なぜ広島は優秀な人材の宝庫なのか8 [無断転載禁止]©2ch.net
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慶尚道人に関して面白いことが書かれている本があったんで、紹介しておく
https://books.google.com/books?isbn=4492043322
「大邱
■韓国の保守本流
嶺南の内陸部、盆地に位置する大邱は、1601年に嶺南の監営(今の道庁)が設けられ、
嶺南を、特に慶尚北道を代表する中心地として発展した。
安東からバスで大邱に向かった。全国各地を結ぶ交通の要衝になっている大邱。
かつてはリンゴの名産地であり、そして、美人が多い土地としても知られている。
学校では「一番暑い町」「教育熱が高い町」などと教えられた大邱。
「保守的」「義理固い」「権威的」「プライドが高い」「固い」「中心意識が強い」
「家父長的」「集団主義が強い」「政治的だ」などなど・・・・・・
これらがよく言われる大邱人のイメージだ。大邱人に言わせれば異論もあるかもしれないが、
まったくの見当外れではないはずだ。
保守的―よそから見ただけでなく、当の大邱人も認める気質のひとつだ。
1996年に大邱放送が行った「大邱慶北人の意識構造調査研究」によると、
大邱・慶北人の気質を問う設問に答えた同地出身者の50・1%が「保守的で排他的だ」と答えている。
日常生活に関連の深い消費パターンにも保守的な気質が表れている。
流通システムの発達によって消費パターンが平準化され、全国どこへ行っても
「人気ブランド」は同じで、しかも消費のサイクルは短くなっている。
そんななか、大邱の消費者は一度選好したブランドをなかなか変えない傾向が強いという。
いわばブランドに対する「忠誠度」が高いのだ。
あるブランドやファッションが全国で流行しても、大邱の人々は容易には同調しない。
安定したブランドにとってはありがたいが、新たなブランドが進出するのは難しいと言われている。
食べ物についても同じような傾向がある。最近人気のパプリカ、柴イモなど
新しい食材を受け入れるのが他の地域に比べて遅く、そっぽを向かれてしまうことも多いという。
また、韓国全体で見ると昔ながらの素麺(ク?ス)よりラーメンの消費量が多いが、
大邱では今なお素麺の消費量が多く、全国の素麺の約半分が大邱を中心とした
慶尚北道地域で消費されているという」 「 住宅については一戸建てへのこだわりが強い。全国に行き渡っているマンションが
大邱で急速に普及し始めたのはつい最近のこと。消費性向に保守的な面があることは確かなようだ。
大邱を中心にした慶北圏が保守的になったその背景には、何があるのだろう。
筆頭に上げられるのは地理的、歴史的な環境だ。慶北大学史学科のジュ・ボトン教授は
次のように話していた。
「かつて嶺南地域は広い平野地帯に恵まれず、山と川とで細かく区切られた小規模な同姓村を中心に、
排他的な地域性が形成されてきました。全羅道には、さまざまな地域を所有する不在大地主
(注:自分の所有する土地に居住しなかった大地主のこと。不在地主の多かった湖南地方では
中間層による収奪などが目立った。)が多かったのに対し、ここにはその村に経済的な土台をおいた
土着の中小地主層を中心とした同姓村が多かったのです。ですから地域ごとに強い自立性をもっています。
こうして、それぞれの生活圏を中心にした保守性と排他性が育まれたのです。
慶北人、特にその中心を成す大邱人たちの保守性は、このように自然地理的な要因で形成された性向が
歴史的に集積された結果だと見ることができます。同じ嶺南といっても、海に接している釜山の人々が見せる
開放とは相反するものですね」
ソウルを出発してから、バスや汽車の窓からずっと慶尚道の自然や村々の風景を見てきただけに、
ジュさんの話が身に染みて感じられる。気質と自然・地理的な面との相関関係はよく耳にするが、
安東同様、自然地理的な条件が多くの同姓村を生み出し、それが排他性や保守性を生む要因の
ひとつになったという点が興味深かった。」 「 ■本当は開放的
バスはいつのまにか西部ターミナルに着いていた。韓国で一番暑い都市というイメージそのままに、
午後の日差しが強烈だ。
大邱を象徴する達城公園に足を伸ばした。達城公園は韓国の城郭史上、現存する最も古い土城
「達城」(西暦261年創建)があることで有名だ。ソウル・鍾路にあるタプコル公園のように、
お年寄りの憩いの場となっている。あそこなら、典型的な大邱気質を持ったおじいさんたちに
会えるかもしれないと期待したからだ。
2人組、3人組のおじいさんたちが木陰でのんびり座っている。
早速、話しかけてみた。
見知らぬ女に声をかけられたときの反応は人によって、そして地域によってさまざまだ。
ベンチに座っている、おばあさん2人に近づく。
「こんにちは。ちょっとお話していいですか」
怪訝そうに睨まれた。あまり反応はよくない。話し始めてはみたが、
進んで話してくれるという様子ではない。こちらの説明不足もあり、
宗教の勧誘とでも思われたのかもしれない。
「なんでそんなことを聞くの」「私にはわからないね」などという答えも多い。
一度疑念を抱かれると、それを解くのには時間がかかってしまう。
話しには応じてくれているのだが、はじめは反応も乏しく、牽制している感じだ。
ただ、ある程度話を進めていくと、私に逆に質問するなど、話に乗ってくる節もある。
「大邱人はとっつきにくい」とよく言われる。それは当の大邱人自身も認めていることで、
保守性と排他性ゆえのことだ。」 「 一方で、「不愛想で社交的でないため、はじめはとっつきにくいが、いったん心を開くと、
きわめて積極的に受け入れるようになり、関係は末永く続く」とも言われる。
また、雑誌『三千里』(1940年、第7号)の「嶺南、嶺東出身文士の『郷土文化』座談会」には
次のような発言もある。
嶺南人に似合うのは「言語美」よりも「人間美」「人情美」だと思います。
不愛想でがんこで愛嬌のない嶺南人ですが、つきあえばつきあうほど深い情が感じられる、
それが典型的な嶺南人だと思います。
慶北大学のジュさんは大邱人の気質には相反する二面性があるという。
すなわち、はじめはきわめて保守的に見えるものの、いったん受け入れた相手に対しては、
開放的で、包容力も発揮するということだ。最初は付き合いにくいが、
一度付き合い始めたら積極的になるという上記の話とつながる。
ジュさんによれば、こうした大邱および慶北人たちの気質の原型を遡ると、
新羅人につながっているという。安東の項で「ドムベギ文化」に絡めて書いた通りだ。
それは仏教の受容に対する新羅人の姿勢にはっきりと表れているという。
「長い歳月が流れましたが、文化というものが歴史的に形成された基本的なフレームに影響を受けたということは否定できません。
新羅人の気質に影響を与えた歴史的事実は仏教の受容です。高句麗、百済に比べて後発組だったため、
保守性を強くもっていたことで知られる新羅文化においては、意外にも包容力と積極性を発揮していたんです。
新羅が仏教を受け入れた際、高句麗や百済とは明らかに違った姿勢を示しました。
高句麗、百済では新旧宗教の間に何の摩擦も起こすなく、王室を中心にスムーズに仏教を受け入れました。
それに比べ新羅は、仏教を国家的な宗教として正式に認めるまで100年以上の歳月がかかったのです。
しかし、いったん受け入れた後は、高句麗や百済に比べ、瞬く間にに浸透していきました。
これは、はじめは保守的だがいったん受け入れれば積極的で包容力があるということを示しています。
すなわち、今の大邱人の気質と似ていると言えます」」 「 保守的ではあるが、表には現れない積極性と開放性を秘めている。
なかなか受け入れなかったマンションが、いったん普及し始めたら急速に広まった。
とっつきは悪いが、いったん仲良くなると何もかも受け入れるようになる。
まさに前述した大邱人気質の表れではないだろうか。
大邱など慶尚道人をよく「ハックンハダ」(鉄火肌)という。いったん受け入れると、
徹底的に受け入れようとする激しい気性を指す。
本来備わっている開放性や積極性が見過ごされ、保守的なイメージだけが目立つのはどういうわけだろう。
これは政治的な指向とも関係が深いと言われている。1960年代以降、何度かの大統領選挙で、
投票が大邱・慶北出身者の特定政党や派閥に集中するという傾向が明らかになり、
保守的で閉鎖的だというネガティブな認識が広まった。そして、この地域を支持基盤とする政党が
保守的な性向をもっているのも、こうしたイメージの増長の原因のひとつになったといえる。」 「 ■根強い中心意識
「大邱・慶北人の自己意識と気質」(『大慶フォーラム』2005年冬号)という論文で、
大邱教育大学のチャン・ニュンス倫理教育科教授は、大邱・慶北人の意識を探る上で鍵となるのは「中心意識だ」と語っている。
自分が中心であり、自分が住んでいる地域が中心だという意識を彼は
「自負心、自信感となって生活に大きなエネルギーをもたらすという価値もあるが、
一方、自分と周囲の生活環境を中心に設定し、他の集団を周辺部、周辺人、周辺文化として
下に見る差別的意識にもつながる。克服すべき点もあわせもつ」と述べている。
こうした「中心意識」をもつようになったのは、どんな歴史的背景があったのだろう。
前述の論文では次のように明らかにしている。まずこの地域が最初に三国統一をした新羅の領域だということが、
この地域の人々に歴史的、政治的な中心意識をもたらす背景となり、朝鮮王朝時代に入って
嶺南学派、退渓学派など儒教の中心地だったということが思想的、精神的な中心意識を植えつけた。
朝鮮王朝末期および日本植民地時代において救国運動が活発になったことも、
その意識を深化させた。そして、約18年間、大統領として実権を握り続け、
韓国の産業化を成し遂げた朴正煕がこの地域(亀尾)出身で、大邱師範学校を出ているという自負心によって、
当地の人々はどこよりも強い中心意識をもつようになったという。
個人の気質として表れるのはもちろん、当地の政治意識にも色濃く表れる。
曰く「政界の中心地(注)はここだ」「政治指導者はここの出身者がなる」などという具合だ。
この地域の人々が「権威主義的だ」と言われるのも頷ける。天下を取るのは我々なのだという自負心が、
他の地域よりかなり強そうだ。」 「 以下は、大邱の男性と結婚したソウル女性が書いた『甘ったるいソウル、熱い大邱』の一節だ。
ここに出てくる軍人とは朴正煕と全斗煥のことで、常人は盧泰愚、弁護士とは廬武鉉を指しているのだろう。
地方都市ではあっても過去多くの大統領を輩出したという自負心がかなり露骨に表現されている。
人の上に人はいない、人の下に人はいないと言いながら
ソウル人は頭を上げて
大邱人は稲穂のように頭を垂れる
ソウル人は大威張りで出世して
大邱人は頭を下げながら出世する
大邱ではソウル人は並以上で自分たちは並だと言うが
いったいだれが並でだれが並以上なのか
並の軍人だった人が大統領になり
「私は常人です」と叫ぶ人が大統領になり
並の弁護士が大統領になる
慶尚道の並の人がソウルに行って最高位に登りつめる
並のソウル人はみなどこに行ったのか」 「 ■儒教の町に美味しいものはなし?
達城公園を出て西門市場に向かう。西門市場はかつて江景(忠清南道)、平壌(平安南道)とともに
朝鮮三大市場として知られた。どこの市場もそうだが、ここも最近は景気が悪そうだ。
だが、その規模の大きさから、かつての賑やかさが偲ばれる。目を引くのはやはり地域独自の食べ物だ。
素麺の販売量が多いというのは単なるイメージではない。昔ながらの包装の素麺の売場があちこちで見られた。
屋台でも須麺(ク?ス)が必ずといっていいほど売られている。
屋台料理のなかで、見慣れない料理が目に入った。「ナプチャクマンドゥ」は、
具が春雨とネギだけのペチャンコな餃子、フライパンで少し焼いた後、醤油で味付けする。
40年ほどの歴史をもつここだけの食べ物のようだ。
大邱と言えばこれ、という料理は残念ながら思い浮かばない。大邱だけでなく、
慶尚道は全般的に全羅道に比べて食文化は発達しなかった。その理由としてよく挙げられるのは、
食材があまり豊かではなかったこと、そして贅沢を避け、質素を尊んだ儒教的な精神があったからと言える。
代表的な料理を強いて挙げるとすれば「タロクッパブ」がある。日本の焼肉店のメニューの一つでもある
「テグタン」(大邱湯)に近いものだ。
かつてはテグタンと呼ばれたが、今はタロクッパプと呼ばれることが多い。
クッパプ(汁かけ飯)のご飯とスープを別々(タロ)に出すもののことだ。
タロクッパプという料理名の発祥地とされる「クギル食堂」に行った。
タロクッパプのルーツには諸説あるが、汁かけ飯などという下世話なものは食べられないという
両班出身者の要望で生まれたという説が、大邱には似つかわしい。
風ひとつ吹かない猛暑のなか、タオルで汗を拭き拭き食べるのが一番おいしいというタロクッパプのスープは、
すごく辛かった。確かに大邱の暑さによく似合う「以熱治熱」(熱をもって熱を治める)の料理だ。
繊細な味ではないが、「ハックンハダ」という大邱人の気質をよく表しているようにも思えた。」 「 大邱の宿に戻り、テレビを見ていると、日本プロ野球の読売ジャイアンツ戦が中継されていた。
韓国で日本のプロ野球が放送されるようになったのは、紛れもなくイ・スンヨプ選手の活躍によるものだ。
そして、彼はここ大邱の出身なのだ。
日本でのイ・スンヨプの活躍は景気低迷で活気のない大邱人の大きな励みとなったはずだ。
彼は大邱の名門で野球部が有名な慶北高校の出身。日本に行く前まで、大邱を本拠地とするプロ野球チーム、
三星ライオンズで活躍した。
暑い大邱で育った彼は、夏場に強いことで定評があっという。韓国よりもさらに暑い日本で活躍しているあたり、
大邱育ちの面目躍如といえるかもしれない。
嶺南人の気質を表す「泰山喬岳」という言葉の解釈のひとつに「トゥクシム」がある。
日本語に訳せば「粘り強さ」「根気」といった意味になる。
風水地理学者のチョ・ヨンホンによると、泰山喬岳の気運が集中しているのが大邱市を取り巻く
雄大で荘厳な山並みだという。したがって、大邱の人々は「トゥクシム」があり、
血の気が多いというわけだ。イ・スンヨプは「トゥクシム」を日本で精一杯発揮しているのだろう。」 どこか中国地方人的であり、どこか九州人的でもある
ソウル人と違って恭しいところなんかも、日本人を想わせる
この本のなかでは地理的環境や儒教の影響が指摘されているけど、
日本の集団との共通性からいって、元々そういう性質を備えているような印象も受ける
いずれにしても、慶尚道人は日本人と似てると思う 天皇陛下が、朝鮮半島ゆかりの高麗神社に訪問しちゃったのう。
天皇陛下も、白馬青牛と同じで6世紀に渡来してきちゃったけんのう。
引退するまでに韓国訪問を模索しとってらしいのう。 白馬青牛が、共通弁で書いてとったよ
330 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2017/09/18(月) 19:59:47.40 ID:wZRr4fsQ
>>322
九州人は彫りが浅い人が多いぞ。
>>323
長州は朝州と言っても良いほど朝鮮との類似性が強い。
ベルツも長州型を満州・朝鮮人と結びつけて捉えた。 アンチ広島、反日、朝鮮人はワンセットなんだよな。荒らしの青牛爺さんみたいに。 誰が最も国益を害しているかというと
反日朝鮮人=統一教会 >>5-14
慶尚道は、軍事独裁政権派支持が強いけぇ、政治的にゃ保守たぁ云えんし、保守主義は
権力を縛るゆえ独裁は左翼思想じゃけど。
ほいから、慶尚道の気質は、慶尚極南道たる九州人に似ても中国地方たぁ似とらんよ。
慶尚道出身の金達寿氏は司馬遼太郎氏、陳瞬臣氏との 鼎談 『歴史の交差路にて』。
「多様性があった日本の「藩」」で、
司馬「薩摩藩には、中国と朝鮮のにおいが濃いですね。(中略) 海音寺潮五郎さんの
葬式が終わったあとのことですが、お嬢さんが薩摩式にやりましたといって
具体的に説明してくれた。それを聞いていた金達寿さんが、一言、
「あ、それ朝鮮式だ」と言うと、彼女は変な顔をしていた印象がありましたね(笑い)。
まあ、朱子学の影響でしょう。もっとも金達寿的な古代史風に言えば、あすこは
惟宗氏で、朝鮮筋目だという説もある。
金「新羅・伽耶から渡来した秦氏族の一派が、平安時代に惟宗氏になるでしょう。」
「サービス精神の源流は茶道」では、
金「九州というと、一番日本の中で我々の体質に合うようですね。(中略)日本に
こんなところがあるか、という感じです。九州人というのは、どちらかというと
慶尚道の人間と気質が似ているんじゃないかな。」
と、九州と韓国人、特に慶尚道の気質が似とることを指摘される。
鹿児島人なんか、韓国人の性格とそっくりなんも儒教朱子学の影響じゃろう。
http://uub.jp/frm/26300.html
3月19日(金)12:27:21でも、 「余談ですが、鹿児島の「ぼっけもん」気質と、
韓国の慶尚(南・北) 道の気質は非常によく似ています。鹿児島県人を母にち、
なおかつ慶尚北道で2年半暮らした私の実感ですが、歴史的な つながりを感じ
させます。」 >>5-14
>>19 のブログの「散漫レス日韓海峡編」よのう。ほいから鹿児島と新羅は習俗の似とるし。
http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html
▼大隅国における秦氏〈韓国岳〉
大隅八幡宮(鹿児島社)は708年の創建と伝わる。香春新社や宇佐八幡宮造営も
含めて、この八世紀初めの動きはただ事ではない。南九州での薩摩・大隅国設置=
隼人征伐は、外来神であった八幡神をニッポン神化し、これを先兵とすることで
遂行されたのである。
▼島津氏が継承した新羅の民俗
島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、
六百年以上にわたり南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られて
いない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、
氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が
縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の
鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。…
新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と
呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。
三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水
(いずみ。鹿児島県北西端。ここにも八幡宮がある)であった。…」
新羅系渡来の九州豊前新羅人が隼人征伐し大隅に移住し、薩摩は惟宗秦氏の
新羅系島津支配の歴史ゆえ、鹿児島人は新羅や今の慶尚道人と性格が似とるわけで。 >>5-14
まあ、鹿児島の島津氏や四国の高知県の長宗我部氏は秦氏新羅系で、中国地方となると、
山口の大内氏や岡山の宇喜田氏は百済系。広島県は高句麗出雲系方墳プランの
四隅突出墳から、鎌倉期の東国移民も高句麗移民ラインが多いいゆえ、それぞれ違うよ。
まあ、朝鮮半島での百済地域は、温厚な半島中西部の気質とレジスタンス反逆的な
全羅道のの気質が混じるわけじゃし、高句麗地域は元々気性が荒いし、地域によって
違う。山口県の大内氏体質の滅びの美学の自滅願望は今の長州カルト靖国カルト、
日本会議が如く滅んだ百済的体質受け継いどるんじゃろう。山口血流の安倍ちゃんが
百済で、鹿児島血流の小泉純ちゃんが新羅として行動見ると面白いけど。 >>21
>>20の薩摩の中で最も勇猛な出水は、習俗として、チゴモウシ (稚児請し)があり、
神の申し子としての美少年崇拝で、トリモチチゴ (執持稚児)の美少年が二名
選ばれ二組に分かれた侍組を統率し戦陣の 訓練をしたそうじゃが、島原の乱の
出水地頭山田家の子息の十三歳の松之助と従う侍について記されとるんが、
「さらでに若侍の面々は松之助殿に恋ひ焦がれしに、今の出立の雄々しきを見て
ければ、哀れ松之助殿に一言を掛けられ先陣に進んで潔く討死せば誠に此世の
思出ならんと、各小躍りして勇み進む。」
出水の壮士共の謡
「松さまを 小船に乗せて 歌て遣らふもの 本渡の瀬戸を」」
鹿児島県は武士道たぁ、新羅の花郎道そのものよのう。 >>24
天皇家の人種的にも同族の埼玉県の高句麗系の高麗神社訪れただけで批判するんが、
反天皇側の百済系長州血流安倍ちゃん派工作員じゃけぇ、可笑しいんよ。
しかも、反日左翼なんか、保守主義の権力者を憲法の鎖で縛ることを拒否したがる
安倍ちゃんや、背後の長州系反日左翼の中華や半島系の朱子学系たる靖国カルト、
日本会議なんは解っとることじゃなぁか(笑)。 まだ言ってるの?
『山王院 山王宮』でしょ?『院号』
こういうのも調べてみて 川崎に来てからも、
大島(川崎区)のほうにある寺院に通っていたとか、
もれ(仮)の兄「智▢」という名前だったり、偶然なのかな? むかーし、
住んでいたところも伊達郡というところだと言っている、
山の上のほう 山王院と出てくるけど、
どういう話なんだろう、系統のようなものが違うのかな
>一方、僧侶(そうりょ)間では、
>円仁(えんにん)が前唐(ぜんとう)院、
>円珍(えんちん)が山王(さんのう)院と称したごとく早くから用いられ それらしき服を着ているけど、
戦争には行ってない、親も行っていない。
学校などの制服でもないと言ってる。 これは他のスレの話になるんだけど、
やけに偉そうな奴がいるんだけど、アレは何なんだろう
歴史などを知らない人間? 老婆「この写真の母親の家は、
何々様なんて言われて、奉られていたような家だよ」
その写真の子供の母親の家の話、何の話なんだろう それにしても老婆だよ
自分の家の舅姑、
それとも舅姑の親なのかな?
なぜか会ったことがないと言っていたり 広島の民度
西日本一帯と北海道で昔から「広島出身者には居間を見せるな」と言われる理由
・人口あたりの女性暴行の認知件数
広島県 47都道府県中1位
・人口あたりの殺人の認知件数
広島県 47都道府県中3位
・人口あたりの精神障害者手帳交付数
広島県 47都道府県中1位
・人口あたりの精神障害者手帳新規交付
広島県 47都道府県中2位
強姦魔 殺人者 基地外 だらけ
広島は他にも生活保護受給者率が高く、ヤクザ、チンピラ、平和利権団体とオカシイ人だらけ
東京山谷、大阪西成、などはおかしい人が社会から半隔離されており、一般人の方から近づかなければ特に問題はありません
ところが広島の場合は完全に社会に溶け込んでしまっているため一般人の被害者が後を絶ちません
転勤や進学で広島に来られた皆さんは充分気を付けて生活してください
お金がらみと女性がらみになると見境がなくなるのがオカシイ広島人の特徴です 広島の警察はそれだけ活動している証拠だろうな。
揉み消し隠蔽は少ない。 >>19-23
自分は北朝鮮と慶尚道は繋がってると思ってるんですよね
もちろん北と南で違っているところはあると思うんですけど、
基本的に慶尚道は北朝鮮の延長線上にあるんじゃないかと
同じように、九州や中国地方、さらにはその高知県なども、
自分には共通性があるように見えます
つまり、あの人をはねつける激しい気質ですね
九州人や高知人は少し陽気なところがあり、人が良い点では広島人と違いがありますけど、
基本的にルーツは同じように見えます
どちらかというと、関西人のほうがルーツが違ってる印象があります
一応、関西人の気質も北朝鮮がルーツだと思うんですけど、
ちょっと場所が違ってる印象があります これは江原道出身の女性らしいですけど、
https://youtu.be/ScF-Ww44l8o?t=5s
関西人に近い気質を感じます
あの九州の陽気さとはまた違った関西の陽気な感じですね
関西人に比べると素朴な感じもあり、どこか東北人っぽくも見えるのですが、
どちらかというと、関西人に近い印象を覚えます
江原道は北朝鮮と接していて、北朝鮮からの南下民も多いらしく、
そのためなのか、それとも元々そういう性質なのか、
よくわかりませんけど、北朝鮮人的な性質を感じます
ただ、この北朝鮮人の性質は慶尚道のそれとは違ってます
この隣に座ってる釜山出身の女性との違いですね >>5-14 >>21
男色ネタ満載の慶尚道スレがあったのう。
3 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/05/26(火) 05:56:10 ID:vKhCW1Uz [1/2回]
釜山広域市は下関市や福岡市と姉妹都市。
大邱広域市は広島市やアトランタ市と姉妹都市。
4 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/05/26(火) 06:07:33 ID:vKhCW1Uz [2/2回]>2 気質や体つきは熊本や鹿児島など南九州エリアに似ていると思う。
>2 気質や体つきは熊本や鹿児島など南九州エリアに似ていると思う。
頑固で無口で無愛想な感じで気性が激しく閉鎖的。
内陸都市大邱はもとより釜山も港町にしては横浜・神戸のハイカラ気質という
よりも沖仲仕(おきなかし)気質で気性の激しさや気の荒さの方が目立つ。
6 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/05/26(火) 06:39:40 ID:blBRClg+ [2/2回]
>4>>気質や体つきは熊本や鹿児島などの南九州エリアに似ていると思う。
禿同。韓国では「南男北女(ナンナンブクニョ)」といって 美女は北朝鮮女性、
イケメンは南朝鮮男性が多いといわれて来たが
プサンやテグなどの慶尚道男性は繊細なソウルや忠清道、全羅道と違い
無骨で無愛想な熊本や鹿児島の男性と性格や体つきが酷似してると思う。
南九州の男性は巨根持ちが多かったが、プサンやテグのサウナでみた男性達は
世界一短小といわれる韓国の中にあっては例外で巨根持ちが多かった。
韓国男性は恥部をタオルで隠さないなんていわれてたがソウルでは
国際化著しいためか隠す男性も多くなってきた。
しかしプサンやテグなどの慶尚道のサウナや温泉地で自分の秘部を隠す
人は全く居ず、その堂々とした大らかさに感動したものだった。
12 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/05/26(火) 08:10:24 ID:f5ixI77B [1/1回]
朴訥なプサンやテグをはじめとする慶尚道男性が好きです。
女性はプサンの方はセンスがいいしテグは美人が多いし。
食べ物もプサンの海産物やテグの汁飯別々に食べるクッパが美味かったです。 987 :日本@名無史さん
反日で反広島の朝鮮渡来説のスレ荒らしのくせに、
都合が悪くなって今さら白々しい日本人宣言か。さすが朝鮮人、軽い人間だな
だいたい東国出身のくせに、在日なので東国弁も標準語も使わず、
わざわざ捏造したジャニ広島弁を使いたがるのは朝鮮人しかいない。
990 :日本@名無史さん
お前の親父は、関東大震災に被害を十倍以上に広げた不逞鮮人、
戦後は戦勝国でもないくせに上から目線で日本人に非道を働いた朝鮮進駐軍だな。
その先祖の極悪非道を正当化するために、異常に日本人朝鮮渡来説にしがみついてるんだろ
―――――――――
前スレ↑が図星でまともに反応できなかった青牛の朝鮮人 >>5-14 >>21
26 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/05/29(金) 01:00:39 ID:sWvgpK1R [1/1回]
>25 >6などで慶尚道男性と熊本や鹿児島の南九州男性の類似性の指摘にもあるように
慶尚道男性も男色が実はお盛んだと思われる。 政治家が多いという共通性もあるの
だからw
28 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/05/29(金) 16:03:48 ID:J9LywpY2 [1/1回]
全斗煥と盧泰愚は鼻の形から見て巨根持ちのような気がする。
韓国の男性の一物は世界最短小だなんてネットでみて大爆笑したが
実際釜山や大邱のサウナや慶尚道の温泉を巡ったらビックリ仰天!!
短小どころか巨根揃いでゲイからみたらウッハウハな地域。
韓国短小男根説はソウル近辺の測定だけのものと思われ。
慶尚道は九州と並ぶ巨根男児の産地と納得。
50 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/06/08(月) 21:00:13 ID:QR3Uaejx [1/1回]
>28 韓国の男性専科サウナの仮眠室はオンドル式で布団がなく枕があるだけで、
おじさん達は素っ裸で寝ている。せいぜい腹にタオルがかけてる程度で
肝心な股間はむき出しw ために寝ている男のマラをフェラってる男も多い。
上下の厳しいお国柄のせいか、フェラしている人が年長だと断れない傾向が。
なのでフェラされてるのは若目が多くフェラするのはおっさんや爺さん等の
壮熟年層が多かった。特に釜山や大邱の男は巨根が多くかなり興奮した。
自分も釜山や大邱のおっさんや爺さんにやられたが舌技は本当に絶妙だった。}
まあ、韓流影響で日本娘は股開くけど、韓国の慶尚男子に尻提供の男は韓流ブーム以前の
九州人に多かったけど、九州人と気質が似とるる、慶尚男子好みじゃったんじゃろう。 スレチ長文コピペ荒らし、アンチ広島・反日朝鮮人青牛 >>5-14 >>21
ほいで、九州んもんは、酒が入ると「こっちの男の人とってカッコいいのよね。」と
関東弁のオネエ言葉使うて慶尚男子を褒めて、一緒に飲んじょる広島人の男を
慶尚男子以下に愚弄するような余計な一言加えるけぇ気分を害するんよ。
誰が九州人男色家に多いタイプの体育会系マッチョ体型の不細工な九州人を抱きたいん
なら。美少年なら別じゃがのう。オドレの分際を省みず、韓国の慶尚男子に抱かれたい
男物色しょる九州人の性根見せつけられたわい。
ほいじゃが、九州人はソウルの優男や全羅道沿岸の沖仲仕にゃ憧れず、慶尚男子一途なんも、
九州人の気質と慶尚男子が合うせえじゃろうのう。 >>40
慶尚道の人達は、黒龍江省など北へも移民しているよ。
黒龍江省の朝鮮語は、慶尚なまりが残っているよ。
吉林省の朝鮮語に咸鏡なまりが強く残るよう、元の地域の特徴が残るんだよ。 >>19の薩摩士族の海音寺潮五郎氏は関東武士を朝鮮人に投影して、「いわゆる
坂東武士というのは、朝鮮人の血が濃厚に入っていた、従来の日本人と
違って 坂東武士は、荒々しくて勇敢で強情っ張りでね。そういうところは
朝鮮的性格だと思っているんです。」と、云われるように、古えの関東武士に
投影しても、戦前の朝鮮人、特に日本移住の多かった慶尚男子への憧れが海音寺氏にも
強いわけで、海音寺氏は従来の日本人は、軟弱で男色の対象にならんが、勇敢な
朝鮮人なら尻提供する男色気分の本音が出とるのう。
ほいじゃが、九州男らは、ソウルから黄海の西海岸に属する全羅道男子まで嫌うんか?
ほんま九州は慶尚極南道で、慶尚宗主国様男子が好きじゃのう。
>>45九州人に云うたらどうかいのう。 >>47
黒龍江省は、慶尚道人の移住地で吉林が感鏡道、遼寧省は平安道移民で、満州移民は
南北両端が多いいけど、日本の在日は慶尚道、全羅道、都市部移住志向の済州島と、
ほとんどが半南部出身じゃし。
吉林省の朝鮮語も北朝鮮同様のズーズー弁じゃし、挙げられ文方使どうかじゃが、
昭和期から地域差が強いよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています