とうとう、畿内説が破綻したね。。。。 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
大規模調査以来、多くの考古学者が畿内説から離れて行ってしまった。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 あの重複偽スレッドで、キナイコシがまた無知を晒しているよ。。。
642 名前:日本@名無史さん 2018/03/30(金) 09:16:43.41
>>641
5世紀の文献で2〜3世紀を語ることはできないよ
そこが間違い
当時は法律も神話もないんだから「人を継続的に安定して統治する」ということは不可能
法も宗教もなければ「人」が個人のカリスマと人脈で統治する他なく
ある同盟関係も、同盟のリーダーが死ねば崩れるような脆いもの
キナイコシは魏志倭人伝も読んだことがなかったのだね。。。 >>756
そうだね、、、
魏志倭人伝には、倭人が法律を犯したらどうなるか書いてあるのにねw キナイコシが畿内説を論破されてしまったのは、畿内説が破綻していること意外に、キナイコシの知識や頭脳が足りないことも大きいねw キナイコシは他にも無知を晒しているようだよ。。。
古事記が5世紀に書かれた書物だと思っているようだね。。。 キナイコシの日本語は、とても変だな。。。
キナイコシの手も足もどこに隠してあるのだろうか。。。
635日本@名無史さん2018/03/30(金) 08:43:42.41
邪馬台国論争に敗れた九州説は
畿内越の手も足も出ないので
荒らしや嫌がらせ
専門になった 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
キナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、 考古学を勉強すればするほど、纏向が大物主の倉庫だったことが、腑に落ちるのではないのかな。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
キナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 考古学を勉強すればするほど、纏向が大物主の倉庫だったことが、腑に落ちるのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 結局、纏向説が学者の研究成果を素人考えで拒絶しなければならないということは
考古事実は纏向説の可能性が無いことを示している
だからここのように荒らしでいやがらせするしかなくなった 相変わらずテンプレにホケノの年代決定の根拠が書いてないなあ。
直接調査できない箸墓にも関わる部分だから超重要でしょ。
何もかもが否定している中で、土器と前方後円墳だけが頼みの綱。
けど物資や人員は都へと集められるのだから土器は逆に否定要因になりうる。
あとは定型型前方後円墳が3世紀中旬ではホケノ箸墓が最大だから最大権力者という論にすがるしかないが
その論拠となるホケノの年代決定が抜けている。 簡単じゃん。
鉄鏃があるんだから、周囲の領内に鉄鏃が出現する時代の支配者。 北陸関東の土器は出雲には出土して
出雲の土器は逆じゃないんでしょ?
すると播磨大和土器が筑紫に見られるってことは筑紫の方が王権主体としてもいいと思うけど。
でも逆もあるから
穏当に相互交流があったくらいか。 出雲から越への進出はスサノオとイソタケル、出雲から関東への進出はホヒだったかな。
ちゃんと進出先に伝承が残されている。
伝承はわりと考古学と一致しているように思えるね。
筑紫が出雲を下して倭の政権を取ったのも事実だったんだろう。 畿内説ははじめから破綻してるし、始まってもいない。
畿内=ゲルマン。
山西省の大同府に起源がある。 纏向遺蹟の真実が暴かれて、邪馬台国畿内説は破綻しました。。。 >女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種
>又有 侏儒国 在其南 人長三四尺 去女王四千余里
邪馬台国の東に海を渡って千余里で倭種の国でしょ。
その南に、侏儒国。
畿内から東に海を渡って倭種の国だと、狗奴国はどうなるのん?
やっぱ南にあるの?w
東の倭種の国から、南にある侏儒国は、伊豆諸島かどこか?www そもそも三国志東夷伝は東夷伝里で記載されており、
弥生時代にしては驚くほど正確に、現実の地図と対応している。
これは事実だ。
その東夷伝里の尺度だと、径百余歩は約25メートルになる。
平原1号+2号+多数の土壙墓を共通の周濠が取り囲む
「卑弥呼様の墓域」の長径に相当するわけだ。 では、3世紀の魏使(張政)が、どうやって径百余歩を測定するかというと、
自分の足で歩いて数えた可能性が一番高いだろう。
その観点から言うならば、
世界最古の皇室を含めた、各国の古式式典での歩き方は、
右足→左足→右足、という大股歩きではなく、
右足を踏み出す→左足を右足まで揃える→右足を踏み出す、という厳かな歩き方なわけであり、
一歩は最大でも36センチ
だから径百余歩の生データは36メートル以下。 張政が歩いて数えた歩数を記しただけなら、
生データの、36メートル以下
張政が気を利かして東夷伝里に変換したのなら、
東夷伝里における径百余歩に変換して、25メートル
張政が超気を利かして魏里に変換したのなら、150メートル
自分としては、一つ目の可能性が高いと思う。
九州説は昔から、二つ目を主張している。短里として。
東夷伝里が存在することを認めた瞬間に敗北を認めることになるキナイコシは、
三つ目を主張しているわけだ。 一つ目も二つ目も三つ目も否定はできない。
だが、もう一つの条件がある。
張政は、卑弥呼の次の男王を経て、台与の時代に帰国している。
だから、卑弥呼の墓・墓域の完成形を見ているわけだ。
よって、
>平原1号+2号+多数の土壙墓を共通の周濠が取り囲む
>「卑弥呼様の墓域」の長径に相当するわけだ。
については、
キナイコシがいくら喚こうが、
一つ目と二つ目が否定はできない以上、否定できない。
だが、
「巨大前方後円墳の完成形」については、
一つ目も二つ目も三つ目も最初から当てはまらないのだから、
明らかに否定されている。 【要点】
・卑弥呼→男王→台与の時に帰国した張政は、「完成形」を見ている。
・女王卑弥呼の葬儀に参列した、魏外交官張政は、厳かに歩く。
・一歩をつま先からつま先まで測定すると、36センチ(身長160)。
よって、径百余歩=約36メートルは、
>平原1号+2号+多数の土壙墓を共通の周濠が取り囲む
>「卑弥呼様の墓域」の長径に相当するわけだ。
異論はできても、
「否定することは不可能」 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 よそで完膚なきまでに叩き潰された戯れ言をよく性懲りもなく書けるもんだな >>792
>・一歩をつま先からつま先まで測定すると、36センチ(身長160)。
歩幅半分の36センチは、ドワーフかホビットww >これは現代の取り決めであるから、
>張政が記す場合は、当然右足→左足の幅に換算しなくてはならない。
バカすぎ
現代の一歩の方がむしろ単歩(右足→左足の幅)を指すことが多い
歩という字の象形文字からの成り立ちから言っても、
実際の中国古代からの度量衡を確認しても、
漢でも魏でも晋でも、一歩は現代で言うところの複歩(右足→左足→右足の幅)で
あるのは絶対に動かないよ
つまり
>160×0.45÷2 ×100=3600センチ=36メートル
この計算は無意味
160×0.45を認めても72メートルになる
というか魏の度量衡で一歩は1.45mほどと分かっているのだから
100余歩は145m+αにしかならん 「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
#3止は左足の足あと、少は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
https://jigen.net/kanji/27497
さらに設問解字も付けてやろう
步:行也。从止少相背。凡步之屬皆从步。
https://ctext.org/dictionary.pl?if=gb&id=27271
行くなり、止と少の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。 実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更) 単歩であっても、一歩36センチはバカ丸出し
伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm
さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png
単歩だとしても、36センチってのは圧倒的にバカだろ? 「成人の歩幅=身長×0.45 」
これの元ネタ見つけた! オムロンヘルスケアのページだろ?
http://www.faq.healthcare.omron.co.jp/faq/show/4195?site_domain=jp
ここに、「歩幅の目安は身長×0.45です。」と書いてある
でも、このページには、きちんと歩測の説明図が付いていて、「単歩の歩幅」の測り方で「身長×0.45」になることが明示されている
それを無視して、
「この場合の歩幅とは、右足→左足の幅ではなく、
右足→左足→右足の幅であるということ。 」
と勝手に変換して、
「これは現代の取り決めであるから、
張政が記す場合は、当然右足→左足の幅に換算しなくてはならない。 」
こう書いてあるのが、どこまでもバカ この計算の
「160×0.45÷2 ×100=3600センチ=36メートル 」
の「÷2」がまるっきりいらない
そうすれば、一歩(単歩)72センチで、オムロンヘルスケアさんの言うことが
間違っていないことが確認できる
最初は、歩測の距離には足裏分が入らないから、36センチでいいって言い張ってたんだけどね
(>>506を参照)
で、>>517で足裏が入らないのはバカって指摘されて、それ以降足裏分のことは
言わなくなったけれど、36メートルに計算を合致させなきゃいけないから、
一歩=36センチを言いつづけている訳だ
ソースはこの図
http://www.faq.healthcare.omron.co.jp/usr/file/attachment/hohaba.png?1409013517 >右足を少し踏み出す→左足をその右足の横に揃える→右足を少し踏み出す
>静々と歩いていく。
すごい妄想だな
そんな歩き方をしたという文献記録があるならまずそれを出してから、
それが卑弥呼の葬儀の時にも適用されたという論証に進めばいい
文献記録も何の根拠もないなら、意味不明の妄想 >36センチどころか20センチくらいの小幅で
それが長さや距離の単位の「歩」にはならないことは、
漢字で報告書を書く魏使にとっては当たり前
本当にバカな、根拠にもならないことを書いてるな 径百余歩は魏使(おそらく張政)の実測。
戯れに、平原女王墓の横を実際に歩いて測ったのだろう。
成人の歩幅=身長×0.45
注意しなければならないのは、
この場合の歩幅とは、右足→左足の幅ではなく、
右足→左足→右足の幅であるということ。
これは現代の取り決めであるから、
張政が記す場合は、当然右足→左足の幅に換算しなくてはならない。
よって、張政が身長160cmだったとして、
平原女王墓の長さを自分の歩幅で測って100歩だったのなら、
160×0.45÷2 ×100=3600センチ=36メートル
さらに重要なのは、
完成したばかりの卑弥呼女王の墓の長さを測るのに、
「周濠の中に入って土盛りの大きさを測るような失礼なことはできない」
「しかも歩幅で大きさを測っていますよとあからさまにわかる失礼なことは出来ない」
張政は平原女王墓の墓域を囲む周濠に沿って、
自然な感じで歩き、頭の中で歩数をカウントして、旅誌に記しただけのこと。
平原1号+2号+多数の殉葬土壙墓+共通の周溝で囲まれた墓域
=卑弥呼の墓域=長径百歩 バカすぎ
現代の一歩の方がむしろ単歩(右足→左足の幅)を指すことが多い
歩という字の象形文字からの成り立ちから言っても、
実際の中国古代からの度量衡を確認しても、
漢でも魏でも晋でも、一歩は現代で言うところの複歩(右足→左足→右足の幅)で
あるのは絶対に動かないよ
つまり
>160×0.45÷2 ×100=3600センチ=36メートル
この計算は無意味
160×0.45を認めても72メートルになる
というか魏の度量衡で一歩は1.45mほどと分かっているのだから
100余歩は145m+αにしかならん 普通に一歩踏み出して測ってみろよ
36センチだろ?
そういうこった >普通に一歩踏み出して測ってみろよ
>36センチだろ?
つまり現代では「歩といえば単歩」だと認識しているってことだ
でも、度量衡でいう場合の「歩」は「複歩」だよ
そして>>809でもツッコミが入っているが、
足の裏の大きさ≒靴のサイズがかなり小柄な人でも20センチ以上はあるのに
単歩で36センチって、足跡の間隔が10センチちょいってことだぞ
どんだけちょこまか歩いてるんだよ(大笑)
無理に無理を重ねて作った設定が、それでもどうしようもなく無理があるんだから
平原1号墓を百歩にするのは無理なんだよ
つまり伊都国=邪馬台国には何の根拠もない
伊都国=邪馬台国説の理由は、事実上「平原1号墓が卑弥呼の墓」っていう思い込みだけだから ほらねw
議論を無視して連呼するキナイコシw
ど素人のただの官僚の張政が
普通に歩いて歩数を数えたのが百余歩
一歩=36cmが普通の人
ドワーフなら、一歩=70cmになるかもねw
みなさん今すぐ立ち上がって、定規で36cmをマークして、
一歩を踏み出してみてください
はい、36cmですね! 「一歩は複歩」っていうのをどこまでも無視するつもりだな
バカすぎ >一歩が26センチくらいなら問題ないな。
足(靴)のサイズ、いくつだよw
足裏分は距離に入らないとか考えてるのか?
バカすぎ 足先→足先
or
かかと→かかと
足裏分は距離に入りませんよ
バカすぎ
張政が自分の足で実測した百余歩=約36メートル
=平原1号+2号+多数の殉葬土壙墓+共通の周溝で囲まれた墓域
=卑弥呼の墓域=長径百歩
キナイコシが発狂して叫んでいるだけで
有効な反論もないようですね。 倭人は1ヶ月は喪に服すとある。
そんな慎み深い倭人女王の墓に向かって、外交官が失礼な行動はできない。
倭人の高官と一緒に平原女王墓を見上げながら、
周濠に沿って、ゆっくりと歩き、
頭の中で数えた歩数を記したのだろう。(長径百余歩=約36メートル)
冷静に考えればわかる。
・楽浪郡使=楽浪土器の分布範囲
東夷伝里で記載された、卑弥呼以前の三雲南小路などが交流した時代の
楽浪郡使が実測(東夷伝里)
・倭人伝記載の見聞録や日数
魏使が日誌に残した日数や見聞録(日誌)
卑弥呼の平原女王墓の長径百余歩(歩数実測)
・中国発明の尺度を輸入した倭人の残した記録
八咫鏡(漢魏尺) 議論を無視してる時点でお前はクズw
里=紀元前漢代の、楽浪郡使が使っていた、「東夷伝里」=三国志東夷伝全体で統一
歩=魏使(張政)が自分でポクポク歩いて測っただけ=36メートル
尺=3,4世紀以降の倭人が漢魏尺をもとに権威鏡の円周を測定したら八咫だった
【径百余歩】
平原1号+2号+多数の殉葬土壙墓+共通の周溝で囲まれた墓域
=卑弥呼の墓域=約36メートル
=長径百歩
【八咫鏡】
円周46.5センチメートル
=平原超大型内行花文鏡 >足先→足先
>or
>かかと→かかと
>足裏分は距離に入りませんよ
>バカすぎ
大爆笑
図に書いてみ
右足から左足を踏み出すときの単歩を考えると
足先→足先 なら
右足の足先から左足の足先だから、「左足の足裏分 」が入ってるだろ?
かかと→かかとなら
右足のかかとから左足のかかとだから、「右足の足裏分」が入るだろ?
足裏分が入らないためには、
「右足の足先→左足のかかと」の距離になっちゃうんだよ
図に書いてみてごらん
本当に超バカすぎ
大爆笑ww 魏の役人が、
倭女王卑弥呼の墓域=平原1号+2号+多数の殉葬土壙墓+共通の周溝で囲まれた墓域
をポクポクと歩いて、
ふむふむ、百余歩だのう、
と思って、旅行日誌に書いたのを、
さらに
墓制に造詣の深い陳寿が転載しただけ。
何の疑問もない。 >里=紀元前漢代の、楽浪郡使が使っていた、「東夷伝里」=三国志東夷伝全体で統一
この時点で妄想
紀元前の漢代でも、楽浪郡使は漢の官吏
漢の公式の度量衡を使わない理由は何だ?
>議論を無視してる時点でお前はクズw
議論なんてねーよ
バカが妄想を繰り返し書いてバカをさらし続けてるだけ >歩=魏使(張政)が自分でポクポク歩いて測っただけ=36メートル
一歩36センチはあり得ないって>>818を読んでもまだ理解できないか?
張政がポクポクどころか超チョコマカ歩かないと、単歩でも36センチなんていう数字は出ないぞ
しかも、何度も何度も言うが、歩という単位は「複歩」だ
複歩の36センチは、それこそドワーフじゃないと無理
議論に持ち込めば、九州説はすぐに破綻する 外交官が女王卑弥呼の葬礼に参列して
倭国のお偉いさんと並列して歩いたら
歩幅は36センチ
そんなもんだろ 1歩が複歩だっていうのは理解できたのか?
複歩で36センチっていうと、単歩で18センチ、足裏分より小さいぞ
>外交官が女王卑弥呼の葬礼に参列して
>倭国のお偉いさんと並列して歩いたら
この妄想でも、複歩で36センチはきびしいってのは分かるか
足(靴)のサイズが25センチだったら、右足と左足が7センチずつ重なるように
超チョコマカ歩かなきゃならないぞ?
倭国のお偉いさんと並んでそんな歩き方してたらバカにしてるのかって怒られそう
それにそんな歩き方だったら、その歩数が距離の「歩」にはならないって、
八咫バカ以外ならみんな分かるだろう
どうがんばっても、平原1号墓は径百歩の墓にはならないのは理解できたか? 誰が複歩で36センチって言ってる?
具体的に示してみろよ?
誤魔化して逃げてばかりのキナイコシさんよ? >誰が複歩で36センチって言ってる?
じゃあ、その時点で論外
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩だし
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さになってる
これが認められないやつが、長さの単位について何を言っても何の説得力もないぞ
足裏分が長さが入るのは理解できたか?
これが入らないって言ってたバカがいたんだがなw 足裏分が長さが入って36センチだのうw
くやしいのうw
鉄器ゼロで敗北キナイコシw >足裏分が長さが入って36センチだのうw
自分で書いた>>815がバカすぎだって自分で認めるんだな
>足先→足先 or かかと→かかと
>足裏分は距離に入りませんよ
>バカすぎ
(無駄な改行は削除)
大爆笑&超バカすぎ
そして、複歩を認めないうちは、無能&無脳
本当にバカで本当のバカ
まあ、バカだから八咫バカなんてやってられるんだろうけど 複歩の根拠は?
ただの官吏にすぎない張政が
主張先の葬儀でポクポク歩いて複歩で記載する過程は?
普通の官吏なら葬儀で
女王の周壕沿いに厳かに歩いた、単歩の歩数を示すよねえ?
あんたの根拠は?
なーーーいwww これを正しいつもりで書いているなら、バカすぎ
複歩を理解するのはいつなんだろうね?
まあ、足裏分抜きの単歩で、これなら行けると思ってたのが、
足裏分が入らないのは無理だと気づいたのは進歩だが、単歩で36センチでもきついのに
複歩はもう絶対に36センチは無理だって自分でも分かってるから、認める訳にはいかないんだろ?
でも残念ながら長さの「歩」は誰が何と言おうと「複歩」だから
これを認められないうちは、ただのバカだ
そして、認めた瞬間、複歩で36センチは無理だし、36メートルを百歩だというのも破綻
そして、平原1号墓をひみこのはかだという主張も意味がなくなって
伊都国が邪馬台国という理由もなくなる
まあ、本当はその前に、36メートルという数字は平原1号墓からは出て来ないし、
周りを歩いてとか言ってる時点で、「径」じゃないけどな >>789
属国とはいえ外国の貴人の墓の上をズカズカ歩いて測ったっての?
そんなことをする慣例とかあるわけ? まだ途中だけど、八咫バカがいかにバカなのかはお分かりいただけたと思う 九州北部から水行二十日、陸行一月でまだ九州北部におるんかよ。
どんだけのろまなカメさんなんだよw 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている。。。 >>830
墓域の辺縁を歩いたから、径で示してあるんだろうね。 >>832
重版を繰り返しているうちに、月と日を書き間違えたのだろう(原版は未発見 最古の現存版は13世紀の南宋期の出版物) 832
>九州北部から水行二十日、水行十日、陸行一月しといて、まーだ九州北部にいるんだからw
北部九州からじゃなくて帯方郡からですね。
帯方郡から水行二十日、水行十日、陸行一日(月)で北部九州に丁度到着。 >>835
張政の当時は紙ではなく竹簡や木簡に文字が書かれてがおり
張政の倭に付いての報告書も竹簡等に書かれていたはずだから
陳寿自身が間違えたか、その後の模写の過程で竹簡の文字が染みていて月と日を見間違えた可能性は高いですね。 行程記事に間違いがあることを認めたら、行程記事から邪馬台国の位置を求めるのは不可 >>839
「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
この部分は行程記事ではない
行程記事はこの前迄で終わっている
この文章は行程に掛かる日数を説明したもので
追加で挿入されている文章に過ぎない
なので、問題ない。 群からの里数と伊都国までの里数が書かれてるからおおよその場所はわかるんじゃない 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif なんでよそのスレと同じことを書いてるんだよww
ほんとに芸のないコピペ九州勢w 張政が厳かに歩いた36メートルとか、東夷伝里が25メートルとか書いてる人がいるけど、
平原遺跡のどこを測ったらそんな数字が出てくるのかは、言えないらしいww
平原1号墓が14×12メートルしかないからね! 今来(いまき)の双(ならびの)墓、って知ってるかい? >>817
>倭女王卑弥呼の墓域=平原1号+2号+多数の殉葬土壙墓+共通の周溝で囲まれた墓域
複数の墓を一緒くたにして、墓の大きさを書いたってのが、
どんなバカな主張か分かってないってのが末期的だよな
しかもそれが、その国の王墓だって言うんだから 倭人伝には卑弥呼には百人の奴婢が殉葬したと書かれているからねえ
卑弥呼の墓を探すなら
最初から複数の墓が前提であって
それを満たすのは平原遺跡とか祇園山古墳とかしかない。 >>846
一号墓の豪華さから目を背けるために全体の副葬品が貧弱とか抜かしておきながら、よく言うよ。 >>847
祇園山を押している御仁もいるが、年代は平原の方が卑弥呼に近いよね。
祇園山は壹與だろう。 >>847
>最初から複数の墓が前提であって
>それを満たすのは平原遺跡とか祇園山古墳とかしかない。
そういう現実を無視したこと言ってるから、伊都国説なんていうトンデモを
語ってられるんだろうな
平原1号墓がの周溝の土坑墓は、周溝が埋まってから、その埋まった土に土坑を掘ったもので、
1号墓(2号墓)本体とは、50〜100年程度時間がずれている
そんな殉葬はない
2〜6号墓は独立した墓で、2号墓以外は築成時期も違う
ただの集団墓地(おそらく家族墓)を複数の墓があるから殉葬の可能性だなんて
突飛な発想もあるものだ
祇園山古墳は、ただの古墳時代の方墳で、古墳時代に墳墓としては小さいし
地方の小領主の墓がいいとこ
周囲の墓は甕棺墓や土坑墓であって古墳時代以前のもので、祇園山古墳の
基盤作りの時の地山成形の時に、 墓坑が削られたりしている
こっちも古墳と周囲の墓は年代がはっきりずれてる
平原も祇園山も、ただ空間的に近くにあるだけで、時間的に大きな隔たりがある墓を、
妄想力で殉葬墓だと思い込もうとしているだけ
殉葬墓だとはっきり認められる墓はここまで一つも発掘されていない
考古学的には、倭国(日本)に殉葬の習慣があったとは認められない
吉武高木遺跡や吉野ヶ里遺跡に見られる、庶民墓地の甕棺墓列を見て、
大陸の人が殉葬墓だと勘違いした、くらいのことだろう >>848
>一号墓の豪華さから目を背けるために
ていうけど、仿世鏡がたくさん出るだけの墓だよ?
ガラスの耳飾りが、とかいう人がいるが、ガラス製品なら丹波の大風呂南墳丘墓の方が
見事なものが出ているし、五尺刀がと言う人もいるがこれも大風呂南墳丘墓から
弥生墳墓では最多の11本の鉄剣が出土している
結局、平原1号墓で特筆すべきはデカい内向花文鏡が5面出ていることだけ
しかし、それも伊勢の八咫鏡とは面径が異なるから、記紀神話の鏡とは異なるし
破鏡供献のために5枚作ったというだけ
伊都国の鏡作の家系が、伊都国王妃を出して、その墓として作ったのが
平原1号墓、くらいの位置づけが相当だと思う
なにより、小さすぎて大作冢徑百餘歩に合わない
平原1号墓は14×12メートルの大きさしかない >>851
なるべく過小評価しようと腐心しているのがわかり、痛々しい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています