九州は肝心の邪馬台国の時代には中小の集落に分裂して各々孤立した状態を呈している

倭人伝に描かれていると思われる北部九州にのみに限定したとしてもココをまとめるような勢力も中心地も存在しない
そして南方に視点を移したとしてもここは奈良に至るまで独自の文化圏を維持していて北部九州を支配してた邪馬台国の存在など見出せない
逆に北部九州のこの地域は畿内や吉備の土器が広くハッキリと分布する地域となっている
これは倭人伝にある「女王国の強い影響下にある九州」という状況に合致する

考古学的な発見と倭人伝の記述を併せてみればその記載された状況が明確に現れてくるのが分かる
九州説など根本から成り立たない