古記録によると、能登半島の神社の8割が百済(くだら)、新羅よりの渡来とされているが、そのことを金氏は再確認する。
さらに越中に移り、富山県の小矢部(おやべ)市史から、同県の栃波(となみ)郡内の神社の祭神はすべて
『古事記』『日本書紀』に見える神名に変えられてしまっているが、
なお「・・・ほんらいの姿はあらわれていない・・・古い伝承・・・郡内ではまず異国の神々の存在を忘れてはならない」
というところを引用している。

7世紀の百済の滅亡の前後に多くの渡来人が大和朝廷に来たことは歴史に明らかである。
通常は朝鮮半島の文化はまず大和朝廷に伝来し、そこからあらためて地方に波及したとされるが、
能登半島の場合は、日本海を渡って直接に渡来したと考えるほうが自然であろうと金達寿は言う。

さらに、興味のあることであるが、金氏は読売新聞に載った、
東京医科歯科大の島本多喜雄氏の報告について書いている。(新聞の日付はない)

それによると、島本氏は百済の歴史博物館を訪れたところ、鳥居と千木(ちぎ)を備えた建物であるのに驚いた。
(千木は神社の屋根の上に部材が逆八の字に立ち上がっている物。神社建築の典型)

実は韓国でもこの建物に対して、これは日本の神宮ではないか、
何でこんなものをいまさら建てるのかと非難轟々(ごうごう)であった、と。
ところが史実によると、これが百済の王宮の正式の建物であるとのことで、韓国民は納得したという。

この記事を紹介した後で、金氏は鳥居について述べているが、
沿海州(シベリアの日本海沿岸地域)のツングース、ギリヤーク族などの習俗の中には、墓地の入り口に鳥居を置くものがある。
この「鳥居」には実際に鳥が刻んであったり、または鳥を彫刻したものが吊るしてある。
これは韓半島から沿海州にかけての、死者の霊魂は鳥となって飛ぶとされる思想から来ており、
鳥居とは、霊魂が鳥となって飛来したときに止まる場所である、と金氏は言う。

同氏は、鳥居が沿海州の葬送の風習の後、一部として始まり、
百済(346?〜660年)の王宮の建築に取り入れられ、さらに日本に渡来したと考えている。