木曽義仲と源義経と畠山重忠 [無断転載禁止]©2ch.net
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頼朝と後白河で義経を取り合っていたんでしょ
後白河は安田義定にも官位を与えていたからな 後白河は義経と直接主従関係を結ぼうとした
しかし頼朝にとって義経は自分の家来
朝廷と直接主従関係を結べるのは頼朝だけ
という立場だったんだろ 時代は下るが、幕府の御家人と北面の武士を兼ねてた武士は多い。 頼朝と後白河が取り合ってたというより
鎌倉から締め出されて切れた義経が迫って院宣出させた
というのが真相でしょ
頼朝は院宣出す直前の8月くらいまで宥めようとしてた 北条氏が頼朝と義経の離間を図ったという説もあるらしい
義経(頼朝養子)←→頼家(北条外孫)
河越(義経姻族)←→畠山(北条姻族)
もっとも右側の頼家と畠山も北条によって倒されてしまうわけだが 曽我兄弟の事件では源範頼が伊豆の修善寺に幽閉されるという憂き目にあっている
牧氏事件を見る限り北条時政は強引な手段を執ろうとするからね 義経・行家・有綱ー西国武士ー後白河・反鎌倉派公家・寺社
こういう木曽義仲型「京都幕府」の出現を頼朝は恐れたのであろう 義経が頼朝養子って元木先生の説だけど
かりに生き延びてても平賀朝雅みたいに殺された可能性あるんだよね 源氏は殺し合う運命
北条家と懇意にしていた阿野全成は源頼家に殺されている 頼朝の基盤である東国武士団と源氏御門葉や義経や範頼のような宿老との間では深い溝があって、遠ざけられるだろう 北条平家が清盛の無念(頼朝の首を我が墓前に備えよ)のリベンジを果たしたという見方もできないか 武門平家は一門内内紛って保元の乱の忠正を除いて1回もない
清盛と頼盛とか色々危ない場面はあったけどすべて丸く抑えた
執権北条氏も二月騒動までは一門殺し合いはなかったような
河内源氏は義家のあたりから暇さえあれば互いに殺しあってる 叔父上も平気で殺しちゃうしな
義平→義賢
頼朝→義広、行家 とか そこら辺の因縁が義仲の頼朝に対する複雑な心境に繋がっているのかね 為義系源氏の殺し合い
−−保元の乱あたり−−
義平→義賢(叔父)
義朝→為義(父)、頼賢など(弟)
−−寿永治承あたり−−
義経→義仲(従兄)
頼朝→義高(甥)
頼朝→義広(叔父)
−−鎌倉政権下−−
頼朝→行家(叔父)光家(従弟)義経子(甥)義経(弟)範頼(弟)
頼家→全成(叔父)
参考・平家に殺された人々
・平治の乱 義朝、義平、朝長
・平家政権下 為朝
・源平合戦 仲家(義仲兄)、稀義(頼朝弟)、義円(義経兄)
同族の殺し合いの方が圧倒的に多い為義系である 義光は源義忠を暗殺した上に、義綱に濡れ衣を着せて殺しているね 平家も平将門の乱とかあったよ
平氏政権は実質清盛一代限りだったのであまりにも短いし 将門の乱は所領争いみたいな私闘が原因だけど、
河内源氏の争い(義家、義綱、義光、義親、義忠)
はそう言う単純なものではないからな
しかも義家の代から激化した >>613
そう考えると保元から壇ノ浦までの一連の戦いも、
単純に源平合戦っていう表現をするのは全く不適切な気がするぜよ・・ なにげに武田って立ち回りは良かったと思う 他の有力な亜流と違って滅ぼされることなく信玄まで続いたし 甲斐源氏は複数の分家で割れて、安田義定らと片や加賀美遠光らは対照的な運命を辿る
武田信義は何を思っていたんだろうな 信義は嫡男が理不尽なころされかたしてるから無念でたまらんだろうな >>621
しかし、次代の勝頼で滅亡・・
信玄は最後に咲いたでっかい徒花だった・・・ 武田信義は鶴岡八幡宮にて誓約までさせられたんだっけ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
BPH 範頼の顛末を見る限り、義経も仮に恭順していてもいずれは失脚したでしょう
関東の武士団とは折り合いが悪そうだし 河越重頼の妻って比企尼の娘なんだよね
頼朝にとっては結構な身内で大事にしてたようだから、
義経がおとなしくしてれば何とかなったのでは 源氏門葉平賀氏って優遇されてるのにはどんな理由があるの?
その割にマイナー 平賀義信が義朝の八旗落ちに最後まで随行したんじゃなかったっけ
その義理だと思う 加賀美遠光が御門葉になったのは他の甲斐源氏に対するあてつけも兼ねていたのかと思ったけど、確執の生じた安田義定も御門葉なのか ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな 門葉自体は国元から離れずにあまり鎌倉の中枢には関わらなかったんだね 頼朝は情に厚い
梶原景時に対しても命の恩人として義理を感じていたのだろう
逆に父親を裏切って殺した長田忠致は恭順していても殺している 漫画家の手塚治虫って木曽義仲に仕えた手塚直光の末裔らしいな >>631
安田義資が越後守に推挙されているし延慶本平家物語によると一条忠頼誅殺の直後に武田信義謀反の疑いで甲斐に侵攻したりしてるし元々は安田氏と頼朝の関係は悪くなかったんじゃね 義経ってのは本当に頼朝と兄弟だったのかな?
ふと、思ったけど
なんか、行動が常にガツガツとしてて
もっとチンピラめいた感じがする。
(時によって、バックも転々としてる感じが在って。
ともかく多方面にコネを作ろうと、色んなヤクザ組に
入っては出るを繰り返すチンピラ感というか)
頭数が必要だったんで、
出所もわからない野党ととか盗賊とか
アウトローのリーダーも仲間に加えたけど
建て前として、源氏って事にして
九男坊ぐらいならいいかと
頼朝の兄弟って設定にしちゃってたりして?
だけど、命令ろくに聞かないわ、単独で勝手に動くわ
「やっぱ、やべぇわ…こいつ」と思ったんじゃないかと 源義経は平家一門を容赦なく滅ぼした後、家臣たちと
いっしょに、入水自殺に失敗した建礼門院徳子や平家方
の若い女房たちをレイプしたんだよな。義仲の家臣たち
も京で同じことをやってるか。高貴な女性とのセックスは
気持ちよかったか?この下衆な賊どもめ。 源義経の最期を見て主君の劉邦のために項羽倒しに
尽くしたのに、項羽が死んだ後謀反の疑いをかけられ
領地を減らされ最期は謀反を起こそうして失敗し処刑
された韓信の姿が思い浮かぶ。 >>641
義定と信義双方同時に敵に回したら敵わないから片方ずつというのは一つの考え方のような気もするが
その一方で甲斐源氏は軍事的には頼朝の主力部隊だしある程度政権が確立するまでは必要だったしな
甲斐源氏棟梁の信義に比べて傍流の義定の方がコントロールがしやすかったのかもしれない
ただ頼朝に次ぐ有力者にまでなってしまったのがよくない
義定は人が良いというか政治的な部分では無防備というか鈍感だったんだろう
そこが義定の魅力でもあるんだが 義仲ってあの時代の源氏で唯一血縁の団結を重んじた情に熱い男だと思ってる 畠山重忠の子孫って東北各地に多い。東北各地の重忠の子孫は様々な系譜を持っている。重忠の子の浄法寺重慶の子孫や、浄法寺氏とは別系統の豊島重村などがいる。東北には重忠の舎弟の畠山六郎重宗もいるが、重宗は越後国に移住して戦国時代には本庄繁長を輩出している。 宮城の気仙沼にも畠山氏がいる。気仙沼は鎌倉御家人の子孫が北条氏から追われて逃げて来た人らが多い地域だ。
梶原景時の本家子孫も気仙沼の早馬神社という神主となってこの地域にいる。庶流はこの神主家から全国各地に行き武将化していった。
この梶原氏の集落の隣の集落に、鎌倉御家人の畠山氏の子孫の集落がある。 仙台藩士に気仙沼の畠山氏がいる。俺の先祖の事なんだけど、畠山庄司次郎平朝臣重忠の子孫と言われている。
幕末期には畠山治右衛門の子の畠山随安と、畠山随安の子の畠山淳吉と、畠山随安の養子の畠山忠一がいる。
畠山忠一(維新後士族)は畠山随安の養子となり後に気仙沼市の助役となる。畠山淳吉(維新後士族)は陶芸家を目指して家を出る。
東北では古い伝統を持つ相馬焼の技法を学び、子孫は福島の相馬に移る。戸籍上は畠山淳吉(ジュンキチ)ではなく畠山住吉(ジュウキチ)となった。 そのあたりに重忠と双璧の日本一の勇士、直実の子孫居なかった?
三陸は熊谷姓が多い 頼朝や義仲が打倒平家の旗頭になれて新田義重や武田信義がなれなかった
その違いは結局一度でも平家の家人になったかどうかではないか スウィフトの小説 「ガリバー旅行記」に日本の御伽草子が影響か
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191107-00000080-kyodonews-cul
https://lpt.c.yimg.jp/im_siggC_RJGkvksJmOdw1GsSBJ2A---x900-y648-q90-exp3h-pril/amd/20191107-00000080-kyodonews-000-view.jpg
「ガリバー旅行記」と、日本の「御曹司島渡」「蓬莱山」との共通点を示す説が発表される。
具体的な作品を挙げて類似性を指摘する発表は初めてで、慶応大の石川教授と
原田範行教授が新説を導いた。
「御曹司島渡」は源義経が兵法書を求めてさまざまな島を訪れる物語。
小人の島、巨人の島、馬人の島は旅行記と共通する。「蓬莱山」の絵巻には、
空中に浮かぶような島や宮殿が表現されている。 あの時代の木曽の人間は毎日の夕食は何を食べてたんだろう 当時の山人は獣肉を殺してガンガン食いまくってたから丈夫だったような。
江戸時代は全国一斉に肉食禁止令が出されたが >>662
なるほどね〜
1000年前の木曽の生活に興味が尽きない
街はあったのか、飯は、恋愛は
知りたいけど適当な本もない 平安時代あたりの木曽の生活は弥生時代あたりと本当に変わらないと思うよ。 また3人とも大河ドラマに出れるな!
とくに畠山重忠は北条時政、義時の親子とは仇敵だから入念に放送される _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
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了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ ^ ,,, ^ヽ 〜
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平敦盛 源義経
今日けふは九郎大夫判官義経、先陣に供奉ぐぶす。これは木曽などには似ず、
もつてのほかに京慣れたりしかども、平家の中の選えり屑よりもなほ劣れり。
面長くして身短く、色白くして、歯出たり
平家物語より 桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー平高望ー平良文ー平忠頼ー平将恒ー平武基ー平武綱ー秩父重綱ー秩父重弘ー畠山重能ー畠山重忠 畠山重忠は平家の一門であるため源平合戦当初は、頼朝方だったあの三浦義明を討ちとる
義経の逆落としの一ノ谷の戦いで、馬を背負って断崖絶壁を下る
武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称され
藤原氏は滅びた。
奥州合戦の戦後処理で梶原景時が泰衡の郎党の由利八郎を取り調べたが、景時が傲慢不遜な態度であったために八郎は頑としてこれに応じなかった
頼朝は重忠に取り調べに当たるよう命じ、重忠は礼を尽くして接し、これに感じ入った八郎は取り調べに素直に応じ、「先ほどの男(景時)とは雲泥の違いである」と言った 頼朝が上洛した際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした
『愚管抄』によると、重忠はどんなに暑い時でも、傍らの者があぐらを組むことができないほど謹直な人物であったと評されている 身内内ゲバ好きの河内源氏の中で唯一使えない叔父を見捨てずに子供を人質に出してまで協力路線を取りつつ守った義仲はある意味いいやつだったのかもしれない >>681
>平家の一門
ではないだろう 平氏で平家方ではあるけど、平家が坂東平氏を一門扱いはしないはず
父の畠山重能は義朝方について、義仲の父である義賢を討っている
この時に幼少だった義仲を逃がすのに手を貸したとか(このスレっぽい)
とはいっても保元の乱はともかく、平治の乱では平家方につく 義仲はなぜ行家を「叔父上」と呼んでいるのでしょうか?
義高も義経を「叔父上」と呼んでるのはなぜでしょうか? 源頼朝の先随兵の先頭から
畠山重忠
千葉胤正
三浦義澄
佐貫広綱
葛西清重
八田朝重
榛谷重朝
加藤景廉
安達盛長
大井実春
山名重国
武田信光
北条義時
小山朝政
小山宗政
佐々木高綱 >>686
行家は義仲の親父の弟だから叔父で間違いないだろ 一方義高にとって義経は父の兄弟ではなく「イトコ」だから叔父とはちょっと違う。
まぁ父とは同じ一族だし同世代だから広義の意味で叔父でもいいんじゃね。 義高は頼朝の娘大姫と夫婦になることになっていたから、
頼朝は義父、となれば義経も義理の叔父ということになるな。 義仲って、育ての親の中原兼遠をなんて呼んでたんだろう
「親父殿」とか敬語とか使ってたのかな >>706
育ての父親でも「父上」って呼ぶもんかね >>700
兼遠は義仲の乳父だし義仲の親父ではないだろ
兼遠の娘が義仲の妻になっているから舅ではあるが >>711
いやそんなのは百も承知なんだけどさ
小さい時からなんて呼んでたのかなと
まさか「兼遠!」って呼び捨てしてたわけでもないだろうし 義経って軍事の凡才なんだよね
過大評価されてただけだよね
司馬遼太郎の所為?
一の谷の功績もないし
屋久島も範頼が知盛を引き付けたからだし
壇ノ浦も数的優位と彦島が死に体になってただけじゃんね >>713
乳母のことを「お袋様」と呼んだりしないように
乳父のことも「親父殿」なんて呼ばないだろうに >>714
対義仲…大多数による数の暴力で囲んだだけ
一ノ谷…後白河法皇の謀略で武装解除して安心し切ってた平家を不意打ちしただけ しかも海に逃げられるという凡ミス
屋島…敵の罠に自ら嵐の中を飛び込み危ないところで勝手に宗盛が逃亡しただけ 知盛が総大将だったら負けてた
壇ノ浦…海上生活で弓矢含めた物資も少ないところに相次ぐ裏切りが重なった上での数の暴力 初めから勝敗が見えてたのに安徳天皇と三種の神器を奪還できない
ただ突っ込んだだけのマグレ勝ちとも見える >>716
そうじゃなくて自分の家臣筋である乳父に
敬称である「殿」は付けんだろ >>718
育ての「親」を呼び捨てするかというとそれも微妙じゃないの >>719
どうも話が通じない奴だが義仲は中原兼遠の養子ではなく兼遠は家来で乳父だぞ
兼遠の息子たちは義仲が挙兵するとその家来として出陣している
源頼家が家来で乳父の比企能員を「親父殿」呼びしたらおかしいだろうに まぁ木曽で物心ついて、ある程度成長して自分の素性を知らされるまでは普通に「父上」と呼んでたんじゃないの?
その後の事はともかくさ。 新平家物語では「中三殿」呼びだったな
義仲これにありでは「親父殿」「義父殿」 >>714
凡才かどうかは別として、義経はその時代における常識や教養が低かったから、既成概念にとらわれなかった。
だからこそ、当時の武将から見ればルール違反と思われる行為が普通にできたから名将となったんだと思う。
同じ事は信長にも言える。 ただあまりにやり方が型破り過ぎた事が自身の首を絞めたとも言える訳だが。
義経が頼朝から離反した時、義経は『頼朝に不満のある者はついて来い』と言ったが、
義経につく者はほとんどいなかったのを見ても彼が多くの武士達からは支持されていなかった事を示している。
あの当時の戦ってのはただ勝てばいいのではなく、「勝ち方」も重要な要素だった。
特に壇ノ浦で船の漕ぎ手を狙わせたのは、当時の戦のルールからすれば到底容認し難いものだし。 産湯相承事 日興之を記す
御名乗りの事、始めは是生・実名は蓮長と申し奉る・後には日蓮と御名乗り有る御事は悲母梅菊女童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御座す云云 日女御前御返事
例せば畠山重忠は日本第一の大力の大将なりしかども多勢には終にほろびぬ。 巴御前のパワフルでありながら巧みで繊細なフェラチオくらいてえ(ライン工:46) >>724
頼朝の恩賞政策が破綻しての義経造反じゃないから、他の武士集団が離反する理由がないよね。 木曽義仲のキチガイぶりに比べると源義経は幾分かまとも そもそも神輿としての価値が頼朝と義経では雲泥の差。
尊氏と義貞、家康と三成を比較してそれぞれ後者を二流以下呼ばわりする傾向があるけど、
ナンバーワンに勝てなかったからって二流ってことはないんだわ。
むしろ大差があるのに互角に戦えるほど頑張ったとみるべきだろ。 >>730
史実では義仲はかなりまともだし、戦も義経より上手い それでも京都では軍をまとめることもできず西国では大敗し
挙句の果てに義経に倒されてしまうけどな
義経は色々といわれるけど京都の治安維持において一流の統率力を発揮してるんだよね 鎌倉の影響があっても義経自身の才能がなければ何もできないんだが
義経がいなければ頼朝だって鎌倉政権を樹立するのは難しかったんだぜ 鎌倉側が義経をそこまで嫌っていたら義経は京都の治安維持どころか更迭されるか殺されるかだろ
そこまで破綻しなかったってことは頼朝は義経を信頼していたし義経も決して嫌われていなかったということ
破綻した後に挙兵した義経に軍が集まらんのは人望や能力で頼朝に劣るだけで
決して最低最悪の武将だったからではない
もし「頼朝に負けた義経は三流以下」という論が成り立つなら
「ヤクルトに負けたオリックスは史上最低の球団」も成り立つのである 義経は史上最強の戦術家という称号を手に入れたが
義仲はドキュンすぎてな 木曽義仲は露払いの人だろ?
それ以外の何物でもない 清盛は前政権なんだから戦国でいえば足利氏でしょ
清盛→義仲→頼朝→義時
足利→信長→秀吉→家康 信長が好きな奴って、三国志では曹操で源平では清盛にしたがるけど、
信長自体は源平合戦時代の義仲よりも劣る人物なんだよね。 その鎌倉の信任を得ていた義経は破局するまでは有能な武将ってこと のちに天下を治めることとなる北条義時も鎌倉あっての人だから義経同様に無能ってことでいい? 義仲が嫡男を鎌倉に差し出したあと鎌倉の影響下にあったら名将ってことですね チーム鎌倉は頼朝の指揮のもとに全員が力を発揮してこそなんだから、
義経に限らず誰でも鎌倉の影響下になかったら無能に決まってる。
その頼朝だって義経などが協力しなかったら無能なんだし。 そりゃ頼朝は西郷みたいにカリスマとしての象徴だから 西郷なくして討幕は無理だった
頼朝なくして平家打倒は無理だった シバリョーは読まないほうがいい
義経アゲはともかくあいつの書くことは史実の捏造に他ならない 「役不足」を誤用している人間が多いので、別の言葉で言い直してくれない? 源義経ほど大将にふさわしすぎる武将もいないよ
まず名前からして超別格 「梶原では役不足」っていうと「梶原は義経ごときを相手にするような小物ではない」って意味になるからね
間違わないように 梶原景時は副将にもなれんよ
あれは監視員の政治将校みたいなもん 由利八郎が梶原景時の調べを拒否したのに畠山重忠の調べだけは容認したらしい
武士の鑑である 梶原抜きで屋島から平家を追い払い日和っていた豪族衆が源氏につく要因を作ったのが義経だからね 義経ほどスーパーヒーローにふさわしい日本人もいないよ 殿上人にとって庶民は踏んじゃいけない道端の糞
武士にとってはいつ屠ってもいい畜生
検非違使時代の義経はエタ非人にまで情けをかけ、賊達からも慕われてたという
絶対的血カーストな時代に奥州人の佐藤兄弟を従え、家人も武士に拘らずバラエティー豊か
義経伝説は人は皆同じと言ってる 義経と佐藤の姓が東日本で突出して最多なのと無関係ではないよね 義平 1141~1160 六位左衛門少尉
朝長 1143~1160 従五位下中宮大夫
頼朝 1147~1199 正二位右近衛大将
義門 不明 ~不明 従六位下宮内丞
希義 1152~1180 無官
範頼 1150~1193 従五位下三河守
全成 1153~1203
義円 1155~1181
義経 1159~1189 従五位下伊予守 うちのご先祖は畠山重忠の郎党だったけど個人的には木曽義仲が日本史で一番好き >>786
河内源氏で唯一身内愛に溢れる男らしい人って感じ 木曾義仲、7歳でオオカミ退治、とは凄い武勇だな
木曾義仲の興亡と越中国の伝説
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≫ ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています