鳥羽伏見の戦いについて語ろう [無断転載禁止]©2ch.net
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旧幕府軍
幕府歩兵隊
「シャスポー銃?を装備するも大半の戦意は低かった模様。初日は密集で突撃し大損害」
仏式伝習隊「シャスポー銃?で薩摩藩と激戦」
士工兵「酒樽陣地 等を構築し近代戦を演じた。」
会津藩「富ノ森の戦い、千両松の戦いで局地的に活躍するが、ゲベール銃レベルの装備であった。局地的に活躍した部隊は長州、鳥取兵の攻撃で全滅」
桑名藩「ミニエー銃を用いていたらしい。 初日は密集突撃で大損害を受けた幕府歩兵隊の崩壊を防ぐために大砲を乱発した。」
大垣藩「あまり知られていないが、スペンサー銃やスナイドル銃を装備しており、長州征伐でまともに戦った数少ない藩の一つである。のちに新政府軍に恭順し 東北方面で獅子奮迅の活躍を見せる。」 小浜藩「戦意が低く 装備もゲベール銃レベルだった」
新撰組「ミニエー銃と白兵の兼用戦術で戦うも大使の多くを失う。」
見廻組「 新撰組と同じ戦術で戦うも佐々木只三郎が重傷」
高松 姫路 松山藩「戦意に乏しく後で新政府軍の大目玉を食らった藩」 中立 淀藩「ミニエー銃を装備していた。
双方から疑われ、淀城下は火の海となった。」 新政府軍
薩摩藩「後装銃に装備を転換したのは
関東進出後である。もっとも装 備はエンフィールド銃に統一されており、練度も高く幕府歩兵隊を圧倒した。
さらに狙撃兵部隊が編成されており、 幕府型の重要指揮官を射殺した。」 長州藩「 エンフィールド銃と全く性能の変わらないエンフィールド式ミニエー銃を用いていた。市街戦に慣れていた。」 土佐藩「藩主は開戦に反対であったが
一部の藩兵がエンフィールド銃を用いて
3日目以降勇戦した。その姿がwikiの絵に乗っている。」 広島藩「薩長芸になるかもしれなかった藩である。薩摩藩と軍事同盟を結んで
いたため、装備はエンフィールド銃に統一されていた。」 また、広島藩は4日目に津藩と共同で幕府軍に砲撃を行いこれを撃退した。 鳥取藩「 家老の川田佐久間が藩兵
300でもって長州兵と共に会津の精鋭槍部隊に当たった。 大砲が暴発したが白兵と射撃で槍兵を殲滅した。」 熊本 尾張 「御所警備 このうち 熊本藩兵はのちにエンフィールド銃でもって
上野で勇戦する。」 佐土原 大村「いづれも本戦には参加して
いないが装備はシャープス騎兵銃 スナイドル銃 であり、戦意 練度共に官軍トップクラスであった。」 津藩「エンフィールド銃を当初に装備し
のちに元ごめ銃に換装した。裏切りと非難されるが、そもそも中立の立場であり、勅命が降ったので幕府軍を攻撃したのである。この攻撃で幕府軍は開戦以来の大損害を受けた。 鳥羽伏見当時の各藩の動向をよく知ってる人のようで
このまま消えるのは、もったいないのであげます
外国の船から京を守る対策として
淀川沿いに山崎天王山の津藩、男山と樟葉に若狭や丹後の譜代大名を配置
これは開戦数ヶ月前から配置されてたみたいで(多分慶喜側の指示?)
旧幕府軍は大阪城から現在の国道1号線を主に進軍したと思われる
現在の大阪〜京都間の鉄道は、淀川の南側を通る京阪、淀川の北側を通るJRと阪急
1号線に近い京阪ルートにいた若狭と丹後の譜代大名は、進軍した旧幕府軍に吸収されるが
JR阪急ルートにいた津藩は巻き込まれず、そのまま天王山に
丹波橋ー○ー○ー淀ー八幡ー橋本
京阪電車の駅で例えると、伏見の丹波橋辺りで開戦し
撤退して淀駅(京都競馬場)のある淀城の淀藩に裏切られさらに後退
男山のある八幡と橋本で最後の決戦が行われる
淀川を超えてすぐ北側の天王山に津藩がいた
これまで丹波橋など5km以上は離れた場所で戦いが行われ
戦に巻き込まれず静観していた津藩だが、ここで旧幕府軍か官軍かの選択を求められる
幕末の歴史に全くといっていいほど登場してこなかった津藩
今回の騒動も巻き込まれる事がないよう日和見していたのだろう
開戦前から双方から味方になるよう、散々催促されていたみたいだが傍観 もしも津藩が最初から開戦していたら?軍の配置場所も考えキーマンになってたかも?
旧幕府軍敗退の大きな原因の1つとされる京への南側ルートのみの進軍
・もしも津藩が旧幕府軍に付いたら、淀川北の天王山に陣があったので西からの進軍となるだろう
そうなると薩長を西から攻撃でき、間違いなく薩長は苦戦するはず
・もしも官軍に付いてたら旧幕府軍を挟み撃ちにでき、旧幕府軍は大混乱になってたはず
しかしここで問題になるのは津藩の兵力はどれぐらいいたのか?
千や二千いたとか言う人もいるが、防備のため催促された津藩にこれほどまでの兵力を出せるか?
津藩存亡の戦いならそれ以上の兵力集めるだろうが
ただ守るだけで藩士のかなりの割合を割くわけで、やはり数百ぐらいなんだろうか?
そんな数なら上記のような進軍すると、逆に返り討ちになるか
津藩だけでなく他の藩からの応援もあり千や二千なのかもしれないが、よくわからない
津藩の立場から考えると
開戦前は旧幕府軍が圧倒的有利だと思われていた、この時点で津藩は中立
しかし戦局は官軍が有利に展開し、初日は参戦しなかった土佐鳥取広島も次々と参戦
さらに前日は淀藩が官軍に付く、おまけに錦の御旗が
この状況で津藩がどちらかに付かないといけないとなると、どっちに付くか?
普通に考えて官軍だが、旧幕府軍は勝手に津藩を味方だと思い込み、男山橋本の陣の配置をしていた
旧幕府軍は間抜けな事ばかりしていたが、ここは特に注目すべき点
津藩からの砲撃を受け大混乱になり大阪城へ逃げ帰る
旧幕府軍は津藩を犬侍と罵るが、これお前が言うなではないのか? 津藩藤堂家は初代高虎以来、徳川家に忠義一本で来たからな 旧幕府軍は大阪城から進軍し、淀城から鳥羽街道と伏見街道と分かれ京へ進軍した
それに備え薩長を中心とし、京の南側で旧幕府軍を迎え撃った訳だが
京の東側の大津口からも旧幕府軍が攻めて来ると思い、大津を守るよう諸藩に命令
しかし命令に従ったのは大村藩のわずか30人ぐらい(50人だったか?)
実際旧幕府軍は伊勢方面から進軍しており
この軍は多分関東から援軍として来たが、大阪城には間に合わず
伊勢の桑名などから大津へ向かっていたのか?それとも桑名藩の残兵なのか?
しかしこの軍の偵察が、わずかな兵しかいない大村藩士を見て大軍だと思い
それを知らせ大津への進軍を諦め大阪城へ向かう
なぜ大阪城だったのか?間抜けな偵察もさることながら、伏見方面へ行けばいいのに
やる気あるのか?この軍隊?
大津口の兵がその後、彦根藩や徳島藩や岡山藩も加わり
淀川方面の補給は旧幕府軍に閉ざされてるが、琵琶湖方面からの補給を確保でき
京で戦いが長引いても安心でき、大村藩の行動は高く評価され
賞典禄で大村藩は薩長土に次ぐ3万石を与えられる(他にも3万石は真田や大垣や鳥取らも)
豊臣秀吉の母大政所の妹の夫である小出秀政
秀吉縁者で小さな大名であったが、なんとか幕末まで家を存続し
2万石ではあるが京に近い園部藩が小出氏
当初薩長は伏見での開戦は負けを予想し、山陰方面へ天皇を連れて逃げ
山陽道を進軍する長州本軍と合流し、旧幕府軍に反撃する予定であった
その最初に天皇を迎える予定だったのが園部藩
そのため城を改築し、来るべき旧幕府軍の来襲を待ち構えていた
こんな京に近い旧豊臣系の小さな外様は結構いたみたいで
脇坂、仙石、木下、加藤(加藤嘉明の系列)
これらは早い段階で官軍に付いていたもよう 軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛の子孫の幕末
黒田の福岡藩は長州と近く、藩も尊皇攘夷派が大勢を占めていた
長州が蛤御門などで衰退し、それに伴い土佐藩では勤王党が壊滅
他藩の勤皇派も没落していく中で、福岡藩の尊皇派は元気
薩長同盟にも多大な貢献をしたらしい
しかし長州が復活し、各地の尊皇派が反撃しだした頃
遅れて福岡藩の尊皇派が壊滅、尊皇派は次々と処罰され佐幕派が主流となる
その後すぐ鳥羽伏見、西日本諸藩が次々と官軍となり
福岡藩も尊皇派が復活し、今度は佐幕派が処罰される
短い時期に尊皇派と佐幕派が処罰されまくり、有能は藩士がいなくなる
戊辰戦争で福岡藩にも出陣命令が下されるも
集められた兵は、博徒や刀さえ持った事ない農民など、役に立たない人ばかり
戦ではすぐ逃げ、略奪強盗強姦ばかりし
官軍もこの無用の軍隊は、弾除けにしか利用できず前線に立たせるも、また逃げる
旧幕府軍総司令官の任務を受けた竹中重固
なぜこの人が選ばれたのか?祖先が竹中半兵衛だからなのか?
この人の迷采配は、歴史上でも有名な迷采配といえよう
投降後先祖の縁もあってか福岡藩に預けられる 鳥羽伏見における津藩の行動は、戦場から遠い場所で日和見してたのに
自軍のすぐ近くに戦ってる軍が移動し、戦に参加せざるを得ない状況になった
それと似た行動が関ヶ原の小早川秀秋
大垣城で東西両軍が睨み合うも、秀秋は大垣城から10kmほど遠く離れた松尾山に着陣
どちらの軍にも参加したくないが、秀秋の本音だったのでは?
しかし東西両軍が関ヶ原に移動し、自分のすぐ近くに着陣してしまった
西軍は勝手に自分を味方だと思い込み軍を配置
秀秋の場合は伏見城攻撃に参加し、かなり活躍していたし
最初から西軍だったのは確か、津藩は全く旧幕府軍である行動はとっていないので
ここに違いがあるが
小早川家の家老で実質裏切りを推し進めたのが、後の淀藩の稲葉正成
関ヶ原の東軍はみんな積極的に攻撃したが、西軍はバラバラ
石田宇喜多大谷らは死に物狂いで応戦したが、他は傍観や裏切りや
これと同じく鳥羽伏見での旧幕府軍の実態も
会津桑名新撰組など石宇大のような積極派と、消極的な藩に分かれていた
旧幕府軍に加わった西国の譜代親藩
姫路、高松、伊予松山、備前松山、若狭、宮津、大垣など
御所警護に徹した尾張福井を官軍に含めるとなると、傍観派も存在したが
旧幕府軍と敵対すると決めた藩は、関ヶ原東軍のように必死の戦いに徹した
鳥羽伏見と関ヶ原って、色々リンクされる点があるなって印象がある 対応バイアス
自分に都合のいい情報だけに注目して他を無視し
二つのものが似ていると思い込む心理 鳥羽伏見ってよく旧幕府軍は最新鋭の武器を持っていたって力説されるけど
本気で戦える量の弾薬は持ってたんかね
主戦派は兵站など頭になさそうな連中ばかりだが 数で勝ってた!の上に装備で勝ってた!まで加わるとそれで負けた幕府軍って?って言われることに気付かないのかな? 幕末の武器買い付けの動きって不思議
薩摩はどっかの藩を味方にすると速攻で武器の買い付けをあっせんする
幕府は自分とこだけ最新鋭装備をそろえといて他の藩に出兵を命じ、武器は自力調達させる
いや勝ちたきゃ佐幕派の藩にも最新武器分けてやれよと思うけどやらない >>25
実際、弾薬不足で負ける事が多かった。
てか、銃の性能差で序盤は圧倒するけど、先に弾を打ち尽くして結局撤退
というのが戊辰戦争での伝習隊テンプレ
旧幕府も薩長も、最終的には
「最新式の銃より、弾薬補充が楽で使い慣れたミニエーの方が戦場では強い」という結論に至り
函館戦争ではどっちもミニエーが主力になる >>26
よく言われるけど、旧幕府側が劣っていたのは
兵力や装備じゃ無くて戦争の概念なんだよね
薩長が軽装で物陰に隠れ、とにかくバンバン銃を打っている所に
旧幕府側は指揮官が先頭に立って突撃、敵を倒せば銃弾の雨の中でも首を切り取って勝ち名乗りだもの
そりゃ装備が同じでも勝てませんわ >>27
結局のところ、首脳部というかお偉方のおつむは軍備を充実させるのは
あくまで公儀第一っていう因習から抜けきれなかったのかね
それに諸藩の去就を見定められずに疑心暗鬼のままだったとか 倒幕派を駆逐したあとのことを考えると佐幕派とは言え大名家に武器を配りまくるわけにもいかんのだろ?
負けたら元も子もないわけだが、そこはジレンマを抱えてるとおもうね 薩長は他藩との連携を決める人と兵站責任者が同一人物か近しい間柄だから、戦をしようと決めたら皆で武器揃えねばと自然に考えるけど
佐幕側って戦をしたがってるのは在京組の政治屋で、江戸や諸藩に通達一枚送っていつどこへ兵を送れと命じて終わり
どこの藩が出るかは直前まで揉めて、そろったところで総指揮官を決めるから、準備段階で全体の軍備を考える役割の人がいない せめて譜代藩には幕府から武器供与しとけば佐幕派が勢いつけたろうに
幕府からは何にもしないから、譜代藩でも佐幕なんてほとんど出なかった >>34
井伊直弼の彦根藩も最終的に新政府軍だもんな。 彦根は桜田門外の後からはずっと新政府よりとか何とか 第二次長州征討までは幕府軍で出てるよ
んでボロ負けして鳥羽伏見の時には真先に官軍につく 大阪城から京南部の伏見方面に攻めてくる旧幕府軍とは別に
伊勢方面からの旧幕府軍進軍も予定されていた
桑名藩や関東から遅れてきた兵だと思われるが
その対策として朝廷は大津に出兵を命じたが、最初に出兵したのは大村藩のわずか数十名
しかしその僅かな兵を大軍と思った偵察隊が、進路を大阪城へ変更してしまう
遅れて岡山藩徳島藩彦根藩などが大津へ出兵
井伊直弼時代は反直弼であった岡本半介が、桜田門後に彦根藩の実権をとり長野主膳らを処罰
岡本は慶喜に近く、鳥羽伏見の際も大阪城にいた
しかし下級武士らに実権を取られ、藩は薩長に付く事に
当初薩長は彦根がどっちに付くか疑問だったみたいで
彦根が味方になった事により、淀川を旧幕府軍に牛耳られ補給路を絶たれたが
琵琶湖方面からの補給を確保できた >>36
幕府のために安政の大獄やって頑張ったのに、殿様は桜田門で討たれる
それに対する幕府の答えが35万石から25万石への大幅減封
そりゃ、幕府への愛想も尽きる 問題はその時の決断よりも明治から現代まで脈々と
彦根を佐幕派代表のように宣伝している人たちがいることだな そういえば、榊原康政や本多忠勝のご子孫は何してたんだろう?井伊直政の子孫は頑張ったのに。
あと、家光お気に入りの知恵伊豆さんや、犬公方お気に入りの柳沢吉保あたりのご子孫達、幕末での活動は聞かないな。 そもそも鳥羽伏見の戦いは関ケ原の再現じゃないからwwwww >>41
柳沢は幕末には大和郡山城主
京都にも大坂にも近いが、
鳥羽伏見戦では動かずw
大和郡山城の前の城主を習って洞ケ峠状態 >>40
彦根が「佐幕」だという認識は薩摩藩の情勢分析にも出てくるし、
大政奉還後の段階でも確実に親幕諸藩の代表なのだから正しいんだが。 >>39
彦根藩の動向を決めたのは桜田門外の変の処理ではなく
慶喜が下坂したのちの情勢緊張で新政府から旗幟を迫られたため
慶喜と京都側が戦闘に入った場合、やはり大義名分という観点からは厳しいものがあるわけで だから彦根藩は薩長の被害者で可哀相なんですってかwwww 狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html
鳥羽伏見の戦いの長州軍総指揮官は
山田市之允(顯義)。
山田市之允は徳川幕府に勝てるとは思っていなかったらしく、
敗退の時は明治天皇を負んぶって雪の山陰道を
逃げる皮算用でした。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド >>48
彦根は都から近いからな
しかも今から宮さまを大将軍にいただいて
江戸へ進む錦の御旗・官軍の通り道
逆らったら会津よりも悲惨なことになる 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは
血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1481985949/
陣頭指揮突貫
日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを
したかどうかだな。鳥羽伏見、徳川幕府との決戦に山田は命を捨てて
戦いに臨んだんだな。一方福沢と大隈の2人は鳥羽伏見の戦いを静観。
お茶を飲んだ後お昼寝しました。
私は山田顕義伯爵は福沢諭吉になにも言い残していませんが内心はこうだったと思う。
「人は人の上に人をつくらずは正しい。言っていることは立派だ。でも自由な言論も
私たちが戦場に残してきた屍の上に成り立っていることを忘れては困る。」
大隈さんに対しては「大風呂敷もわかる。力量もある。見識も立派だ。でも鳥羽伏見のときに
出てこなかった責任はどうとるのか?。私たちは明日の行方も知れず命を的に戦った。
勝った後、のこのこ出てこられてもあまり嬉しくない。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド >>47
>>48
井伊家の伝統だよ
南北朝期では南朝に加勢していた
しかし北朝(足利幕府)が強大化すると、南朝に同情しつつ北朝へ鞍替えした
戦国時代では今川方になっていた
しかし今川が衰微すると、徳川に加勢した
そして幕末 徳川幕府下では譜代大名筆頭になっていたが・・・
徳川が衰微したので、明治政府(薩長)に加勢した >>52
長い歴史を持つ家はほぼそうだろ
天皇家なんてどんだけ提携相手を変えてきたんだよw 慶應三年、顯義、長藩の隊長となり、一隊の兵を率ゐて攝津西の宮に屯した。
當時、會桑の兵を京都より拂はんとする議があつて、長州兵の入京を急がすの
必要があつたから、西ク隆盛旨を傳へて、顯義の進軍を促さしめるために、
大山彌助(巖)を西の宮に遣つた。大山、西の宮に來り、陣門に入りて、顯義に逢はん事を求めた
。帷幕の裡に待つことやゝ乍らくあつて、顯義が出て來て、其姓名をつげ、大山の使命を聞かんといふ。
大山、顯義を熟視すると、之れ一箇の矮小漢であり、年齒も甚だ若い。
其英名はかねてより聞いてゐるが、かゝる小忰とは思はなかつたから、大山大に侮る色が生じた。
かゝる乳臭兒が何を能くするかと思ひつゝも、西クの使命は傳へねばならぬから。西クの密書を
懷より取り出して渡し、時機甚だ切迫してゐるから、急いで兵を進ませられよと陳べた。
顯義、曰く諾と。直に左右を顧みて、出兵の命を下した。其言語擧動の敏捷なる、
流石評判に恥ぢぬだけのものがある。大山亦侮り易からざるを感じつゝ、
辭して陣門を去らんとすると。早、兵隊の部署は整然として悉く定り、將に進發せんとする模樣がある。
之れを見て大山遂に顯義の穎秀なるに敬服して了うた。
時に顯義二十二歳、大山二十四歳であつた。 独逸 モルトケ将軍
顯義、曾つて洋行をした。身長矮少で無髯白晢の年であるが、
已に將官であつたから、歐洲人怪しんで、
日本には少年の將官があるかと問うた。
陸軍中將鳥尾小彌太と、 顯義とは、當時殊に年少の將軍であつた。
共に奇材を以て目されてゐた。顯義、獨逸に往つた時、
モルトケ將軍は、其年少なるを見て種々奇問を發して試みたが、
顯義、奇才縱にして、よく之れに應辯して、大モルトケを驚かしめた。
大山格のブログ
https://ameblo.jp/itaru-ohyama/entry-11505147913.html >>52
別に強い方に鞍替えすんのはかまわないけどさー
なんで井伊を美化する連中は戊辰戦争に負けた側の代表
薩長の最大の被害者みたいな宣伝してんだろねってこと 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
JM7MW 騎兵隊を持っていたのは土佐藩のほかどこかあったの? 大村益次郎は多彩な才能の持主だった。
幕末期には長州征伐、戊辰戦争での長州軍、官軍の軍事指導者。
明治維新(1868)後は近代日本最初の兵部大輔(陸海軍大臣)として藩兵解散、徴兵制実施、
鎮台・鎮守府の設置などの近代兵制を創設。
明治2年(1869)、暗殺。
その間、東京招魂社(現・靖国神社)の設立に尽力、数学書・兵学書の執筆、近代日本最初
の行進曲「宮さん宮さん(トコトンヤレ節)」の作曲までやっている。
・大村益次郎・作曲、品川弥二郎・作詞「宮さん宮さん」
https://www.youtube.com/watch?v=DVc-UNU48g0
因みに、アメリカ合衆国では同時期の南北戦争[American Civil War](1861〜1865)時に、同じ
く小太鼓連打の行進曲 “When Johnny comes marching home”(ジョニーが凱旋するとき)が
北軍によって作られ、今でも合衆国の代表的な行進曲になっている。
・“When Johnny comes marching home−American Civil War Song−”
https://www.youtube.com/watch?v=d9uarq2_hQ8 >>51
会津戦争はあまりにも酷い戦さじやないですか?
同志社創立者の奥さん 井伊、藤堂、戊辰戦争で旧幕府軍で出兵したが
薩長軍が錦旗を掲げ戦況も優勢と判断して裏切り
井伊は譜代筆頭
藤堂は初代高虎が六角、織田、豊臣と主家を変えて渡り歩き
関ケ原以来徳川に准譜代として遇されていた >>64
嘘吐くな。
藤堂家は元から中立。旧幕・新政府双方からの参戦要請を断っていたが、勅命を受けてやむを得ず新政府側で参戦した。
井伊家は家中分裂しており、大坂城に詰めていた者もいるが、多くは新政府側で鳥羽伏見に参戦した。 >>65
> 藤堂家は元から中立。
準譜代が中立ということ自体があやしいわけだが。 現将軍が自分たちの藩主を殺した脱藩浪士と同じ藩出身なら、厭戦気分も蔓延しているだろうなあ 井伊彦根藩の状況
井伊直弼の横死後、長野主膳に責任を被せて処刑したのも無駄で、大獄の報復として10万石削られる。
第2次長州征伐に藩主自ら出陣するも、初戦で壊滅。他も負けたのに「譜代筆頭のくせに情けない」と嘲りを受ける。
直弼の政敵だった、慶喜が将軍に就任。さらに大政奉還で徳川家に統治権が無くなる。
この状況でも、家老級には大坂城に詰めて徳川家に忠義を示した人もいたが、中級藩士以下は積極的に新政府に
味方することを進め、鳥羽伏見にも新政府側に参戦。
藩主も新政府側に立ち、中級藩士の取り立てなど藩政改革を進めるとともに、戊辰戦争にも参加。功績を認められ、
かなりの褒章を受ける。
なお、井伊直弼のせいで嫌われて侯爵になれなかった、というのは嘘。幕府に10万石削減されたせいで、侯爵に
必要な石高が足りなかっただけ。 >>68
>他も負けたのに「譜代筆頭のくせに情けない」と嘲りを受ける。
御三家の紀州家も負けなかったか? >>68
>大獄の報復として10万石削られる。
そのあと3万石は回復しているはず。 >>68
>幕府に10万石削減されたせいで、侯爵に必要な石高が足りなかっただけ
それってつまり井伊直弼のせいでは >>69
紀州は微妙。
芸州口には洋式歩兵隊を送り込んで、井伊家・榊原家に代わって長州軍と互角の攻防を展開してる。
一方、石州口では初戦で撃破されて撤退してくる福山藩兵を敵と勘違いして、味方撃ちをやらかした挙句、
長州とは戦わずに撤退。
よって、「長州に直接の戦闘では負けていない」と言える。不戦敗はノーカン。
>>70
井伊直憲は2万石。津・藤堂家のちょい下、佐賀と同額、尾張徳川より上。
3万もらったのは鳥羽伏見の初期から藩を挙げて正式に参戦してた大村藩や大垣藩、鳥取藩。
>>71
徳川家茂将軍就任のために必死に働いたのに、暗殺された後になって、その家茂に政策が間違っていたと
言われて領地を1/3削られたのは直弼が悪いと言わないだろ、普通。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています