鳥羽伏見の戦いについて語ろう [無断転載禁止]©2ch.net
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旧幕府軍
幕府歩兵隊
「シャスポー銃?を装備するも大半の戦意は低かった模様。初日は密集で突撃し大損害」
仏式伝習隊「シャスポー銃?で薩摩藩と激戦」
士工兵「酒樽陣地 等を構築し近代戦を演じた。」
会津藩「富ノ森の戦い、千両松の戦いで局地的に活躍するが、ゲベール銃レベルの装備であった。局地的に活躍した部隊は長州、鳥取兵の攻撃で全滅」
桑名藩「ミニエー銃を用いていたらしい。 初日は密集突撃で大損害を受けた幕府歩兵隊の崩壊を防ぐために大砲を乱発した。」
大垣藩「あまり知られていないが、スペンサー銃やスナイドル銃を装備しており、長州征伐でまともに戦った数少ない藩の一つである。のちに新政府軍に恭順し 東北方面で獅子奮迅の活躍を見せる。」 小浜藩「戦意が低く 装備もゲベール銃レベルだった」
新撰組「ミニエー銃と白兵の兼用戦術で戦うも大使の多くを失う。」
見廻組「 新撰組と同じ戦術で戦うも佐々木只三郎が重傷」
高松 姫路 松山藩「戦意に乏しく後で新政府軍の大目玉を食らった藩」 中立 淀藩「ミニエー銃を装備していた。
双方から疑われ、淀城下は火の海となった。」 新政府軍
薩摩藩「後装銃に装備を転換したのは
関東進出後である。もっとも装 備はエンフィールド銃に統一されており、練度も高く幕府歩兵隊を圧倒した。
さらに狙撃兵部隊が編成されており、 幕府型の重要指揮官を射殺した。」 長州藩「 エンフィールド銃と全く性能の変わらないエンフィールド式ミニエー銃を用いていた。市街戦に慣れていた。」 土佐藩「藩主は開戦に反対であったが
一部の藩兵がエンフィールド銃を用いて
3日目以降勇戦した。その姿がwikiの絵に乗っている。」 広島藩「薩長芸になるかもしれなかった藩である。薩摩藩と軍事同盟を結んで
いたため、装備はエンフィールド銃に統一されていた。」 また、広島藩は4日目に津藩と共同で幕府軍に砲撃を行いこれを撃退した。 鳥取藩「 家老の川田佐久間が藩兵
300でもって長州兵と共に会津の精鋭槍部隊に当たった。 大砲が暴発したが白兵と射撃で槍兵を殲滅した。」 熊本 尾張 「御所警備 このうち 熊本藩兵はのちにエンフィールド銃でもって
上野で勇戦する。」 佐土原 大村「いづれも本戦には参加して
いないが装備はシャープス騎兵銃 スナイドル銃 であり、戦意 練度共に官軍トップクラスであった。」 津藩「エンフィールド銃を当初に装備し
のちに元ごめ銃に換装した。裏切りと非難されるが、そもそも中立の立場であり、勅命が降ったので幕府軍を攻撃したのである。この攻撃で幕府軍は開戦以来の大損害を受けた。 鳥羽伏見当時の各藩の動向をよく知ってる人のようで
このまま消えるのは、もったいないのであげます
外国の船から京を守る対策として
淀川沿いに山崎天王山の津藩、男山と樟葉に若狭や丹後の譜代大名を配置
これは開戦数ヶ月前から配置されてたみたいで(多分慶喜側の指示?)
旧幕府軍は大阪城から現在の国道1号線を主に進軍したと思われる
現在の大阪〜京都間の鉄道は、淀川の南側を通る京阪、淀川の北側を通るJRと阪急
1号線に近い京阪ルートにいた若狭と丹後の譜代大名は、進軍した旧幕府軍に吸収されるが
JR阪急ルートにいた津藩は巻き込まれず、そのまま天王山に
丹波橋ー○ー○ー淀ー八幡ー橋本
京阪電車の駅で例えると、伏見の丹波橋辺りで開戦し
撤退して淀駅(京都競馬場)のある淀城の淀藩に裏切られさらに後退
男山のある八幡と橋本で最後の決戦が行われる
淀川を超えてすぐ北側の天王山に津藩がいた
これまで丹波橋など5km以上は離れた場所で戦いが行われ
戦に巻き込まれず静観していた津藩だが、ここで旧幕府軍か官軍かの選択を求められる
幕末の歴史に全くといっていいほど登場してこなかった津藩
今回の騒動も巻き込まれる事がないよう日和見していたのだろう
開戦前から双方から味方になるよう、散々催促されていたみたいだが傍観 もしも津藩が最初から開戦していたら?軍の配置場所も考えキーマンになってたかも?
旧幕府軍敗退の大きな原因の1つとされる京への南側ルートのみの進軍
・もしも津藩が旧幕府軍に付いたら、淀川北の天王山に陣があったので西からの進軍となるだろう
そうなると薩長を西から攻撃でき、間違いなく薩長は苦戦するはず
・もしも官軍に付いてたら旧幕府軍を挟み撃ちにでき、旧幕府軍は大混乱になってたはず
しかしここで問題になるのは津藩の兵力はどれぐらいいたのか?
千や二千いたとか言う人もいるが、防備のため催促された津藩にこれほどまでの兵力を出せるか?
津藩存亡の戦いならそれ以上の兵力集めるだろうが
ただ守るだけで藩士のかなりの割合を割くわけで、やはり数百ぐらいなんだろうか?
そんな数なら上記のような進軍すると、逆に返り討ちになるか
津藩だけでなく他の藩からの応援もあり千や二千なのかもしれないが、よくわからない
津藩の立場から考えると
開戦前は旧幕府軍が圧倒的有利だと思われていた、この時点で津藩は中立
しかし戦局は官軍が有利に展開し、初日は参戦しなかった土佐鳥取広島も次々と参戦
さらに前日は淀藩が官軍に付く、おまけに錦の御旗が
この状況で津藩がどちらかに付かないといけないとなると、どっちに付くか?
普通に考えて官軍だが、旧幕府軍は勝手に津藩を味方だと思い込み、男山橋本の陣の配置をしていた
旧幕府軍は間抜けな事ばかりしていたが、ここは特に注目すべき点
津藩からの砲撃を受け大混乱になり大阪城へ逃げ帰る
旧幕府軍は津藩を犬侍と罵るが、これお前が言うなではないのか? 津藩藤堂家は初代高虎以来、徳川家に忠義一本で来たからな 旧幕府軍は大阪城から進軍し、淀城から鳥羽街道と伏見街道と分かれ京へ進軍した
それに備え薩長を中心とし、京の南側で旧幕府軍を迎え撃った訳だが
京の東側の大津口からも旧幕府軍が攻めて来ると思い、大津を守るよう諸藩に命令
しかし命令に従ったのは大村藩のわずか30人ぐらい(50人だったか?)
実際旧幕府軍は伊勢方面から進軍しており
この軍は多分関東から援軍として来たが、大阪城には間に合わず
伊勢の桑名などから大津へ向かっていたのか?それとも桑名藩の残兵なのか?
しかしこの軍の偵察が、わずかな兵しかいない大村藩士を見て大軍だと思い
それを知らせ大津への進軍を諦め大阪城へ向かう
なぜ大阪城だったのか?間抜けな偵察もさることながら、伏見方面へ行けばいいのに
やる気あるのか?この軍隊?
大津口の兵がその後、彦根藩や徳島藩や岡山藩も加わり
淀川方面の補給は旧幕府軍に閉ざされてるが、琵琶湖方面からの補給を確保でき
京で戦いが長引いても安心でき、大村藩の行動は高く評価され
賞典禄で大村藩は薩長土に次ぐ3万石を与えられる(他にも3万石は真田や大垣や鳥取らも)
豊臣秀吉の母大政所の妹の夫である小出秀政
秀吉縁者で小さな大名であったが、なんとか幕末まで家を存続し
2万石ではあるが京に近い園部藩が小出氏
当初薩長は伏見での開戦は負けを予想し、山陰方面へ天皇を連れて逃げ
山陽道を進軍する長州本軍と合流し、旧幕府軍に反撃する予定であった
その最初に天皇を迎える予定だったのが園部藩
そのため城を改築し、来るべき旧幕府軍の来襲を待ち構えていた
こんな京に近い旧豊臣系の小さな外様は結構いたみたいで
脇坂、仙石、木下、加藤(加藤嘉明の系列)
これらは早い段階で官軍に付いていたもよう 軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛の子孫の幕末
黒田の福岡藩は長州と近く、藩も尊皇攘夷派が大勢を占めていた
長州が蛤御門などで衰退し、それに伴い土佐藩では勤王党が壊滅
他藩の勤皇派も没落していく中で、福岡藩の尊皇派は元気
薩長同盟にも多大な貢献をしたらしい
しかし長州が復活し、各地の尊皇派が反撃しだした頃
遅れて福岡藩の尊皇派が壊滅、尊皇派は次々と処罰され佐幕派が主流となる
その後すぐ鳥羽伏見、西日本諸藩が次々と官軍となり
福岡藩も尊皇派が復活し、今度は佐幕派が処罰される
短い時期に尊皇派と佐幕派が処罰されまくり、有能は藩士がいなくなる
戊辰戦争で福岡藩にも出陣命令が下されるも
集められた兵は、博徒や刀さえ持った事ない農民など、役に立たない人ばかり
戦ではすぐ逃げ、略奪強盗強姦ばかりし
官軍もこの無用の軍隊は、弾除けにしか利用できず前線に立たせるも、また逃げる
旧幕府軍総司令官の任務を受けた竹中重固
なぜこの人が選ばれたのか?祖先が竹中半兵衛だからなのか?
この人の迷采配は、歴史上でも有名な迷采配といえよう
投降後先祖の縁もあってか福岡藩に預けられる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています