古事記以前の書物について [無断転載禁止]©2ch.net
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ウエツフミ、豊国文字など本当の日本の歴史について
詳しいかたいますか?
時系列が難しすぎて混乱しています。
だれか教えてください。 嘘くさいこじつけや結論ありきの解説なんて、害悪だよ。
逐語訳程度ならネットで十分じゃないかな。 古事記で売れてんのは竹田のやつかな
読んだことないけど >>206
具体的にどの本の何処がそうだと思われますか?
私は逐語訳をその通りに理解できるほどの知識も教養もないので、先達による注釈と解説が欲しいと考えますが、まあ、そうなればある程度には専門家個人の偏見が入り込んでしまうことを許容しなければなくなる訳です
ですので現在の学界での評価がその偏見を何処まで許容し得るかの指標になると思います
しかし歴史に絶対はないので、現代の学説ばかりを盲信するのではなく、素人なりにテキストを読み込むことが第一でしょうね
>>207
竹田本はカジュアルなことに現代訳オンリーなのでちょっと原文、書き下し文と参照しづらいと思いました
史実というものがあるとすればですが、竹田先生ご自身の特異なお立場も含めて、学術的にシビアな解釈を求めるならば避けるべき図書だと思いましたが、穿ち過ぎでしょうか
それなくしても、訳がややフランクすぎるのでわたしの肌には合いそうにありません(汗 神々の名前の読みが外国というかインドっぽいことについて、古事記が書かれたのが仏教伝来の後であり
仏教はインド由来なので…という説があるようですが、皆さんはどのような背景があるとお考えでしょうか? アメノミナカヌシ天御中主が
ミチュウヌシ
ビシュヌ神
とかそういうこと?>インド由来 >>207
あとは三浦のやつだな
読んだこと無いけど 日本書紀をなぞっただけじゃない?
真実とは遠いような気がする。 >>210
じゃなくてそのままでインドっぽくないですか?ということです >>216
公式の仏教伝来は6世紀だけど
実際はもっと早かった可能性がある。
中国朝鮮経由ではなく、インド直輸入の可能性。
日本じゃないけど、三国遺事だったか
インドのアユダ國から新羅にやってきた女性のことがかかれてるけど
インドから半島にこれたなら日本にもこれたんじゃないかと思うけどね。
日本語にはパーリ語の痕跡があると指摘する人の
本を最近読んだわ。パーリ語は印欧語だけども。 国記、天皇記は確実に存在したのだろうけど、それ以前の歴史書はあったのかな。継体、欽明天皇の頃に歴史書を編纂しても良いような気がするが。 ばっかじゃねーの
断片的なサンスクリット語の知識を以って神の名が似てるだの似てないだの
日ユ同祖論者並みに低レベルな陰謀論を説いてるという自覚ある? エビデンスが弱すぎ
神話の内容が類似してるとかそういうエビデンス無しに神の名がインドぽいって(笑)
統合失調症かよ
こういう病人に歴史書を読む資格はなし >>217
興味深いです。インドと繋がりがあった可能性は十分あるということですね。
>>218
なんとなくのイメージでしかないのですが、当て字っぽい漢字や音を含んだ名前はそういう感じがします。 「敵を刺す」から「テキサス」
日本語が北米の地名にある!だから北米はもともと日本だった!
という話は昔からあるのですw あんまり排斥するような言葉をかけるのはひどいけど、
あんまり思いつきだけで出鱈目なファンタジーっぽい説を堂々と展開するのも感心しない。
根拠ありそうな理由を付けて説明しなきゃ、だれも納得しない。
馬鹿にされるだけだよ。
発想は奇想天外でも、納得する理由があれば、一目は置かれるよ。 4世紀あたりに裸形上人というインドから漂着した人物が、熊野那智山を開いたというし、頭から否定は出来ないと思う。 複数の人が関連する事柄を紹介しているのに出鱈目なファンタジーと決めつけることこそ出鱈目でファンタジックなんじゃないの?
根拠を示せという自分が何の根拠も示していない。
俺はそういう人のことも馬鹿にはしないけどね よく読んでみろよ
ただただ神様の名前がインドっぽいとしか言っておらずどこがどうインドっぽいのかとかも無い意見だぞ 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
1HZYE 古事記以前の書物以外(石碑等)で、天皇家や大和朝廷について残ってるものありますか? 稲荷山の鉄剣級の発見が今あったら、ネットは盛り上がりそうだ 記紀は徹頭徹尾上級国民のためのものだからなあ
ギリシャみたいに文学に神話が語られてればよかったんだけど古代日本だとせいぜい虫麻呂くらいか
みっともない民族ですよはっきり言って https://youtu.be/7FFlT32G5cI
潜象界と現象界
左目から天照大神
右目から月読尊
鼻から素盞嗚命が生れた理由 このスレの人めっちゃ詳しいね
古事記に出てくるスサノオの和歌
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に
八重垣立てた その八重垣を
これの意味ってさ
妻籠って神様の妻として一生籠る巫女の家の事じゃない?
八重垣は大事な物守る垣や、近衛兵の事じゃない?
妻籠めの材料は女と家だから、やろうと思えば貧困村でもできる
しかし八重垣はそれなりに金ないと出来ない立派な物なのでは?
つまり妻籠め用意したとは、国を立てたという意味では
そして、立派な国を立てたと強調したくて、八重垣を連合してるのでは?
意味としては、
出雲に立派な立派な国を建てました
スサノオ
と解釈してるのは、今は俺だけのようです >>205
少し違った回答で大変申し訳ないが
古事記の流れに目を通す程度なら
ホツマツタエ の現代語役がネットにあるから、それ見れば十分だと思う
古事記もホツマツタエもほとんど同じだから
つまり古事記の大元の本があって、それぞれ自分の都合のいいように編集した本がたくさんあるのよ
どれもある程度真実が書いてるが、都合よく嘘も書いてる
ネットにある、ホツマツタエの現代語役が一番手軽でさらっと読みやすい
いろいろ解説ありすぎると、逆に最後まで読めない、あきるし、うざい
研究する時やマニアなら、いろいろ解説あった方が楽しいだろうけど、最初の一読に解説はいらんわ 秀真伝は読むとすぐ理解できる程度には現代語に近く、とても上古文ではない。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
RX3 ツクヨミやスサノオ というと食事や酒にも重要な記述があってうましくには
いいものだとおもえる、記録と、歌の交差に発展していっていることが
更にいい時代を創出していってほしい。 飛鳥時代に書かれた上宮記は鎌倉時代後期まで存在したそうだが、もしかすると写本が発見される可能性もあるのかな。 >>254
結構いくつも古い石碑が残ってるんですね・・・
古事記以前の石碑はあまりないのね 応仁の乱が無ければ残ってた、古い時代の書物ってあるのかな? 奈良遷都と戦国時代と明治維新の方が文化の断絶が大きい。 708年に禁書詔勅があり、日本書紀以外の文献は破棄された。 秀真伝は、自分が読んでもわかるくらいに現代語に近い。
江戸時代以降の文献だろうね。
自分には平安以前の文献は読むのが辛い。 禁書の詔勅か・・・知らなかった
古事記日本書紀に都合が悪かったんかな? 671年に天智天皇は病死し、672年にその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
ただし新たな創作をするのではなく、九州における歴史の一部を抹消し、一部の事実は組み込んで細かいつじつま合わせをして、本来は傍流であったはずの畿内大和がおよそ三世紀頃と推定される神武の時代まで遡って列島の支配者であるかのように見せかけた。
日本書紀の編纂と並行してそれ以外の歴史書の焚書が行われ、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われたと考えられる。
日本書紀は多くの書からの引用を含んでおり、編纂が行われていた頃までは邪馬壹国を含む倭国王朝の記録もあったに違いないが、倭国の名を消すために慎重に歴史の改竄を行っている。
文書上の改変だけでなく、倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物が平城京に移動される。
九州北部と畿内で多くの地名が配置も含めて一致していることが知られており、歴史や地名も含めた文化のすべての移植をはかったのである。
その一方で、天武朝のときに外交使節として筑紫館が建てられたとされており、後の鴻臚館として朝鮮半島との通商の拠点として福岡の経済的再興の礎となった。
701年の大宝律令の制定により、正式に日本が国号として用いられるようになり、行政単位が唐の評から郡に改称され、畿内大和政権は独立国として国郡制による全国支配を確立したと考えられる。
710年には奈良盆地に平城京が建設され、九州から畿内、関東まで勢力下に置いた中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この統一王朝の名称としては大倭が用いられ、表記が大和とあらためられた後に、以前から筑紫倭国に対して近畿の政権を示すために用いていた呼称である日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、大和は政権中枢の位置する畿内の地名に変化した。
中国に対しては筑紫から畿内へ連続する王朝であると主張したが、それを神代という抽象概念に押し込めたため、現代においては筑紫に王朝があったことすら忘れ去られようとしているのである。 >>265
歴史書の焚書やそれまで使われていた神代文字を禁止してまで
神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することが重要なのかね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>265
日本の名称の由来は、現在につづく?大和朝廷や天皇家に大和を追い出され、追撃につぐ追撃を受けたプレ大和王朝勢力(端的に、長脛彦=大彦ら)が行く先々で一時的な定住化して国を立てて、
日立国(鹿島神宮や香取神宮は出雲神族らが建てたのを大和朝廷側が横領)、アラハバキの国、日ノ本の国、、、
と場所を変え名を変えて次第に東北地方に退却、、、(最終的には津軽(日ノ本の国)に落ち着いたとか?津軽を日ノ本中央と言ったのは日ノ本国の首都だったから。後々に伊達政宗を日ノ本将軍と言ったのも東北が日ノ本国だった名残から。) >>269
日ノ本(ヒのもと)国(東北地方/蝦夷(大和朝廷側が蔑んで蝦夷エミシと呼んだ。(元々は親戚、同族なのに)))を大和朝廷側が横領して
国の名にしたのが日本。
ヒの元。、、、少しひねって考えると、ホアカリ/火明命(ニギハヤヒ)の長男、カゴヤマの直系子孫、、、本家の矜持を「ヒ(火/日)の本」に込めたのではなかったか? >>271
大和朝廷(大倭国)と日ノ本国(蝦夷)が多賀の関のラインを国境に長らく安定安定していたところに、
聖武天皇が奈良に大仏(ビルシャナ仏)を建立するにあたり
莫大な銅や金などの鉱物資源が大倭国領域に不足します。
宇佐族(旧出雲王国時代から重要な勢力。宗像家も多分、宇佐族)が八幡神の神託の形を借りて(交易の有った東北地方/日ノ本国の情報を元に)東北に金ほかが有る!と(いわば仲間(日ノ本国は元の大和王朝(磯城王朝))の敵に情報を売った)
宇佐族(九州の豊国勢力。豊媛(トヨ)と豊彦(卑弥呼=豊玉媛命と物部イニエ王(崇神)の御子。大和入りして後は、豊来入媛(三輪山麓の檜原神社で宇佐族の月読神信仰を広めて稚日女命と称えられた。)。豊来入彦)。)もいわゆる神武東征に帯同して参画。
大和入りをするも大王家(異母兄)に疎まれ排斥されて東に逃避。東海地域に定住化。東海地域に「豊」の地名が多くある理由がそれ。
排斥され大和から逃避なさった豊来入媛は丹波に後には伊勢の椿大神社(猿田彦大神)の宇治土公家(大和の登美家(出雲神(カモ)族)の分家で出雲神族の信仰、幸之神の内、特に猿田彦大神を信奉して後にはサルメ家とよばれた)に助けを求めて匿われる。
豊来(城)入媛命(=豊鋤入媛/稚日女命(高天ヶ原で陰部をヒで突いて死亡した織日女神))は宇佐女(宇佐族出身の女)とよばれたていたところ、
それでは正体がわかってしまう恐れがあるため
ウズメと改名させた上、祭神の后神である等のお伽噺まで創作して庇護に努めていたところ
異母兄の大和の新大王、イクメ大王が放った刺客に憐れ暗殺されてしまいました。
その場所は境内の椿岸神社であるという。
遺体は月読神の信奉者らによって大和に運ばれ、ホノケ山陵(古墳)が築かれそこに葬られたという。
いわゆる、、、、
卑弥呼の後継、トヨ媛女王=豊媛命=豊来(城)入媛命=豊鋤入媛命(キキ神話)=稚日女命/稚日霎貴命(月読神を奉じて檜原神社で祭祀を行う)=ウサメ=ウズメ=天ウズメ命 アラハバキ国は日高見国(北東北・北海道)の北にある国だから樺太。
アラハバキー荒覇吐ーアララトーカラフト まず一枚岩ではなかったんだと思うよ
ヤマト勢力=卑弥呼の後継者
神武天皇=いろんな知識技術とともに渡来したユダヤ人勢力
日ノ本の国=ナガスネヒコ
国が出始め台頭したのが卑弥呼の勢力、その後神武天皇の勢力が台頭してきて、まとめるために卑弥呼の後継者を正妻として貰い、卑弥呼勢力と神武勢力が合体した
しかし古事記に書いてある通り神武天皇の九州での子供は殺された
卑弥呼の後継者の子が二代目天皇になった
この時点でヤマト勢力が神武天皇勢力を逆に食った形になる
日ノ本の勢力とも最終的には似た感じでタベテしまおうとしたんだろう、しかし天武天皇が国号を日本と定めたのは、日ノ本の勢力が食い勝ったからだろう
その後暗殺も行われ天武天皇の勢力は消え去る
天智天皇の勢力に戻る
天智天皇の勢力はケイタイ天皇の勢力
ケイタイ天皇の勢力は神武天皇の九州での子孫
宇佐神宮の本当にお祭りさらていた神様は、八幡様ではなく、宗像三女神だよ
ユダヤ人が崇拝する海の女神様
ユダヤ人が崇拝する海の神様(住吉三神)の嫁
八幡神社は勢力ある神社を乗っ取って作った神社、八幡様を崇めろと押し付けられた神社 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 古いといえば、「東大寺山鉄剣」があるね。金象嵌の。
中平○年
184年から189年の後漢の年号。
もしもこれが今発掘されたら大騒ぎだろうに、何故か無視されてるという。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 山形明郷先生講演会 (邪馬台国は日本になかった)
https://www.youtube.com/watch?v=l4swAYIl7lc&list=PLhHaAGez8wyjHeZpC6k4a3V2j2EtWvO-k 推古天皇の頃につくられた天皇記は、完成当時は大王記という名称だったことが有力だな >>287
天皇記は完成時は大王記で、国記は完成時は国記だったのかな
帝紀や帝皇日嗣、旧辞は同じような内容だったのか
各豪族がまとめた書物も発見されると面白いのにな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 というか天皇記の本来の名称が帝紀で
国記が、おそらく旧辞の事だったんだろう
それらは失ったオリジナルとは別に
写本で流布されてきて
両者を合わして古事記が作られた
帝紀と旧辞が推古朝の時代に書かれたものだから、
古事記も推古朝の時代で終わる
そして、蘇我家の文書だから、(当時の)近代は
蘇我家の輝かしい歴史を中心に描かれてた
乙巳の変以後は
蘇我馬子や蝦夷のシーンごと
蘇我家がらみの話をカットしたから
終盤の記述がほとんど無くなってしまった
藤原氏ににらまれない様に
こっそり写本してきたから
古事記が表舞台で語られる事も無かった
……全部、つじつま合うよ ようは、「まったくの謎とされてきた文書が
実は自分らがよく知ってるアレでした」ってパターンだよ >>292
古事記は当時の人たちには認知されてなかったのか?
写本を引継いでたのは反藤原氏の人かい? というか、旧辞も古事も当て字で「くに」と読ませてたのかもね
で、国記の読みも「くに(のしるし)」で
「在らず」と「在らぬ」みたいに、「じ」を「に」の発音にして
帝紀も天皇記もあるいは大王記でも
「すめらみこと」か「すめらき」とするなら
読みそのものは同じになる
そうすると、タイトルの違いは
あくまで表記方法の違いになる
>>294
そこはちょっとわからない
知ってたけど藤原氏のおめこぼしだったのか
あるいは、本当に完全に隠れてたのか https://kanji.jitenon.jp/kanjie/2479.html
この「爾」は音読みが「じ」と「に」なんで
「じ」と「に」は比較的、近い音と見ていいかも >>295
>知ってたけど藤原氏のおめこぼしだったのか
そんなもん干したらあかん 日本書紀は宮中で勉強会とかやっていたけど、古事記は顧みられていなかった。
偽書との疑いもあった。
晴れて古文献と認められたのは、作者の太安万侶の墓が見つかって実在の人物であることが確認された昭和の末期だ。
新聞にデカデカと報道されていた。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 明治維新の焚書はすごかったらしい。
高良宮では一週間も古書を焼き続けたとか。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています