邪馬台国畿内説 Part260 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1502633429/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である >>898
だから狗奴国との戦後処理の4世紀こそ低迷したけど
567世紀にはそれ以前を遥かに上回る
とてつもない副葬品が物証として大量に出土してるでしょ?
それを無視して述べるしかないってことは
完全に学問的視点を欠如しているよね >>898
>平原が須玖岡本、三雲小路、井原などから続く九州の大量出土の最後
>しかもその内容は大半が国産鏡
>それ以降は九州のどこからもそんな場所はなくなる
>他の地域も国産の小型鏡中心になる
>その動きは副葬品のみならず銅矛や甕棺の分布と言うそれまでの九州の中心性や統合性の崩壊も同期している
その後も九州北部には強大な勢力がひしめき合い、西日本や半島からの膨大な富を分け合っていた。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif >>803
>>806
への反論マダー?
反論もできず
物証を無視して妄想を騙るだけなの? 九州説とか言う連中は現実無視して時代を変えれば誤魔化せると思ってるから救いがたい
「どこの時代に移しても」「どの地域に移しても」「どんな遺跡を持ち出しても」
結果は同じ
九州は弥生時代後期にそれまでのまとまりも中心も失い崩壊して他地域の影響下に入る
その動きは古墳時代になってさらに強まり九州の中心性など見出せない
「どこのどの時代に逃げても結果は同じ」 >>898
宗像大社の沖津宮の宝物は1万点以上が一括で国宝だそうで。
世界遺産にもなるそうですよ。
衰退していたら無理ですねえ。 >>904
影響下に入ってないでしょ
思いのままに各種の古墳を建設
豪華絢爛たる副葬品
影響下に入ったら、全国の他地域と同じく前方後円墳で統一されて
装飾古墳なんて出現しないよね >>901
5,6世紀ごろの九州の副葬品は「規模の小さい古墳」から出てくる
江田船山古墳の鉄剣からも分かるように九州が畿内を中心とした勢力のヒエラルキーの下位に属している事の証拠にしかならない
交易をしやすい場所であるという点から外来品を手に入れやすかったというだけ
それをもってしても政権内での地位はその程度しかなかったという証拠
九州の大型古墳はちょうど応神、仁徳期に后を出した日向地域にようやく現れる
「朝廷との繋がりによって地位を得られる」「史書の記述に則した古墳規模」と言う九州の姿を見る事が出来る
ここに畿内の影響を排した独自の王朝の存在など見出す事は出来ない >過去の財産を鋳つぶして作った誰にも何の影響も与えてないオナニー鏡がなんだって?
スレ主のありがたいお言葉ですぞ >>904
>九州説とか言う連中は現実無視して時代を変えれば誤魔化せると思ってるから救いがたい
>「どこの時代に移しても」「どの地域に移しても」「どんな遺跡を持ち出しても」
畿内説がそれをやっているからといって、九州説も同じだと思うなよ。
時代を無視して遺跡も無視して文献も無視して、3世紀に畿内に邪馬台国があったなんて言い張っているなんて、おかしいだろ。 >>904
九州説は淡々と考古学的反証>素晴らしい副葬品の数々を挙げて反論しているのに
それから逃げて妄想を唱え続けるだけですかね?
>>803
>>806
への反論マダー?
逃げ続けるの? >>907
いや装飾古墳とか自由気ままに独自性の強い古墳を作りまくってるし >>907
ヒエラルキーねえ。
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 新羅にお小遣いをもらっていた筑紫君磐井は6世紀前半にしばかれてトンズラしている >>907
応神天皇は九州生まれの九州育ち、宗廟も九州にある。 九州説の反論が的外れならコピペ連打でいいのだが
豪華な副葬品の数々や
装飾古墳を初めとする独自性の強い古墳群やら
実証を呈示しているのに
それに目を塞いでコピペ連打するとかなんなの一体? >装飾古墳とか自由気ままに独自性の強い古墳を作りまくってる
肥人は8世紀まで異人だから >>911
前方後円墳と言うシステム内の独自性に過ぎない
結局中央から出された枠内に収められている
しかもその規模や格は決して高いものではない
九州で見られる大型古墳は朝廷との関係の深い場所に限られそのシステムが機能している証となっている
副葬品にしろ装飾にしろ根本的な大きさや形状と言った部分に触れない部分での裁量に過ぎない
もし本当に中央の影響など気にしないのなら古墳などそもそも使う必要がない
中小古墳を採用せざる得ない時点で九州の地位など知れるという物 >>913
新羅は筑紫倭国に朝貢していたんだねえ。
すごいことだよ。 >>917
苦しいねえ
他地域に無い装飾古墳などが作られている
筑紫磐井の石文化もそう
つか、それが奈良に流入しているし >>910
申し訳ないんですが
>>803と>>806の意味が誰にもわかんない
日本語・・・・ >>803
>>806
への反論マダー?
論点をずらして逃げ続けるサンドバッグ >>916
肥国姫氏王家が倭国に参加したのは、まさに倭国大乱から卑弥呼共立にかけてだったろう。
その後の壹與や神夏磯姫が筑後、と言っても本来は肥国とのつながりが強いことを見れば、卑弥呼がもともと肥国の女王であった可能性に行き当たる。
だからこそ、肥後狗奴国の王も卑弥呼と瓜二つの名前なのである。 >>917
いや、中小古墳がそもそも倭国の主流だから。 「無文字,唯刻木結繩」
隋書には倭国に文字なし、ただ木に刻み目を付けたり、縄に結び目を造ったりして文字の代わりにしていた、
とあるね。
一般には文字は使われていなかったとの証言ですな。 >>920
でも筑紫倭国の方が強くて格上だったんですね。 ワタシ ニホンゴ ワカリマセン
ドレイ ニ オシエテアゲマース
>>295
奴隷なら奴隷らしくしろ
と言われたことがあるでしょ
半島のほうが上なんだよ >>927
九州説は考古学的資料を提示して説明しているのに、畿内説が理解できずにいるんだろう。 今日のスレ主
>新羅のほうが筑紫よりはるかにでかい >>923
ガジンの妄想
ガジンが歩いた跡はペンペン草も生えない >>929
古墳という文化や、鏡や矛といった文化が一式流入しているよね。 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 >>931
で?
どんな考古学的資料を提示してるんだ?
?????????????????? 大和と違って北九州には天神地祇の大掛かりな神殿がない
これでは国家的レベルでの政事つまり祀り事は行えない
古今東西を問わず、都には国家安泰を祈る場所(神殿・宗廟・寺院・教会など)が必ず必要なのだが博多にそのような場所はない
後々時代で言うところの鎮護国家の祈りが出来なければ国主たり得ず、博多に王都があったとはとても思えない
それが出来る場所は大和だけ
纒向が国家祭祀の中心だったと考えられる 全国に分布する中央から与えられた規格に従ってるのを見ても「九州が中心」とか言い張る辺りもう笑いしか出ないなw
しかもまさに九州からそのシステムに従ってる証である文字の記載された鉄剣さえも見つかっている
で?その財宝ザクザクのお墓から他地域、最低でも「筑紫国?」とやらを支配してるような何らかの痕跡でもあるのか?
そんなもん何にもない
あるのは全国的な支配網の中に諾々と従っている姿しかない
笑わせてくれる >>940
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>939
>卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
という理由は? >>945
さすがにそれはバカだろう
時代がメチャクチャだ >>3
>その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
帝王陵である行灯山、渋谷向山と古墳の規模として同等である箸中山が記紀において帝王陵でないと明記されている。
つまり、記紀作者の概念に置いては、古墳の規模が帝王陵の条件ではないということ。
>このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
記紀時代の感性として、古墳の規模が帝王陵の条件ではないということ。
>換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
新規創作できないから、記紀に記されている通り、
記紀に置いて陵墓ではないとされている箸中山は陵墓ではなかったんだね。
>乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
つまり記紀にするされている通り、箸中山の被葬者は帝王じゃなくって、モモソ姫。
>紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
>箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう
改竄しきれなかったという推測など不要。
箸中山の被葬者は記紀の言う通りのモモソ姫。
手づかみで食事していた邪馬台国より後代の、箸を使い始めた時代のモモソ姫≠3世紀卑弥呼。 >>3
>その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
帝王陵である行灯山、渋谷向山と古墳の規模として同等である箸中山が記紀において帝王陵でないと明記されている。
つまり、記紀作者の概念に置いては、古墳の規模が帝王陵の条件ではないということ。
>このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
記紀時代の感性として、古墳の規模が帝王陵の条件ではないということ。
>換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
新規創作できないから、記紀に記されている通り、
記紀に置いて陵墓ではないとされている箸中山は陵墓ではなかったんだね。
>乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
つまり記紀にするされている通り、箸中山の被葬者は帝王じゃなくって、モモソ姫。
>紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
>箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう
改竄しきれなかったという推測など不要。
箸中山の被葬者は記紀の言う通りのモモソ姫。
手づかみで食事していた邪馬台国より後代の、箸を使い始めた時代のモモソ姫≠3世紀卑弥呼。 九州から外に出るような影響は弥生時代を通じて殆どない
特に畿内には須玖式の土器のホンの一かけらが見つかって大騒ぎになる程度しかない
このような事から「東遷」も「東征」もないという事の証拠となっている
この事実を無視して九州が他地域を支配した、大きな影響を与えたなどと言う妄想は成りたつはずもない
九州説は孝行学も何も知らないのがよーくわかるな >>942
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市の高祖神社が掲げる宮号。
糸島平野と福岡平野の間にある高祖山の南の峰をクシフル山と呼び、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮が記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城は高祖山・クシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられ、平原遺跡からはニニギ王家の家宝である八咫の鏡が出土している。
平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀の女王墓であり、卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
伊都国までの移動は日帰りではやや厳しいか。
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡であり、平原遺跡に見られる鳥居や御柱などと合わせて、3世紀においてすでに神道が成立していたことをうかがわせる。
魏志において卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 >>947
つまり九州説は
考古学的資料を提示できないんだよね?
そうだよね? >>4
>乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
乃ち、大市の倉庫と自分で言っている。
祭祀空間であって大市?
どちらを取るのか?
>威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
>しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
国家形成には文字が必要だね。
考古学的には北部九州から文字使用の証拠が多数見つかっているね。
で、畿内は?
>定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
北部九州をディスるために吉備を持ち上げておいて吉備の手柄を横取り?
その根拠が土器?
>初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である
3世紀における最重要物資である鉄器の通商圏に参加してない >>4
>乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
乃ち、大市の倉庫と自分で言っている。
祭祀空間であって大市?
どちらを取るのか?
>威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
>しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
国家形成には文字が必要だね。
考古学的には北部九州から文字使用の証拠が多数見つかっているね。
で、畿内は?
>定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
北部九州をディスるために吉備を持ち上げておいて吉備の手柄を横取り?
その根拠が土器?
>初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である
3世紀における最重要物資である鉄器の通商圏に参加してない 平原は何も祀っていない
井手さんがミカン作ってただけ >>952
どうして古墳の規模が帝王陵の条件ではないの? >>958
これだけ考古学的証拠を呈示しているのに
その発言は不誠実だね >>950
平原の後も九州北部は繁栄しているという証拠だけど? >>942
>古今東西を問わず、都には国家安泰を祈る場所(神殿・宗廟・寺院・教会など)が必ず必要
日本の場合、壮大な神殿が造られ始めるのは、仏教伝来後の寺院を模倣してから >>966
7世紀以降の帝王陵は規模を求めていない
3世紀同時代の帝王陵も曹操墓など規模を求めていない >>961
>どちらを取るのか?
両方書いてあるんだから両方だろ >>954
>九州から外に出るような影響は弥生時代を通じて殆どない
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 畿内説はのたうち回ってるけど
九州説は淡々と証拠を呈示していく >>967
古学的証拠って、どれ?
??????????? >>974
>>>964
>証拠がないんだな
>
>じゃ、だめ
>>913
>新羅にお小遣いをもらっていた筑紫君磐井は6世紀前半にしばかれてトンズラしている
日本書紀だろ。
自分で読めよ。 時代錯誤は、九州で出土した副葬品の分布地図
しかも情報が古い 文字が普及していないなら邪馬台国じゃないってところから
ひたすら逃げ回ってるね >>977
これだけのお宝があって繁栄していないと思う方がおかしい。 >>981
畿内は邪馬台国と関係ないってことだろ。 九州は交易の拠点だから財物が手に入りやすいのなんて当たり前
だがここは全国規模の規格の支配下に入っている地域で、この地域自体の中心もまとまりも存在しない
この動きは弥生時代後期から古墳時代、飛鳥、奈良と変わることなくドンドン中央の影響強まる一方でしかない
ここに日本の中央も、九州一つまとめた勢力さえも存在していない
中央に従う証である古墳から出る財宝とやらを持ち出してそれが主張できると思ってるのだから度し難い >>979
奈良時代を出すよりマシだし
そもそも
平原以降は衰退しているという
そちらに対する反証として
後代の九州副葬品の一覧を出しているわけで、
結局は畿内説は言葉騙しをしているだけだね >>984
交易の拠点で流通している物を
畿内は入手していない >>980
理由が説明できてないでしょ?
あなた日本語よくわからない人? >>979
新しい資料にすれば、さらに九州北部への富と権力の集中の証拠が増えるだけだけどね。 >>953
>>962
への反論マダー?
逃げ回って
このスレを終了させる作戦だろうけどw >>984
>中央に従う証である古墳から出る財宝とやらを持ち出してそれが主張できると思ってるのだから度し難い
中央ってどこのことですかね。
まさかど田舎の奈良盆地とか言わないよね。 >>990
畿内説は考古学と向き合わないんだな。
妄想に浸っているんだ。 >>987
文字が普及していた北部九州
そこを通過して外交交渉するなら文字が普及しているのが当たり前
なぜなら、政治的に恭順させる=文化的に接収するわけだからね >>979
両サイドの考古学厨にいえるのは、
出土品の解釈が誇大なのではないかということだ
●地域と×地域で、同じ出土品が出たぞ 同じ型の古墳だぞ
きっと同じ王の支配を受けていた証拠だ 証拠になってないからww
当時倭国で流行していたとは指摘できると思うが、支配の証拠にはならない >>953
>>962
への反論マダー?
逃げ回って
このスレを終了させる作戦だろうけどw >>987
誰が魏と国書を交わしていたのか。
伊都にいた倭王だ。
倭王の名は卑弥呼だ。 >>985
なに言ってるんだか解らない
何で伊都国と関係ない副葬品がいっぱいあると伊都国が衰退してないの? >>994
>当時倭国で流行していたとは指摘できると思うが、支配の証拠にはならない
一理あるが、2〜3世紀の威信材が出る遺跡が九州北部にしかないことを忘れてもらっては困る。 >>997
後代の畿内ヤマト政権と同じく
奴国と伊都国あるいは周辺地域で都を移していたから レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。