日本史上最強の謀将は北条義時じゃないか? [無断転載禁止]©2ch.net
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>>253
政治家の評価は結果だからな
なんだかんだで生き残り、最後は頼朝を征夷大将軍にはしなかった後白河と、
軍事的に武家に完敗するという朝廷存続に関わる大失態を演じた後鳥羽では
後白河が上と評価せざるを得ないわ 後白河は今様狂いだが朝廷貴族としては普通だろ?
何を勘違いしたのか政治を手を染めた後鳥羽こそ無能だな 後白河は皮肉を込めて日本一の大天狗と呼称されたから
義経はとんでもない人を過信してしまった 個人的能力は歴代皇室の中でも最強だと思われるんだがな後鳥羽は
政治ってのはやはり単純ではない >>251
日本共産党は北条義時と木曽義仲を党父として讃えるべき。 >>254
結果論で言うなら、平氏政権や鎌倉政権を作っちまったのは後白河なんだけどなw
まさか、「征夷大将軍に任命してないから幕府ではない!(キリッ!)」の人ですか?
人格としては最低の後鳥羽を弁護するつもりはないが、 討幕計画を用意周到に練った後鳥羽
(詰めが甘々だったがw)
行き当たりばったりの後白河や 出たとこ勝負・あとは野となれ山となれの後醍醐では、
政治力に差があると思うね。 昭和時代は後白河が過大評価されるきらいがあり、実は自分も
その一人だったww
後鳥羽が院宣を過信しすぎたのが承久の乱の敗因だが、 それは現代的感覚の敗因分析で、
平安末期はやはりまだまだそういうものが絶対視される風潮があったんだろうと思う。
500年後の日本人が現代の我々に足して「なんで象徴天皇制にこだわってたのか、よくわからん」と
見るかもしれん。
鳥羽伏見戦での錦旗の効力やポツダム宣言受諾の裕仁のツルの一声も理解できるギリギリの世代である我々は
まだ「後鳥羽上皇の過信」を冷静分析できる最後の世代ではないか? 義時も勇猛果敢と思いきや落雷を祟りなんじゃないかと恐れ慄いた程だったらしいからな
そんな神性をも伴った権威にも果敢に立ち向かったからこそ立派なわけで ああ北条義時は陰陽師を重宝してたみたいだな。
また三島大社の信仰も厚かった。 >>251
もしかしたら鎌倉時代は朝廷なにするものぞ!という気風が武士の間では盛り上がってたのかもしれない。
その武士の朝廷への対抗精神が源頼朝に鎌倉幕府を誕生させる原動力となったんだろ。
もちろん火付け役は木曽義仲だが。
16世紀戦国時代あたりだと朝廷の権威なんか失墜しきってるから打倒すべき目標にすらならなかったんだろ 朝廷対武家で階級闘争的な視点で見られる事が多いから
実際に東国武士は東夷と呼ばれて犬の様に蔑まれていたから 鎌倉期は幕府が親王将軍を迎えたり協調しつつもジレンマを抱えたままだったからね 源氏による朝廷支配が完成するのは江戸時代からだから。 武家>朝廷を決着づけたのは明らかに義満だよ
以後の朝廷は完全に武家に養われる存在になり下がった
だいたい五摂家の人間が将軍から偏諱もらうありさまだからなw >>272
ただ完全に生殺与奪権を奪い取る支配下に置いたのは江戸幕府だけな。 いや、完全に生殺与奪権を奪い取る支配下に置いたのは室町幕府である。 室町幕府は同じ京都にいたこともあって、
公家衆も将軍家に伺候するぐらいだったからな スレチになるが、日本史上最強の謀将は足利義教。 最後は暗殺されたが、それが無ければ
北条義時を超えている。 暗殺されたから最強ではなくなった。
自分で認めるじゃないかw
謀においては徳川家康だろ? 大江広元・・・。 武士でなくていいんなら、藤原良房だな。 三浦義村、大江広元、そして実の親北条時政、最後は後鳥羽院、こういう海千山千の連中相手に勝ち抜いた義時こそ最強 >>285
そうだな
でも、それって後世からみた判断だからな
同時代の人間は2人が常に一体かどうかはわからなかった
和田は義村をあてにしてたし、後鳥羽院も義村はこっちにつくと確信してたようだしね
それに義村が寝首をかこうとしたことがなかったかどうかはわからないからねえ つーことは、北条義時さえ、手を付けることが出来なかった三浦義村こそ、北条義時を超える謀将に決定だなw
ウィキぺディアから引用↓
義村は京都の貴族の間にさえ「六権八略」の権謀家として知られていた。
『古今著聞集』には、将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に、
若い下総国の豪族・千葉胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」とつぶやくと、
胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判した逸話が記されている。 >>287
義村は義時の腹心だろw
ただ、同時代の周囲の人間はどうやらそうは思っていなかったというのが2人の恐るべき点でw
梶原景時弾劾以来、義村はほんと都合いい時に都合よく動いてるよね もともと三浦家と北条家は子どもを互いに送り合い対等な婚姻関係を結んだ緊密な同盟関係 >>289
そんなこと言ったら比企と北条も同じだぞ
当時の同格の豪族は互いに嫁のやり取りしあってたから大概が親戚の間柄だ
それだけじゃ決め手にはならんのよね 比企一族、畠山、稲毛一族、和田一族、みーんな北条家の親戚だなw 時政は特に政略結婚に積極的だったから
只、頼朝に関しては政略結婚というよりは政子にせがまれたかららしいがな >>292
そのほぼ唯一の例外が北条家を栄光の座へと押し上げたわけだから歴史ってのは面白いよね 和田合戦含めて三浦義村の去就が常に情勢の鍵を握っているから、伊賀宗光のクーデターでも義村を巻き込む計画だったらしいから、政子も何度も義村に警告して心中は不穏なままだっただろう >>294
あれ最後は政子が義村の館に乗り込んで直談判で説得してようやく収まったからな
あそこで引き下がったので義村は泰時政権下で別格の存在としてでかい顔ができた
義村らしい立ち回りとも言える 三浦義村つーと、大河「草燃ゆる」の藤岡弘の印象が強いな、史実はどうか知らんが、
ドラマでは親友であり、ライバルであり、同格の描き方してたな。承久の乱後、相手に猜疑心を抱きながら、
大人の対応で幕府のために手を握る、というラストだった。(互いに不敵な笑みを浮かべて酒を酌み交わす)
事実 その後の三浦氏は政権ナンバー2として北条に次ぐ勢威を誇るのだが、周知の通り北条時頼ー三浦泰村の代で滅亡。
善村の代はなんとか逃げ切った感があるね。 宝治合戦では、三浦方は温厚だけど優柔不断な泰村と血の気の高い光村で割れてたからな
北条方も時頼が穏健派なのに対して安達がかなり強硬的だった 比較的に短命だったが三浦一族を絶滅にした北条時頼もさすが梟雄の血を受け継いでた。 時宗も貞時も果断な処置に成功してる
特に貞時のは相当困難な上からのクーデターだったから見事だ
その貞時すら晩年はままならないようだったが
そして高時はうまくやれなかった
時勢なのか器量なのかはわからんけど 司馬一族も有能な人間多かったよね、初代皇帝の前までは
初代皇帝の後はカスの集まりになってしまったけどw 三浦一族を文字通り絶滅させちゃった北条時頼も恐ろしいね 大河ドラマでは比企能員の嫁ハンが「北条は蛇みたいな一族」とか言ってて、妙に頷いた記憶がある。
というわけで、懐かしいオープニング投下
https://www.youtube.com/watch?v=j5wybjkG7v0 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
NN035 北条自身が頼朝との婚姻関係に依存していた部分が大きいから、源氏の外戚であることを鼻にかける比企は怖かっただろう 時宗は十八歳ぐらいで執権になったんだっけ
時頼から帝王学を学んで、北条政村や金沢実時らが献身的に支えるという理想的な形だったけど 一族が結束して幕府を支えていたから元寇の大難を乗り切ることができた 北条家でもっとも恐ろしさを感じるのは北条時頼である やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ 隠居して執権長時に移譲後も実権を握り続けたのは大御所政治に似ている 朝廷殺しの北条義時も手を出しにくかった三浦一族を抹殺にした 後の伊勢宗瑞に滅ぼされたのも、この三浦の流れなのかな。 源頼朝=マムシ
北条義時=キングコブラ
毒の威力が違う どこが?
結局は源氏も北条義時に滅ぼされたわけで
なんつうか初代から8代目までの北条は向かうところ敵なしだった。 後鳥羽は実朝を手駒として扱おうとしていた目論見があったと言われているし、実朝の暗殺説はこれを根拠にしているのかな 少し修正。
平清盛=マムシ
源頼朝=キングコブラ
北条義時=オオアナコンダ
マムシの毒もコブラには通用せず。
コブラの毒もオオアナコンダには通用せず。 平清盛=ハブ
源頼朝=マムシ
北条義時=ヤマカガシ
毒の威力が違う
毒性が強ければ強いほど目立たなくなる 息子「たち」だな
政子、阿波局、義時、時房の悪の四天王はこの頃は一体だからな 阿波局は結城朝光に密告して、梶原景時追放のきっかけを作っているね 景時にしたら北条家なんて眼中になかったんだろうな
しかし、三浦義村が呼びかけた連判状に北条時政・義時の名前がないのが心憎いw >>332
梶原を始末したのは北条時政配下の駿河の武士団だからね
関与してはいないという体裁だったけど、秘密裏に動いていたんだろう
なんて手際が鮮やかなんだろう 北条家が一人勝ちした歴史の結果を知っている側からすると北条家が景時を倒したのは別に不思議でもなんでもないんだけど、
実際はこの時点では圧倒的に景時が強力だからな
・北条家は将軍頼家の外戚
・景時は、頼朝、頼家二代にわたる執事(No2)
・景時は、頼家の乳父
・景時は、侍所別当
これは相当差があるよね、客観的には .
朝廷貴族を蹴散らして太政大臣に上り詰めた平清盛の毒も源頼朝には通用せず
平家を皆殺しにした源頼朝の毒も北条得宗には通用せず
この北条得宗の無敵感といったら。 >>335
得宗家の最大の敵は寿命だろう。歴史上これだけ短命な一族も珍しい。
後漢王朝の帝王を見ているようだ。 鎌倉時代が北条時代に表記変更とか
ただ120年程度 今承久の乱について勉強している学生です。
後鳥羽上皇はなぜ公暁ではなく北条義時を追討しようとしたのですか?
そしてなぜ北条政子は義時の味方をしたのですか? >>338
公暁は個人的な逆恨みで将軍を殺害した僧侶だし、何の立場も権威も無いよ
後鳥羽は幕府の解体を目論んでいて、北条義時を名指しして追討の院宣を出したのは義時が幕府の事実上の主導者だったから
政子は弟の義時と協力し合って幕府を運営していたわけで 幕府の御家人からみて頼朝の妻だった政子は女帝のような圧倒的存在
北条のためではなくて夫が作った幕府を守るために行動する 頼家が跡目継いだ時は二十代の若僧の政治力でどうにかできるほど簡単な情勢ではないからな
荷が重すぎた
まあそう考えると、時頼、時宗、貞時と20代であれだけできたのは大した政治手腕だよな
まあ貞時さんも最後は力尽きてしまったようだが >>342
時頼や時宗本人の政治的才覚ももちろんあるが、
北条氏の分家たちが北条得宗家を守る盾になって、
藩屏の役割を果たしてくれたことが大きい
(名越などを除く)
頼家の場合、源氏の分家たちが藩屏となって頼家を守ってくれなかった
頼朝が弟の範頼、義経、甲斐源氏の安田や一条らを、
自分の脅威とみなして粛清しまくった反動が来たといえる 義経も安田義定も挑発的な行動をとっていたし、頼朝としては源氏一門が信じられなかったんでしょう
源氏とはそういう血筋 北条一族はなんだかんだでいざって時は結束するからね
それが強みだね
日本の場合大概の一族が落ちこぼれを生むもんだがここは名越でさえ裏切らなかった 権力闘争には強いんだが毛嫌いされてたのは金王朝に通じる 義時が策謀の人というのは承久の乱の時の泰時への指示を見てもかなり誤解があるな。 「草燃える」で松平健が演じた北条義時はゴッドファーザーのマイケルがモデルなのかな >>346
鎌倉幕府が僅か四十日余りで崩壊したのもそれだったのかも 高時は単なる暗愚ではなく病弱で虚無感を漂わせた人物という見方が定着しつつある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています