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一遍上人研究本 「人は生き直せる」教え 異分野の桜井教授、魅力語る
http://mainichi.jp/univ/articles/20171005/org/00m/100/031000c
踊り念仏で知られる時衆(現在は時宗)の祖、一遍(1239〜89年)について、異分野の著者による本が出た。
『一遍 捨聖の思想』(平凡社新書、929円)の著者は、西欧の社会思想史が専門の東京経済大学の桜井哲夫教授。
一見は仏教史と無関係な桜井さんに、一遍の魅力を聞いた。
桜井さんは「明治以来、鎌倉仏教の思想的頂点は浄土真宗の親鸞(1173〜1263年)とされて、一遍が軽視されてきたことに疑問がある」。
フランス現代思想のフーコーの入門書などで知られる桜井さんだが、実は、時宗寺院の生まれ。今は住職も務める。
親鸞は浄土宗を開いた法然(1133〜1212年)の弟子、一遍も浄土宗から出た。皆、南無阿弥陀仏を唱える「浄土教」の流れにある。
特に親鸞は、阿弥陀仏と個人の「信」に重きを置く。戦前からキリスト教的、一神教的とされて知識人に受けた。
「マルクス主義からの転向者は、親鸞にはまりがちです」
他方、一遍は、念仏は「信不信をえらばず」とした。阿弥陀仏は、信じない人を含めた万人を既に救っているという。
融通無碍(むげ)なこの教義は、当初、貴族から被差別民まで広く受け入れられた。
逆に戦国時代には、善悪の別がはっきりした浄土真宗に信者を奪われた。さらに明治初期、排仏棄釈で寺院数は半減。
近代の仏教史研究でも、一遍自身の著作がないことなどから「思想がない」と酷評された。
本書は、中国の浄土教や平安時代までの浄土信仰など、時衆の「前史」に紙数を割き、一遍の歴史的位置を明らかにした。
布教スタイルなどは、空也(903〜972年)ら市井の僧、「聖(ひじり)」の系譜にある。思想は法然を親鸞と別方向に純化させ、
「信を問わないことで、阿弥陀仏の呼びかけに個人が応答するという親鸞型の信仰で救われない人々を視野に入れられた」。
「ただ愚なる者の心に立かへりて念仏したまふべし」も、桜井さんが好きな一遍の言葉。
「愚なる者」になれ、とは、目先の利益や評価にこだわり、振り回される自分から降りろ、との意味だ。
「このあたりから、アナーキズムの研究者が一遍にひかれる気持ちもわかります」 千坂恭二 @Chisaka_Kyoji
学僧的な法然や親鸞の専修念仏が宗派的で、いわばマルクス主義的といえば、
聖(ひじり)僧的な良忍や一遍の融通念仏はアナルコ・サンディカリズム的であり、アナキズム的ともいえるだろう。
https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/250458141119107072
アナキズムを浄土教的仏教に擬えれば、学僧的な浄土宗や浄土真宗はマルクス主義的とすれば、
アナキズムは、融通念仏の良忍や踊り念仏の一遍らのような聖僧的なものといえるだろう。
https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/844741411660414978 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています