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古事記以前の書物について [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2017/08/31(木) 16:49:17.24
ウエツフミ、豊国文字など本当の日本の歴史について
詳しいかたいますか?
時系列が難しすぎて混乱しています。
だれか教えてください。
0047日本@名無史さん
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2017/09/02(土) 17:14:53.28
>>46
さんざん論議して、畿内の可能性は他の地域(例えば阿波)よりむしろ低い、というか考古学的証拠がケタ違いに九州北部。
そして文献もピンポイントで九州北部。
0048日本@名無史さん
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2017/09/02(土) 18:38:22.83
>>40
「先代旧事本紀」は、推古朝の成立とされていますが、内容の大部分は、古事記、日本書紀、古語拾遺から
の文章を切り貼りして作られたもので、それら三つの書物の文章が「旧事本紀」に見られるがゆえに、
『これら三つの書が「旧事本紀」をもとにして別々に書かれたに違いない!』と人々は誤解しました。
また、難解な日本書紀の内容をわかりやすくまとめて表現しているので、さすが!聖徳太子!とも誤解した
ようです。
他には、異常に物部の活躍や系譜が詳しく記事として着されていることが注目されていますね。物部が大臣や
大連として歴代天皇に使えたとする記事が多く、また、物部の女が后となって皇子を産むという話もあり
ます(景行条)。物部氏が代々別格の地位にあったということを述べているのですから、物部氏に縁のある
者が作ったのだろうと考えられました。

しかし、物部についての記述一辺倒というわけでもないのが気になります。そうであれば、欠かせない物部
麁鹿火や物部尾輿の功績についての言及などもない。また、継体朝以後の物部氏の活躍も記されていない。
ただ、石上大神の鎮座次第や石上神宮創建の記事、そこに収蔵されている神宝についての記事が詳しい。
石上神宮を顕彰する意図を持った文書であり、石上神宮の関係者が作者では?とも言われています
(本井田菊士の説)。
0049日本@名無史さん
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2017/09/02(土) 18:57:13.24
先代旧事本紀の方が古いよね。
饒速日が神武より前に東征していて王として君臨していたことがわかる。
それを頼って神武が畿内に落ち延びて来た。
石上は饒速日ゆかりの神社だし。
0050日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 12:06:54.61
結局、古代日本に関しては大陸側の記録もほとんどないから照合して検討するとかできないんだよな
身内で倭國大乱とかやってないで、中国に殴り込みかけて「な、なんだこの蛮族は」とか思わせちゃえば
興味をひかれて詳細な記録が残ってたかもしれんが
0051日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 14:07:17.44
それこそ滅ぼされてしまっただろう。
アホか。
0052日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 14:25:52.23
神功皇后の朝鮮侵攻って当時の中国から見るととるに足らない出来事だったのかな?
白村江でボコられた件についてはちゃんと向こうの記録にも残ってるのに
0053日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 15:18:08.11
>>52
辺境の蛮族が越境してきた程度の感覚じゃない?日本で言ったら、琉球王国が島津家に戦争仕掛けて、鎮圧されたくらいじゃない?
0054日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 15:53:27.53
東夷の国々の争いに過ぎないからね。
唐が大部隊を送り、数々の国が滅びだ白村江とは違うよ。
0055日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 16:09:15.84
白村江の時点だと、日本は高句麗に匹敵するような極東の軍事大国って印象なんだよな
卑弥呼の頃は、東の果てにはこんな国もあるんだよとさらっと紹介する程度だったのに
0056日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 16:10:17.37
(宋史日本伝より、記紀にハブられた神々が沢山いる)
其年代記所記云初主號天御中主
次曰天村雲尊其後皆以尊為號
次天八重雲尊次天彌聞尊
次天忍勝尊次贍波尊次
萬魂尊次利利魂尊次
國狭槌尊次角龔魂尊
次汲津丹尊次面垂尊
次國常立尊次天鑑尊
次天萬尊
次沫名杵尊
次伊弉諾尊
次素戔烏尊
次天照大神尊
次正哉吾勝速日天押穂耳尊
次天彦尊
次炎尊次彦瀲尊
凡二十三世並都於筑紫日向宮
0057日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 19:25:31.95
>>56
「先代旧事本紀」から混入したのでは?
0058日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 19:41:28.46
筑紫日向宮ってどこ?
0059日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 20:08:14.20
というか、朝鮮とか日本より早く漢字が伝わってただろうに、記録残す文化が育ってなかったのは痛かった
百済とか高句麗は滅びちゃったから仕方ないとして、新羅のリアルタイム文献があれば
日本の古代史の解明にも相当な貢献があっただろうに
0060日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 22:24:21.85
>>59
歴史記録はあったが、逸失したのでは?
日本の歴史についての言及したものもあったかもしれないのに、惜しいことです。
中国の歴史書以外に朝鮮のものも使って(史料批判して)、日本史の研究に使えただろうに。
0061日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 01:01:24.00
>>60
何度も王朝が変わってるから歴史書が残りにくかったのかもな
中国みたいに王朝が変わったら旧王朝の遺臣に史書を書かせるというルーチンワークがないと、
旧王朝の記録なんてすぐ散逸しちゃうだろうし
0062日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 11:10:13.53
>>59
あの国は李氏朝鮮時代が酷かったから
あったとしても、その頃に全部だめ押しで消失してるんじゃないかな。
0063日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 14:35:58.87
日本に入り込み変なの多すぎじゃね?
0064日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 15:07:30.36
>>61
勢力の拮抗する国に分かれて、中国の王朝からの介入(軍事的な動きが実際にあった)による戦乱が頻発したので、
「統一された」歴史書がのこされる機会が日本よりも少なかったのかもしれません。
0066日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 20:17:16.66
>>65
恣意的に代を古くしていて、同じ人を名を変えて2順3順〜している雰囲気がプンプンします
0067日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 20:20:32.11
天御中主=国常立=豊受大神=イザナギ/スサノオ/天照皇大神。=ニニギ(ニギハヤヒの事)
0068日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 20:58:32.88
>>65
この文書(日本王年代記)は日本の円融天皇の御代(平安時代)に宋に留学した僧侶のチョウネンが(天皇家と朝廷の意を酌んだ系譜を)携え提出した物である事が早くから判明しています。
0069日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 21:00:45.61
>>56の二十三世の部分が新唐書では三十二世になってるんだよな
いずれにせよ、記紀とは違う歴史書が参照されたのは間違いないし
記紀と内容が違うという事は、それらより古い資料を元にしてるのではないか?

持ち込んだのは、最澄か空海あたりか?
0070日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 21:05:48.86
>>68
そうでしたか!
これが正式な国史だったのですね
記紀は物部氏の系統が排除されたんですね
0071日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/04(月) 21:09:05.00
>>53
もし日本書紀の記述そのままだとしたら、江戸時代に当てはめると
「琉球が島津を降伏させ、日向肥後を侵略し九州北部に迫るも黒田藩の奮闘によりなんとか撃退」
というレベルの大事件では…
0072日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 21:23:38.40
>>68
偽書とされている「先代旧事本紀」の知識が日本から伝えられたのでは?
まだ、その頃は、信憑性のある「歴史書」とされていましたから
0073日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 22:17:23.12
中国の史書に書かれてる倭国大乱も結局よくわからんままなんだよな
0074日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 22:35:46.65
>>67
何人も同一視して馬鹿馬鹿しい。
上の記事にあるように、それぞれ別の王だよ。
0075日本@名無史さん
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2017/09/04(月) 22:41:44.12
>>73
倭国大乱の前に男王70〜80年とあり、それが伊都国の王墓群の時代なんだよ。
伊都国の初期の王墓である南小路遺跡が邇邇芸の墓の可能性があり、ならば男王の時代とは日向三代となる。
倭国大乱で天孫族が筑紫を出たのかもしれない。
0077日本@名無史さん
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2017/09/05(火) 13:04:15.94
やはり高祖山の周辺だろうね。
日向峠、日向川などの地名が今もある。
筑紫の日向の小戸でイザナギが禊をしたことが祝詞に歌われていて、福岡市西区の小戸ヨットハーバーのあたりらしい。
もともと博多住吉神社はそこにあったのだとか。
高祖山の最高峰をクシフル山と言うそうな。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 13:14:52.83
【筑紫の日向】

福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ(九州では国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる)。
麓には室見川の支流である日向(ひなた)川が流れ、この山を越えて福岡市と糸島市を結ぶ峠は日向峠と呼ばれている。

ニニギが降臨した地である高千穂としては今日では宮崎県が比定されることが多いが、古事記において天孫降臨の地は「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、筑紫(福岡県)のクシフル山とするのが合理的である。
日向三代の伝承を南九州に比定するのは記紀の誤読であり、何の根拠もない。
考古学的には、三種の神器を伴う古代墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、拝殿である細石神社の祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹であることから、被葬者はニニギと、その妃である木花開耶姫という説がある。
また、この細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
平原遺跡の1号墓からは直径が漢代の二尺(直径46.5cm)であり、円周はちょうど八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土している。
八咫の鏡(やたのかがみ)はアマテラスが孫のニニギに託した王権の象徴であり、三種の神器の一つである。
ここが倭国の都である筑紫の日向の高千穂宮であったことがわかる。

クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」とある。
韓国の正面に位置することができる立地条件は宮崎県では矛盾するが、福岡県の高祖山ならまさに朝鮮半島への玄関口であり、笠沙岬は博多湾の出口に横たわる半島である志賀島のことであると考えられる。
高祖山からは東に福岡平野の倭奴国、西に糸島平野の伊都国があり、倭国を代表する新旧の王都である。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があった、
怡土城と高祖宮が高千穂宮に比定することが可能である。
ここが天孫降臨の舞台であり、神武東征の出発地である。
0079日本@名無史さん
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2017/09/06(水) 22:21:44.95
邪馬台国九州説で初期のものといえば、鶴峯戊申の「襲国偽僣考」(1820)ですね。
邪馬台国は襲国であり、大隅半島の囎唹郡にあったという(魏志の記述から)。
後の、邪馬台国九州南部説のもとですね。この襲国が大和朝廷を僭称して魏に使節を
送っていた、という主張です。
邪馬台国を大和民族とは別の熊襲が築いた国であり、九州の筑紫だっという説は、
先に、本居宣長によって唱えられました(1778年)けど。
日本書紀は、邪馬台国=大和、卑弥呼=神功皇后、としていますね。

戊申は、臼杵の神官の子供として生まれて、宣長に心酔して国学と復古神道を学んだ
ということです。
0080日本@名無史さん
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2017/09/06(水) 23:57:04.30
日本書紀は明言することなく、神功皇后の年代を卑弥呼にぶつけている。
しかし、海外の史書との関係から、神功皇后の記事は120年前倒しされていたことがわかってきた。

現在の九州説は、かつての九州説とは関係なく、弥生文化伝播発祥の地である玄界灘沿岸地域に弥生王墓が多数集中することから、これが倭国王として漢や魏に朝貢していた王たちであるとするものである。
また、記紀の神代の巻の記事も、これら九州北部の歴史の断片であると考えると、考古学的な証拠と矛盾なく読めるのである。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 00:46:06.64
古代の神、すなわち王家には大きく分けて天つ神(天神)と国つ神(地祇)の分類がある。
天つ神はアマテラス(天照大神)の家系の神であり、海を越えてやってくる渡来人系の人々である。
天つ神のアマは、本来は海人の意味であったという説があり、確かにそのような読み替えは古事記などの記事を、超越的な存在を用いることなく、うまく説明することができる。
国つ神は天つ神以外の神々のことであるが、古来からの縄文系の人々や、アマテラスの直系ではない神々である。
国つ神を代表するのは全国のクニをまとめていた大国主であり、スサノヲの末裔であるといわれる。
稲の収穫を終えた神無月には神々が出雲の大国主のもとに集ったとされており、部族長が集まり祭祀を行っていたことを意味していると考えられる。
マテラスの名前は、天上を照らす太陽神の意味ではなく、本来は海洋を支配する王「海照らす」の意味であり、対馬海峡の漁撈と交易により成立した海洋国である倭国の王にふさわしい諡である。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 00:46:53.36
倭国は海洋部(アマ)と陸上部(クニ)がしばしば分割統治されていたが、出雲の大国主を倒した後に海上と陸上をあわせた王となったのは、アマテラスから十種の神宝を継承した孫のニギハヤヒである。
ニギハヤヒの末裔である物部氏の伝記である先代旧事本紀における名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテルヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とあり、海洋と陸上を統治する王である。
その弟のニニギは古事記では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト)と表記され、やはり倭国の陸海にまたがって君臨する王である。
ニニギの称号はアマテラスから海上部、オオクニヌシまたはヤマツミから陸上部の支配権を継承したことによるものである。
古代においては兄弟相続が一般的であり、ニギハヤヒの後をニニギが継いだが、ニニギの王統が最終的に天皇家につながると考えられたために後世ではニギハヤヒが重要視されなくなったのかもしれない。
サルタヒコは海上と陸上を支配する(照らす)神として紹介されており、博多湾岸を支配者していたが、イザナギとイザナミの子の一人であるヤマツミ(山祇、大山津見神)の下の官であったため、争うこと無く協力関係が成立したのだろう。
高祖山の麓にある高祖神社の祭神はニニギの子であるヒコホホデミである。
ニニギのもう一人の子であるホオリ(火遠理命)はワダツミ(海神、綿津見神)の娘である豊玉姫を后とし、その子のウガヤフキアエズ(鵜草葺不合命)は豊玉姫の妹の玉依姫を后としている。
ヤマツミとワダツミは九州北部の二大勢力であったが、天孫族がその間を取り持つ形で早くから姻戚関係を結び、長らく倭国王家として栄えたと考えられる。
オオヤマツミには和多志大神の別名もあり、海神としての性格も併せ持つため、ニニギより前に海洋と陸上をあわせて支配した王であるが、男系では王位を継承しなかったために歴史上はニギハヤヒやスサノヲと同様に傍系として忘れ去られようとしてしまっている。
海神と山祇の関係は、天神と地祇の関係の類型でもある。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 22:49:58.29
記紀と異なる歴史を伝える古史古伝としては、秋田県の唐松神社に伝わる「物部文書」がありますね。阿比留草文字で書かれていた、ということです。
戦後に発表されたものですが、偽書である「先代旧事本紀」の影響を受けています。
この文書によると、饒速日命が天神の命をうけて天の鳥船にのって鳥見山に降臨する。
ここから大和を目指して西征を開始、長髄彦と和睦・離反して神武天皇の東征軍に帰順する。
「先代旧事本紀」では、物部氏の祖先とされる天忍穂耳尊が哮峯(交野市)に降臨して、長髄彦と和睦・離反して神武天皇に帰順する、とされています。

両方合わせると、2つの物部が西と東から大和に向かってやってくるという。
東北地方の地位向上を目的として古史古伝なのかもしれません。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 23:51:21.82
唐松神社の神宝がウソくさいからなあ。
同じ名前のものが籠神社にあり、明らかにそちらが本物だから。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 00:53:40.54
>>55
卑弥呼は地方の国だったんだろうね
白村江の戦いは連合国家
0086日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 03:11:00.59
>>85
卑弥呼の頃から大国扱いだよ。
金印までもらっているし。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 17:27:57.64
基本的には口伝で
論理的な整合性が正当性を生むという概念もなかったろうしねぇ
0088日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 15:39:43.42
記紀以前の書といえば、聖徳太子の作と伝えられる予言書(多数)があり
ますね。「日本書紀」に聖徳太子が「未然のことを識る」とされているの
で、彼が予言書を残しているだろう:という考えが、それらの書物(偽書
群)の作成基盤となっているのでしょうけど。
最古のものは、ゆかりの天王寺の「本願縁起」。平安時代の衰退した天王
寺の再興のための文書です。
楠木正成による倒幕のための挙兵のきっかけとなったという「太平記」で
の記述もあります。
その時代における政治状況に正当性を与える目的で作成された、というこ
とでは、他の偽書の作成動機と同じです。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 20:20:58.10
記紀以前の文字による記録が紙の形で残ってるというのは難しいかもしれないから、
碑文の発掘とかを期待するしかないのかな?
0091日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/13(水) 21:10:30.23
>>84
籠神社の鏡って帥升のときに貰ったの?
0092日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 00:19:24.75
一枚は前漢、一枚は後漢。
後漢の方は帥升かもしれないしそうではないかもしれない。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 01:26:13.56
故 其天之日矛持渡來物者 玉津寶云而
1. 2. 珠二貫
3. 又 振浪比禮
4.   切浪比禮
5.   振風比禮
6.   切風比禮
7. 又 奧津鏡
8.   邊津鏡

伊都國王難升米の直系の御先祖(父と祖父)
0094日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 06:06:01.33
天之日矛は、どうもひっかるなぁ

名称や宝の名前がどうも日本語くさいというか…
意訳して日本語になってると言うより
初めから日本語だったんじゃないかって感じ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3#.E5.9E.82.E4.BB.81.E5.A4.A9.E7.9A.8788.E5.B9.B4.E6.9D.A1
↑の話も出雲振根の話を下敷きにしてる様に見える
https://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E6%8C%AF%E6%A0%B9-1053819

日本神話をむりやり新羅と関係づけてるんじゃないだろうか?
(もとは常世とかだったりして?)
都怒我阿羅斯等とかにしても

そもそも、大和朝廷に応神天皇以前の記録が
まともにあったのかが怪しい
0095日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 13:18:47.21
>>89
金石文などの「非文書」文字記録の発見はなかなか難しいのではないでしょうかね。
未発掘の古墳を発掘すれば、断片的なものは発見できるかもしれませんが。
ペトログリフなどと同様に、それが彫りつけられた年代の推定が容易ではありません。
法隆寺金堂薬師象光背銘などは、記紀よりも古い記録であると考えられたこともありますが、これは、後の時代に追加されたものであろうと考えられていますね。
「天皇」の号の使用開始はいつか?という点で注目されたものですが。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 20:00:06.20
ペトログリフって何?ヒエログリフのこと?
ろくに調べずに書いたんだろうけど古代エジプトでは必ず○王の治世〇年目って書くから年代の特定はそんなに難しくない
だからナルメルというすごい昔の王様ですら即位期間がかなりハッキリしてるわけ
0097日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 20:06:03.68
おっとググったらマジであったなペトログリフ
岩絵のことか
でも古墳時代にはすでに年号の使用が見られるのでそれほど年代の特定は難しくないのでは
未盗掘の古墳から見つかったのなら改竄の可能性もないだろうしな
0098日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 20:53:14.21
>>92
古い方は、委奴国王のとき 57年
新しい方は、倭面土国王のとき 107年 
じゃないの?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 21:24:22.00
>>98
そもそも考古学的に前漢鏡、後漢鏡とされているよ。
7. 奧津鏡
8. 邊津鏡
この二枚なんだけどね。
日矛は便利に使い回されている称号に見える。

>>93
>故 其天之日矛持渡來物者 玉津寶云而
は、饒速日の十種の神宝と被っている。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 21:30:26.47
倭面土国は何と読むのですか?
ヤマトですねわかります
0101日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 22:01:13.53
[天]  之 日 [矛]
[阿毎]多利思[北孤]

[北孤]が[矛]に文字変換 置き換えされている
[北孤]の[孤]は[孤竹]の[孤]で王の称
[北孤]は華夏の皇帝のシンボルの北極星を踏まえた呼称なのだろう
[矛]は当時の倭語ではおそらく[mo]あたりで発声されていたんだろう
[鉾]の偏省略形の[牟]は[mo]音だと比較的容易に解析可能だろう
[都市牛利]の[牛]も[牟]のさらなる省略形で[mo]音ならむ

天之日矛は『三國遺事』に出てくる[延烏郎]とコモンで
男の太陽神です
0102日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 22:13:06.47
最後の一行で台無しだよ。
モオ〜
0103日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 22:13:47.95
>>100
九州の地名ですね。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 22:32:18.50
倭面土はイェミェトと読みます
大和ですありがとうございました
0105日本@名無史さん
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2017/09/14(木) 22:42:29.39
>>99
>7. 奧津鏡
>8. 邊津鏡
これらは、おなじような鏡が多く産出する九州地方から後の時代に入手されて宝としておさめられたの?
国宝の「海部氏系図」の内容は信用できるの?
誰が(学者)がその国宝としての価値を評価したの。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 00:35:38.74
伝承通りなら、高天原で天照王が孫の饒速日に渡し、それを持って船で関西までやってきた。
系図を否定する意味もないし、記紀などと矛盾はない上に、記紀にない部分を補うことができます。
0107日本@名無史さん
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2017/09/15(金) 14:05:59.35
>>3
そして鉄剣や仏像の裏面に書かれた文章だけが残ったんだよな

法隆寺の仏像の文章は聖徳太子について書かれてて興味深いぞ
0108日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 14:15:33.95
鉄剣の文字で重要なのは3つ

そのうち2つはワカタケルの鉄剣
熊本と埼玉から出てくる
九州から関東まで出兵し征服
中国の書に出てくる倭王武の記述の通りの覇王である

残りの1つは奈良の石上神宮(物部氏の神社)に残された百済王からの贈り物である七支刀
ここには「倭王旨」の文字が見られる
物部、旨とくればその正体は「ウマシマジ」
記紀で物部の祖先とされるウマシマジは倭王だったことがわかり、それと同時に
古代において大王位は天孫族の独占ではなく、物部など他の豪族が大王となっていた時期があったことがわかる
0109日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 14:18:51.15
古代において大王位は天孫族の独占ではなかった

日本書紀編纂において、天孫族の権威性を高めるために
天孫以外の大王の存在を消す必要があると考えた朝廷は

過去の書物の一切を禁書としたのだろう

しかし、法隆寺の仏像や古神社に残る鉄剣までは燃やすことができなかったと
0110日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 14:34:46.04
一方法隆寺の仏像からも面白い文章が見つかる

それは「大王天皇」という言葉だ

天皇号の成立初期において、

大王 と 天皇 という称号は並立可能なものだった

倭国の最高権力者を大王とするなら

では天皇とはもともとはどういう役割の称号だったのだろう
0111日本@名無史さん
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2017/09/15(金) 21:41:10.30
>>110
もともと、天皇と敵対する勢力があってそこを制圧して、天皇が唯一の絶対権力にしたんじゃない?
敗れた勢力は、日本書紀や古事記などの天皇の前の系譜を伝えてた勢力。
それを書き換えて、良い感じに天皇が神の系譜と記したんじゃないかと、俺は思ってる。
0112日本@名無史さん
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2017/09/15(金) 22:09:03.88
>>111
俺も実はそう思うんだよな

神武東征にあたる畿内への外部勢力の侵入は実は7世紀であって
それまではずっと物部と葛城(鴨)の古豪二氏が畿内を仕切ってた

倭の五王に代表される倭王もみな物部か葛城の人間

天孫族の畿内侵入は、定説よりずっと後の7世紀
白村江の敗戦で九州が唐に占領されたときに
九州豪族(天孫族)が畿内に逃れてきて起きた

古代天皇の多くは葛城か三輪に居住した

これはシンプルに、葛城と三輪(物部)の二氏が王権を争っていたということではないか

天孫なんていなかった
0113日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 22:32:23.04
>>112
え?九州って唐に占領されたことあるの?
無知ですまない。

白村江の敗戦で確実に天皇派の敵対していた勢力は衰えたよね。
でも、俺が思うに制圧というより、合併吸収と言うほうが強かったのかなとも思う。
どっちにせよ、色々掘り起こしたり遺跡発掘を宮内庁がしてほしくないんだろな。
彼らは薄々真実を知ってそう。
実は天皇家は乗っ取り政権で、その昔巨大な勢力があって、文化があってってさ。
その旧勢力の一族がサンカの民になったり蝦夷になったりって。
そこで、日本の古代文字とか使われてたとかロマンがある。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 23:57:54.33
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/16(土) 01:17:00.00
>>114
勉強になった!ありがとう。
ちょうどこの辺の歴史知りたかったんだ。感謝。
やっぱりこの辺の歴史およそ100年分がすっぽり抜けてるあたり、真実が隠されてそうだね。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/19(火) 02:34:48.01
>>111
例えば蘇我氏ひとつをとっても、自分の屋敷を宮門 みかど と称し、行き過ぎが見られたので、
って書いてあるけど、普通に天皇家がNo.1とはいいきれない状態だったんじゃないかなと
別に蘇我氏の方が残って天皇家の位置にいたかもしれない、くらいの力関係で
畿内ですら固まってなかったのではと思えたりする そう考えると、崇峻や聖徳太子を誅殺
するくらい、当時まだどの氏族が天皇家か固まりきってないとすれば、
蘇我氏の方にとっては単なる普通の権力争いだったりして、話がぜんぜん違ってくる
0117日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/19(火) 07:30:44.61
それを言うと物部もそうで、アマテラスの孫の饒速日が神武より先に畿内に権力を確立していたのが物部の祖。
神武は奈良盆地の片隅で居候させてもらっていただけ。
蘇我に滅ぼされるまでは物部が最高権力者だったのではないか。
大君家と大臣家と大連家のどこが優勢かと言う話に過ぎない。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/19(火) 21:48:40.15
初心者にも分かりやすく概略教えてくれ
0119日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/19(火) 22:32:51.16
物部の先代旧事本紀も斎部の古語拾遺も殆ど紀記と同じ神話を伝承してるのやからそないな突飛もない影の歴史なんてあらへんで

空想しすぎやわ
0120日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/19(火) 22:56:43.54
断片的な情報をつなぐと、以下のような感じ。

高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からない。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていたが、蘇我大臣家と天皇家は物部大連家を滅ぼした(物部戦争)。
次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/20(水) 00:35:47.48
九州の歴史では、蘇我氏の祖は武内宿禰ではっきりしているのだけれど、畿内の歴史では蘇我氏は出自不明なのだな。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/20(水) 14:51:32.22
魏志倭人伝はゲルマーニアガリア戦記クラスの神書物
0123日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 18:03:08.60
ふむ。

出雲口承によると
出雲族@島根、元インダス文明の担い手
出雲族の嫁による徐福の長子の子孫@石見、丹波、笛吹、後の海部家、尾張家。海幸彦に仮託
宗像家の嫁による徐福の次子の子孫@吉野ヶ里、妻、熊野、後の物部氏。山幸彦に仮託

出雲族と徐福族の諍いがあって、出雲族の王家が
葛城に移住。後の三輪氏、賀茂氏

徐福の長子五十猛の子、海村雲が葛城における大王となる。後の綏靖、安寧の后妃は三輪氏から。

という。

この辺りは、国宝海部氏系図通りの内容で
出雲族と海部家の伝承が一致する、そうな。

それと合わせて徐福の到来は紀元前220年くらい
到来の証拠が、出雲、丹波、綾羅木遺跡などから出た石笛のトウケンだという。

また、丹波地域の弥生時代の開発が
紀元前2世紀、1世紀ということで製鉄遺跡が残っているから、出雲口承が考古遺跡から裏付けられるように思う。

ただ、石見からなぜ丹波に移民する必要があったのかは出雲口承では語られない。不明。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 18:58:21.16
三輪氏、賀茂氏の次に丹波から村雲が丹波人を
連れてきて葛城首長と認めた。これが第一段階。

次に天日矛が但馬から播磨に攻めてきて
現地の地理がよくわからないから想像だけど
これは西播磨の話のようで

これにより、出雲本国と葛城との関係が寸断されてしまって、日矛族と全面対決して撃退した。
葦原色許男と争った話が播磨風土記にある。ここと整合する。

ここで撃退したのは孝霊天皇の時代だという。
その後、孝霊天皇は出雲本国に(どういうわけか)
戦争状態になったという。

孝霊天皇は瀬戸内吉備に伝承を多く残す。

三輪賀茂と村雲族で日矛族が手に負えないので
九州から物部氏が熊野まで来たので、それを賀茂氏が引き入れて日矛族を追い払った。

日矛族が奈良にいた証拠が近鉄但馬駅の地名という。

その後、物部氏が奈良を制した。これがウマシマジという。それまでの村雲族から出た孝霊天皇は奈良を追い出された、孝霊天皇の後は奈良では開花天皇が継いだ。ただ、開花天皇の兄の大彦は物部嫌いで銅鐸派だったという。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 19:17:30.46
ウマシマジの物部は后妃を開花天皇に入れる。

物部は道教祭祀として鏡の祭祀を開始し
それまでの三輪山の祭祀の並立状態になるという。

出雲口承は年代がはっきりしないけど
多分銅鐸祭祀がまだ存在していたということだからこれが2世紀後半、唐古・鍵遺跡が生きている頃。

古代氏族の系譜研究をしている宝賀氏によると
神武即位は176年という。つまり、神武東征は二世紀末。神武東征は物部東征だった!という。

その後、物部氏は旧勢力の大彦を奈良から追い払う、伊賀から北陸へ。また東海にも。これが狗奴國という。
村雲族を追い払う、丹波に戻った方が海部家
伊勢尾張に移ったのが尾張氏という。

近江北陸伊勢尾張を繋ぐ交通の要に、伊勢遺跡がある。守山市。考古学的な前後関係は
伊勢遺跡の後で纒向遺跡になるらしい。
また唐古・鍵遺跡の衰退の後に纒向遺跡があらわれるようです。
なので、物部氏が奈良にやって来て銅鐸祭祀が北陸や東海に移り、元奈良勢力がどうも伊勢遺跡の主体だったのではないかというのが私の見立てです。
0126subo
垢版 |
2017/09/24(日) 19:31:00.87
>>123
なるほど
0127日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 20:07:36.70
その後、九州は妻にいた
崇神天皇が 宇佐と連合してもう一度東へ
この宇佐の女王が 親魏倭王の卑弥呼だという。

東征半ばに崇神天皇とこの宇佐族の親魏倭王の卑弥呼は病没。崇神天皇の子 垂仁天皇が続行。

崇神天皇と宇佐の親魏倭王の卑弥呼の子
豊来入彦と豊鋤入姫も随伴。

日矛族の末裔、田道間守は出雲本国を攻略
これが神宝検校に仮託。先に奈良入り。
垂仁天皇は三輪山祭祀を認めることにして
出雲と同盟、これが当麻蹴速の相撲エピソードに仮託。

しかし、親魏倭王を継承した豊鋤入姫を擁立することを宗主国から求められたため、沙穂姫の三輪山祭祀を排し、豊鋤入姫に檜原神社で祭祀をさせる。豊来入彦は開花天皇の後の丹波道主を追い詰め垂仁天皇の王権確立に貢献したという。ここで当初村雲族の王権は交代した。

その後、親魏倭王が目障りになって
出雲本国と密かに同盟した垂仁天皇は
出雲本国兵を奈良に引き入れて
豊来入彦らを奈良から追い出す。豊来入彦らは尾張や東海に移る。

さらに追い詰めて
豊来入彦らは上野下野へ
出雲族は東海を経由して武蔵上総あたりに。

その直後の垂仁天皇の治世は何かあったんだ
ろうけど神功皇后まで以下略。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 20:07:53.15
垂仁天皇の生存年中が親魏倭王の景初年間なのでこれが3世紀半ば。従来の紀年研究では崇神天皇没は318となっており、これはかなり差がある。

ただし、古墳時代の開始年代の議論のある3世紀半ばに土師部の祖、野見宿禰が登場するため
ここは整合している。どちらが妥当か?

また、宇佐族を母系とする豊来入彦が関東に来たことは、新撰姓氏録の各氏族系譜に残っておりここも整合する。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 20:26:24.44
出雲口承は当然現代的な意味での
解釈が入っているので
また当事者の視点での「証言」なので
どこまでが「真実」なのか
見極める必要があります。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 20:29:04.45
宇佐古伝によると

神武天皇と景行天皇は兄弟だという。
0131伊都国女王
垢版 |
2017/09/24(日) 20:40:30.62
>>130
神功皇后が卑弥呼より120年後なので、その祖父の代の景行は4世紀初めくらいだろう。
神武と兄弟は無理がある。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 20:47:45.42
神武天皇が宮崎から北上する際、
宇佐族の海人である佐伯氏と争った。

宇佐族は服属することにし神武天皇族に
宇佐の地を屯田地として与えた。

宇佐族は古くから大陸との交流し
大陸王朝の制度に明るかったからだという。

宇佐津姫と神武天皇には
宇佐稚屋そして安芸に移ってミモロワケが生まれた。宇佐津姫も神武天皇も安芸で没し
景行天皇が後見したという。

ミモロワケは大陸王朝の文化取得に励み
本邦の卜占を定め
現在の宮中祭祀の八神を定める英邁英傑だったという。

宇佐稚屋は二十代で亡くなり一子 押人の後見をしたミモロワケは景行天皇の指示により
東遷を続行し、押人を王朝創始の大王になしたという。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 20:51:12.63
>>131
その通りです。

ここは宇佐古伝を記述する際
宇佐家の伝承に現代的な解釈が入ったせいで
帰ってよくわからなくなっているのです。

したがって

貴重な古伝といってもそのまま鵜呑みにするのはダメで、
当事者の視点だけでなくいろんな資料との
付き合わせが必須なのだと思います。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 21:09:26.87
宇佐古伝の一面の正しさというのは
宮中祭祀と
卜占についてです。

後に宇佐八幡宮神託事件があるように
宇佐と天皇家との繋がりがどこかであったはずだか記紀ではいっさい宇佐との関わりが記されないという状態です。

そして卜占については
神武と同世代の天種子の後が中臣氏に繋がるのですが、
宇佐古俗の服属儀礼で、自分の妻を差し出した事実を
後代の自家系譜の上申時に憚って架空の人物名に仕立てて朝廷に提出したことによるという。

つまり天種子は後の天皇家につながる人で
その子が宇佐家に残り、宇佐家で洗練された卜占の技術を宮中に持ち込んだ。

それまでの畿内の祭祀は神奈備の三輪山祭祀
物部の道教起源の鏡の祭祀。
いつどのように「現在の宮中祭祀」が始まったのか?

亀卜鹿卜など卜占を中臣が独占したのはなぜか?
皇族だったから。
天皇家の母系の宇佐族の祭祀が引き継がれたから。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 21:21:43.50
宇佐古伝の神武天皇といっている部分は
出雲口承でいう崇神天皇とかんがえると
ある程度矛盾がなくなります。

出雲口承では崇神は東征途上で亡くなっている
崇神と宇佐の姫は婚姻した
東征中に宇佐の姫出雲口承では親魏倭王の卑弥呼のも東征中に亡くなっている。

出雲口承でいう豊来入彦が
宇佐古伝にいうミモロワケなら
どちらも東国関東に向かって子孫が土着したことが共通している。

つまり、古伝はやはり一定の事実を残してはいる、ただし、その原伝承の本意が失われて
記述者の現代的な解釈が入っている。こういうことです。

ただ宇佐古伝では親魏倭王、大陸に朝貢したとは全く言及がない。原伝承にはあったかもしれないが、意味がわからなすぎで現代には失伝されたかもしれないことが惜しまれます。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/25(月) 03:06:40.69
>>121
葛城の鴨族(出雲王国の分家。神=王族をカモと発音していたので、後に鴨の文字が当てられた。(鴨は、甲+鳥。甲は神に同じ、鳥(トリ)は十霊(トリ)最高神。また、葛城のトビ家を暗示))の末裔。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/25(月) 07:27:29.02
そういう氏族はあちこちにいて、例えば肥国の隈クマ=カミとかもそう。
葛城が特別というわけではない。
三種の神器を持っていたわけでも、漢や魏から倭王として冊封されていたわけでもない。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 07:21:53.33
>>52
「神功皇后の朝鮮侵攻」そのものがでっちあげの可能性もあるってことだよね
0139日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 07:51:25.14
朝鮮側にも倭国が繰り返し侵攻してきたことは記録されているよ。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 12:05:48.18
>>138
うん、そこは古事記の表記からして神話で
まず事実で無かったと見ていい
0141日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 12:17:05.94
朝鮮側の首都を包囲しているからねえ
倭寇レベルじゃなくて、それなりの軍隊が出動してるよね
朝鮮半島の倭領に軍隊が常駐してたんだろうな
0142日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 12:21:15.07
>>140
三国史記との比較で、4世紀末のことであったと考えられていたはず。
国軍による侵攻でも寇の字を使うことができる(元寇など)ので、倭国による組織的な侵攻も倭寇と呼ぶ。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 13:00:08.82
>>142
いや、最近おもったけど神功皇后は完全に神話
わずかの事実性もない

で、三国史記は日本書紀よりずっと後に出来たもんだから

むしろソースんも一部がそもそも日本書紀の可能性がある
つまり、さしてあてにならないとみてる

百済も新羅も滅んでしまってたので
三国史記があらわされた当時からして資料が散逸してしまってたろう

で、滅びなかった日本の日本書紀などの資料は残ってたけど
それ自体が、まあさして信用できないだろうって話

こう書くと朝鮮びいきと思われるだろうけど…・・
むしろ、自分は最近まで
朝鮮・韓国がらみの話は、あまり興味もなく調べてなかったんだよね。
それが最近、ちょっと思う事あって、
朝鮮の資料を調べだしてる所。
で、このあたりの事は日本書紀のが
ぜんぜん信用できないんじゃないかと思い出してる所。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 13:08:02.17
日本書紀が嘘だらけなのは同意するが、三国史記と日本書紀では、神功皇后の侵攻に対応する記事が120年ずれているんだよね。
だから、三国史記が日本書紀を参考にしたというよりも、別個の資料をもとに日本書紀ご年代を前倒ししたんだろう。
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