>>866-867
関学も神戸や周辺の各地から生徒が通うわけじゃが、大正当時は裕福なぼんちが
多かったけぇ、神戸上流語じゃろう。
今東光氏は、10歳から17歳の多感な時期を神戸で過ごし、途中豊岡へ転校しても、
短期間で放校云う名の退学となり神戸へ戻って来たし、東京へ行った最初の年も
神戸へ戻って>>856の生粋の神戸ッ児の武闘派芸術家の今井の朝やんと共に行動した
時期もあるけぇのう。
ほいから今東光氏は豊岡なら地元生徒は但馬弁と使い分けとるし、今井の朝やんや、
関学同級生との会話は当時の上流神戸弁よのう。
今東光氏の母親の綾さんは郷里の津軽弁じゃのうて、東京の山の手言葉で、
西南戦争に参戦した藩士世代の伯父は津軽弁と使い分けとってじゃし。
今東光氏の家庭の会話でも、退学通知された場面でも「ママ泣かないでよ」
「これが泣かずにいられますか」「僕は少しも悲しいことあらへんね」とか、
「教会へ行くんや」「教会ならクリスマスの晩にしたら好いわ。ママも御招待
されているから」「行ったらあかん言うたかて、出かけるいうたら僕は絶対行くんや」
と、母親の上流東京山の手言葉に、東光氏は、東京言葉と地元神戸言葉混じりよのう。