日本史上最強の謀将は北条義時じゃないか? [無断転載禁止]©2ch.net
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梶原景時は北条が暗躍していることを気付けなかった
比企能員は梶原の追放劇を自分に降りかかる災難の前兆だとは知る由もなかった
北条が切れ者過ぎるのか、梶原らが鈍かったのか 千幡が元服するといよいよ頼家や比企から潰される
だから元服するときに一気に両者を潰したというのはわかるが
頼家が都合よく病気になったというのが >>638
彼らは頭が古い
頼家を担いでいれば自分は安泰思ったのだろう
鎌倉殿のご威光で御家人を動かせると
時政も実朝担いでるからなんでもやれるとばかりに畠山潰しに行ったが
義時の凄さは将軍とは独立して力もってること
実朝暗殺後も鎌倉は静かだった 北条って暗躍してるというより
梶原とか、比企とか、一歩前に出ようとしてる御家人を叩き潰すために使われる
二番手代表みたいな存在じゃないの >>640
実朝が死んだら都から頼朝妹の曾孫を摂家将軍に貰ってきて
頼家の遺児と婚約させて実朝死後も続いていたからだろ
承久の乱のときには政子が自ら御家人の引き留めを行っているし
義時が将軍とは独立した絶対的な力を持っていたらそんなことする必要もない >>637
北条が主導して頼家の嫡男・一幡よりも多い所領を千幡(実朝)に分配
頼家の後継者は弟の千幡としたことで一幡の外戚である比企氏が激怒
北条の挑発行為だよね 和田合戦は実朝の意志無視してバトってたもんな
頼朝頼家時代にはあり得なかった
そんだけ執権の権力が独立してたんだろう
実朝の渡宋なんて本来あり得ない話
義時が鎌倉離れて遊べるようになったのは承久の乱後だな 後鳥羽は実朝が死んだら関東が崩壊するとでも思い込んでいたようだが、義時がとんでもない猛者だったな >>645
あと政子のカリスマ性は計算外
あんなもん誰も予測できん
見えないところから必殺パンチが飛んできたようなもんだ >>645
政子の演説にある通り
武士が朝廷の犬だった時代の生活と、鎌倉幕府が開かれてからの生活と
どっちがいい生活できる?と天秤にかけて幕府を取っただけだろ
御家人も何も義時への忠誠心から命をささげたわけじゃないし
義時が猛者ならわざわざ政子が出てきて演説する必要もない 御家人の忠誠心とは既に他界した頼朝に対する忠誠心だからな 政子は義時が討たれたら自分は山の中で隠居するしかない
と承久記?であったから義時の器量をバックに威張ってたんだろう
政子が命を下したら御家人が従うわけじゃない
だから義時死後は三寅抱えて政子が司令出しても情勢不安解消されなかった
北条家中が治るまで >>646
あれ政子じゃなくて竹御所でも三寅でも同じだったと思うよ
御簾の内に鎮座して頼朝のご恩を説く原稿を安達が代読すりゃいいんだから あんまり政子を舐めんなよ
頼朝でさえ頭が上がらないほどの猛女
範頼失脚にも政子が関わっている
義時こそ姉に忠実だったから出世できたのだ
義時死直後に妻の伊賀の方が政子から謀反の理由で幽閉され死んだ
尼将軍政子に逆らえる御家人などいない 範頼も曽我兄弟の敵討ちも謎が多いね
範頼は予てから危険視されていたり、北条や頼朝傘下の武士団と折り合いが悪かったのかね 頼朝の兄弟男子で鎌倉幕府成立後も生き残っていたのは範頼と全成だけ
二人とも謀反の疑いをかけられて配流されて殺されたが無実である可能性が強い
実朝が暗殺されたとき範頼や全成の子供が生きていたが将軍になれなかった >>650
竹御所や三寅ではそもそも生前の頼朝を知らないだろう
どちらも頼朝死後の誕生
政子だからこそ頼朝と一緒に鎌倉幕府を作り上げた実績があった 範頼とその側近、それに大庭景義、岡崎義実らがまとめて粛清されてるから富士の巻き狩りで何らかの政変があったのは間違いないだろう
曽我兄弟は時政が面倒みてた連中だし、殺された工藤祐経は頼朝の側近で東伊豆の大勢力だから北条からしてみたら邪魔だったろうし
ちなみに曽我兄弟の義理の兄貴は範頼の側近で範頼と一緒に粛清された1人 そう考えると清盛て優しいな
命狙った義平と逃亡中に死んだ朝長、事績不明の義門以外の頼朝の兄弟みんな生きてるもんな 範頼を排除したいから仇討ちあったときにそれを口実にして
縁者を処分してった可能性もある
ほんとに何か陰謀あったらもっとバッサリやっただろう 源氏は一門で殺し合いばかりしてきたから、源氏よりも流人時代や旗揚げを支えてくれた東国武士団の方が信頼できるでしょう 頼朝は義時を穏便だと言うし将来子孫を守護するものとなる
というし頼朝の見る目は確かだったと思う
誤算は実朝に子供ができなかったこと 義時の性格は親父の時政ほど強引ではないからね
どっちかというと集団の後ろからついていくタイプ 謀略でもタイプが違いそうだね
景時失脚や、畠山討伐後にいつの間にか時政が孤立化していったのなどが義時の謀略だろう
比企をおびき寄せて謀殺し返す刀で連合軍で比企を襲撃ってのが時政のやつだな 問答無用で平賀誅殺令出したり宇都宮に会うこともしなかったり
和田一族勢揃いの面前で胤長ふんじばったり
推松?だかに後鳥羽院あてのタンカきったり
きつい側面も多いんだけどな
まあそうじゃなきゃ関東武士が従わんか >>666
その辺は謀略ではなくて仕置きだからな
毅然と示すこと自体が必要 胤長の件については、和田義盛の強請に実朝が折れたので
そういう所で反撃したんじゃないのかね
もし意図的な挑発なら、和田が合戦しかけてくる前夜に
総領の泰時が飲んだくれて二日酔いなんて有様になってないだろう
もっとも朝時が駆けつけてくる程度には緊迫してただろうけど 上総広常を暗殺した梶原景時
梶原景時を弾劾した和田義盛・比企能員
比企一族襲撃に主要な役割を果たした畠山重忠
畠山重忠討伐の一方の大将和田義盛
和田義盛を裏切る三浦義村
北条が黒幕にしても御家人達の謀略も相当 昨日の友は今日の敵で利害によって立場はコロコロ変わるね
和田は実朝擁立に貢献するも、北条との対立姿勢を強めて次は頼家の遺児を擁立しようとした
終始仲良かったのは北条義時と三浦義村ぐらいか 梶原景時を弾劾した三浦義村
比企討伐軍に加わった三浦義村
畠山重保を闇討ちした三浦義村
畠山合戦に加わる三浦義村
その後に稲毛重成を闇討ちする三浦義村
実朝を時政館から義時館に連れ去る三浦義村
和田義盛を裏切る三浦義村
承久の乱で泰時を支える三浦義村
どう見て盟友ですありがとう >>672
怖ろしいのは同時代人が義時と義村が盟友とは思ってなかった点だよなw
どうなってんだよこの2人はよww 義村の弟の胤義でさえ承久の乱で兄は上皇方につくと信じて密使を送った
ところが義村は即ぐ義時に知らせて幕府方が戦の準備を始めた
胤義は朝敵となり義村の軍に攻撃されて戦死した 信じていた兄にも上皇にも裏切られて可哀想な三浦胤義 でも義時と義村の子供同士が結婚したし
離婚後は義村が政村の烏帽子親になり
泰村は義時の猶子になったんだろ
当時の人もつながりの強さはわかってるはず
三寅を推薦したのも義村だよな >>677
当時の有力御家人はみんな親戚どうしなんでその程度じゃなんの保証にもならん
比企も畠山も稲毛も和田もみんな親戚 でも義時は武家の縁者てあんまいないよ
公家と親しいから >>679
義時の妹たちが稲毛、畠山、足利、宇都宮などに嫁いでいる
義時自身、先室は比企氏で離縁後は伊賀氏から後室を娶っている 姉妹の縁者って別に大した縁じゃない
息子や娘の縁てほとんどないじゃん 北条氏は弱小御家人だから有力者と縁結びしないとね
>>680見てて思うけど、秩父平氏系や足利宇都宮など
武蔵・北関東系との縁結びが目につく
伊豆相模は縁者が何だかんだいるのでそれ以外のエリアを重視したのかも 北条時政は政略結婚に積極的だった
只、頼朝と政子の結婚は政子にせがまれて仕方なく承認したものらしいが 北条時政は、当初は政子を伊豆目代の平判官兼隆に嫁がせる予定だった。
それが時政の考える「政略結婚」であり、平家の地方有力者と縁者になる
という方針だった。
だから、他の武士よりは開明的だったろうが、むしろ保守的なものだった。
だが、政子が源頼朝と駆け落ちしたことから、時政の予定が狂ってしまった。 義時の娘はほぼ公家だよ
だから婿てのがほとんど登場しない
実朝死後の大江親広も公家だろいわば 山木兼隆が目代になったのは治承3年なので
それ以前に政子を山木に嫁がせる気だったのなら
流人と流人同士の選択になる
時政にとっては頼朝もあり得る選択肢の1つだよ
上西門院−熱田大宮司家なんて有力な人脈が手に入るのだし >>685
公家じゃなくて鎌倉へ下った公家の末裔だろ
娘婿の一条実雅は頼朝の甥で鎌倉幕府に仕官
娘婿の大江親広は親の代から鎌倉幕府に仕官
娘婿の中原季時も弟の大江広元とともに鎌倉幕府に仕官
婿は鎌倉在住、鎌倉幕府仕官、婿が出てこないわけではない
義時の娘のうち一条実有室は都へ嫁いだっぽいが
子の誕生年齢から承久の乱後、義時も没した後の結婚で
兄の泰時が承久の乱で鎌倉幕府に味方した西園寺家の庶子に嫁がせたっぽい
また大江親広室は夫が承久の乱で後鳥羽に味方したため離縁となり
都へ上って別の公家と再婚している 竹殿の再婚相手は土御門定通だろ
子供の誕生年から承久の乱の前に離婚再婚した説もある
大江は後鳥羽院方に味方したのもすでに離婚後ならわかるし
土御門院の外戚で後鳥羽院方だった土御門は乱の後に失権してるのに
その男と竹殿がすぐ再婚てのも考えにくい >>689
おいおい、竹殿の再婚相手・土御門定通も後鳥羽方なんだがw
定通の甥・土御門上皇が土佐配流となり皇統も替えられたために
土御門家は不遇となった
土御門定通の嫡男は別の妻が産んだ土御門顕親
竹殿は側室だったと言われている 承久の乱のずっと前に皇統は土御門天皇から順徳天皇に変えられ
皇太子は順徳天皇の皇子(仲恭天皇)だった
土御門上皇の外戚である土御門家が落ち目だったのは承久の乱よりずっと前からで
北条義時が落ち目の家に娘を嫁がせるはずはないのならば
土御門家に嫁がせるはずもない(しかも側室) >>690
同じこと言ってるやんw
だから乱後に嫁がせるのはおかしいってこと
乱前に竹殿が大江と離婚して土御門とくっつくのはあり得るかなって
土御門院は一応乱に積極的では無く乱後も幕府は気を遣ってる >>692
乱前に嫁がせるなら後鳥羽の外戚か順徳の外戚だろう
将軍源実朝の正室は後鳥羽の外戚坊門家から迎えられている
土御門なんて乱前から皇統を外されて没落していた
北条がわざわざ大江と離婚させて土御門の側女にするほどの家ではない >>692
>大江は後鳥羽院方に味方したのもすでに離婚後ならわかるし
この箇所
竹殿の前夫も後夫も両方とも後鳥羽方
竹殿と結婚していたら北条につくはずって両方ともついていない でも土御門院は一応乱から距離置いてた
もしかして後鳥羽院から警戒されてたのかも >>693
自分で勝手にやったんでねーの竹殿
義時がわざわざやる縁組じゃないから
北条は割とそう言うとこあるからな
泰時の離婚も当事者問題だろ 歴代得宗の妻の中で一番不釣り合いな印象はある安保氏
三浦だの宇都宮だの比企だのに比べて
まあ安達もどうかと思うが >>696
義時は公家と親しいから
娘は義時が自分の判断で公家に嫁がせたと
>>679 >>681>>689当たりでしつこく書くからだろ 時政も牧氏と縁組してるけど、
その頃から京志向が強かったとすれば面白いね 時政は駿河と縁が深いから
そして駿河の牧氏の領地って池禅尼の荘園でしょ
京との結びつきは昔から深かったと言われている
そもそも北条の本拠地って伊豆国府があった韮山のあたりで、
そこは交通の結節点で、港も近かったから交易で相当儲けていたらしいし
交易となると京との関係は無視できんでしょ 北条氏弱小説と北条氏有力者説って
今どっちが優勢なのか 結局のところ勝てたのは強引に何かをするわけでもなくて、時流に乗っていたからなんだろうけどね >>701
北条が有力有能な一族であることと相対的に弱小だったこととは矛盾しないじゃないの?
有能だけど伊豆においては強大な伊東一族に比べたら弱小だったということでしょ 武士でありながら官吏能力が必要な時代にぴったりハマったというか
いくら有能でも大江や二階堂に武士は従わない
いくら武力あっても腕っ節自慢だけでは和田一族の末路 オレもスレタイどおりだと思うよ。
弱小氏族の北条氏が鎌倉政権の権力中枢を握っていくさまはすさまじいものだと思う。
握った後の各流派に分裂繁茂していく様もまたすさまじいものだ。
宮家の鎌倉将軍をお飾りに戴き、幕府中枢は北条に忠誠を尽くす名家もしくは北条一族を充て、
家臣(御内人)を秘書に、家康が参考にするほどの武家統治体制を築いた。
たぶん、この北条氏による鎌倉政権が無かったら、公家に対抗しうる武家は存在しなかったんではないか?
ここにいる人は荘園公領制は熟知していると思うからあえて言わないが、
うちの地方には渋谷氏という北条以上に名族だが、政変で没落し、北条氏に臣従することで、未来を見つけた
一族の所領がある。(by 入来院文書) 地頭職だが広大な荘園だ。
言い方を変えると御家人とはいえ北条氏とは雲泥の格差があるということ。殿上人と地下人みたいなもんだろ?
北条氏はこのように武士から人気があり尊敬されていた。
北条氏滅亡も日本史上特異だ。全盛期にいきなり滅んだのだからな。
番場でも東勝寺でも当主に殉じた郎党の数の多いことがその証左。鎮西探題も同じだろう。(よく知らない) ,
親子二代で伊豆の小豪族から天皇を島流しにした日本国最高権力者
なんていう化け物なんだ
いまなら伊豆の市町村長から内閣総理大臣になって宮内庁もいいようにに操ったようなもん。 梶原景時は能吏ではあったんだろうけど独裁的な姿勢や人と衝突しやすい性格が仇となった 清盛みたいな権力奪取は想像できるんだが
やっぱ東国に自立した政権作って邪魔しに来た天皇返り討ちにして
御成敗式目作ってオレらこれで行くし、とやったあたりが普通ではないよなあ
ただの謀略家だったら一代で消えたろう 梶原、比企、時政は切れ者だけど、
義時は常に二番手グループをキープする慎重さ+
姉の政子が頼朝後家の地位にいたから
御家人にある種の安心感があったのでしょ
野望ぎらぎらの謀略家という感じではない 本人はハッタリかましたり余裕こいたりしてて周りが寄ってたかって
守ってる守護力が凄い
頼朝に政子に大江らの公家Gに御家人らが守ってる
実朝暗殺の現場から一人抜けたのも直前に誰かが情報入れたに違いない
仁田の襲撃は頼家が命じたのを誰かが義時に知らせたんだろう
後鳥羽院が院宣下した時は西園寺が知らせたことは分かってる
全成が捕まった時に阿波局と千幡が政子のとこにいたというのも
きっと誰かが知らせた(以下略 >>712
後鳥羽の動向を幕府に知らせた西園寺公経は源頼朝の姪の夫にして
次期鎌倉幕府将軍後継者として鎌倉へ送った三寅(後の九条頼経)
の外祖父だから当たり前だろう
西園寺家は承久の乱後、朝廷を牛耳り
天皇の外祖父となり摂家よりも力を持つ事実上の朝廷の統治者となった イヤイヤ違う
戦後日本の高度経済成長をけん引してきたのは『都はるみ』だ
『都はるみの歌唱の神髄が開花するのはこれから』
http://blog.seesaa.jp/cms/article/edit/input?id=454308422 義時に謀略家っていうイメージはねえな。俺も710氏に同意だ。
承久の乱の時もグダグダだったし、実朝暗殺の時も手際は悪い。
このクラスの人は戦国時代では標準だ。 運が強いのと御家人仲間からの信頼は厚かったんだろうね。 野望ギラギラはないがキレるのと胆力あるのとは間違いない
情報戦が強いし手回しがいい
公家の賢さと武家の度胸が合わさった感じ 野心家で過激な面があるといえば時政の方だろうね
義時は温厚な人に見える 義時の強みは政子の絶対的信頼を受けたところだろうな
政子だけではなく御家人全体の信頼を勝ち得ていたのだろう
何故義時が信頼されたかは史料だけではわかりにくいが 義時泰時父子が武家政治の手本
て建武式目にあるよな
まあ泰時と似てるんだと思うよ手腕や人柄 和田合戦に於いては毅然とした態度で臨み正当防衛だったんだろうけど、一方で義時の挑発だとか謀略だとする見方をする人もいる 義時が危なかったって知らない人じゃねーの
挑発してまんまと挙兵させて返り討ちにしたってな
実際は和田の方が北条より武力が強大 強大な軍事力を誇る和田とどう対峙するか、有事の備えなど、義時の手腕が光った戦争だったと思う
陰謀を張り巡らし、挑発的だったのは和田の方だった >>723
でも三浦義村には和田につくメリットがないんだよ
和田が居る限り和田がでかい顔して三浦は本当の意味での一族の棟梁にはなれない
そこを冷静に読み切って切り崩した義時と一族だから当然味方になるだとうと考えた義盛との差が出た戦い 第三者から見た場合、その両家の蜜月が認識されていなかったんだろう
利害の一致以上に盟友としての絆を感じる 時政も梶原も比企も自分から急襲してる
相手が急襲してくれるのを受けて立つのは義時ぐらい
かなり危ないよ和田合戦は
北条と和田の兵力差がでかすぎて
味方をかき集めるまでの時間をどんだけ稼げるかが勝負だが
三浦が味方するという保証はない 梶原景時の追放も源実朝の擁立も和田を筆頭に頼朝恩顧の有力諸侯の協賛の上でようやく成し遂げたものであることを考えると、決して北条自体にカリスマ性があったわけではないからね
まだまだ危うい均衡の上で手綱を握っていた状態だ 和田合戦の直前って泰時も大江広元も酒飲んでるんだけけど
和田は宴会の予定をチェックして挙兵したのかな? 義時と義村の関係はほんと謎だし興味深い
2人の本音は永遠に明らかにならないだろうけど
永井路子が2人の関係に着目したのは慧眼だね
作家なら存分に腕をふるえる素材 北条家にとっては唯一の同盟関係であり、常に情勢の鍵を握るキーマンだった
しかも、同盟という割には敵勢力から常に懐柔の標的にされているという 梶原追放
比企合戦
畠山重保稲毛重成討伐
牧氏事件
和田合戦
実朝暗殺
承久の乱
伊賀氏事件
こんだけ全部に関わってるのってどーよ三浦義村
ほぼ首謀者じゃねーか
義時は従兄弟とはいえなあ >>731
でも最後から2番目の承久の乱で普通に上皇側につくと思われてるんだぜw 和田合戦の後に裏切り者呼ばわりされたらしいが、三浦義村にとっては和田義盛は目の上の瘤でしかなかったのだろうから、裏切りというよりは表返りだな 義村が伊賀宗光の陰謀に巻き込まれたときは、政子が屋敷まで乗り込んで直談判で警告を受けている 義時には終生忠実だったな
承久の乱後は義時も何度も三浦の別荘に遊びに言ってるし
義時死後もというべきか
泰時に陰謀企むこともしてないし なんかあったんかな
義村が困ってるとこを義時が助けたとかさ 尊氏だけは絶対に裏切らなかった京極高氏に通ずるものがある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています