>>5-14
>>19 のブログの「散漫レス日韓海峡編」よのう。ほいから鹿児島と新羅は習俗の似とるし。
http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html
▼大隅国における秦氏〈韓国岳〉
 大隅八幡宮(鹿児島社)は708年の創建と伝わる。香春新社や宇佐八幡宮造営も
含めて、この八世紀初めの動きはただ事ではない。南九州での薩摩・大隅国設置=
隼人征伐は、外来神であった八幡神をニッポン神化し、これを先兵とすることで
遂行されたのである。
▼島津氏が継承した新羅の民俗
 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、
六百年以上にわたり南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られて
いない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、
氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が
縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の
鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。…
新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と
呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。
三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水
(いずみ。鹿児島県北西端。ここにも八幡宮がある)であった。…」
新羅系渡来の九州豊前新羅人が隼人征伐し大隅に移住し、薩摩は惟宗秦氏の
新羅系島津支配の歴史ゆえ、鹿児島人は新羅や今の慶尚道人と性格が似とるわけで。