【間宮林蔵】日本の探検家たちについて【伊能忠敬】 [無断転載禁止]©2ch.net
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目測かな
ある地点から岬の突端が見える角度を計測し
また別の地点から同じように角度を計測し
それによって距離がわかる とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
Z2L 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 戦国時代、越前を治めていた戦国武将・佐々成政は雪の北アルプスを越え、黒部峡谷を渡り、遠州浜松まで出向いて
徳川家康に同盟交渉をしたという。
俗に「サラサラ越え」と呼ばれるこの山越えは
常願寺川→立山温泉→ザラ峠→中ノ谷→刈安峠→黒部川の平→針ノ木谷→針ノ木峠→籠川谷のルートを使ったというが、
当時の装備で可能なのか?
当時は寒冷地仕様のシュラフもテントもない、防寒衣もない、バーナーもない
カロリーメイトもフリーズドライ食品もない…
ないない尽くしじゃん
おまけに雪の北アルプスといえば積雪量は10m越え… そりゃまたロマンあふれる話だな
探検というよりも大冒険と呼ぶにふさわしいエピソードだ 1億人の大質問!!?笑ってコラえて!2時間SP☆4 大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。
天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。
幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。 伊能 忠敬(1745年2月11日- 1818年5月17日)。1800年から1816年まで、17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成。 高田屋 嘉兵衛(1769年2月7日- 1827年4月30日)。 近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。 間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。名は倫宗(ともむね)。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番を務めた役人であった。生年は安永4年(1775年)とも[1]。
生誕
安永9年(1780年)
死没
天保15年2月26日(1844年4月13日) 松田 伝十郎(まつだ でんじゅうろう)は、江戸時代中期から後期にかけての幕臣・探検家。諱は元敬。幼名は幸太郎。のち仁三郎。間宮林蔵と樺太を踏査し、樺太見聞の実測図を作成した。
生誕
明和6年(1769年)
死没
天保13年(1842年) 最上 徳内(もがみ とくない)は、江戸時代中期から後期にかけての探検家・江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。生年は宝暦5年(1755年)とも[1]。
生誕
宝暦4年(1754年)
死没
天保7年9月5日(1836年10月14日) 松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日〈1818年3月12日〉 - 明治21年〈1888年〉2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家、好古家。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。 伊能忠敬がちょっと誤魔化して日本地図を2倍くらいの面積にしておけばよかったのに >>38
2019.7全国放送され2020.2再放送されたNHK札幌局制作
「永遠のニシパ 〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜」
ですね。「北海道命名150年」記念って北海道では
記念行事が諸々あったのかな?
2019年上期朝ドラ「なつぞら」にも広瀬すず演じる
アイヌ少女が登場したがこれも150年記念だったのか? >>49
国後島・択捉島商いをした箱館の廻船商人高田屋嘉兵衛が探検家に列せられるなら
同時代に松前藩の命により樺太に進出した石狩場所等の請負豪商で能登国
安部屋村出身の阿部屋伝兵衛3代目も樺太探検家に挙げてよいのかな? >>60
”Page Not Found”ですね。
引用ページの日本語名をお教え願えませんか。
財界札幌ONLINE〇〇〇? >>61
北海道開拓の先覚者達(23)〜村山伝兵衛〜 >>62
ありがとうございます。
Google経由で以下ページ表示に成功しました。
初代伝兵衛は18歳で松前に移住し阿部屋(あぶや)の称号で回漕業を営み、事業を
順調に拡大。1750〜53年には宗谷・留萌の2場所を請負うまでに成ったんですね。
財界札幌 北海道開拓の先覚者達(23)〜村山伝兵衛〜 2014年05月01日
https://www.zaikaisapporo.co.jp/blog/北海道開拓の先覚者達(23)〜村山伝兵衛〜 松前藩は樺太にも運上屋を設けていたと思うけど、なんか資料ありませんか? >>64
アニワ湾にあったよ
数人のロシア人に蹂躙されたけどな 徳川幕府とロシアでは、ロシアが軍事力で圧倒してたけど、樺太には松前藩以来の日本側が開発した権益もあったから、日露和親条約では、樺太は一方的にロシアのものとはならず、雑居地としたらしい。 >>12
天明5年(1785年)の幕府普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎らの
樺太や国後島上陸を果たし『蝦夷拾遺』を著した蝦夷地調査隊は
幕府要路老中田沼意次か老中格本多忠籌の命だったのでは? 間宮林蔵、近藤重蔵、松田伝十郎、最上徳内あたりの歴史ドラマてないと思うんでやって欲しいな >>68
天明5年の蝦夷地調査隊参加者は以下11名の諸氏でよいのかな?
青島俊蔵
山口鉄五郎
菴原弥六
佐藤玄六郎
皆川沖右衛門
里見平蔵、
引佐新兵衛、
大塚小一郎、
大石逸平、
鈴木清七、
最上徳内、 >>67
寛政4年(1792)9月の露西亜使節ラックスマンの大黒屋光太夫同伴
根室来航に伴い、幕命により翌寛政5年2月に蝦夷地に
派兵され後年『蝦夷地御用留』(1799年)を遺した南部藩380名も
広い意味では探検団に含めてよいのか?
何故に南部藩指名で渡海380名の指揮官は、誰々だったのだろう?
南部家の北方警衛 1 幕府蝦夷地直轄始動 1 拠南部家『蝦夷地御用留』
ttps://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/index.cgi?cat=komonjo&mode=details&code_no=1320 のちにロシアに拿捕された砲術師の大村治五平もその中の一人なのかな 江戸時代に船が流されカムチャツカに行った日本人船乗りが千島列島沿いに南下して帰国したらしいが、
人間の生きる力って凄いなと感動した。
まあ、これは探検ではなく冒険だね。 面白かったのは鳥島で20年も過ごして生きて帰ってきた遠州の船乗りだな。
無人島でこんなに長く生きていけるなんてすごい生命力だな。 >>53
最上徳内は著書「蝦夷草子」で以下を記述しているの?
195世界@名無史さん2020/06/24(水) 07:27:05.580
寛政年間(1790年代).北海道松前藩領のアイヌの状況を語った探検家最上もがみ徳内とくないの「蝦夷草子」に次の一節がある.
松前より西の方に,日本道風三十里ばかりにして,見市といふ村あり.此処に代々岩之助〔右は蝦夷にしてその名をイワンノシケと
言ふ.〕といふ百姓あり.平日は日本の野郎鬢なれども,冬になれば月代を剃り,蝦夷の体にかへて,正月七日に領主へ吉例に出る.
領主は書院の前庭に荒菰を敷てこれに居らせ,領主より濁酒を給はる也.これ蝦夷の遺風なり.
つまり百姓「岩之助」は,実はアイヌ人「イワンノシケ」であり,春から秋までは普通の和人の百姓として暮らしているが,冬場は
アイヌの姿に戻って様々な「蝦夷の遺風」を行っていた,というのである・・・・・・・
アイヌの歴史 Part2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1590147950/195- >>75
18世紀後葉に津軽地方に行き「西遊記」、「東遊記」を
著した京都の医師橘南谿は探検家でよいかな? 津軽だと異郷とはいいがたいから、探検冒険というよりは旅行者、かな。
西行とか松尾芭蕉とかと同じ系譜。 >>80
>津軽だと異郷とはいいがたい・・・・・・・
おいおい、それは現代の区分けだろ。現代の視野を
適用するなよ。
18世紀の津軽地方は同化以前の蝦夷聚落のある
異郷・異文化地域。 >>82
いくら異郷人が多くてもいつ殺されてもおかしくない樺太みたいに異国とは違う 吉村昭「北天の星」の主人公、中川五郎治も面白い。
これも探検ではなく冒険だけどね。 >>83
間宮林蔵は樺太から海峡渡ってアムール川下流のデレンという町まで行ってるから、これこそ冒険じゃない? なんか話がかみ合ってねえな
「冒険もしくは探検ではない」というのは津軽に行った橘南谿の話だろ >>80
横道だが、探検・冒険・旅行はどのように
異なるの?英語だと更に下記種々の語があるが?
expedition exploration venture adventure
traveling journey trip tour excursion
蛇足だが近時世間で囃されている経産省語 "Go to travel"は
誤用英語らしい。 探検冒険を特集した本にその区別が書いてあったな
冒険は「危険を冒す」だから別に辺境の地に行くことだけとは限らない
会社辞めて事業を始めるのもまた冒険というわけだ
探検は「調べる」の意味が強いのだそうです
だから異郷の地を調べに行くのが探検
もちろん危険を伴うので探検は冒険のジャンルの一つともいえる
冒険の旅も探検もどこかに行くことだから抗議の意味でどちらも旅行に含まれるってことになるだろうね なるほど、旅行代理店で宿泊や乗り物のチケット受け取って帰る時に「お気を付けて行ってらっしゃいませ」は旅行が冒険だからだな。
ちなみに今、東京へ行って接待を伴う飲食したら冒険だな。だけどキャンペーン対象外だってさ(笑)。 >>88
>異郷の地を調べに行くのが探検・・・・・・
異郷調査・探査・踏査が探険なんですね。
危険度の低いのが「探検」、高いのが「探険」でよいの? 伊能忠敬は、その意味だと、探検・冒険というイメージはないね。
かろうじて蝦夷地の山奥に行った時が探検と言えるかもしれない。
最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵の異国調査は探検であり冒険であった。 伊能忠敬も幕府の隠密じゃないかと命狙われたらしいけどね >>48 >>92
下総国佐原の商家の一介の隠居身分の伊能忠敬が
何故全国地図測量という大事業ができたのだろう?
各地特に外様藩地域では怪しまれて投獄事態も懸念
されただろうに。幕府発行の測量命令文書かなにか
携行していたのか?
地図がないと商業活動に支障があると思うんだが、
現在の国土地理院のような部門が江戸幕府には
なかったのか? >>48 >>92
下総国佐原の商家の一介の隠居身分の伊能忠敬が
何故全国地図測量という大事業ができたのだろう?
各地特に外様藩地域では怪しまれて投獄事態も懸念
されただろうに。幕府発行の測量命令文書かなにか
携行していたのか?
地図がないと商業活動に支障があると思うんだが、
現在の国土地理院のような部門が江戸幕府には
なかったのか? >>75
その江戸時代にカムチャツカ半島まで漂流帰還した
日本人船乗りって名は何でAD〇〇年頃の事なの? >>95
「継右衛門 カムチャツカ」で検索するとwikiはじめ興味深い記事がいくつか出てくるよ 色々みてたら村上貞助が出て来た。
ゴローニン受取に箱館入港したリコルドが通商交渉した際の日本側の通詞らしい。
村上貞助について詳しい方いらしたら教えてください。 少し後の時代になるけど銭谷五兵衛も詳しく知りたいな >>99
銭谷五兵衛を詳しく知りたいなら金沢市
金石本町大野湊の県立記念館がいいよ。
石川県銭屋五兵衛記念館
ttps://www.zenigo.jp/zenigo/ 日本の北方探検の歴史は、工藤平助の『赤蝦夷風説考』に反応した老中田沼意次らによる幕府の北方探検の歴史のようだ。
松前藩はそれ以前から樺太とかにも関わっていたはずだが、何故史実が出てこないのだろう。 >>100
サンクス
石川は俺のところからだと少し遠いなあw 平田内温泉の歴史は古く、松浦武四郎氏が書いた渡島日誌にも見市温泉と同様に平田内温泉の記述があるので、江戸時代には存在が知られていました。 >>98
村上貞助を研究した女性の発表を聞きに行ったことがあるけど、
貞助の翻訳はロシア側の原文とは相当違ったみたいだ。
誤訳というよりもロシア側の意図を残しつつ日本側の立場を守るもの。
頭がものすごくよかったんだろうね。 >>101 >>65
松前藩が樺太に拠点を設置していたというのは、
西暦〇〇年頃の話なの? https://nfu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=2623&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=4&block_id=73
ここに出てくるのも幕府が樺太を直轄にした1799年以降 >>101
幕末1865年に樺太に出向いた幕臣岡本堅輔・西村伝九郎も
探険家だったのか? >>101
幕末に樺太南部クシュンナイ(久春内)で漁業開拓を
目指した越後生まれの百姓松川弁之助は探険家だったの?
越後蒲原郡の庄屋だった松川弁之助が1850年代に蝦夷地に
渡海したのは時代の気分だったのか? >>106
>・・・・1799 年(寛政 11 年)、ロシ
>アの南下とこれに対する松前藩の防御策に
>危機を感じた幕府が東蝦夷地と樺太を上地
し直捌をすると、栖原家は用達に任命され・・・・
1809 年〜1869 年まで樺太を北蝦夷地と呼称・・・・
> 1799 年(寛政 11 年)、幕府は東蝦夷地
>と北蝦夷地を直轄し、8年後の 1807 年(文
>化4年)3月、松前・蝦夷地全島を直轄地に・・・・
江戸幕府が1799年に樺太を上地直轄地化し北蝦夷地と呼称したということは
江戸幕府は樺太も松前藩領即ち幕府管轄地域と認識していたわけか? >>23
幕府に命じられて文化5年(1807年)会津藩が1500名もの陣容で
樺太・宗谷・利尻島・松前に渡海しているんだね。擾乱があったのか?
樺太(からふと)の歴史は“無関心の歴史”ゴールデンカムイ舞台に刮目だ 2019/11/04
ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/11/04/113844/ >>106
> 1790 年(寛政2年)12 月4日から9日
>にかけて、徒党を組んだ江差村近在の百姓
>(漁民)「凡三千人」が、近年の松前近辺の
>不漁は蝦夷地における栖原家・阿部屋(村
>山伝兵衛)両請負人の大網使用と〆粕製造
>にあるとして、大網の使用禁止と両請負人
>の罷免を求めて、城下松前に強訴に及・・・・
18世紀後葉には阿部屋村山伝兵衛も松前藩の有力場所請負い
だったんだね。 >>87
目下経産省の唱道する "Go to travel"に
探検行も冒険行も該当しないのか?
地方の自動車教習所で行われる免許取得合宿参加は ”travel”に
該当して合宿費用に経産省から助成金が出るらしいのに。 >>100
その金沢市南隣の白山市でも11/29まで銭屋五兵衛遺品や北前船
関連展示が開かれています。
「北前船の遺産〜白山市に残る夢とロマン〜」
時期:2020/10/16(金) 〜 2020/11/29(日)
場所:白山市立博物館 (白山市西新町168)
「北前船コレクション展」
時期:2020/10/13(火) 〜 2020/11/29(日)
場所:石川ルーツ交流館 (白山市美川南町138) 伊能忠敬の日本地図は散逸し、2000年前後に発見されたものもある。気象庁の書庫で見つかったり、なぜかアメリカの図書館や美術館にも。
1850年台初め、アメリカ政府はオランダ政府に3万ドルを払って日本地図を入手。おそらくシ一ボルトが日本から持ち出した地図だろう。 近藤重蔵が今の北海道の平取のアイヌに義経像を贈った話について
近藤はアイヌのカムイを義経だと解釈して像を贈ったようだが、義経カムイ説って当時から流行ってたのか
近藤とアイヌと義経神社はなんか不思議な話だ そのへんはもしかすると「義経伝説と為朝伝説」(岩波新書)あたりが詳しいかも >>101
18世紀に『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助は本業は
医者だったらしいが、北方探検家でもあったのかな? >>85
1/23(土) TV『世界ふしぎ発見!』でシーボルト追放事件の
契機は江戸幕府天文方高橋景保を介してシーボルトから届いた
手紙を間宮林蔵を禁令違反として封も切らず上司に届け出たからと
伝えていた。
仲介した高橋景保は逮捕・獄死と非業の死を遂げるわけだが
間宮林蔵は手紙の授受を杓子定規に禁令違反と届け出ると
高橋景保の身に危害が及ぶ事態を想起できぬ短慮者だったのか?
『世界ふしぎ発見!』 「今、解き明かされる!シーボルト事件の謎!!」
TBS 2021/01/23(土) 21:00 - 21:54 竹内海南江 >>121
2/8夜BSで間宮林蔵が紹介された
『にっぽん!歴史鑑定』 「不屈の探検家!間宮林蔵〜世紀の大発見の軌跡」
BS-TBS 2021/02/08(月) 22:00 - スレタイ副題間宮林蔵に代表される江戸時代の北方探検家の
話題ばかりなんだが、例えば『チベット旅行記』を著した明治期の
河口慧海や2021年BS再放送中の1978年NHK大河『黄金の日日』主人公
呂宋助左衛門などに何故誰も関心を持たぬのかな? 呂宋助左衛門って、堺豪商の息子が航海で難破してルソン島にたどり着いて、って話だったっけ?
商人だしな。 アーリーリタイア後のライフワークとして伊能忠敬の生き方に憧れる、というのは確あるが、リタイア後にフィリピンは危険過ぎるよ。 ザビエルとともに日本に戻ってきたヤジローあたりも気になる >>124
大河『黄金の日日』では呂宋助左衛門は堺の会合衆今井宗久の
配下で海外交易に携わったという設定ですね。
戦国時代に誰も手がけず訪れないルソンとの交易に携わるのは
商人といえど充分に探険家の領域では? 6/13(日)午後にBSで下記紀行番組が再放送されます。
「映文連アワード2017文部科学大臣賞」受賞番組だそうです。
『TimeTrip 日本の海岸線〜伊能忠敬の軌跡〜』
BSフジ 2021/06/13(日) 14:00 - 15:00 初回放送2017.10 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています