日本史上最強の謀将は北条義時じゃないか? [無断転載禁止]©2ch.net
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>>540
北条父子が頼朝と緊密になったのは政子が流人の頼朝と駆け落ち結婚してからだろ
このとき政子は18歳だが頼朝は30近い
政子の弟である義時はまだ相当若く頼朝を育てたというのはなんか違う 義時には兄がいただろ?たしか、石橋山合戦で討たれたと思うが・・・。
北条にとっては痛手だった。義時は若かったから、頼朝に近習し、学んだほうかもしれんな。 帝王学みたいなものは学んでたんじゃないか?
元が平家方で目を付けられていた畠山と比べて、北条、三浦は旗揚げよりも前から頼朝を支え続けてきた功績があって、宿老同士行動を共にしてきた いいそびれた。ボクの歴史観は「歴史を動かすのはその時代の社会」だと思っている。
偉人は偉大だと思うが、その偉人がいなくても別のヒトが似たような歴史を作ると思っている。
鎌倉時代は武士の時代。大げさに言えば関東御家人の時代だ。で、社会は荘園、国衙領で構成されており、
そこへ武士が守護・地頭として入り込むが、在地支配は従来の下司、公文、郡司、在庁官人でこれもまた武士だ。
全国挙げて在地支配(=徴税権支配)の権力闘争をしている。朝廷vs鎌倉幕府、公家(国司)・大寺院vs守護(武士)、
地頭vs下司等々。そういう社会の中で、北条一族はのし上がっていったというふうに考えている。
だから、得宗が現れ、得宗御内人が権力を持ち大規模組織になっていったわけだ。逆に負け組みもいて、これは現代に通じるものがある。
ちょっと、おしゃべりだったな。 >>544
歴史観はその通りだと思うが、
東国の場合は下司や在庁官人も地頭を兼ねたり御家人を兼ねる場合が多かった >>544
最初の2行には少し異論があるが、3行目以降は歴史認識(歴史観でなくファクトの理解)としては、
自分も同意だね。
鎌倉政権の登場は歴史的偶然でもないし、「幕府」は突然変異ではない。 荘園公領制の上に乗っかってる政権という意味では
院政がそのルーツであり、 奥州藤原政権や平氏政権の発展系であることは論を待たない。
鎌倉「幕府」は歴史の流れに沿った、遅かれ早かれ出現する「時代の産物」だったろう。
しかし、治承寿永の内乱 頼朝という天才政治家 高い政治能力を持つ歴代北条当主
という偶然的要素を「時代転換」の片方の要員という視点は かーなーり重要と思うぞ。
>その偉人がいなくても別のヒトが似たような歴史を作ると
中国史や日本の戦後史はそうだとは思う。 信長・秀吉が居なくてもいつかは誰かが天下を統一したろうが、
それが近世社会とは限らない。 薩長が居なくても徳川慶喜がある程度の近代化は出来たかもしれない。
しかし、多分その結果、 現在とはかーなーり、似てない社会になてたのではあるまいか? んで
「平清盛が源頼朝と義経を子供のうちに殺害していたら 」スレをageてみました。
どんな時代が来たんでしょうねえ。 未曾有の変革期だったからね
鎌倉方に対して平家の立ち位置ってどうだったんだろう
畿内惣官職を以って、十分に幕府的な機構だったとする見方もあるらしいけど そうなんだよな。150年続いた鎌倉時代。もうちょっとテレビドラマ化して欲しいよな。
たとえば、人気長寿番組(時代劇)は、水戸黄門、大岡越前、銭形平次。皆江戸時代それも後期。
水戸黄門なんか時頼の廻国伝説がルーツだろ。似たようなものは作れると思う。
大岡越前張りの「鎌倉執権日記」とか、「得宗御内人検断控え」とか(笑)もあり。
吾妻鏡があるんだから脚本書きも楽だと思うよ。 はい。
「なぜ鎌倉時代室町時代は地味で人気がないのか」スレもageときました。 北条義時って伊東祐親の娘が母なのか?wikiによれば
つんでもないな >>552
鎌倉時代は時代考証にこると衣装代高くつくから、民放はやらんだろ。 大衆受けしそうなステレオタイプな英雄像とは乖離してるからな
とはいえ、本当の成功者とは地道なものだ >>552
水戸黄門も大岡越前も銭形平次も
身近な庶民の困りごとを裁くから人気がある
鎌倉幕府の幹部は武家所領の決済ばかりで
庶民になんか興味なかっただろ しかし武士でありながら公家と渡り合える外交力や文の力もある武士
てあの時代にそうはいないんじゃね
鎌倉の有力御家人は腕っ節は強いがそれ以外はからっきしてのがほとんど
北条が弱小勢力ながら天下取ったのはやはり当然というか
三浦義村が北条支持で行って結局自分が天下取らなかったのは
そのあたりを自覚してたからだと思う
なんで北条義時が存在しなかったら安定した武家政権ができたか疑わしく
gdgd内乱状態になった可能性高い
頼家もgdgdだったし時政も執権になってすぐやらかして放り出されたし つまり北畠親房だったかが
頼朝がなく泰時もいなかったら日本国はどうなってたか
と言ったのは正しい認識だと思う 頼朝の存命中はまだ不完全だった武家の在り方や規範を完成させた
法制度的には御成敗式目とかかな コネとカネ、ノミナリズムで動く朝廷の倫理は大陸や半島文化的な感じ
関東の鎌倉政権は信賞必罰、法治主義、リアリズムが特徴
この二つがぶつかり合ったのが承久の乱
コネで地頭解任要求の朝廷側vs法治主義ではねつけた鎌倉
武家政権が勝利をおさめて日本は大陸半島とは違う道を歩み始める図式 本当の意味での日本らしさというものが生まれたのがこの頃だからね
他のアジアには武家に相当するものが無いからな >>562
頼家の体たらくを見る限り、まともに牽引できるのが北条家しかいなかったからな。
北条を後見とした実朝の治世は望まれたものだった。
只、時流を見極められた三浦義村と異なり、和田義盛は次第に個人的な野望が芽生え始めたんだと思う。 義村の義時に対する忠臣によって三浦は御家人の勝ち抜きトーナメントに生き残った
しかし義村の死後は子の光村(駒若丸)が野望を抱き滅亡への道を進むことになった 怜悧にして勇敢さを持ち合わせた理想的な人物に見えるけどな 政子が頼朝の嫁になって権力握ったのに
比企に苦労してたのに
実朝の外戚になろうとしないあたりが面白い
どころか息子を誰も将軍に近づけてない
将軍から独立してる
やっぱ面白いわ義時って人物 逆に義時の息子の名越朝時が実朝の怒りを被って、駿河で蟄居を命じられている 傀儡将軍みたいに見られることもあるけど、協議のもとで擁立された将軍だから、義時としては公正さを見せたかったんだと思う
後見人として必死に守ろうとしていた >>572
実朝の正室選びについては北条がわざと外戚にならなかったわけではない
頼家暗殺が朝廷にばれるとまずいので政子・義時は必死だったんだよ
鎌倉は朝廷には頼家は病死と報告していた
しかし慈円が「ふぐり(金玉)取りて」惨殺したと
日記に記しており、北条による暗殺は朝廷にも伝わっていた
頼家暗殺が北条の手によるものと後鳥羽上皇の口から大々的に発表されると
御家人たちもどう出るかわからなかったからね
政子・義時は頼家暗殺を公にしないために後鳥羽上皇の機嫌を取ることにし
後鳥羽上皇のいとこで、姉が後鳥羽上皇の寵妃だった
坊門信子を実朝の正室にした 朝時は比企の息子つまり頼家側だったろうから実朝は嫌いだろう
重時も同じく比企血筋
泰時は父親の側にいた
政村以下はまだ年若い
てんで将軍の取り巻きに北条ゼロ
実朝死んでも出家する奴は誰も出ない 義時自身は逆
父親から離れて頼朝の側にいた
将軍と北条の関わり方が実朝時代と全然違う >>576
実朝の乳母は北条だったろ
政子や義時の妹の阿波局が乳母だった 乳母という立場がなによりも重きを為していたから、それを傀儡と呼ぶかは別として実質的に将軍を手中に収めていたんじゃないか 織田が最強では。ほとんど戦国時代んの文面でよろしいかと。人が死んだ。から。 実朝って突然、大船を造って海外に旅したいとか言い出したことがあったんだっけ 阿波局は乳母だが義時は違うからな
妻の関係で頼家と両天秤状態だった
時房は頼家の仲間だったし
実朝と北条の間にはちょと隙間がある 義時は比企氏寄りの政策をとってないだろ
頼家は北条を嫌い乳父である比企能員を重用した
義時は頼家にべったり寄り添っていない 頼家が北条を嫌った証拠はないけどな
比企を重用したのは事実だけど 頼家は義時の側室が子供産んだ時祝いの品贈ってるし
それほど険悪ではなかったと思われる
呼び捨てにするので義時が嫌がったって政子の言はあるが >>585>>586
頼家が側近5人を指名したときに北条義時が入っていない
また比企能員の乱で頼家の妻・若狭局と幼い嫡男・一幡が巻き添えで死んだ際
攻めた張本人が北条義時であり比企氏に温情を見せていない 義時は頼家の叔父なのになんであの比企の息子や小笠原の息子と
同レベル扱いされにゃならんのだw
オヤジの小笠原長清が義時とわりと親しいんだよな
だから小笠原は比企合戦の時に比企の味方しないで頼家も見捨てることに
妹の大貳局はちゃっかり実朝の側近におさまってるし >>588
頼家の外戚は比企
比企の娘が頼家の嫡男を産んでいる 和田義盛も頼家の北条討伐の御教書を黙殺して、それを北条時政に密告しているな 比企に完全に手玉に取られていたからな
不肖の息子とは言え、政子にとっては曲がりにも親子だからさぞかし辛かろう 長男より次男を可愛がって長男追い落としをはかる母親てのは
日本史でちょくちょくでるがほとんど母親側が負けるんでねーの
信長とか家光とかさ
長男が母親に追い出されるってあんまないぞ
それが可能だったのは母親の実家の北条が御家人を抑えてたからでさ 三浦だとか和田だとかが反頼家派だったからな
上手い具合に共闘できた >>592
政子が頼家よりも実朝を可愛がって追い落とししたわけじゃないから
天皇家などでも有力な天皇候補であった為平親王が源高明の娘を正妃としたために
為平親王の母方である藤原氏による他氏排斥を行い為平親王は皇統から外され
同母弟が即位して円融天皇になったなどの例がある
外戚にとって都合の悪い妻を娶ると排斥された例 >>594
はたから見てれば長男より次男が可愛かったって見えるよ
次男は妹に乳母させて近くに置いてる
長男は比企に囲まれて富士の巻狩でも頼家には厳しい態度
実朝が政治ベタでも政子は追い出したりしないと思うぞ 愚将−安倍 凡将ー麻生 謀将ー二階 智将ー石破 鈍将ー石原 実朝は人当たり良さそうだし、象徴的な存在としていてくれたからこそ円満だったからな 血縁血縁でつながろうとするのが鎌倉初期の悪弊
ばっさばっさやる人物が必要だったのはしょうがない >>600
頼家の傍に比企氏を置いたのは頼朝だろ
頼家は頼朝が溺愛した大事な嫡男
だからこそ頼朝は自分の乳母で恩人でもある比企氏を側近とした
実朝は当初将軍になる予定のない傍系だから頼朝は頼家に比べて放置ぎみ
政子がそれなら自分の妹を乳母したって感じだろ
政子が長男が可愛くないから比企氏に丸投げして
実朝のことは可愛いから将来将軍にするつもりで
自分の妹を乳母にしたわけでもないぞ じゃなくて自分のそばにいたから次男が可愛くなったってこと
実朝の乳母に御家人がなりたがらなかったってのわかる
梶原や比企睨まれたくない
頼家時代になったら実朝とその側近は粛清されるだろう
なんで頼朝も弟夫婦に託した
全成は実際に粛清されたが北条はそうなる前に逆に頼家を倒した
政子は当然実家味方
頼朝としては比企と義時を縁組させて頼家の側を固めたかったんだろう
時房が頼家の近くにいたのもそれ
時政だけ排除されててその時政が主導して比企を討った 可愛い可愛くないというより、けっこう人物を見ていたような気がするよ>政子
たんに情念の強い性格というだけであそこまでの女傑にはならないでしょ 和田義盛などの源氏の忠臣たちが実朝を推戴しているからには、頼家が敬遠される程の事由があったということになる >>605
比企討伐を主導したのは時政というよりも義時だろ
比企氏の血を引く頼家の嫡男・一幡を殺したのは義時の手勢だし 梶原を討ち取ったのは時政の部隊だっけ
梶原追放には義時はどのくらい関わっていたんだろう 梶原追放は多分義時
あーゆー謀略系で相手を自滅に追い込むやり方は義時
比企討伐は時政
呼び出して謀殺するという乱暴なやり方は時政でのちに畠山重保もそうだった >>608
実働部隊は義時中心って感じ
御家人の主力が義時世代になってて時政よりネットワークがある
比企討伐軍のうち、三浦と小山結城は義時閥で畠山と和田は時政閥って印象だが 梶原と比企失脚の主導者は親父の時政だな。 その命を受けて実行の算段を組んだのが義時だろう。
義時は親父からこういった政略を学んでいき、やがて親父を超えた。
承久の乱の時はグダグダだったがw
まあ、>>1の義時評は過大評価だが、スレタイとしては面白いし、歴史的にはもっと注目すべき人物であることには同意。 >>612
結城は頼朝の家の子として義時の同僚で昵懇だったんだろうな
義時と義村は従兄弟で昵懇
そして義村と結城も昵懇
この3者はグルなんだよw 単に利害が一致していただけではなくて、義時と義村には盟友としての絆があったんだろうか 結城と義時は頼朝の伺候衆で同僚だったから仲良いんだろう
比企討伐後に姫の前と離婚したが後妻の伊賀局は
結城朝光の妻と姉妹だ
三浦義村は結城と親友で義時の従兄弟だから多分仲良し しかし後世から振り返って不思議なのは、義時と義村が昵懇だと同時代の他人は必ずしも考えていない点なんだよな
表面上はベタベタしてなかったのかね 和田合戦でも伊賀宗光の陰謀でも巻き込まれそうになったり、敵勢力から誘いを受けているね
どちらも拒否しているが >>619
承久の乱でも朝廷側は義村が裏切るの前提に動いてるからな
ここらへんがどうにもね
後世の全ての結果を知っている我々と、同時代人との認識の違いってのは興味深いね 義時死後に三浦義村が義時の法要やったとか吾妻鑑にでてるよな
承久の乱後に何度も義時が三浦に田村の別荘に行ったとかさ
両者が仲良かったのは間違いない
比企合戦の前年に義時の息子と義村の娘が結婚した
三浦を味方に固めて比企との対決に向かった感じだな 三浦は何度も北条を裏切っている(裏切りかけている)から
義時と政子が北条に次ぐ幕府ナンバー3の地位に三浦を迎えてご機嫌を取った
北条泰時の正室は三浦義村の娘
三浦泰村の正室は北条泰時の娘
ただ北条泰時は承久の乱よりも前に正室三浦氏を離縁
泰時女は泰村に嫁いでいるが泰時と泰村は1歳差であるため
親子ほど年齢差があったと思われる
泰時死後、宝治合戦で三浦泰村は滅ぼされたが
この時に追放された泰村の妻子は北条泰時女ではないため
どうなったか不明 ボウショウっていうと二人目いなさそうじゃん。策術にはまるまで書いたのに。 義村を過信してしまった和田義盛と常に慎重だった北条義時
北条家に対して冷淡で距離を取り続けた和田と北条家と懇意にしていた三浦
性格も行動もまさに対照的だね 泰時と三浦氏の矢部禅尼の離婚は承久の乱どころか比企合戦のすぐ後だったようだぞ
矢部禅尼と佐原氏の間の子供を見ると
佐原兄弟は三浦一族の中で唯一北条について生き延びてたから
離婚後も北条と矢部禅尼は親しかったんだろうが >>618
子供同士が縁組したり離婚するとお互いの息子の烏帽子親になったり
関係が密なのは知られてると思う
ただ義村と結城朝光みたいな仲の良さはなかったんだろうな
和田合戦で北条についたのを裏切り者の犬呼ばわりされてたしな
承久の乱では弟にうちの兄貴はバカだからとか言われてなかったっけ >>625
あれは泰村が滅びれば佐原兄弟が三浦嫡流になれると思い
異父兄の北条時頼にけしかけたとも言われてて
もともと三浦が一枚岩でなかったってことなんじゃ 義盛と義村、義時と義村は互いに従兄弟の間柄
でも義盛と義村は同じ一族だからみんな義村は和田につくと思ったんだろうな
ただ、義村からすると、義盛が居たのでは三浦一族の総領としての立場が確固たるものにならない
つまり義村と義時では対義盛で利害が一致するんだよね
そこを見落とした義盛とつけこんだ義時との差だね 三浦については奥富敬之氏の「相模三浦一族」を読んだがなかなか面白かった。 謀というけどさ
なんか手の込んだものというより自然にそうなったって印象があるな
梶原追放ぐらいかな手の込んだの
あと実朝を将軍にする手際の良さとか
あとは和田合戦も承久の乱も受け手たつパタンでやられる可能性もあった博打的なもの
情報を押さえてるのと公家や武家に味方をつくってるのと
義時自身は無茶をせずに道理にしたがったやり方してるから
おのずと勝利を引き寄せてる感じする
謎は実朝暗殺かな >>626
千葉に相模の犬は友をも食らうと嫌味を言われたらしいが、逆に三浦と比べて他の武家が愚直過ぎたのかも知れない
少なくとも義村は和田を友とは思っていなかっただろう >>627
こまかいツッコミですまんが、
>異父兄の北条時頼
佐原兄弟の異父兄は時頼の父時氏だから、時頼は甥 まだ生きてる頼家を死んだと朝廷に報告して
実朝を征夷大将軍にしたんだっけ >>636
それどころか比企の乱の前に使者を鎌倉から発信してるんだよ
恐るべき計画性 梶原景時は北条が暗躍していることを気付けなかった
比企能員は梶原の追放劇を自分に降りかかる災難の前兆だとは知る由もなかった
北条が切れ者過ぎるのか、梶原らが鈍かったのか 千幡が元服するといよいよ頼家や比企から潰される
だから元服するときに一気に両者を潰したというのはわかるが
頼家が都合よく病気になったというのが >>638
彼らは頭が古い
頼家を担いでいれば自分は安泰思ったのだろう
鎌倉殿のご威光で御家人を動かせると
時政も実朝担いでるからなんでもやれるとばかりに畠山潰しに行ったが
義時の凄さは将軍とは独立して力もってること
実朝暗殺後も鎌倉は静かだった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています