木曽義仲と源義経と畠山重忠 [無断転載禁止]©2ch.net
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逆転したのは治承4年5月に清宗が従三位になってからじゃないかな
維盛との年齢差が10歳あるから、昇進ペースはともかく明確な逆転はそのころのはず >>500
たぶん>>496が言うのは「昇進のペース」じゃないかと
維盛は任官してから公卿になるまで14年かかってるけど
清宗は8年
四位から三位まで維盛は8年かかってるけど清宗はわずか1年 >>482
富士の巻き狩りで曽我兄弟の仇討ちがあった年だろ
工藤祐経が討ち取られて頼朝が襲われた
頼朝暗殺も含めた御家人どうしの内紛があったんだろ
それに絡んで範頼、岡崎、大庭は粛清されたんだろ 曽我兄弟の黒幕を時政だと主張する人もいるみたいだが、
この時点で北条が頼朝の命を狙うのは早すぎる気はする。 曽我兄弟の面倒みてたのが時政で、曽我十郎を討ち取ったのが時政の腹心の仁田忠常だからな
きな臭いわな 物語だと有力武将が幼い曽我兄弟を守ろうと必死なんだよな。
討ち入り前に工藤の陣屋を教えたのは千葉だっけ?
こいつも加担していたという意味だろうか。 曽我兄弟の敵討ちでの混乱の最中、源範頼に不穏な言動有りと密告したのが北条政子だったんだっけ 曽我兄弟の仇討ちは、御家人どうしの潰し合いの嚆矢じゃないかな 北条黒幕説は「頼朝が死んで一番損するのは北条でしょ?」
って反論されてしまうからな
菱沼本では常陸の鎮定に手間取ったことが頼朝の疑念を買った説 遠江を基盤として、御家人の信望を集めていた範頼が死んで北条が動きやすくなったのは確かだと思う
範頼誅殺に関しては当時から無理があると言われていたようだ 当時の時政は駿河に力持っていたよな
祐経が死んで伊豆、範頼が誅殺されて遠江に時政の勢力が伸びたことになるわな 時政が頼朝まで殺そうとしたかは疑問だが、工藤祐経と範頼の排除をはかったのは間違いないんじゃなかろうか
岡崎や大庭も時政からしたら邪魔な存在だったんだろうな 宿老の範頼が死んで、源氏門葉も鎌倉の中枢には関与しなかったから、鎌倉武士団、特に北条が力を伸ばしやすかったんだと思う 北条が遠江に勢力を伸ばしたのは結果論じゃないの?
弱小でしかも身内だから頼朝の準直轄みたいな意味合いなんでしょ
北条ってまだまだ弱小な存在だしね 時政は相当強かな親父だよ
当時既に駿河を支配していたし、曽我兄弟の仇討ちの結果、両翼の伊豆と遠江に支配を伸ばしたのは結果論ではなかろうよ 阿野全成は北条家と共生する道を歩んだけど、この人は北条と反目する源頼家に殺されて可哀想だよな 阿波局の夫で頼朝の実弟が殺されちゃうんだからな
この頃は北条は相当追い詰められてるよね
政子がいるから辛うじて生き延びてる状態
北条家はここから必死の反撃をして比企を打ち倒したんだろうな
結果だけみているとこの時の北条家の必死さはわからないよね 後ろ盾になってくれていた頼朝は既に他界し、頼家の乳父である比企能員が将軍を手玉に取ってたからな
時政は自分の孫と反目することになる 梶原排除の時に比企がうまく守っていたら頼家のその後もまた違っていたかも知れない
有力な味方をむざむざ手離したのは残念だったな 頼家や比企が後鳥羽に対抗できたろうか?
景時が生きていたらなんとかできたろうか?
歴史はifこそ面白いよね 玉葉は、実朝を擁立する陰謀があったので梶原が注進した
と書いてるようだけど、頼家健在中から御家人たちの間でそういう計画があったのだろうか >>525
頼家政権の発足時点で派閥抗争は顕在化していたよ
比企と梶原が頼家派で、北条が実朝擁立派。
北条家はまだまだ力が弱く、三浦家などの頼朝時代を懐かしむ宿老達と手を組んだ 頼家は全成を警戒してこれを処刑にもっていったけど、北条のタマが弟実朝だったとは思いもよらなかった、という説もある。 いや、全成は千幡の乳父なんだからそれはないだろ
最終的な狙いは千幡だよ
ただ、政子が健在だから簡単じゃない
そこで外堀から埋めにいったんだろ 木曽義仲→楠木正成→武田勝頼の生まれ変わりの事実を俺だけが知ってる 梶原の変のときに頼家や比企が黙認したのが後々になって響いた
当時は比企にとっても梶原はウザい存在だったんだろう 頼家が殺害される場面、義朝が平治の乱で殺されるところと酷似していて、
はじめてその場面を鎌倉時代本で読んだ時に混乱した思い出がある。 入浴中は裸になるから襲いやすいんだろうな
おちおち風呂も入ってられない怖ろしい時代 孤立化していった梶原と仲間を見つけて連携を図った北条の違い 東北に風呂家っていう家があって、義経の奥州逃亡の際に風呂に入れたりしてもてなした家らしいな 坂東武者のほうが意外と風呂に入ってそう
相模伊豆房総あたりは温泉地たくさんあるし 壇ノ浦の戦いって早朝開始説(吾妻鏡)と正午開始説(玉葉、有力説)があるけど
今どっちが優勢なんだろうね
どっちにせよ4時間で平家方が全滅。
「入水」とされてる人も九州沿岸に上陸して戦死したのがいるから、
実際は脱出口を求めて決死の突出をしたのかもしれない 能登守教経とか好きな武将だな
教経にしても安徳帝にしても生存説があるけど >>483
いくら金かけたって譜久村を神格化するのは無理だぞw
あれは道重の知名度とトーク力とキャラクターがあったからできたことだ 545 鎌倉@名無しさん 寿永3年1月27日
いくら金かけたって義経を神格化するのは無理だぞw
あれは義仲の知名度とトーク力とキャラクターがあったからできたことだ
546 鎌倉@名無しさん 寿永3年1月27日
梶原乙
547 鎌倉@名無しさん 寿永3年1月27日
また梶原か 義経とか木曾義仲のパッと咲いてパッと散る桜の様な生き方が日本人の美徳だとか死生観に繋がったんだと思う 毛利元就とか徳川家康みたいにgdgd長生きしてじっくり収穫ゲットするのもいいぞおw 豪傑好きと慎重好きに分けられるがスレタイの3人は豪傑 畠山重忠亡き後の、平姓畠山から源姓畠山への乗っ取りもなかなかエグい もともと平家方で三浦義明と交戦して討ち取ってるね
畠山を含めた秩父一族はなかなか信任を得られなかったようだが 梶原は鎌倉を引き払って京で任官しようとしたのだろうな 10月27日に結城朝光が讒言を告げられて、
翌日には66人の御家人が連判して弾劾状を出しました…
こんな筋書きを吾妻鏡の編者ですら信じていたとは思われない 結城朝光に密告したのは阿波局で梶原景時を手討ちにしたのは北条傘下の武士団だから、北条時政の工作活動があったのは明白 生真面目というか、自分から汚れ役を請け負う人だと思う >>550
義仲が、カリクラ峠のハンニバルのことは知ってた可能性はないのか?w 景時は下野した時点でも御家人一、二を争うくらい有力でしょ
城長茂みたいな降人組も与党だし
自分を用いない鎌倉なんか見切ってツテのある京で任官しようとしたので
あわてた鎌倉の追討を受けた >>561
誰がここまで火牛を真実にさせてしまったんだ? 牛かわいそう
戦いの後はステーキになって食べられちゃったんだろうね 景時の讒言というものは何だったのか
実際には義経の方に咎があったようだが 吾妻鏡元暦2年4月21日条に梶原の「讒言」が載ってるけど
要は「自分1人の手柄みたいに思い込んで御家人が困ってる、専断を諌めても聞いてくれない」
という苦情。
そのあとに続けて「範頼は大小となく義盛に相談するけど義経は独走する
人の恨みを買うのも梶原に限らない」と注釈されている。讒言というより実情の報告 範頼も義仲討伐の時は手柄を争って頼朝に怒られてるので、
早く反省したか、大手軍だからうるさい宿老が大勢いておとなしくなったか 一ノ谷に向かうまえ、京都にとどまっていたのは治安維持のため義経の存在が必要だったからなんだよな。 治安の崩壊を責められても義仲は開き直っていたからな 8月の除目で伊予守に推挙してるんだから
ずいぶん後まで気を使ってるね。 なんで伊予なんて平家のまだ版図にあった場所になっちゃったの?
越後とか信濃あたりにすればよかったのに 伊予と播磨は受領最上位だからずいぶん奮発してるよ
平重盛が平治の乱後の恩賞で任官したのも伊予守 北海道まで逃亡したんじゃないか
アイヌと接触した形跡がある 北海道の義経伝説をガチだと思うのは自由だけど歴史学の視点から言うとあれは違うから 恭順するという選択肢もあった筈なのに挙兵に踏み切るあたりが如何にも義経らしいが、軍を用意できるだけの求心力がある筈もなかった 義経像
「軍事的天才だが政治は無能」から
「折衝と根回しが得意な能吏」へとずいぶん変わったな 最初から頼朝とは目指す方向が違かった
厩司の任命や本人の言動からして第二の平清盛を目指していたのだろう
はかなげな悲劇の英雄ではなく、木曽義仲と同様に相当な野心家だ 富士川の陣中にて義経との出会いに頼朝は涙したというが、頼朝が馬を引く事を命じた際に義経が強く不満を抱いていたあたり、この頃からギスギスしてたのかな 頼朝は平家滅亡後しばらくまでむしろ義経を優遇してた
というのが最近の有力説
在地豪族や平氏離反組を組織した義経軍に手柄を取られて
鎌倉御家人たちの憤懣が溜まってたのでああなったと 頼朝と後白河で義経を取り合っていたんでしょ
後白河は安田義定にも官位を与えていたからな 後白河は義経と直接主従関係を結ぼうとした
しかし頼朝にとって義経は自分の家来
朝廷と直接主従関係を結べるのは頼朝だけ
という立場だったんだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています