古事記以前の書物について [無断転載禁止]©2ch.net
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倭面土国は何と読むのですか?
ヤマトですねわかります [天] 之 日 [矛]
[阿毎]多利思[北孤]
[北孤]が[矛]に文字変換 置き換えされている
[北孤]の[孤]は[孤竹]の[孤]で王の称
[北孤]は華夏の皇帝のシンボルの北極星を踏まえた呼称なのだろう
[矛]は当時の倭語ではおそらく[mo]あたりで発声されていたんだろう
[鉾]の偏省略形の[牟]は[mo]音だと比較的容易に解析可能だろう
[都市牛利]の[牛]も[牟]のさらなる省略形で[mo]音ならむ
天之日矛は『三國遺事』に出てくる[延烏郎]とコモンで
男の太陽神です 倭面土はイェミェトと読みます
大和ですありがとうございました >>99
>7. 奧津鏡
>8. 邊津鏡
これらは、おなじような鏡が多く産出する九州地方から後の時代に入手されて宝としておさめられたの?
国宝の「海部氏系図」の内容は信用できるの?
誰が(学者)がその国宝としての価値を評価したの。 伝承通りなら、高天原で天照王が孫の饒速日に渡し、それを持って船で関西までやってきた。
系図を否定する意味もないし、記紀などと矛盾はない上に、記紀にない部分を補うことができます。 >>3
そして鉄剣や仏像の裏面に書かれた文章だけが残ったんだよな
法隆寺の仏像の文章は聖徳太子について書かれてて興味深いぞ 鉄剣の文字で重要なのは3つ
そのうち2つはワカタケルの鉄剣
熊本と埼玉から出てくる
九州から関東まで出兵し征服
中国の書に出てくる倭王武の記述の通りの覇王である
残りの1つは奈良の石上神宮(物部氏の神社)に残された百済王からの贈り物である七支刀
ここには「倭王旨」の文字が見られる
物部、旨とくればその正体は「ウマシマジ」
記紀で物部の祖先とされるウマシマジは倭王だったことがわかり、それと同時に
古代において大王位は天孫族の独占ではなく、物部など他の豪族が大王となっていた時期があったことがわかる 古代において大王位は天孫族の独占ではなかった
日本書紀編纂において、天孫族の権威性を高めるために
天孫以外の大王の存在を消す必要があると考えた朝廷は
過去の書物の一切を禁書としたのだろう
しかし、法隆寺の仏像や古神社に残る鉄剣までは燃やすことができなかったと 一方法隆寺の仏像からも面白い文章が見つかる
それは「大王天皇」という言葉だ
天皇号の成立初期において、
大王 と 天皇 という称号は並立可能なものだった
倭国の最高権力者を大王とするなら
では天皇とはもともとはどういう役割の称号だったのだろう >>110
もともと、天皇と敵対する勢力があってそこを制圧して、天皇が唯一の絶対権力にしたんじゃない?
敗れた勢力は、日本書紀や古事記などの天皇の前の系譜を伝えてた勢力。
それを書き換えて、良い感じに天皇が神の系譜と記したんじゃないかと、俺は思ってる。 >>111
俺も実はそう思うんだよな
神武東征にあたる畿内への外部勢力の侵入は実は7世紀であって
それまではずっと物部と葛城(鴨)の古豪二氏が畿内を仕切ってた
倭の五王に代表される倭王もみな物部か葛城の人間
天孫族の畿内侵入は、定説よりずっと後の7世紀
白村江の敗戦で九州が唐に占領されたときに
九州豪族(天孫族)が畿内に逃れてきて起きた
古代天皇の多くは葛城か三輪に居住した
これはシンプルに、葛城と三輪(物部)の二氏が王権を争っていたということではないか
天孫なんていなかった >>112
え?九州って唐に占領されたことあるの?
無知ですまない。
白村江の敗戦で確実に天皇派の敵対していた勢力は衰えたよね。
でも、俺が思うに制圧というより、合併吸収と言うほうが強かったのかなとも思う。
どっちにせよ、色々掘り起こしたり遺跡発掘を宮内庁がしてほしくないんだろな。
彼らは薄々真実を知ってそう。
実は天皇家は乗っ取り政権で、その昔巨大な勢力があって、文化があってってさ。
その旧勢力の一族がサンカの民になったり蝦夷になったりって。
そこで、日本の古代文字とか使われてたとかロマンがある。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>114
勉強になった!ありがとう。
ちょうどこの辺の歴史知りたかったんだ。感謝。
やっぱりこの辺の歴史およそ100年分がすっぽり抜けてるあたり、真実が隠されてそうだね。 >>111
例えば蘇我氏ひとつをとっても、自分の屋敷を宮門 みかど と称し、行き過ぎが見られたので、
って書いてあるけど、普通に天皇家がNo.1とはいいきれない状態だったんじゃないかなと
別に蘇我氏の方が残って天皇家の位置にいたかもしれない、くらいの力関係で
畿内ですら固まってなかったのではと思えたりする そう考えると、崇峻や聖徳太子を誅殺
するくらい、当時まだどの氏族が天皇家か固まりきってないとすれば、
蘇我氏の方にとっては単なる普通の権力争いだったりして、話がぜんぜん違ってくる それを言うと物部もそうで、アマテラスの孫の饒速日が神武より先に畿内に権力を確立していたのが物部の祖。
神武は奈良盆地の片隅で居候させてもらっていただけ。
蘇我に滅ぼされるまでは物部が最高権力者だったのではないか。
大君家と大臣家と大連家のどこが優勢かと言う話に過ぎない。 物部の先代旧事本紀も斎部の古語拾遺も殆ど紀記と同じ神話を伝承してるのやからそないな突飛もない影の歴史なんてあらへんで
空想しすぎやわ 断片的な情報をつなぐと、以下のような感じ。
高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からない。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていたが、蘇我大臣家と天皇家は物部大連家を滅ぼした(物部戦争)。
次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。 九州の歴史では、蘇我氏の祖は武内宿禰ではっきりしているのだけれど、畿内の歴史では蘇我氏は出自不明なのだな。 ふむ。
出雲口承によると
出雲族@島根、元インダス文明の担い手
出雲族の嫁による徐福の長子の子孫@石見、丹波、笛吹、後の海部家、尾張家。海幸彦に仮託
宗像家の嫁による徐福の次子の子孫@吉野ヶ里、妻、熊野、後の物部氏。山幸彦に仮託
出雲族と徐福族の諍いがあって、出雲族の王家が
葛城に移住。後の三輪氏、賀茂氏
徐福の長子五十猛の子、海村雲が葛城における大王となる。後の綏靖、安寧の后妃は三輪氏から。
という。
この辺りは、国宝海部氏系図通りの内容で
出雲族と海部家の伝承が一致する、そうな。
それと合わせて徐福の到来は紀元前220年くらい
到来の証拠が、出雲、丹波、綾羅木遺跡などから出た石笛のトウケンだという。
また、丹波地域の弥生時代の開発が
紀元前2世紀、1世紀ということで製鉄遺跡が残っているから、出雲口承が考古遺跡から裏付けられるように思う。
ただ、石見からなぜ丹波に移民する必要があったのかは出雲口承では語られない。不明。 三輪氏、賀茂氏の次に丹波から村雲が丹波人を
連れてきて葛城首長と認めた。これが第一段階。
次に天日矛が但馬から播磨に攻めてきて
現地の地理がよくわからないから想像だけど
これは西播磨の話のようで
これにより、出雲本国と葛城との関係が寸断されてしまって、日矛族と全面対決して撃退した。
葦原色許男と争った話が播磨風土記にある。ここと整合する。
ここで撃退したのは孝霊天皇の時代だという。
その後、孝霊天皇は出雲本国に(どういうわけか)
戦争状態になったという。
孝霊天皇は瀬戸内吉備に伝承を多く残す。
三輪賀茂と村雲族で日矛族が手に負えないので
九州から物部氏が熊野まで来たので、それを賀茂氏が引き入れて日矛族を追い払った。
日矛族が奈良にいた証拠が近鉄但馬駅の地名という。
その後、物部氏が奈良を制した。これがウマシマジという。それまでの村雲族から出た孝霊天皇は奈良を追い出された、孝霊天皇の後は奈良では開花天皇が継いだ。ただ、開花天皇の兄の大彦は物部嫌いで銅鐸派だったという。 ウマシマジの物部は后妃を開花天皇に入れる。
物部は道教祭祀として鏡の祭祀を開始し
それまでの三輪山の祭祀の並立状態になるという。
出雲口承は年代がはっきりしないけど
多分銅鐸祭祀がまだ存在していたということだからこれが2世紀後半、唐古・鍵遺跡が生きている頃。
古代氏族の系譜研究をしている宝賀氏によると
神武即位は176年という。つまり、神武東征は二世紀末。神武東征は物部東征だった!という。
その後、物部氏は旧勢力の大彦を奈良から追い払う、伊賀から北陸へ。また東海にも。これが狗奴國という。
村雲族を追い払う、丹波に戻った方が海部家
伊勢尾張に移ったのが尾張氏という。
近江北陸伊勢尾張を繋ぐ交通の要に、伊勢遺跡がある。守山市。考古学的な前後関係は
伊勢遺跡の後で纒向遺跡になるらしい。
また唐古・鍵遺跡の衰退の後に纒向遺跡があらわれるようです。
なので、物部氏が奈良にやって来て銅鐸祭祀が北陸や東海に移り、元奈良勢力がどうも伊勢遺跡の主体だったのではないかというのが私の見立てです。 その後、九州は妻にいた
崇神天皇が 宇佐と連合してもう一度東へ
この宇佐の女王が 親魏倭王の卑弥呼だという。
東征半ばに崇神天皇とこの宇佐族の親魏倭王の卑弥呼は病没。崇神天皇の子 垂仁天皇が続行。
崇神天皇と宇佐の親魏倭王の卑弥呼の子
豊来入彦と豊鋤入姫も随伴。
日矛族の末裔、田道間守は出雲本国を攻略
これが神宝検校に仮託。先に奈良入り。
垂仁天皇は三輪山祭祀を認めることにして
出雲と同盟、これが当麻蹴速の相撲エピソードに仮託。
しかし、親魏倭王を継承した豊鋤入姫を擁立することを宗主国から求められたため、沙穂姫の三輪山祭祀を排し、豊鋤入姫に檜原神社で祭祀をさせる。豊来入彦は開花天皇の後の丹波道主を追い詰め垂仁天皇の王権確立に貢献したという。ここで当初村雲族の王権は交代した。
その後、親魏倭王が目障りになって
出雲本国と密かに同盟した垂仁天皇は
出雲本国兵を奈良に引き入れて
豊来入彦らを奈良から追い出す。豊来入彦らは尾張や東海に移る。
さらに追い詰めて
豊来入彦らは上野下野へ
出雲族は東海を経由して武蔵上総あたりに。
その直後の垂仁天皇の治世は何かあったんだ
ろうけど神功皇后まで以下略。 垂仁天皇の生存年中が親魏倭王の景初年間なのでこれが3世紀半ば。従来の紀年研究では崇神天皇没は318となっており、これはかなり差がある。
ただし、古墳時代の開始年代の議論のある3世紀半ばに土師部の祖、野見宿禰が登場するため
ここは整合している。どちらが妥当か?
また、宇佐族を母系とする豊来入彦が関東に来たことは、新撰姓氏録の各氏族系譜に残っておりここも整合する。 出雲口承は当然現代的な意味での
解釈が入っているので
また当事者の視点での「証言」なので
どこまでが「真実」なのか
見極める必要があります。 宇佐古伝によると
神武天皇と景行天皇は兄弟だという。 >>130
神功皇后が卑弥呼より120年後なので、その祖父の代の景行は4世紀初めくらいだろう。
神武と兄弟は無理がある。 神武天皇が宮崎から北上する際、
宇佐族の海人である佐伯氏と争った。
宇佐族は服属することにし神武天皇族に
宇佐の地を屯田地として与えた。
宇佐族は古くから大陸との交流し
大陸王朝の制度に明るかったからだという。
宇佐津姫と神武天皇には
宇佐稚屋そして安芸に移ってミモロワケが生まれた。宇佐津姫も神武天皇も安芸で没し
景行天皇が後見したという。
ミモロワケは大陸王朝の文化取得に励み
本邦の卜占を定め
現在の宮中祭祀の八神を定める英邁英傑だったという。
宇佐稚屋は二十代で亡くなり一子 押人の後見をしたミモロワケは景行天皇の指示により
東遷を続行し、押人を王朝創始の大王になしたという。 >>131
その通りです。
ここは宇佐古伝を記述する際
宇佐家の伝承に現代的な解釈が入ったせいで
帰ってよくわからなくなっているのです。
したがって
貴重な古伝といってもそのまま鵜呑みにするのはダメで、
当事者の視点だけでなくいろんな資料との
付き合わせが必須なのだと思います。 宇佐古伝の一面の正しさというのは
宮中祭祀と
卜占についてです。
後に宇佐八幡宮神託事件があるように
宇佐と天皇家との繋がりがどこかであったはずだか記紀ではいっさい宇佐との関わりが記されないという状態です。
そして卜占については
神武と同世代の天種子の後が中臣氏に繋がるのですが、
宇佐古俗の服属儀礼で、自分の妻を差し出した事実を
後代の自家系譜の上申時に憚って架空の人物名に仕立てて朝廷に提出したことによるという。
つまり天種子は後の天皇家につながる人で
その子が宇佐家に残り、宇佐家で洗練された卜占の技術を宮中に持ち込んだ。
それまでの畿内の祭祀は神奈備の三輪山祭祀
物部の道教起源の鏡の祭祀。
いつどのように「現在の宮中祭祀」が始まったのか?
亀卜鹿卜など卜占を中臣が独占したのはなぜか?
皇族だったから。
天皇家の母系の宇佐族の祭祀が引き継がれたから。 宇佐古伝の神武天皇といっている部分は
出雲口承でいう崇神天皇とかんがえると
ある程度矛盾がなくなります。
出雲口承では崇神は東征途上で亡くなっている
崇神と宇佐の姫は婚姻した
東征中に宇佐の姫出雲口承では親魏倭王の卑弥呼のも東征中に亡くなっている。
出雲口承でいう豊来入彦が
宇佐古伝にいうミモロワケなら
どちらも東国関東に向かって子孫が土着したことが共通している。
つまり、古伝はやはり一定の事実を残してはいる、ただし、その原伝承の本意が失われて
記述者の現代的な解釈が入っている。こういうことです。
ただ宇佐古伝では親魏倭王、大陸に朝貢したとは全く言及がない。原伝承にはあったかもしれないが、意味がわからなすぎで現代には失伝されたかもしれないことが惜しまれます。 >>121
葛城の鴨族(出雲王国の分家。神=王族をカモと発音していたので、後に鴨の文字が当てられた。(鴨は、甲+鳥。甲は神に同じ、鳥(トリ)は十霊(トリ)最高神。また、葛城のトビ家を暗示))の末裔。 そういう氏族はあちこちにいて、例えば肥国の隈クマ=カミとかもそう。
葛城が特別というわけではない。
三種の神器を持っていたわけでも、漢や魏から倭王として冊封されていたわけでもない。 >>52
「神功皇后の朝鮮侵攻」そのものがでっちあげの可能性もあるってことだよね 朝鮮側にも倭国が繰り返し侵攻してきたことは記録されているよ。 >>138
うん、そこは古事記の表記からして神話で
まず事実で無かったと見ていい 朝鮮側の首都を包囲しているからねえ
倭寇レベルじゃなくて、それなりの軍隊が出動してるよね
朝鮮半島の倭領に軍隊が常駐してたんだろうな >>140
三国史記との比較で、4世紀末のことであったと考えられていたはず。
国軍による侵攻でも寇の字を使うことができる(元寇など)ので、倭国による組織的な侵攻も倭寇と呼ぶ。 >>142
いや、最近おもったけど神功皇后は完全に神話
わずかの事実性もない
で、三国史記は日本書紀よりずっと後に出来たもんだから
むしろソースんも一部がそもそも日本書紀の可能性がある
つまり、さしてあてにならないとみてる
百済も新羅も滅んでしまってたので
三国史記があらわされた当時からして資料が散逸してしまってたろう
で、滅びなかった日本の日本書紀などの資料は残ってたけど
それ自体が、まあさして信用できないだろうって話
こう書くと朝鮮びいきと思われるだろうけど…・・
むしろ、自分は最近まで
朝鮮・韓国がらみの話は、あまり興味もなく調べてなかったんだよね。
それが最近、ちょっと思う事あって、
朝鮮の資料を調べだしてる所。
で、このあたりの事は日本書紀のが
ぜんぜん信用できないんじゃないかと思い出してる所。 日本書紀が嘘だらけなのは同意するが、三国史記と日本書紀では、神功皇后の侵攻に対応する記事が120年ずれているんだよね。
だから、三国史記が日本書紀を参考にしたというよりも、別個の資料をもとに日本書紀ご年代を前倒ししたんだろう。 >>145
それは元側の資料でも元寇と呼んでいるということ? >>146
三国史記の神功皇后の侵攻に対応する記事ってどれ? >>144
>いや、最近おもったけど神功皇后は完全に神話
>わずかの事実性もない
で、日本書紀でも創作が目立つのが神功皇后の下りだけど、完全な嘘でもないと思う。
仲哀が死んでから応神が生まれるまでの日数について細かく記し、臨月を遅らせるために石を抱いていたという話まで加えている。
これは、応神が仲哀の子供ではないのではないかという疑いがその当時からあったということだろう。
それはベースとなる事実があったということだよ。
そして、石を抱いたら生まれるのが遅くなるなんてことはないから、実際には応神は仲哀の子供ではなく、武内の子供なんだよ。 日本側の記事は三韓征伐、朝鮮側の記事は倭寇だろう。 >>150
具体的に、120年ずれてる三韓征伐に対応する三国史記の記事はどれ? 一時的にしろ百済も新羅も倭に取られたことを書いているのだから、正直じゃないか。
百済は倭と高句麗の両天秤をかけていたんだよ。
最近、韓ドラで見ていたからよくわかる。
三国のバランスは非常に危うい。
倭国の支援を百済はよく使っていたらしいよ。
記紀にも、百済王が七支刀を贈ってきたことが記載され、実物も存在している。
半島情勢に倭が介入していたことは間違いない。
半島側の記録も国内の記録も信用できないと言い始めたら、歴史を研究する意味はなくなるね。 『遅れてやってきた倭種』
それと系統の違う家がない?本物の家? まあ、神功皇后は福岡あたりの豪族で
それを記紀に組み込んだだけだろうな。
おそらくは聖徳太子のアメタリシヒコも
そのたぐいだろう。 漢文なら分からんけど万葉仮名表記なら上代特殊仮名遣でググれ 上宮記ってどんな書物だったんだろう?
応神から継体までの系譜は失われた日本書紀の系図以外はここにしか残ってなかったんだよね? 大王が元首であったという根拠すらない。
天皇記を所有していたのが蘇我家なら、大臣記だったかもしれない。
物部氏に先代旧事本紀があったように、蘇我氏を中心とした歴史書があったのだろう。 >>164
稲荷山古墳出土鉄剣、、江田船山鉄刀銘、隅田八幡神社人物画像鏡は、いずれも「大王」
まあ元首であったことも間違いなかろう >>160
一部分を引用されて書物や、書名だけ伝わってる書物って気になるよね
どっかの寺社に写本でもあればいいのになぁ >>169
そもそも、文字が伝わって日本国内で長文が書かれるようになったのがいつ頃かだよなあ…
ワカタケルの剣の頃には国内でも文字による記録があるから、同時代の記録が発掘される可能性も無いとは言えんけど、
出てくるとしたら寺社よりも古墳だろうな 主な寺社の記録は、明治維新の廃仏毀釈でほとんど消滅していますね。
戦国時代の下克上でも多くの旧家が消えて、蔵書が散逸しています。
あとは、8世紀初頭に日本書紀以外の歴史書を禁止扱いして焚書を行なっています。 >>169
>一部分を引用されて書物や、書名だけ伝わってる書物って気になるよね
これって、たとえ国選正史でも、その内容に、その文書に「信憑性を
持たせるための選出としての架空の文書」が記されている、という可能性
はないですかね?
偽書の中に、「⚫⚫に曰く」というかたちで、⚫⚫という架空文書
が出されてくるそうですが。 >>170
おそらく、応神天皇からだろう。
記紀では、応神天皇のころ、千字文が伝ったとされる。
千字文そのものエピソードは、事実でないんだろうけど、
おそらく、記紀のあらわされた当時からして、
畿内でまともな文字情報がたどれたのが、
応神時代までだったと思われる。
(そういう背景から造られた故事なんだろう)
で、応神天皇の名称から存在してそうな点を考えてみても、
まともな記録があったのも応神天皇までで。
それ以前は(創作)神話だと思われる。
(さらに、現代の天皇家は継体天皇からで)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E8.AB.A1.E5.8F.B7.E3.81.8B.E5.AE.9F.E5.90.8D.E3.81.8B
>応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、
>『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、
>とする説がある。
>とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、
>ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。
>王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど
>史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81#.E8.A8.98.E9.8C.B2 素朴だからとか、それ以前は創作だとか、なんの根拠もない。
くだらない。 写本じゃなくて、原本で残ってる日本最古の書物ってなんでしょう? 白村江の戦いで敗戦して
半島領土を失ったので
新たに国境を確立するために記紀が編纂されたので
それ以前の歴史=半島も日本の一部だった歴史を抹消せざるを得なかった
蘇我氏は半島における総督府長官みたいなものだったので
蘇我氏の歴史はある程度削除された
記紀に改竄の痕跡が見受けられるのはこれが原因 >>176
>それ以前の歴史=半島も日本の一部だった歴史を抹消せざるを得なかった
どうしてでしょう
歴史をあるがままに記述するのにどんな不都合があったのでしょう レコンキスタが興って半島奪還戦争に進展する可能性があるから
大陸への領土的野心は日本列島統治が揺らぐ可能性があるから
戦勝国である唐・新羅に、日本書紀の歴史観でいいかお伺いを立てる必要があったから
あれ、これって第二次世界大戦後の日本と同じで笑えないね >>176
だったら神功皇后が半島をボコった記述も白村江でボコられた記述も抹消するんじゃね?
神功皇后なんて実在が疑問視されてたりするんだし むしろ7世紀後半の記紀の編纂直前の政変こそ、隠したかったのではないかな。
唐の後ろ盾によって筑紫倭国から政権を畿内が奪ったことを隠したかったのだろう。 >>176>>178
理屈で考えると、むしろそれは逆なんじゃないかと >>185
技術や文化が遅れている北方騎馬民族に中華民族がなんども征服されてるという東アジア史の常識も知らないのか 乗馬技術を技術ととらえるならば、中原が技術に秀でているというのは主観に過ぎなくなる。
だが、3世紀の奈良と筑紫の技術水準の差はそれ以上に著しい。 >>164
出雲の伝承(不文)では葛城の出雲神(カモ)族〜磯城王朝。その末が蘇我氏(王家)
「臣/オミ」の称号は元々は出雲の王族である証だったそうです。 >>142
日本(倭国)側の国、組織が関与しない海賊団も倭寇。
更に、中国沿岸〜朝鮮半島の海賊団が素性を隠蔽して倭寇に偽装して(騙って)荒らし回ったから悪質。 >>191
でも、史書に載るような大規模な軍事行動は筑紫倭国の兵だよ。
もともと天津神(海の神)と呼ばれるだけあって、対馬海峡を拠点とした水軍が政権を取ったようなものだからね。 >>190
蘇我氏は筑紫の覇者となった武内宿禰の末裔。 >>196
そんな根拠ならなんでも否定できるな。
ああ、実際に畿内説は魏志倭人伝を含めて全ての記録を否定しているのか。
いっそ、邪馬台国や卑弥呼の名前を使うのもやめてくれ。 古事記の入門者向け解説本を一冊だけ読みました
スサノオが「髭を切られ手足の爪を抜かれて追放」されたとあって、あれ?ヒゲと爪がなくて困るのって猫じゃんと思ったんですがスサノオ=猫説っていうのはないんですか?w 髭や神は霊力の源と考えられていた。
長い方がエラかった。 話をぶった切るようで恐縮ですが
古事記を読むならどこの本がいいですか?
図書館で一通りさらっと読んでみたところ
個人的には解説が豊富な講談社が良さそうだと思いました
次田さんの史学的な評価はどれほどですか ちなみに講談社の次田本は比較文化論を嫌う神職や右翼の方々からの評価が芳しくないようです
確かに角川ソフィアの中村本に比べれば読み仮名のルビが余りにも省かれているので流石に30余年の研究差を感じましたが、中村本の解説は巻末に纏めて書かれている程度で、時代考証や古典文献学的仮説を多分に含む次田本の解説の豊富さには遠く及ばないと思いました
また小学館の神野志本も同様にテキスト主義の体をとっており、時代考証に深く踏み込むことを避けているように思いました
このように講談社全三巻は氏の多弁が仇となって、ややトンデモ扱いされている感がありますね
次田本の現代における評価はいかほどでしょうか?
(というのも次田本に書かれていることを何処から何処まで信じていいのか不安ですし、何より私は門外漢ですので最近の研究事情について全く知りません...)
そこら辺の出版事情に詳しい方、最近の研究事情について何か知っている方がいましたら詳細を教えてくださいm(_ _)m 嘘くさいこじつけや結論ありきの解説なんて、害悪だよ。
逐語訳程度ならネットで十分じゃないかな。 古事記で売れてんのは竹田のやつかな
読んだことないけど >>206
具体的にどの本の何処がそうだと思われますか?
私は逐語訳をその通りに理解できるほどの知識も教養もないので、先達による注釈と解説が欲しいと考えますが、まあ、そうなればある程度には専門家個人の偏見が入り込んでしまうことを許容しなければなくなる訳です
ですので現在の学界での評価がその偏見を何処まで許容し得るかの指標になると思います
しかし歴史に絶対はないので、現代の学説ばかりを盲信するのではなく、素人なりにテキストを読み込むことが第一でしょうね
>>207
竹田本はカジュアルなことに現代訳オンリーなのでちょっと原文、書き下し文と参照しづらいと思いました
史実というものがあるとすればですが、竹田先生ご自身の特異なお立場も含めて、学術的にシビアな解釈を求めるならば避けるべき図書だと思いましたが、穿ち過ぎでしょうか
それなくしても、訳がややフランクすぎるのでわたしの肌には合いそうにありません(汗 神々の名前の読みが外国というかインドっぽいことについて、古事記が書かれたのが仏教伝来の後であり
仏教はインド由来なので…という説があるようですが、皆さんはどのような背景があるとお考えでしょうか? アメノミナカヌシ天御中主が
ミチュウヌシ
ビシュヌ神
とかそういうこと?>インド由来 >>207
あとは三浦のやつだな
読んだこと無いけど 日本書紀をなぞっただけじゃない?
真実とは遠いような気がする。 >>210
じゃなくてそのままでインドっぽくないですか?ということです >>216
公式の仏教伝来は6世紀だけど
実際はもっと早かった可能性がある。
中国朝鮮経由ではなく、インド直輸入の可能性。
日本じゃないけど、三国遺事だったか
インドのアユダ國から新羅にやってきた女性のことがかかれてるけど
インドから半島にこれたなら日本にもこれたんじゃないかと思うけどね。
日本語にはパーリ語の痕跡があると指摘する人の
本を最近読んだわ。パーリ語は印欧語だけども。 国記、天皇記は確実に存在したのだろうけど、それ以前の歴史書はあったのかな。継体、欽明天皇の頃に歴史書を編纂しても良いような気がするが。 ばっかじゃねーの
断片的なサンスクリット語の知識を以って神の名が似てるだの似てないだの
日ユ同祖論者並みに低レベルな陰謀論を説いてるという自覚ある? エビデンスが弱すぎ
神話の内容が類似してるとかそういうエビデンス無しに神の名がインドぽいって(笑)
統合失調症かよ
こういう病人に歴史書を読む資格はなし >>217
興味深いです。インドと繋がりがあった可能性は十分あるということですね。
>>218
なんとなくのイメージでしかないのですが、当て字っぽい漢字や音を含んだ名前はそういう感じがします。 「敵を刺す」から「テキサス」
日本語が北米の地名にある!だから北米はもともと日本だった!
という話は昔からあるのですw あんまり排斥するような言葉をかけるのはひどいけど、
あんまり思いつきだけで出鱈目なファンタジーっぽい説を堂々と展開するのも感心しない。
根拠ありそうな理由を付けて説明しなきゃ、だれも納得しない。
馬鹿にされるだけだよ。
発想は奇想天外でも、納得する理由があれば、一目は置かれるよ。 4世紀あたりに裸形上人というインドから漂着した人物が、熊野那智山を開いたというし、頭から否定は出来ないと思う。 複数の人が関連する事柄を紹介しているのに出鱈目なファンタジーと決めつけることこそ出鱈目でファンタジックなんじゃないの?
根拠を示せという自分が何の根拠も示していない。
俺はそういう人のことも馬鹿にはしないけどね よく読んでみろよ
ただただ神様の名前がインドっぽいとしか言っておらずどこがどうインドっぽいのかとかも無い意見だぞ 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
1HZYE 古事記以前の書物以外(石碑等)で、天皇家や大和朝廷について残ってるものありますか? 稲荷山の鉄剣級の発見が今あったら、ネットは盛り上がりそうだ 記紀は徹頭徹尾上級国民のためのものだからなあ
ギリシャみたいに文学に神話が語られてればよかったんだけど古代日本だとせいぜい虫麻呂くらいか
みっともない民族ですよはっきり言って https://youtu.be/7FFlT32G5cI
潜象界と現象界
左目から天照大神
右目から月読尊
鼻から素盞嗚命が生れた理由 このスレの人めっちゃ詳しいね
古事記に出てくるスサノオの和歌
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に
八重垣立てた その八重垣を
これの意味ってさ
妻籠って神様の妻として一生籠る巫女の家の事じゃない?
八重垣は大事な物守る垣や、近衛兵の事じゃない?
妻籠めの材料は女と家だから、やろうと思えば貧困村でもできる
しかし八重垣はそれなりに金ないと出来ない立派な物なのでは?
つまり妻籠め用意したとは、国を立てたという意味では
そして、立派な国を立てたと強調したくて、八重垣を連合してるのでは?
意味としては、
出雲に立派な立派な国を建てました
スサノオ
と解釈してるのは、今は俺だけのようです >>205
少し違った回答で大変申し訳ないが
古事記の流れに目を通す程度なら
ホツマツタエ の現代語役がネットにあるから、それ見れば十分だと思う
古事記もホツマツタエもほとんど同じだから
つまり古事記の大元の本があって、それぞれ自分の都合のいいように編集した本がたくさんあるのよ
どれもある程度真実が書いてるが、都合よく嘘も書いてる
ネットにある、ホツマツタエの現代語役が一番手軽でさらっと読みやすい
いろいろ解説ありすぎると、逆に最後まで読めない、あきるし、うざい
研究する時やマニアなら、いろいろ解説あった方が楽しいだろうけど、最初の一読に解説はいらんわ 秀真伝は読むとすぐ理解できる程度には現代語に近く、とても上古文ではない。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
RX3 ツクヨミやスサノオ というと食事や酒にも重要な記述があってうましくには
いいものだとおもえる、記録と、歌の交差に発展していっていることが
更にいい時代を創出していってほしい。 飛鳥時代に書かれた上宮記は鎌倉時代後期まで存在したそうだが、もしかすると写本が発見される可能性もあるのかな。 >>254
結構いくつも古い石碑が残ってるんですね・・・
古事記以前の石碑はあまりないのね 応仁の乱が無ければ残ってた、古い時代の書物ってあるのかな? 奈良遷都と戦国時代と明治維新の方が文化の断絶が大きい。 708年に禁書詔勅があり、日本書紀以外の文献は破棄された。 秀真伝は、自分が読んでもわかるくらいに現代語に近い。
江戸時代以降の文献だろうね。
自分には平安以前の文献は読むのが辛い。 禁書の詔勅か・・・知らなかった
古事記日本書紀に都合が悪かったんかな? 671年に天智天皇は病死し、672年にその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
ただし新たな創作をするのではなく、九州における歴史の一部を抹消し、一部の事実は組み込んで細かいつじつま合わせをして、本来は傍流であったはずの畿内大和がおよそ三世紀頃と推定される神武の時代まで遡って列島の支配者であるかのように見せかけた。
日本書紀の編纂と並行してそれ以外の歴史書の焚書が行われ、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われたと考えられる。
日本書紀は多くの書からの引用を含んでおり、編纂が行われていた頃までは邪馬壹国を含む倭国王朝の記録もあったに違いないが、倭国の名を消すために慎重に歴史の改竄を行っている。
文書上の改変だけでなく、倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物が平城京に移動される。
九州北部と畿内で多くの地名が配置も含めて一致していることが知られており、歴史や地名も含めた文化のすべての移植をはかったのである。
その一方で、天武朝のときに外交使節として筑紫館が建てられたとされており、後の鴻臚館として朝鮮半島との通商の拠点として福岡の経済的再興の礎となった。
701年の大宝律令の制定により、正式に日本が国号として用いられるようになり、行政単位が唐の評から郡に改称され、畿内大和政権は独立国として国郡制による全国支配を確立したと考えられる。
710年には奈良盆地に平城京が建設され、九州から畿内、関東まで勢力下に置いた中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この統一王朝の名称としては大倭が用いられ、表記が大和とあらためられた後に、以前から筑紫倭国に対して近畿の政権を示すために用いていた呼称である日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、大和は政権中枢の位置する畿内の地名に変化した。
中国に対しては筑紫から畿内へ連続する王朝であると主張したが、それを神代という抽象概念に押し込めたため、現代においては筑紫に王朝があったことすら忘れ去られようとしているのである。 >>265
歴史書の焚書やそれまで使われていた神代文字を禁止してまで
神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することが重要なのかね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>265
日本の名称の由来は、現在につづく?大和朝廷や天皇家に大和を追い出され、追撃につぐ追撃を受けたプレ大和王朝勢力(端的に、長脛彦=大彦ら)が行く先々で一時的な定住化して国を立てて、
日立国(鹿島神宮や香取神宮は出雲神族らが建てたのを大和朝廷側が横領)、アラハバキの国、日ノ本の国、、、
と場所を変え名を変えて次第に東北地方に退却、、、(最終的には津軽(日ノ本の国)に落ち着いたとか?津軽を日ノ本中央と言ったのは日ノ本国の首都だったから。後々に伊達政宗を日ノ本将軍と言ったのも東北が日ノ本国だった名残から。) >>269
日ノ本(ヒのもと)国(東北地方/蝦夷(大和朝廷側が蔑んで蝦夷エミシと呼んだ。(元々は親戚、同族なのに)))を大和朝廷側が横領して
国の名にしたのが日本。
ヒの元。、、、少しひねって考えると、ホアカリ/火明命(ニギハヤヒ)の長男、カゴヤマの直系子孫、、、本家の矜持を「ヒ(火/日)の本」に込めたのではなかったか? >>271
大和朝廷(大倭国)と日ノ本国(蝦夷)が多賀の関のラインを国境に長らく安定安定していたところに、
聖武天皇が奈良に大仏(ビルシャナ仏)を建立するにあたり
莫大な銅や金などの鉱物資源が大倭国領域に不足します。
宇佐族(旧出雲王国時代から重要な勢力。宗像家も多分、宇佐族)が八幡神の神託の形を借りて(交易の有った東北地方/日ノ本国の情報を元に)東北に金ほかが有る!と(いわば仲間(日ノ本国は元の大和王朝(磯城王朝))の敵に情報を売った)
宇佐族(九州の豊国勢力。豊媛(トヨ)と豊彦(卑弥呼=豊玉媛命と物部イニエ王(崇神)の御子。大和入りして後は、豊来入媛(三輪山麓の檜原神社で宇佐族の月読神信仰を広めて稚日女命と称えられた。)。豊来入彦)。)もいわゆる神武東征に帯同して参画。
大和入りをするも大王家(異母兄)に疎まれ排斥されて東に逃避。東海地域に定住化。東海地域に「豊」の地名が多くある理由がそれ。
排斥され大和から逃避なさった豊来入媛は丹波に後には伊勢の椿大神社(猿田彦大神)の宇治土公家(大和の登美家(出雲神(カモ)族)の分家で出雲神族の信仰、幸之神の内、特に猿田彦大神を信奉して後にはサルメ家とよばれた)に助けを求めて匿われる。
豊来(城)入媛命(=豊鋤入媛/稚日女命(高天ヶ原で陰部をヒで突いて死亡した織日女神))は宇佐女(宇佐族出身の女)とよばれたていたところ、
それでは正体がわかってしまう恐れがあるため
ウズメと改名させた上、祭神の后神である等のお伽噺まで創作して庇護に努めていたところ
異母兄の大和の新大王、イクメ大王が放った刺客に憐れ暗殺されてしまいました。
その場所は境内の椿岸神社であるという。
遺体は月読神の信奉者らによって大和に運ばれ、ホノケ山陵(古墳)が築かれそこに葬られたという。
いわゆる、、、、
卑弥呼の後継、トヨ媛女王=豊媛命=豊来(城)入媛命=豊鋤入媛命(キキ神話)=稚日女命/稚日霎貴命(月読神を奉じて檜原神社で祭祀を行う)=ウサメ=ウズメ=天ウズメ命 アラハバキ国は日高見国(北東北・北海道)の北にある国だから樺太。
アラハバキー荒覇吐ーアララトーカラフト まず一枚岩ではなかったんだと思うよ
ヤマト勢力=卑弥呼の後継者
神武天皇=いろんな知識技術とともに渡来したユダヤ人勢力
日ノ本の国=ナガスネヒコ
国が出始め台頭したのが卑弥呼の勢力、その後神武天皇の勢力が台頭してきて、まとめるために卑弥呼の後継者を正妻として貰い、卑弥呼勢力と神武勢力が合体した
しかし古事記に書いてある通り神武天皇の九州での子供は殺された
卑弥呼の後継者の子が二代目天皇になった
この時点でヤマト勢力が神武天皇勢力を逆に食った形になる
日ノ本の勢力とも最終的には似た感じでタベテしまおうとしたんだろう、しかし天武天皇が国号を日本と定めたのは、日ノ本の勢力が食い勝ったからだろう
その後暗殺も行われ天武天皇の勢力は消え去る
天智天皇の勢力に戻る
天智天皇の勢力はケイタイ天皇の勢力
ケイタイ天皇の勢力は神武天皇の九州での子孫
宇佐神宮の本当にお祭りさらていた神様は、八幡様ではなく、宗像三女神だよ
ユダヤ人が崇拝する海の女神様
ユダヤ人が崇拝する海の神様(住吉三神)の嫁
八幡神社は勢力ある神社を乗っ取って作った神社、八幡様を崇めろと押し付けられた神社 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 古いといえば、「東大寺山鉄剣」があるね。金象嵌の。
中平○年
184年から189年の後漢の年号。
もしもこれが今発掘されたら大騒ぎだろうに、何故か無視されてるという。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 山形明郷先生講演会 (邪馬台国は日本になかった)
https://www.youtube.com/watch?v=l4swAYIl7lc&list=PLhHaAGez8wyjHeZpC6k4a3V2j2EtWvO-k 推古天皇の頃につくられた天皇記は、完成当時は大王記という名称だったことが有力だな >>287
天皇記は完成時は大王記で、国記は完成時は国記だったのかな
帝紀や帝皇日嗣、旧辞は同じような内容だったのか
各豪族がまとめた書物も発見されると面白いのにな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 というか天皇記の本来の名称が帝紀で
国記が、おそらく旧辞の事だったんだろう
それらは失ったオリジナルとは別に
写本で流布されてきて
両者を合わして古事記が作られた
帝紀と旧辞が推古朝の時代に書かれたものだから、
古事記も推古朝の時代で終わる
そして、蘇我家の文書だから、(当時の)近代は
蘇我家の輝かしい歴史を中心に描かれてた
乙巳の変以後は
蘇我馬子や蝦夷のシーンごと
蘇我家がらみの話をカットしたから
終盤の記述がほとんど無くなってしまった
藤原氏ににらまれない様に
こっそり写本してきたから
古事記が表舞台で語られる事も無かった
……全部、つじつま合うよ ようは、「まったくの謎とされてきた文書が
実は自分らがよく知ってるアレでした」ってパターンだよ >>292
古事記は当時の人たちには認知されてなかったのか?
写本を引継いでたのは反藤原氏の人かい? というか、旧辞も古事も当て字で「くに」と読ませてたのかもね
で、国記の読みも「くに(のしるし)」で
「在らず」と「在らぬ」みたいに、「じ」を「に」の発音にして
帝紀も天皇記もあるいは大王記でも
「すめらみこと」か「すめらき」とするなら
読みそのものは同じになる
そうすると、タイトルの違いは
あくまで表記方法の違いになる
>>294
そこはちょっとわからない
知ってたけど藤原氏のおめこぼしだったのか
あるいは、本当に完全に隠れてたのか https://kanji.jitenon.jp/kanjie/2479.html
この「爾」は音読みが「じ」と「に」なんで
「じ」と「に」は比較的、近い音と見ていいかも >>295
>知ってたけど藤原氏のおめこぼしだったのか
そんなもん干したらあかん 日本書紀は宮中で勉強会とかやっていたけど、古事記は顧みられていなかった。
偽書との疑いもあった。
晴れて古文献と認められたのは、作者の太安万侶の墓が見つかって実在の人物であることが確認された昭和の末期だ。
新聞にデカデカと報道されていた。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 明治維新の焚書はすごかったらしい。
高良宮では一週間も古書を焼き続けたとか。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 旧体制を封じ込めるついでに、日本の古代史も封じ込めた。
神仏分離の後、全国の神社の祭神はアマテラスなど限られた神に宗旨替えされ、もとの伝承は多くが失われた。
廃仏毀釈で、仏教美術も破壊した。
今日残っているのは、わずかな残りカス。
そうしてできたのが明治以降の国家体制だよ。 江戸時代より古い神社の由緒書きの祭神はほとんどが後世の押し付けだもんな
式内社のほとんどは国津神が御祭神 維新とは、日本の歴史を棄却して新たな歴史を創作することだよ。
そして皇紀2600年とかいう、考古学的にあり得ない万世一系大和説が誕生する。
邪馬台国畿内説はその亡霊。 古事記以前には聖徳太子が編纂させていた先代くじほんぎってのがある
ネットで現代語訳が簡単に読めるよ
先代くじほんぎの情報元は、6氏族(天皇家、物部氏、蘇我氏、大伴氏、あとわからん)には氏族専用の文字と古事記のようなものを持っていた
これを全てヤマト朝廷に無理やり提出させた
どうせ読めないだろうと思って、しぶしぶ提出したら、聖徳太子の部下のハタノカワカツという者が全ての文字が読めたので、先代くじほんぎにまとめた
古事記はこの先代くじほんぎをさらに簡潔に、分かりやすくまとめた直した物だよ
あまりに神話がややこしくて、無駄な部分はガンガン省略されてる
神武天皇が男4兄弟でプラス姉もしくは妹がいたのをお前らは知ってるか?
知らないだろ?
そうやって無駄に話が長くなる部分はガンガンカットされて、より分かりやすくなった最終版が古事記だよ
参考資料として、先代くじほんぎやら、コシコデンを読むのはいいが、真に重要なのは古事記の方だって事を知っておかなければならないよ >>306
古事記や世界の神話を読み解くと同じ神様を崇めているのがわかるよ
名前が違うだけで同じ神様ってのはとても多い
国津神といっても、結局は名前違うだけの同じ神様だよ
統合されたとしても、さほどの問題は無い
大きな流れを知らないから、重大な問題に見えるだけ
名前が違うのは、国が違うため言葉が違うからだったり、派閥が違うけらだったりするだけ
そもそも神様は人間に名を名乗らない
エクソシストで退治されてる悪魔も神様だよ
エクソシストがやたら名を明かせとしつこくいってるでしょ?
神様は名乗らないからだよ
エクソシストは八幡さまのオリジナルの女神のいなんな エクソシストは女神イナンナ(八幡様のオリジナルの女神)の派閥
その他のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、神道の最高神はスサノオノミコトだよ
この2つの派閥しかないし、対立してる
だからエクソシストは対立派閥の神様を悪魔と呼ぶんだよ
神話ってのは全て繋がっている
縄文神話(簡単に解読できる文字として残ってない、メソポタミア神話の特徴持った像が残ってる)
→メソポタミア神話(粘土盤に文字が残っているので大量の読める資料がある)
→エジプト神話(パピルスに記録したが、パピルスが腐ってほとんど読めない)とギリシア神話→ゾロアスター教(拝火教)→ミトラ教
ミトラ教からキリスト教、ユダヤ教、イスラム教が発生した
ミトラ教はローマカトリックに迫害されて、チベットで密教となった
そして仏教になった 神道はゾロアスター教やユダヤ教を理解している人が定めていったんだよ
縄文神話から始まり、弥生時代に逆輸入した形だ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>298
>晴れて古文献と認められたのは、作者の太安万侶の墓が見つかって
>実在の人物であることが確認された昭和の末期
これは違うでしょ
太安万侶は続日本紀にも記載されていて
そもそも存在に対する疑いはなかった 書物だけに的を張るより、民族伝承、考古学の発掘品など、
生活空間や存在立体が思い描けるのもよいでしょう ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 波太郎の本姓は竹之内という
だが このあたりの農民たちは熊の若宮と呼んでいる
波太郎の語るところによればこの熊の若宮一家こそ
南朝の正統が再び世に出る時のため
得難い古文書の数々と秘宝を預かる竹之内宿禰の末裔なのだという
応仁の大乱以来 世の紊に面をそむけ
祭壇を設けて しきりに なにか祀っているが
彼らが各所の 野武士 乱波 船頭 漁師の脈をおさえ
海と陸に隠然たる一勢力をなしている
徳川家康読んでたらこんなん出てきました。
関係あるの? 古事記は8世紀に成立した創作
例えば雄略の和風名称でしられてる「長谷(はつせ)」ひとつとってみても嘘で塗り固められてるということがわかる
畿内を流れる大和川の上流に初瀬川というのがある
瀬の初めだから初瀬とついたであろうことは想像に固くない
その初瀬川というのは長い谷という地形をしており、そのことから7世紀の末期にその川の近くに創建された長谷寺(ちょうこくじ)と名付けられた寺がある
その寺は初瀬川にあったので「はつせでら」になり転訛して「はせでら」といつしか呼ばれるようになった
そこから取ってきたものを前出の天皇の名前に使用してるというお粗末さ 古事記の上代の神話を眺めているとどこかで見た風景がデジャヴュのように見えてくる
例えば須佐之男についてだ
日本人なら須佐之男についてよく鬼神として想起されるであろう
それは神仏習合した牛頭天王の姿から来たのかもしれないし
或いは、須佐之男と非常に縁(ゆかり)がある鬼神(おにがみ)神社のような存在のせいなのかもしれない
須佐之男の神話にはオオゲツヒメの神という女神を殺してその体が五穀に分かるという、いわゆる五穀豊穣の話が登場する
実は、同じような話が高句麗の風習にも見られる
「祭鬼神。又祠靈星・社稷」
鬼神を祭る また靈星・社稷を祠る
靈(霊)星とは天田星ともいい、稼穡(農事)をつかさどる
社稷(しゃしょく)とは、社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称のこと
馬韓にも同じような風習があったとされている
つまり、古事記はこのように他所から神話をパクってできている あまり古くは無さそうなのですが、福岡の高良大社に伝わる高良玉垂宮神秘書は面白いです
高良の神が住吉三神の底筒男神であり、神功皇后と夫婦となっています
高良の神は物部の祖神の饒速日命です
フィクションのような場面も(名前も込みで)あるのですが、真実に繋がる事柄を伝えているとも思われます
またこちらの神社には、饒速日命を天照とし、神功皇后を200年代とする考え方があります
ならば3世紀、卑弥呼の時代
少なくとも魏志倭人伝が語る卑弥呼の時代より前に「天皇」がいたとは思えません
ならば、初めの天皇より前(または初めの天皇)の饒速日命はその時代辺りなのでは?と思うのです 好太王碑に見える倭の朝鮮半島への侵攻というのは記紀のどの部分に相当するのでしょうか? 『六国史以前 日本書紀への道のり』 関根 淳 著
内容説明
日本古代史の基本史料として絶対的な古事記と日本書紀。
だが、古代には記紀∴ネ外にも数多くの史書が存在した。
帝紀(ていき)・旧辞(きゅうじ)、天皇記・国記、上宮記(じょうぐうき)など、
いまでは本文がほとんど伝来していない史書をとりあげ、周辺の諸史料や政治過程からその実態に迫る。
史書としての古事記を批判し、「六国史(りっこくし)」以前の豊かな古代史書の世界へと誘う注目の書。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b510044.html >>330
既に残っていない書物について、どうやって調べたんだろうね。
古事記の批判というのも、どういう事なんだろうね。
稗田阿礼が誦習」していた帝皇日継と先代旧辞を太安万侶が書き起こしたもの。
稗田阿礼の記憶違いを批判したいのだろうか?
太安万侶の口述筆記を批判したいのだろうか?
六国史(日本書紀〜)以前の古代史書の世界というのも
日本書紀の記述が複数の書物の併記なことを知った上で
さらに他の歴史書を引っ張り出してくるんだろうか?
単なる「ホツマツタヱ」本?
本の煽り文句にしても、微妙な煽り方だね 卑弥呼の頃にすでに日本列島に硯があって文字を木簡あたりに記載してたみたいだし
ついでに石に文字を彫るとかして金石文を沢山残して欲しかったね
獲加多支鹵の尊を記述した鉄剣が出土してるから、古墳の副葬品として
埋もれて錆びて朽ちてしまったものも多いのだろう。
古墳の前方部あたりに、生前の天皇の石像とか、業績を彫った石版でも置くような
慣習でもあればよかったのに タコが言うのよタコが
日本は熊襲の産地できわめて民度が低いって >>332
故吾郷清彦先生から神代文字の書を贈られ、読んだことが懐かしい。 実在しないモノについて語ることほど滑稽なことがあるだろうか? 神代以前の占卜を行うと亀裂あたりから神代文字が出てくるよ。 松野連系図って古い時代のの系図も載ってるけど、信憑性あるのかね? 支那の奴隷で日本の寄生虫であるチョンコ族は
息を吐くように嘘を吐き、飯を喰うように糞を喰う
チョンコお断りします
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{__/\ 古事記は神話体系から偽書であり、成立は8世紀中葉だと見做す人もいる 古事記も日本書紀も天武天皇を正統化するための歴史書なので
矛盾するそれまで書物は燃やした 何らかの事由で焚書はあったろうが、
古史古伝と記紀と内容はそんなに変わらない。
正当化の事由だとはいえない。
過去に世界でこれがあった。
典型か。ディゴデ・ランダはマヤの地でマヤ絵文字の文書を大量焚書した。
残ったのはわずか4つのコデックスだけ。 ワンピース 尾田栄一郎
キャラクター
ウソップ・ 山口勝つ兵
海賊「麦わらの一味」狙撃手。異名は「〝狙撃の王様〟そげキング」、「〝ゴッド〟ウソップ」。「東の海(イーストブルー)」のシロップ村出身。
ルフィの3人目の仲間。赤髪海賊団狙撃手ヤソップの息子。母バンキーナ譲りの長鼻(長さは13cm[24])が最大の特徴[注 1]。臆病でお調子者ながら器用で口八丁な射撃の名手であり、その手腕は仲間からも一目置かれている。一人称は「おれ」
チョッパー ・ 大谷育江
海賊「麦わらの一味」船医。異名は「わたあめ大好きチョッパー」。「偉大なる航路(グランドライン)」のドラム島出身。
ルフィの5人目の仲間。青い鼻のトナカイ。動物系悪魔の実「ヒトヒトの実」の能力者で、人獣型・人型・獣型に変形でき人語を話せる「人間トナカイ」。何でも治せる医者を目指している。一人称は「おれ」。 >>343
天武スゲー天武カッケーで書かれてるはずの日本書紀が
天武カッコワルーで書かれてるから
完成までの30年以上の間に内容が変わってるじゃないの?
完成時には天武天皇系統の天皇から天智天皇の系統の天皇になってるし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています