アイヌ琉球とかいう植民地支配の成功例 [無断転載禁止]©2ch.net
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近世ならば植民地というか経済属国みたいな感じじゃない
琉球はともかくアイヌは国じゃないけど 琉球に関しては古琉球時代は和服を着て和船を使い本土と同じく二本差しの文化があって
むしろ本土と見分けがつかなかった
それをすべて禁じて異国風を強調した格好を強要したのが薩摩
変わった名前が多いのも「大和めきたる名字」が禁止されたため 明治の日本は非常に貧しく、
むしろ困窮した和人が、「我が子をアイヌに託す」ような事例が多かった
> 食うや食わずで飢え死に寸前というときに、
> その土地でしっかり根を張って生きているアイヌの人々に
> すがるような気持ちで子供を託すことになった」(p.176)
> 「千歳の蘭越に住んでいたアイヌの人たちの中で
> 和人の子をもらって育てない家は一軒もなかった、というほどだった」(p.175)
そんな貧しい状態の日本であってすら
(当時のアイヌの陳情を聞きいれ)「旧土人保護法」で、アイヌ優遇施策したのは画期的
立派なこと 中世に働き場を探して北上した移民のなかには、子供をアイヌ人に托すどころか、
日本人からアイヌ人に同化した例があるらしい。
日本人の瑞穂の国の生活では、北の寒冷地には対応できなかったからな。
ずっと後に操船技術が向上して生活必需品が輸送できるようになって、日本人が入って行ったけど。 渡党〔中央文化に染まったアイヌ〕の蠣崎氏→松前藩
>>4
・松前藩は、他のアイヌに日本語教育をしなかった
(この点、教育受ける権利奪った、未開のままにした、と松前〔中央寄りアイヌ〕が叩かれる)
・幕府直轄時代、希望者には、和風の服装や髷を許し日本語を教育した
・明治政府が、日本語の読み書きや衛生など教育をした
(この点、アイヌ文化を奪った、と幕府や明治政府が叩かれる )
・・・どっちにしろ難癖つけられる・・・特に幕府はアイヌの山丹交易の借金払ってあげたのに >1766年 - イワン・チョールヌイが国後場所に侵入。
>ロシア人として初めて得撫島(ウルップ島、後の得撫郡)以南に到達。
>周辺のアイヌから毛皮の取り立てや過酷な労働を課し、
>ウルップ島で多数の女性を集めてハーレムを作る(1769年まで)。
厚岸町の歴史物語
https://www.akkeshi-town.jp/syoukai/rekishi_bunka/history/rekishi/
>18世紀に入って千島列島に沿って南下し始めた。
>ロシア人が千島のアイヌに課した毛皮税は過酷で、同地のアイヌは南に逃れ始め、
>ロシア人もそれを追って南下した。
ナポレオン戦争によってロシアの注意が極東から離れなかったら、
かなりの部分をロシアに奪われてただろう
フヴォストフ事件での敗北、津軽藩士殉難事件での大量死とボロボロだった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています