木曽義仲と源義経と畠山重忠 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>423
行家は改名せず義盛のままだったほうがよかったかもしれんな なんとなく 『平家物語』どころか『源平盛衰記』にも八艘飛びの話が出ていない。 あれは義経の八艘跳び自体よりもその後能登守が襲い掛かってきた源氏の武者2人を道連れに飛び込むのが好き
敵役として最高に格好いい最後だった
そしてそれらを全て見届だ知盛の「見るべきものは見つ」がいいんだよねえ 義経と教経の対決は屋島・壇ノ浦における名勝負だね。
なお、このライバル同士は太平記で仲良く怨霊になって登場している。 平家物語や源平盛衰記の平家の最期がその後の日本の武者の美学を決めたよね
というか当時確立した武者の美学を表現したのがこれらの作品だったのだろう 同情と憧れが混在しているんだと思う
散る桜や欠落するものに美を見出すのは日本人特有の感性だと思う 知盛の最期の心境は、北斗でいえばラオウみたいな感じだったのかもなw
見るべきものは見つって、わが生涯に一片の悔いなしと似てる感じw 平重盛が長生きしていたらだいぶ状況は変わったのかも知れない 盛っていると言えば、
畠山重忠の鵯越の逆落しでのエピだよなぁ。
馬背負って崖下るとか、どんなファンタジーかと。 >>443
ところがそれはややこしい論争があって
「馬で急坂を降りられるわけないだろ」派が
「馬の前足を担いで降りるほうがまだ現実性がある」と主張。
「物理的には降りられますが何か?」派が
「馬をいたわってそのような行動に出たのだろう」と主張。
「降りられるけど実際はあんな急坂じゃないよ」派は
「つまり馬をいたわることも可能だった」と主張。
つまり畠山さんのしたことは嘘じゃないかもと言われている。 そもそも一の谷の崖を駆け降りたこと自体がなかったとされているから、
馬を担ぐこともなかったというのが結論だと思うけどね。 >>442
重盛って、いわれてるほどの人格者でもなかったって説もあるな・・ >>447
自分の無力感に苛まれていたらしいね
調停役として清盛の暴走を止めていたらしいけど 清盛はラオウ、重盛はトキみたいな性格だったのかな?w 義経記を読んだわけではないが、大河ドラマの義経は面白かった。
奇想天外な話ばかりで。 ドラマで必ずと言って良いほど見せ場となる「安宅関の勧進帳」は義経記にその場面がないという事実 大河義経結構面白かったよね
丹波哲郎の遺作ともいえる源三位頼政が良かった 破格の待遇を受けつつも、勇気を振り絞って挙兵に踏み切ったのは最後に武士として花を咲かせたかったか、余程物思う部分があったんだろう 幕府と言う発想がそもそもないだろうし、
樹立しても周りが従うとは思えないが。 リオ・平昌五輪2016−2018個人種目獲得メダル数
北信越5県 金=4 銀=3 銅=3 計=10
関西6府県 金=0 銀=1 銅=0 計=1 >>459
信濃よりはもう少し平野の広い越後幕府でもよかったかも
てか義仲軍って、上洛後に酷くなったのであって、城長茂(資職)を破って越後国府にいたころは
頼朝軍と大差ないまともな軍隊だったんじゃなかったのか?
一万騎はあったみたいだし 関東と言う辺境に基盤を築いた頼朝は凄いよ
逆に京都や平泉みたいな主要都市で育った義経には東国武士の気持ちは分からなかったと思う 秀衡が抗戦しても同じでしょ
阿津賀志山に大防塁を築いた国力は侮れないけど
結局は鎌倉のケタ違いの動員力に負ける 吾妻鏡読んでると、範頼も義経と似たような性格っぽい
義経のほうが早く挙兵に参加しただけ
頼朝との関係は最初は良好だったかも >>470
範頼の方が政治感覚が研ぎ澄まされていて慎重さがある様に感じるけど、性格的には別の面があったのか? 範頼って宗盛の源氏版って感じじゃない? 義経や教経よりデブで凡庸なおっさんって感じw 範頼は軍事でも政でもバランス良く有能だったと思うけど、頼朝や義経に比べると器用貧乏だと思う >>471
乱暴者だった模様
吾妻鏡 寿永3年2月1日条
蒲の冠者範頼主御気色を蒙る。これ去年冬、木曽を征せんが為上洛するの時、
尾張の国墨俣の渡に於いて、先陣を相争うに依って、御家人等と闘乱するが故なり。
その事、今日すでに聞こし食すの間、朝敵追討の以前、私の合戦を好み、
太だ穏便ならざるの由仰せらると。 >>474
義平は義経とともに先陣切って戦う突進型の猛将、朝長は頼朝にとって政治顧問みたいな役割だろうか。
義経が京武者で関東の荒くれものとソリが合わなかったのに対し義平は生粋の坂東武者だから、
似た者同士の義平と義経が対立するという構図がありえたかも。 朝長は官位的に頼朝が嫡子に据えられるまで後継候補だった
頼朝が嫡子化したことで波多野氏が義朝陣営から離脱した
ライバルだよ
源氏ってちょっと目を離すとすぐこれだからね 源義光の頃から血みどろの殺し合いをし続けるのが源氏 >>476
正体とかキャラクター性が掴みにくい人だけど、立場的にかなり危険人物として見られいたのは確か
鉈切丸って言う舞台では範頼が主役にして悪役だったな 義平って敗戦後に平清盛を暗殺しようとして失敗したんだっけ
仮に生き永らえても不幸な末路を迎えそう 範頼って建久4年に何かやらかしてるよね
建久4年て8月に範頼自害、岡崎大庭出家、12月に安田粛清でしょ 甲斐源氏や帝と接点があったんでしょ
義経と同様に野望があったのかも知れない >>468
いつごろから?
秀衡の代からあるとしたらそれはそれで凄いけど 南奥州に勢力が伸びたのは基衡の代だけど
防塁築けたのかね >>475
宗盛って清盛の次男じゃなくて三男なんだね
重盛と宗盛のあいだに基盛って人が居たって最近気付いた 宗盛が酷い酷いっていうけど、
都落ちのときに後白河が逃亡するなんて予想できなくても無理はない。
本土決戦のときに天皇が厚木に逃げてアメリカ軍に投降してました
みたいな話だからな あるけど証明しようがないし盛り上がる話ではないなあ >>486
重盛も基盛も病気で若死にで、棚ぼた式に宗盛が惣領になったのか
あんまり兄弟仲は良くなさそう 重盛は42まで生きたが、基盛はもっと前だな
吉川の新平家物語でも、中盤以降はほとんど出てこない >>492
源為朝は初代琉球王になったという伝説があるね
平家落人伝説では平維盛は同じく沖縄まで逃げたそうだ >>493
宗盛は中宮・平徳子の同母兄だったから
弟ではあるがゆくゆくは棟梁になるはずだった
平安時代は母后の力が強かったため
兄弟順に関わらず后の同母兄弟が出世するのが鉄則
実際に重盛の子よりも宗盛の子のほうが出世が早かった >>496
重盛は立場的には危うい部分があったようだね
重盛の嫡男の維盛は富士川での大敗で清盛の逆鱗を買ってるし、どんどん不遇になっていく 清盛が生きてる限りは安泰のはずだったのだが、
鹿ケ谷で重盛の失脚が確定的になり維盛も非嫡流転落
だから富士川の前線に出させられたのだよ
富士川で負けた後は知盛や重衡が派遣されている
重盛はその数年前から健康を害していたから、
鹿ケ谷がなくても微妙ではあったが >>496
棟梁はいちおう重盛だと思うよ。
伊勢、伊賀の家人も重盛に付属しているし、重盛自身も高倉の乳父の地位にある
清盛がその辺はバランスを取ってたのだよ >>496
清宗のほうが維盛より早かったんだっけか? 逆転したのは治承4年5月に清宗が従三位になってからじゃないかな
維盛との年齢差が10歳あるから、昇進ペースはともかく明確な逆転はそのころのはず >>500
たぶん>>496が言うのは「昇進のペース」じゃないかと
維盛は任官してから公卿になるまで14年かかってるけど
清宗は8年
四位から三位まで維盛は8年かかってるけど清宗はわずか1年 >>482
富士の巻き狩りで曽我兄弟の仇討ちがあった年だろ
工藤祐経が討ち取られて頼朝が襲われた
頼朝暗殺も含めた御家人どうしの内紛があったんだろ
それに絡んで範頼、岡崎、大庭は粛清されたんだろ 曽我兄弟の黒幕を時政だと主張する人もいるみたいだが、
この時点で北条が頼朝の命を狙うのは早すぎる気はする。 曽我兄弟の面倒みてたのが時政で、曽我十郎を討ち取ったのが時政の腹心の仁田忠常だからな
きな臭いわな 物語だと有力武将が幼い曽我兄弟を守ろうと必死なんだよな。
討ち入り前に工藤の陣屋を教えたのは千葉だっけ?
こいつも加担していたという意味だろうか。 曽我兄弟の敵討ちでの混乱の最中、源範頼に不穏な言動有りと密告したのが北条政子だったんだっけ 曽我兄弟の仇討ちは、御家人どうしの潰し合いの嚆矢じゃないかな 北条黒幕説は「頼朝が死んで一番損するのは北条でしょ?」
って反論されてしまうからな
菱沼本では常陸の鎮定に手間取ったことが頼朝の疑念を買った説 遠江を基盤として、御家人の信望を集めていた範頼が死んで北条が動きやすくなったのは確かだと思う
範頼誅殺に関しては当時から無理があると言われていたようだ 当時の時政は駿河に力持っていたよな
祐経が死んで伊豆、範頼が誅殺されて遠江に時政の勢力が伸びたことになるわな 時政が頼朝まで殺そうとしたかは疑問だが、工藤祐経と範頼の排除をはかったのは間違いないんじゃなかろうか
岡崎や大庭も時政からしたら邪魔な存在だったんだろうな 宿老の範頼が死んで、源氏門葉も鎌倉の中枢には関与しなかったから、鎌倉武士団、特に北条が力を伸ばしやすかったんだと思う 北条が遠江に勢力を伸ばしたのは結果論じゃないの?
弱小でしかも身内だから頼朝の準直轄みたいな意味合いなんでしょ
北条ってまだまだ弱小な存在だしね 時政は相当強かな親父だよ
当時既に駿河を支配していたし、曽我兄弟の仇討ちの結果、両翼の伊豆と遠江に支配を伸ばしたのは結果論ではなかろうよ 阿野全成は北条家と共生する道を歩んだけど、この人は北条と反目する源頼家に殺されて可哀想だよな 阿波局の夫で頼朝の実弟が殺されちゃうんだからな
この頃は北条は相当追い詰められてるよね
政子がいるから辛うじて生き延びてる状態
北条家はここから必死の反撃をして比企を打ち倒したんだろうな
結果だけみているとこの時の北条家の必死さはわからないよね 後ろ盾になってくれていた頼朝は既に他界し、頼家の乳父である比企能員が将軍を手玉に取ってたからな
時政は自分の孫と反目することになる 梶原排除の時に比企がうまく守っていたら頼家のその後もまた違っていたかも知れない
有力な味方をむざむざ手離したのは残念だったな 頼家や比企が後鳥羽に対抗できたろうか?
景時が生きていたらなんとかできたろうか?
歴史はifこそ面白いよね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています