神社が高天原(御所市高天)でお守りしている。
今日も見ていただきましょう、これがヒミコのお墓です。
https://goo.gl/DA7WRZ >>116
全然違う。
扶余とやらが日本に来ていたとしても、
その生活習慣の違い、民族性の違いからむしろ差別の対象になった。
大阪の被差別部落の多くが百済系。
信太山、藤井寺の林、日本最大級の津守など。 中国製の甲冑は楽浪・帯方文物かもな。
卑弥呼時代の帯方郡の最初の外交官って高句麗戦で戦死して、
狗奴国との戦争を報告しに行ったときには別の外交官に代わってたでしょ。
高句麗からの攻撃に備えて帯方郡には中国製の甲冑がたくさん出回ってたんじゃないか? 間違えた。
帯方太守の弓遵が戦死したのは高句麗戦ではなく、ワイ戦と韓戦でした。
1年に2回も戦争があったようです。 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦(崇神時代)
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。
どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した、
そして魏志の台与と大和朝廷がこの冑によって結びつくのだ。 本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世が真剣に卑弥呼は誰か考えたあげく、
神功皇后だとするわけがない。
年齢がすでにトンデモになってるわけだから。
彼らは記紀編纂者が時代を大きくずらしたその意図を見抜き、
その心理を理解し、なおかつ自分たちも同調した。
真実を知らない方がよほど幸せなこともある。
しかし現代の日本人は中国へのコンプレックスなど微塵も持ってない。
明治人が日清戦争で取っ払ってくれた。
だからかつて日本が中国に朝貢してたことも余裕で受け止めれる。
そういう時代だからあえて言おう。
帥升とはスサノオだ。
つまり日本の歴史は後漢・安帝への土下座から始まった。
卑弥呼とはヒメ踏鞴だ。
神武は大王ではない。 中国へのコンプレックスじゃなくて、記紀を編纂していた当時は中国は敵国に
なっていて、反中国的な世論や政治思想が蔓延していたから。
その敵国に白村江で負けて、ナショナリズムは最高潮に。
とてもじゃないが、中国が日本よりも上の立場の記述なんか
できないような世相だったに違いない。
少しでも
中国をうえ‘ >>122
まず畿内であることを固めないと静岡が狗奴国にならないだろ。 久能山のすぐ近くに登呂遺跡がある……
トロイヤ……マジかよ
なにか詳しいこと知ってる人いませんか? >>140
1です。
登呂遺跡のすぐ近くに久能街道があったので、
「久能??」
「久能って、もしかして狗奴??」
と、そこから気付いてしまった俺です。 トロイの木馬って日本の埴輪の馬にそっくりなんだよね
足が太いの
技術的に細くできなかった訳では無くて、明らかに太く作られてる
埴輪の戦士も明らかに日本の武士とフォルムが違うし
いろいろと混ざったみたいね 沼津なんてダメだろ、東に寄りすぎ
濃尾平野ならともかく 沼津は久野と久能の間にあるから、国の支配には最高ですよ。 津は船着き場の事らしいから、沼のような船着き場が沼津の語源か? >>144
久野なんて関係ねーw
久野も久能も全国各地にある地名だぞ、なんの関係もないだろうよ 倭人が支配した新羅『新羅本紀』
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵
紀元前20年
瓠公という倭人、瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
諸王に仕えた重臣で。金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
新羅の3王統の始祖の全てに関わり新羅を建国した倭人である。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠で同一人物。
後に倭人の四代目新羅王、脱解尼師今が新羅に着いた時に瓠公の家を継いだ。
この瓠公の屋敷が歴代新羅王の王城である月城。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
朴氏初代の朴赫居世朴氏=瓠公は倭人であり。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)説話では、
鶏の鳴き声を聞いたので瓠公が調べると、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)の起源は倭人であり倭人が支配した。 >>148
と思うだろ。
全国に数カ所しかないの。
それに広さが違うの。
ヤフー地図で検索してみ。
全国の久野と久能の95%が神奈川県と静岡県が占めている。 永禄の時代に久野淡路守は徳川家康に急襲され切腹させられた
久野淡路守の子孫はその後も各地で反徳川派として転戦し続け、関ケ原、大阪の陣を生き延びて最後に淡路島に逃げ込む
徳川家康は幕府構築後、久能山に東照宮を立て、そこに自身の亡骸を西向けに座禅を組ませた格好で埋葬させた
淡路島の伊弉諾神宮の近くに久野々という地名がある
久野々の真東には田丸城があり、そこは徳川方についた久野氏の一派が城主として統治するようになった
田丸城は後醍醐天皇を守るために北畠氏が築城した名城であり、その北畠氏は織田信長によって田丸城内にて皆殺しにされている
家康は徳川方についた久野氏にはその呪われた城をあてがい、自身は久能山に身を埋める
久能山の西には京都御所がある
あればある なければないに 駿河なる く能なき神の 宮遷しかな
日本の歴史から完全に抹消されている久野氏と徳川氏の関係とは
徳川家康が久野氏を徹底的に恐れた理由は何だったのか グノーシス主義……島津家の家紋とシンボルが全く同じ
島津家……久の字を代々継承
狗奴国は貝殻通貨(カウリ貝)を用い、それは当時の全世界共通通貨であった(ただし内陸国を除く。海の民専用通貨)
邪馬台国は宝石通貨を用いていた(通貨経済というよりも儀式経済)
カウリ貝→コウリ→高な氏→こうな国→狗奴国
氷が貴重品でコオリと呼ばれたのもこのため
高麗(高句麗)→この貝殻通貨を狗奴国側から受け取る窓口であった?(その後に銅銭経済開始で大没落)
カウリ貝はタカラガイ。沖縄〜九州南部で大量に捕れた
バビロニア崩壊後に東南アジア流れ着いた古代文明人が貝殻通貨を用いて再起を図ったチャレンジの一つが狗奴国だったのでは
バビロン崩壊は紀元前600年、トロイヤ戦争は紀元前1200年なので、静岡にはトロイヤの方が先に来ていたはず
同じ敗残兵同士、蝦夷や縄文人と共に同化した可能性が高い
狗奴国の本拠地→沖縄〜九州
邪馬台国→古代中国人(漢字を作った人たち)による入植国家→畿内中心
狗奴国の分国→静岡(久野、久能多し)で元々はトロイヤ人や縄文系の同化混在地
トロイヤ文明とバビロニア文明が混じって久能(苦悩)主義(調子コいてると100%天罰が下るので禁欲しましょう)の誕生
→グノーシスとして世界中に伝播(特に1世紀頃の人口爆発中の地中海沿岸で大流行)
その後に久能側の狗奴国が邪馬台国と魏の連携外交で追い詰められ邪馬台国と同化
男系継承の大和王権が誕生 大和王権は魏と連携して三韓征伐(その時に南九州(本家狗奴国)からの襲撃に備えるために北九州に巨大な城を建てている)
貝殻通貨の崩壊で弱体化しきっていた三韓はあっさり降伏→倭人の百済入植
→この事件により久能側は九州以西の狗奴国との貿易線、連絡線が消滅
→隼人の乱→大和王権により鎮圧
→続いて大和王権の東征開始→坂上田村麻呂がアテルイを攻め滅ぼす
→律令制でさらに追い詰められて島津の戦闘民族化
その後、大和王権は白村江の戦いで負け百済を失う。
→百済無い→クダラナイ→くだらない→つまんない→拗ねて日本と改名
本家狗奴国では島津が台頭
鎌倉時代に十字を家紋に
キリスト教と見間違わないように〇を付け加えて
気付いたらグノーシスマーク
島津家の「悪は善、善は悪」の思想にも近しい物がある
島津さん「狗奴国は南九州だ」
久能さん「狗奴国は静岡だ」
まあ邪馬台国は畿内で100%間違いない >>154
あ〜あ……やっちまったな
心底同情する 岐阜県岐阜市「加納」
岐阜県下呂市「久野川」
岐阜県高山市「久々野町」
長野県御代田町豊昇「久能」
長野県豊丘村「河野」
山梨県山梨市神内川「加納岩」
埼玉県桶川市「加納」
埼玉県川越市「熊野町」
東京都日の出町「大久野」
千葉県富里市「久能」
千葉県木更津市(※市内あちこちの大字に同名の小字「久野ヶ原」「東久野ヶ原」「西久野ヶ原」「久野」が複数散在)
群馬県利根郡みなかみ町(※上野国「久野牧」、古代の官牧)
群馬県「上毛野」
茨城県古河市「久能」
茨城県総和町「久能」(※久能生)
茨城県牛久市「久野町」(※信太荘久野郷)
栃木県「下毛野」
栃木県足利市久保田町「久野」
栃木県「鹿沼」市「久野」
栃木県大田原市「久野又」
山形県天童市「久野本」
青森県つがる市木造菊川「喜久野」 熊本県南関町「高久野」
熊本県人吉市(※肥後国「球磨」郡)
宮崎県宮崎市清武町「加納」
大分県大分市「加納」
福岡県大牟田市「加納町」
愛媛県松山市北条町「河野」
山口県下関市菊川町「久野」
島根県雲南市大東町「上久野・下久野」(※出雲国大原郡久野郷、『出雲風土記』では来次郷)
鳥取県郡家町「久能寺」
兵庫県神戸市中央区「加納町」
兵庫県北淡町「久野々」
和歌山県「熊野」
和歌山県清水町「久野原」
滋賀県野洲市「久野部」
三重県津市芸濃町椋本「豊久野」
愛知県江南市「河野町」&「村久野町」
愛知県安城市「河野町」
福井県南越前町「河野」
石川県志賀町「熊野」
石川県白山市鳥越村「河野」
富山県富山市「熊野」 >>164
濃尾平野説では「加納」いってるし
本居宣長は「河野」いってるからアリだろ
久野はクノだが狗奴はクナなんだから大差なし、問題ない >>150
>全国の久野と久能の95%が神奈川県と静岡県が占めている。
↑じゃ具体的にリストアップして見せてもらおうじゃないかw >>162,163
やっぱり畿内を取り囲むように広がってる
邪馬台国が畿内中心で、その周りに狗奴国とその分国、協商国が広がってたんだろな 広島県三次市甲奴町(※備後国甲奴郡)
岐阜県高山市「久々野町」(※付近の船山は別名「久々野山」)
↑これも追加でw >>167
ヤフー地図で検索すりゃいいだけ。
検索結果の95%どころか、98%以上行ってるんと違うか。 邪馬台国はおそらく漢民族の植民地だったと思う
漢字は並みの人間には作れない。知能及びプライドが高く、他民族との対等での同化は許せなかったと思われる
狗奴国はカウリー貝を支配して広大な経済圏を確立していた古代エジプト〜メソポタミア文明の古代人の支流だったんだろう
前方後円墳をアホほど作ったのはその古代エジプトの流れを汲む狗奴国側の有力者だったんだろうな
おそらくは魏と連携を組んだ邪馬台国側の有力者のご機嫌をとるために雇用創出の一手法として作った
で、漢民族はその後に銅銭を編み出して貝殻通貨を崩壊させた
その最大の被害に遭ったのが高麗民族だったんだろう
で、ロシア側に敗走した高麗民族が遊牧民と交じって最恐のモンゴル民族が生まれた
そう考えると全て辻褄が合う >>171
ホラはいいからさっさとリストアップして見せろ
>>162-163の10倍以上あるんだろw 広島県三次市甲奴町(※備後国甲奴郡)
岐阜県高山市「久々野町」(※飛騨国大野郡久々野郷。付近の船山の別名も「久々野山」)
和歌山県有田川町「久野原」(※郡名は安諦郡→在田郡→有田郡と変遷)
熊本県山鹿市「鹿央町」千田「久野」
↑以上、追加で。
>>171
ヤフー地図で検索したら神奈川県1件(久野のみ)、静岡県2件(久野、久能が各1)
しかヒットしないんだが? 広島県三次市甲奴町(※備後国甲奴郡)
岐阜県高山市「久々野町」(※飛騨国大野郡久々野郷。付近の船山の別名も「久々野山」)
和歌山県有田川町「久野原」(※郡名は安諦郡→在田郡→有田郡と変遷)
熊本県山鹿市「鹿央町」千田「久野」
熊本県あさぎり町岡原北「熊野」
熊本県山鹿市「鹿央町」千田「久野」
新潟県見附市 「河野町」
埼玉県秩父市「久那」
↑神奈川県・静岡県「以外」が次々でてきて困惑するんだが…。 三重県紀北町長島「久野」も追加で。
畿内の近くだと淡路島と神戸ぐらい、奈良京都大阪に無し。
北陸、飛騨信濃、東海、関東と東国全域にくわえ、西日本だと旧来の熊本説に、山陰地方。
これって縄文系の文化の残滓が比較的濃い地方だな。
弥生系が濃いのは北九州、瀬戸内海沿岸、畿内。
この弥生ベルトには
狗奴系地名が瀬戸内海には愛媛と広島と淡路の神戸と
4ヶ所もある(4ヶ所しかない?)が海の民の中で狗奴国連合についた者の拠点だろう
東国は岐阜長野の山地・東海・房総の3勢力、西は熊本を中心にした南九州
が連合していたとすると、ちょうど南北朝時代の南朝のようにみえる。
九州の征西府懐良と菊池氏が九州にいる一方、
東国は関東府成良、信濃の宗良親王、陸奥の北畠顕信が各地にいたのと似てる。
そしたら南朝の中心が吉野になったように、狗奴国連合の中心は熊野か
和歌山県有田川町の久野原にあったのではないか。
南朝も全盛期には賀名生から住吉に本部を遷してたから
それに比べれば有田町はまだ控えめな位置だろう。 三重県紀北町長島「久野」
宮崎県宮崎市清武町「加納」
宮崎県宮崎市高岡町浦之名「狩野」
福岡県大牟田市「加納町」
南朝が終わったのは財源だった征西府を失ってから。
熊本県の狗奴国も瀬戸内海の海戦で邪馬台国に敗れてから東国も含めた狗奴国連合は徐々に瓦解したんだろう。
マイナー勢力に転落してからも富士の麓、久能山に立て籠もってかなり後まで存続してたんじゃないか(半ば放置プレーで)
卑弓弥呼ヒコミコは皇子(ひこみこ)。卑弥呼の男弟と次の皇位を争っていた皇族だろう 淡路島の久野々は久野淡路守宗益? こいつの子孫が家康への最後の嫌がらせで淡路島に逃げ込んでから(勝手に)付けた地名だと思われる
各地の地名が付けられた順番が分かればかなり色々なことが分かるはずだが……
三重〜和歌山の久野は徳川幕府の紀州藩時代に付けられたものではないだろうか
そう考えるとやはり畿内はすっぽり空白
大阪には富田林市久野喜台というのがあるが
その地名になったのは明治維新以降って気がする スメラノミコトというのはシュメールのミコトから来ているという説がある
シュメールはバビロニアの支配下になって消えてるから、バビロン崩壊で巻き添え喰らって東へ逃げたんだろうな
シュメールというのは『混ざり合った』という意味で混血主義
天照大神は畿内に居座っていた漢民族の流れの女王卑弥呼(中国の本家漢民族よりは格下。邪な馬)
スサノオというのはシュメールの血を引く狗奴国側の王子(中国から見たら犬)
天岩戸神話というのはプライドの高い純血主義の漢民族の女王を、混血の王子が口説いたって解釈できる
その後の前方後円墳の乱造は、漢民族とシュメールが殺し合わずに融合するのに必要な作業だったんだろう
前方後円墳は儀式経済と通貨経済の融合、そこに『男女の交わり』と『漢民族とシュメールの融和』この2つの意味が込められてあんな変な形になったのでは
日本と中国との微妙な距離感もこれでなんとなく理解できる
万里の長城を見る限り、当時は明らかに中国の方が先進国だったわけだが…… >>180
悪かった。謝罪する
だから女の子はパワースポットでピタゴラスイッチやっててくださいませ なるほど……
見下しつつ敬意を払うってのが優秀さの必須条件という事か https://goo.gl/m2KfqU
弥生時代の青銅器の分布です。対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
これはまるで白村江の敗戦後の防衛体制そのままです。
この時点で北部九州に女王の都などありえません。もう九州説の方はあきらめてください。
狗奴国も分ります、静岡の磐田・袋井近辺。久努国ですね。
その北にある奴国は恵那、あるいは那古野、那古つまり今の名古屋。
三河は銅鐸最密集地です。
近江は面白い。
白村江の敗戦後も天智天皇が近江に遷都しました。避難用の第二首都。
弥生時代も同じように考えられてたのかもしれません。伊勢遺跡とはそういう意味合いだったのかもしれません。
この対馬・北部九州から名古屋、東海、信州まで支配した王はもちろん天皇ではありません。
この大きな国の主は【大国主】です。卑弥呼は大国主の系譜から出ました。
もうヒメ踏鞴五十鈴媛一人しかいません。 邪馬台国……神秘主義
その他(狗奴国など)……経済主義
両者の融合が日本の土台だと思います。
その後の戦国時代などの混乱は基軸通貨が貝殻→米→銅銭→借用書→米と銅銭と金貨銀貨の複合→明治維新で紙幣に
このように変遷する中で既得権益の取り合いで生じたのでしょう
神秘主義を継承していた天皇家はこの争いに巻き込まれなかったので存続した
畿内の邪馬台国と最初に融合したのは静岡周辺の狗奴国だったと思われます
トロイヤやバビロニアで痛い目に遭っていた民族の子孫が経済を主導していたので、神秘主義との相性も良かったのでしょう
逆に世界的な経済を過熱させることに熱心だった九州以西とは水が合わずに対立した ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています