木曽義仲と源義経と畠山重忠 [無断転載禁止]©2ch.net
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頼朝や義仲が打倒平家の旗頭になれて新田義重や武田信義がなれなかった
その違いは結局一度でも平家の家人になったかどうかではないか スウィフトの小説 「ガリバー旅行記」に日本の御伽草子が影響か
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191107-00000080-kyodonews-cul
https://lpt.c.yimg.jp/im_siggC_RJGkvksJmOdw1GsSBJ2A---x900-y648-q90-exp3h-pril/amd/20191107-00000080-kyodonews-000-view.jpg
「ガリバー旅行記」と、日本の「御曹司島渡」「蓬莱山」との共通点を示す説が発表される。
具体的な作品を挙げて類似性を指摘する発表は初めてで、慶応大の石川教授と
原田範行教授が新説を導いた。
「御曹司島渡」は源義経が兵法書を求めてさまざまな島を訪れる物語。
小人の島、巨人の島、馬人の島は旅行記と共通する。「蓬莱山」の絵巻には、
空中に浮かぶような島や宮殿が表現されている。 あの時代の木曽の人間は毎日の夕食は何を食べてたんだろう 当時の山人は獣肉を殺してガンガン食いまくってたから丈夫だったような。
江戸時代は全国一斉に肉食禁止令が出されたが >>662
なるほどね〜
1000年前の木曽の生活に興味が尽きない
街はあったのか、飯は、恋愛は
知りたいけど適当な本もない 平安時代あたりの木曽の生活は弥生時代あたりと本当に変わらないと思うよ。 また3人とも大河ドラマに出れるな!
とくに畠山重忠は北条時政、義時の親子とは仇敵だから入念に放送される _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
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平敦盛 源義経
今日けふは九郎大夫判官義経、先陣に供奉ぐぶす。これは木曽などには似ず、
もつてのほかに京慣れたりしかども、平家の中の選えり屑よりもなほ劣れり。
面長くして身短く、色白くして、歯出たり
平家物語より 桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー平高望ー平良文ー平忠頼ー平将恒ー平武基ー平武綱ー秩父重綱ー秩父重弘ー畠山重能ー畠山重忠 畠山重忠は平家の一門であるため源平合戦当初は、頼朝方だったあの三浦義明を討ちとる
義経の逆落としの一ノ谷の戦いで、馬を背負って断崖絶壁を下る
武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称され
藤原氏は滅びた。
奥州合戦の戦後処理で梶原景時が泰衡の郎党の由利八郎を取り調べたが、景時が傲慢不遜な態度であったために八郎は頑としてこれに応じなかった
頼朝は重忠に取り調べに当たるよう命じ、重忠は礼を尽くして接し、これに感じ入った八郎は取り調べに素直に応じ、「先ほどの男(景時)とは雲泥の違いである」と言った 頼朝が上洛した際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした
『愚管抄』によると、重忠はどんなに暑い時でも、傍らの者があぐらを組むことができないほど謹直な人物であったと評されている 身内内ゲバ好きの河内源氏の中で唯一使えない叔父を見捨てずに子供を人質に出してまで協力路線を取りつつ守った義仲はある意味いいやつだったのかもしれない >>681
>平家の一門
ではないだろう 平氏で平家方ではあるけど、平家が坂東平氏を一門扱いはしないはず
父の畠山重能は義朝方について、義仲の父である義賢を討っている
この時に幼少だった義仲を逃がすのに手を貸したとか(このスレっぽい)
とはいっても保元の乱はともかく、平治の乱では平家方につく 義仲はなぜ行家を「叔父上」と呼んでいるのでしょうか?
義高も義経を「叔父上」と呼んでるのはなぜでしょうか? 源頼朝の先随兵の先頭から
畠山重忠
千葉胤正
三浦義澄
佐貫広綱
葛西清重
八田朝重
榛谷重朝
加藤景廉
安達盛長
大井実春
山名重国
武田信光
北条義時
小山朝政
小山宗政
佐々木高綱 >>686
行家は義仲の親父の弟だから叔父で間違いないだろ 一方義高にとって義経は父の兄弟ではなく「イトコ」だから叔父とはちょっと違う。
まぁ父とは同じ一族だし同世代だから広義の意味で叔父でもいいんじゃね。 義高は頼朝の娘大姫と夫婦になることになっていたから、
頼朝は義父、となれば義経も義理の叔父ということになるな。 義仲って、育ての親の中原兼遠をなんて呼んでたんだろう
「親父殿」とか敬語とか使ってたのかな >>706
育ての父親でも「父上」って呼ぶもんかね >>700
兼遠は義仲の乳父だし義仲の親父ではないだろ
兼遠の娘が義仲の妻になっているから舅ではあるが >>711
いやそんなのは百も承知なんだけどさ
小さい時からなんて呼んでたのかなと
まさか「兼遠!」って呼び捨てしてたわけでもないだろうし 義経って軍事の凡才なんだよね
過大評価されてただけだよね
司馬遼太郎の所為?
一の谷の功績もないし
屋久島も範頼が知盛を引き付けたからだし
壇ノ浦も数的優位と彦島が死に体になってただけじゃんね >>713
乳母のことを「お袋様」と呼んだりしないように
乳父のことも「親父殿」なんて呼ばないだろうに >>714
対義仲…大多数による数の暴力で囲んだだけ
一ノ谷…後白河法皇の謀略で武装解除して安心し切ってた平家を不意打ちしただけ しかも海に逃げられるという凡ミス
屋島…敵の罠に自ら嵐の中を飛び込み危ないところで勝手に宗盛が逃亡しただけ 知盛が総大将だったら負けてた
壇ノ浦…海上生活で弓矢含めた物資も少ないところに相次ぐ裏切りが重なった上での数の暴力 初めから勝敗が見えてたのに安徳天皇と三種の神器を奪還できない
ただ突っ込んだだけのマグレ勝ちとも見える >>716
そうじゃなくて自分の家臣筋である乳父に
敬称である「殿」は付けんだろ >>718
育ての「親」を呼び捨てするかというとそれも微妙じゃないの >>719
どうも話が通じない奴だが義仲は中原兼遠の養子ではなく兼遠は家来で乳父だぞ
兼遠の息子たちは義仲が挙兵するとその家来として出陣している
源頼家が家来で乳父の比企能員を「親父殿」呼びしたらおかしいだろうに まぁ木曽で物心ついて、ある程度成長して自分の素性を知らされるまでは普通に「父上」と呼んでたんじゃないの?
その後の事はともかくさ。 新平家物語では「中三殿」呼びだったな
義仲これにありでは「親父殿」「義父殿」 >>714
凡才かどうかは別として、義経はその時代における常識や教養が低かったから、既成概念にとらわれなかった。
だからこそ、当時の武将から見ればルール違反と思われる行為が普通にできたから名将となったんだと思う。
同じ事は信長にも言える。 ただあまりにやり方が型破り過ぎた事が自身の首を絞めたとも言える訳だが。
義経が頼朝から離反した時、義経は『頼朝に不満のある者はついて来い』と言ったが、
義経につく者はほとんどいなかったのを見ても彼が多くの武士達からは支持されていなかった事を示している。
あの当時の戦ってのはただ勝てばいいのではなく、「勝ち方」も重要な要素だった。
特に壇ノ浦で船の漕ぎ手を狙わせたのは、当時の戦のルールからすれば到底容認し難いものだし。 産湯相承事 日興之を記す
御名乗りの事、始めは是生・実名は蓮長と申し奉る・後には日蓮と御名乗り有る御事は悲母梅菊女童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御座す云云 日女御前御返事
例せば畠山重忠は日本第一の大力の大将なりしかども多勢には終にほろびぬ。 巴御前のパワフルでありながら巧みで繊細なフェラチオくらいてえ(ライン工:46) >>724
頼朝の恩賞政策が破綻しての義経造反じゃないから、他の武士集団が離反する理由がないよね。 木曽義仲のキチガイぶりに比べると源義経は幾分かまとも そもそも神輿としての価値が頼朝と義経では雲泥の差。
尊氏と義貞、家康と三成を比較してそれぞれ後者を二流以下呼ばわりする傾向があるけど、
ナンバーワンに勝てなかったからって二流ってことはないんだわ。
むしろ大差があるのに互角に戦えるほど頑張ったとみるべきだろ。 >>730
史実では義仲はかなりまともだし、戦も義経より上手い それでも京都では軍をまとめることもできず西国では大敗し
挙句の果てに義経に倒されてしまうけどな
義経は色々といわれるけど京都の治安維持において一流の統率力を発揮してるんだよね 鎌倉の影響があっても義経自身の才能がなければ何もできないんだが
義経がいなければ頼朝だって鎌倉政権を樹立するのは難しかったんだぜ 鎌倉側が義経をそこまで嫌っていたら義経は京都の治安維持どころか更迭されるか殺されるかだろ
そこまで破綻しなかったってことは頼朝は義経を信頼していたし義経も決して嫌われていなかったということ
破綻した後に挙兵した義経に軍が集まらんのは人望や能力で頼朝に劣るだけで
決して最低最悪の武将だったからではない
もし「頼朝に負けた義経は三流以下」という論が成り立つなら
「ヤクルトに負けたオリックスは史上最低の球団」も成り立つのである 義経は史上最強の戦術家という称号を手に入れたが
義仲はドキュンすぎてな 木曽義仲は露払いの人だろ?
それ以外の何物でもない 清盛は前政権なんだから戦国でいえば足利氏でしょ
清盛→義仲→頼朝→義時
足利→信長→秀吉→家康 信長が好きな奴って、三国志では曹操で源平では清盛にしたがるけど、
信長自体は源平合戦時代の義仲よりも劣る人物なんだよね。 その鎌倉の信任を得ていた義経は破局するまでは有能な武将ってこと のちに天下を治めることとなる北条義時も鎌倉あっての人だから義経同様に無能ってことでいい? 義仲が嫡男を鎌倉に差し出したあと鎌倉の影響下にあったら名将ってことですね チーム鎌倉は頼朝の指揮のもとに全員が力を発揮してこそなんだから、
義経に限らず誰でも鎌倉の影響下になかったら無能に決まってる。
その頼朝だって義経などが協力しなかったら無能なんだし。 そりゃ頼朝は西郷みたいにカリスマとしての象徴だから 西郷なくして討幕は無理だった
頼朝なくして平家打倒は無理だった シバリョーは読まないほうがいい
義経アゲはともかくあいつの書くことは史実の捏造に他ならない 「役不足」を誤用している人間が多いので、別の言葉で言い直してくれない? 源義経ほど大将にふさわしすぎる武将もいないよ
まず名前からして超別格 「梶原では役不足」っていうと「梶原は義経ごときを相手にするような小物ではない」って意味になるからね
間違わないように 梶原景時は副将にもなれんよ
あれは監視員の政治将校みたいなもん 由利八郎が梶原景時の調べを拒否したのに畠山重忠の調べだけは容認したらしい
武士の鑑である 梶原抜きで屋島から平家を追い払い日和っていた豪族衆が源氏につく要因を作ったのが義経だからね 義経ほどスーパーヒーローにふさわしい日本人もいないよ 殿上人にとって庶民は踏んじゃいけない道端の糞
武士にとってはいつ屠ってもいい畜生
検非違使時代の義経はエタ非人にまで情けをかけ、賊達からも慕われてたという
絶対的血カーストな時代に奥州人の佐藤兄弟を従え、家人も武士に拘らずバラエティー豊か
義経伝説は人は皆同じと言ってる 義経と佐藤の姓が東日本で突出して最多なのと無関係ではないよね 義平 1141~1160 六位左衛門少尉
朝長 1143~1160 従五位下中宮大夫
頼朝 1147~1199 正二位右近衛大将
義門 不明 ~不明 従六位下宮内丞
希義 1152~1180 無官
範頼 1150~1193 従五位下三河守
全成 1153~1203
義円 1155~1181
義経 1159~1189 従五位下伊予守 うちのご先祖は畠山重忠の郎党だったけど個人的には木曽義仲が日本史で一番好き >>786
河内源氏で唯一身内愛に溢れる男らしい人って感じ 木曾義仲、7歳でオオカミ退治、とは凄い武勇だな
木曾義仲の興亡と越中国の伝説
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≫ ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています