671年に天智天皇は病死し、672年にその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。

天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。

日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。

ただし新たな創作をするのではなく、九州における歴史の一部を抹消し、一部の事実は組み込んで細かいつじつま合わせをして、本来は傍流であったはずの畿内大和がおよそ三世紀頃と推定される神武の時代まで遡って列島の支配者であるかのように見せかけた。

日本書紀の編纂と並行してそれ以外の歴史書の焚書が行われ、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われたと考えられる。

日本書紀は多くの書からの引用を含んでおり、編纂が行われていた頃までは邪馬壹国を含む倭国王朝の記録もあったに違いないが、倭国の名を消すために慎重に歴史の改竄を行っている。

文書上の改変だけでなく、倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物が平城京に移動される。

九州北部と畿内で多くの地名が配置も含めて一致していることが知られており、歴史や地名も含めた文化のすべての移植をはかったのである。

その一方で、天武朝のときに外交使節として筑紫館が建てられたとされており、後の鴻臚館として朝鮮半島との通商の拠点として福岡の経済的再興の礎となった。

701年の大宝律令の制定により、正式に日本が国号として用いられるようになり、行政単位が唐の評から郡に改称され、畿内大和政権は独立国として国郡制による全国支配を確立したと考えられる。

710年には奈良盆地に平城京が建設され、九州から畿内、関東まで勢力下に置いた中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。

この統一王朝の名称としては大倭が用いられ、表記が大和とあらためられた後に、以前から筑紫倭国に対して近畿の政権を示すために用いていた呼称である日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、大和は政権中枢の位置する畿内の地名に変化した。

中国に対しては筑紫から畿内へ連続する王朝であると主張したが、それを神代という抽象概念に押し込めたため、現代においては筑紫に王朝があったことすら忘れ去られようとしているのである。