0001日本@名無史さん垢版 | 栗砲2017/09/22(金) 21:07:56.73 神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん 慶長の役と比べればわかる 戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき
0002日本@名無史さん垢版 | 栗砲2017/09/22(金) 21:09:51.99 朝鮮のひとたちが李舜臣を尊敬しているように、われわれも小弐一族をもっと尊敬すべきだ 戦国時代なんか元寇に比べればコップの中の嵐だろ
0004日本@名無史さん垢版 | 栗砲2017/09/22(金) 21:36:53.51 チンギスカン率いるモンゴル騎馬軍と 会戦して破ったと言うなら誇れるけど 元寇の時の元軍にモンゴル騎馬軍は 居なかったんだろ? 敵の総大将はフビライだし 何の自慢にもならんやん。
0005日本@名無史さん垢版 | 栗砲2017/09/22(金) 21:42:05.61 モンゴルの主力部隊であるモンゴルの地上部隊とは戦ってないんだろ? 元寇って船でやって来てるし モンゴルの主力部隊と戦ってると思えない。 チンギスカンやバトゥ率いるモンゴルの 主力部隊と戦ったら 義経や信長を総大将にしても 敗戦は確実だと思うが。
0006日本@名無史さん垢版 | 栗砲2017/09/23(土) 08:21:24.84 チンギス汗は遊牧民を統合しただけで、金を征服したり東欧へ遠征軍送ったりしたのは息子のオゴデイだし、 中東へ遠征軍送ったのは孫のモンケで、南宋征服したのはその弟のクビライだ。 文永の役で少弐景資に射られて重傷を負った劉復亨はモンケとクビライの2代に渡って大汗親衛隊を務めたエリートで、 日本へ来たのはバリバリのモンゴル主力部隊だが。
0011日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/02/24(土) 17:20:49.44 >>1 フルボッコにしてねえよ無知丸出しのネトウヨww 文永の役はモンゴル軍の圧勝だったが占拠目的ではなかったんですぐに引き上げた 弘安の役は江南軍の遅れ等でモンゴル軍の足並みがそろわず海上で待機してるうちに台風の季節となり 嵐で壊滅状態となりやむなく撤退 少しは勉強しろよwネトウヨ君ww
0013日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/02/26(月) 14:21:46.65 文永の役が威力偵察なんて史料は存在しない。 そもそも博多湾上陸後、武士に野戦で全く歯が立たず逃げ回っていたモンゴル軍が 撤退するのは当たり前のこと。 明らかに日本軍の圧勝だろ。
0016日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/02/28(水) 06:36:14.92 >>14 博多がモンゴル軍に焼かれたなんて事実はないぞ。 当時から博多にあった聖福寺や承天寺、櫛田神社にも焼失したなんて記録はない。 モンゴル軍が博多に最接近したのは赤坂までで、その後は菊池武房に蹴散らされ敗走。 『蒙古襲来絵詞』詞書 「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」
0018日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/01(木) 12:24:48.24 鎌倉時代の初期、嘉禄元年(1225年)頃より松浦党は高麗に押しかけ、倭寇の源をなした もともと辺境の地の海賊対策に高麗が元を引っ張り出すことに成功した日本もまた九州勢力 を弱くする必要があった
0019日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/01(木) 22:49:12.49 >>5 チンギスカンやバトゥは過大評価。 文永の役でモンゴル主力軍が九州の御家人と野戦やって瞬殺されたのを見れば分かるように、 はっきり言ってモンゴル騎兵は鎌倉武士より弱い。 おまけにチンギスカン時代のモンゴル帝国は総兵力でも12万9000人。 承久の乱で19万騎動員した鎌倉幕府がチンギスカンやバトゥに負ける要素なんてゼロ。
0021日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/02(金) 11:28:11.06 >>19 >はっきり言ってモンゴル騎兵は鎌倉武士より弱い。 文永の役にモンゴル騎兵なんて来ていない。 来たのは歩兵主体の中国人部隊と高麗軍。 >九州の御家人と野戦やって瞬殺された という記録はない。 一代要記にある大宰府の報告では「宰府軍等敗北し了る」 元史では「其の国に入りて之を敗る」
0023日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/02(金) 20:37:12.58 >>22 中国人、高麗人の間では大宰府=博多。 日本側にもその傾向はある。 関東評定伝は五日対馬の後、廿日博多がなくていきなり「廿四日寄来大宰府」。 これも大宰府=博多で、廿四日が廿日の誤記。 詳しくは下記。 https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12331877947.html
0024日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/03(土) 09:42:46.51 高校の日本史の教師は 戦としては完全に日本の負けだったと言ってたけど まあ神風が吹いて、自然に助けられたんで 助かったわけだが それにしても時宗はすごいよな 元の規模とか分かっていなかったのだろうか
0026日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/03(土) 14:14:57.28 >>24 文永の役では神風は吹いてない。 元軍の船隊が大風に遭ったのは撤退を決めて出航した後のことだ。 元軍は勝手に撤退した。 詳しくは下記。 https://ameblo.jp/reydeoro https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12336043493.html
0031日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/08(木) 12:23:33.50 http://www.youtube.com/watch?v=tiF8dw6ZKwE http://www.youtube.com/watch?v=cOtpvfMRIZ0
0033日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/15(木) 10:57:51.43 >>21 文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。 高麗兵は補助戦力で主力とはいえないし、中国歩兵は同時期に行われた南宋攻撃に投入されてる。 一代要記は大宰府の報告じゃないぞ。 大宰府はちゃんと合戦で元軍を撃退したって報告してる。 『帝王編年記』 六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。 高麗や元の史料からも戦闘で日本軍がモンゴル軍に圧勝したとしか考えられない。 『高麗史』巻八十七、表二 年表二 十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人。 『心史』大義略叙 忽必烈遣晢里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海。
0034日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/16(金) 21:57:58.50 >>33 >文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。 その「史料」をどうぞ。 >中国歩兵は同時期に行われた南宋攻撃に投入されてる。 その結果、文永の役の前年に襄陽が落ち、降伏した南宋軍(生券軍)は死を免れて 「征日本」を命じられた、と元史にある。 また、副都元帥の劉復亨の配下の軍は漢人親衛隊。 >一代要記は大宰府の報告じゃないぞ。 一代要記の成立は後宇田天皇(文永十一年〜弘安十年)の時で、まさに同時代史料。 その中で「宰府よりこれを申(の)ぶるに」と言って引用しているのだから、それ 以下は大宰府報告書の内容だ。 これに対して帝王編年記は文永の役の約百年もあとに一個人が諸書を抜粋・編纂して 書いたもの。史料としての価値は比較にならない。
0035日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/17(土) 11:58:53.91 相手は・・・モンゴルにゴマすって出世したくて国王や忠臣たちの意向を無視して無理な出兵を進めた将軍が率いた痛々しい兵士たちとか、祖国を裏切ってモンゴルに降った指揮官のもとで戦う南宋の捨民とかでしょ?
0041日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/17(土) 16:13:42.05 >>34 『八幡大菩薩愚童訓筑紫本』 「蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル。」 「本ヨリ牛馬ヲ美物卜スル者ナレハ、射殺タル馬ヲ喰テ飽満セリ。冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、 力ハ強シ、命ヲタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ。」 劉復亨のような漢人世侯はモンゴル帝国初期からモンゴル軍の中枢。 漢人世侯がいたからモンゴル軍ではないなんて言ったら、オゴデイ・カーン以降モンゴル軍など 存在しなかったことになってしまう。 さらに、襄陽生券軍はモンゴル軍の攻撃に6年間も耐え抜いた、南宋軍の最精鋭。 旧南宋軍の大半が南宋攻撃に投入される中、最精鋭のみを抽出してクビライ自身の親衛部隊と 一緒に日本遠征に投入してるわけで、文永の役がどれだけ帝国の威信を賭けた戦いだったかわかるな。 あと、一代要記が「自宰府申之」としてるのは「十月五日、異國群勢襲來之由」だけじゃん。 その後が大宰府の報告なんかじゃないのは、ガチ同時代史料の勘仲記と比較すれば一目瞭然。 『一代要記』 「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島」 『勘仲記』 「去十三日於對馬島、筑紫少卿代官凶賊等合戦云々」 ここまでハッキリと一代要記の記述は嘘情報なのだから史料としての価値はない。 一方、帝王編年記の「是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。 其外皆以追返云々」は大宰府からの飛脚情報だ。 したがって史料的には文永の役は合戦による大宰府軍の勝利。 そもそも10月20日の戦闘は現地史料によって武士がモンゴル軍に圧勝したのが確実なわけで、 わざわざ京都に「負けた」なんて嘘を報告する必要がない。
0042日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/18(日) 21:28:17.13 >>41 >文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。 >>33 >劉復亨のような漢人世侯はモンゴル帝国初期からモンゴル軍の中枢。>>41 なるほど、中国人主体であることが分かったので、「モンゴル騎兵」のモンゴルは「元」の 意味だいうことにしたわけか。 しかし「主力がモンゴル騎兵」の「モンゴル」をごまかしても「主力が騎兵」は残る。 「主力」の意味が軍勢の「半分以上」だとしても、一万頭以上の馬を船に乗せて来なければ ならない。それでいいのか? >『一代要記』 「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島」 >『勘仲記』 「去十三日於對馬島、筑紫少卿代官凶賊等合戦云々」 >ここまでハッキリと一代要記の記述は嘘情報なのだから 一代要記の対馬五日、壱岐十三日は妥当だが、勘仲記の対馬十三日はなんのことかよくわからない。 「冬の嵐」は対馬戦の情報を伝えた飛脚の博多出発の日付であろうというのだが、推定に過ぎない。 勘仲記は個人の日記だから、リアルタイムのメリットはあるにしても、他人が見て内容がよく わからない所があるのだ。 対して一代要記は宮廷内の人物の準公的な記録文書だから内容は明確である。国会図書館の蔵書が デジタルデータで公開されているから、見るといいよ。 >わざわざ京都に「負けた」なんて嘘を報告する必要がない。 大宰府は、武士が「少弐」の地位にあるとはいえ、依然として朝廷の出先機関である。大宰府軍に ついて客観的な表現をするのはむしろ当然。
0043日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/19(月) 10:51:28.44 >>41 >一代要記が「自宰府申之」としてるのは「十月五日、異國群勢襲來之由」だけじゃん。 一代要記: 「十月五日、異国群勢襲来の由、宰府よりこれを申(の)ぶるに、同十三日異国軍兵壱岐の島に 乱入し、 同十四日かの島の守護代 荘官以下ことごとく打ち取らる、云々。対馬以って前に同じ。 同十九日亥の刻、筑前の国早良郡に攻め来たる。 同二十日合戦始まり、宰府軍等背北しおわる。 ここに同日亥の刻ばかり、兵船二艘出で来たり、暗天に合戦す。 凡慮の及ぶところにあらず、 これ神明の化儀(けぎ)と測り知る。 すなわち異国軍兵退散す。かの兵船一艘これを留む。 乗るところの人数六十人ばかり、云々。」 「異国群兵襲来の由」は見出し的に冒頭に掲げたのである。その後の「宰府よりこれを申ぶるに」 以降がすべて大宰府報告書の要約。 そのことを二か所の「云々」が示している。云々は引用して以下を省略するための言葉。 著者が書いた地の文章であれば云々は意味をなさない。というか、あるはずがない。 対馬〜壱岐〜博多と、三通の大宰府報告書を要約・引用したのである。
0045日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/19(月) 13:40:22.38 >>44 十九、廿日は見事に満月だね、有難う。 夜の上陸、撤退には最適だった。 そこをねらって来たのだろう。 歴史上の月齢を計算する数式というのがネット上にあり、それで 計算すると当日が満月になるので驚いたことがあったが、計算間違い もあると思って半信半疑だった。 ところでその月齢カレンダー、どこにあるの?
0047日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/19(月) 14:31:07.67 At 05:20:45 UT Friday 26 November 1274 the waning moon’s phase was 13.21% full Time Zone: UT AT ET CT MT PT AK HI 1274/11/26 http://www.moonpage.com/index.html
0048日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/19(月) 16:34:32.75 >>46 残念、新暦と旧暦の間違いだったか。 文永の役はほとんど暗夜だったのですね。 カレンダーの所在も併せて、有難う。
0049日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/19(月) 17:28:38.75 >>42 一代要記は京大図書館のほうが見やすい。 下記2ページにわたって問題の箇所がある。 https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h002/image/09/h002s0950.html https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h002/image/09/h002s0951.html
0052日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/20(火) 09:45:21.48 >>50 なるほど、旧暦は月齢と一致するようにできているから、計算するまでもない ということですか。 すると、文永の役の月齢は19~20で、そこそこ明るかった、ということで いいでしょうか?
0053日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/20(火) 10:26:34.04 1274年 (文永11年) 11月 26日 旧暦:1274年10月20日 六曜:大安 干支:己巳 祝日: 二十四節気: 曜日:月曜日 太陽の黄経:243.835 月の黄経:105.273 月齢:18.842 月の輝面比:87.484 東京の太陽、月の入出 日の出:06:29 日南中時:11:29 日の入り:16:29 月の出:20:39 月南中時:02:57 月の入り:10:19 現地時間は1時間ぐらい遅れますから9時過ぎに九州の山から半月が出ます
0054日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/20(火) 10:40:23.98 上のは10月22日未明です1532からグレゴリオ暦に変更されユリウス暦1274年11月19日が 11月26日と読みかえられています
0056日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/20(火) 18:06:08.80 有難うございました。 ざっと言えば文永の役(陰暦11月19,20日)の深夜の上陸・乗船時には半月が空に出ていた、 ということですね。
0064日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/03/23(金) 14:43:34.05 京都気象台2017年11月19日から23日まで 19降水量(mm) 0.0 0.0 0.0 気温(℃)7.4 12.0 5.1 風向・風速(m/s) 2.7 7.7 北西 13.4 北西 5.4 20降水量(mm 0.0 0.0 0.0 気温(℃)6.9 9.9 4.2 風向・風速(m/s) 1.9 4.9 西 9.0 西 0.8 21降水量(mm) 0.0 0.0 0.0 気温(℃)6.4 11.3 3.3 風向・風速(m/s) 1.6 4.2 北 6.9 南西 5.0 22降水量(mm) 1.5 1.0 0.5 気温(℃)8.3 13.8 2.8 風向・風速(m/s) 1.0 2.5 東北東 3.8 東北東 1.4 23降水量(mm) 5.5 2.5 1.0 気温(℃)9.8 13.8 5.7 風向・風速(m/s) 2.7 8.3 北西 14.9 北西 7.1 24 対馬海流を北風で乗り切るは困難
0065日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/07/12(木) 16:14:31.60 とても簡単な稼ぐことができるホームページ 念のためにのせておきます 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 NK3
0066レイデオロ垢版 | 栗砲2018/09/06(木) 20:24:42.11 ブログ「蒙古襲来絵詞と文永の役」に、 16番目のページ「神軍の正体は何か」を追加した。 https://ameblo.jp/reydeoro/ 読んで見てね。
0068日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/10(月) 07:48:35.24 元寇って、過小評価もなにも、本当にささいな戦いじゃん 1231年、モンゴル、高麗侵攻開始、1259年高麗降伏、1273年三別抄を攻略し全土制圧 この50年近い血みどろの高麗攻略戦のあと、たった2回、日本を攻撃しただけの話 そもそもモンゴルと高麗との接触はもっと早い 1218年、黒契丹が満洲から高麗に乱入し江東城に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしたのが最初だ もしこの時期、高麗が、中央アジアでよくあったようにモンゴルに迎合していたらどうなったか? 承久の乱で国を二分して争っていた最中の日本に、最盛期のモンゴルが来ていれば、一瞬でやられたろう
0069日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/10(月) 09:19:49.37 >>68 1218年なんてモンゴルが金を征服する前で、高麗に送った兵力だって僅か1万だろ。 承久の乱で19万騎を動員した鎌倉幕府に勝てるわけないじゃん。 もし1218年にモンゴル軍が日本に攻め込んでいたら瞬殺されてモンゴル帝国の歴史もそこで終わり。
0070日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/12(水) 03:48:29.51 俺は80年代が小中校大に重なっているおっさんですけど。 当時の社会科教育ってホント酷かったと思うよ。 日本の対外戦争と言えば大雑把に言って元寇、朝鮮出兵、日清、日露、第一次大戦が勃発までは書いてあるが、その後どうなったかという事が教科書に全く書かれていないし教師も教えないというか知らない。戦争は悲惨(そりゃそうだ)、戦前の日本は悪い国だったの一点張り。
0071日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/12(水) 17:03:58.88 >>68 1218年にいきなり迎合してる。 1231年一次はモンゴル使節をつい殺してしまって征伐、瞬く間に首都陥落されて降伏。 以下二次〜六次とモンゴル軍が帰った後、反乱、不正発覚などで再々征伐で降伏の繰り返し。 王は島に逃げ込み、モンゴル軍は全土を荒らされたあげく高麗降伏の繰り返し。 王の保身のみに走りろくな抵抗もせず一方的に焦土とされた愚かで卑怯な50年。
0076日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/15(土) 07:52:59.15 元寇って世界史の分岐点だよね。 それまでモンゴル帝国の拡大を支えていた精兵が弘安の役で壊滅。 圧倒的強さを誇ったモンゴル軍は戦闘経験の無い弱兵のみになってしまった。 元寇の後、モンゴル帝国は対外戦争で勝てなくなったんだから。
0077日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/15(土) 11:25:53.90 >>76 弘安の役のモンゴル軍は総勢15万くらい これが文字通り消滅したんだから影響は大きいさ 当時の人口はおおざっぱにいうと今の10分の1 15万って今なら150万くらいの軍勢ってことになるからな 勢いなくなって当然だわ
0079日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/21(金) 10:58:55.91 >>78 モンゴル軍の騎馬スキルが卓越してたことは文永の役でモンゴル軍と騎馬戦やった 日本側史料にも書いてある。 でも勝ったのは日本軍。
0081日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/21(金) 12:24:26.22 チンギスカン率いるモンゴル騎馬軍団と 会戦してたら日本は負けてたよ。 日本の勝因は単純に 1.陸続きではない日本相手には モンゴル騎馬軍団を投入できなかった 2.指揮官がフビライだった 3.日本兵がある程度の強さを持っていた だと思う。
0082日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/21(金) 12:44:27.54 >>80 いや、モンゴル軍は文永の役に騎馬部隊投入してる。 『八幡大菩薩愚童訓』 「蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル」 「冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、力ハ強シ、命ヲタホハス、 強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ」 そしてモンゴル人の指揮官自体、歴戦のモンゴル兵が負けたことを認めてる。 『高麗史』金方慶伝 「忽敦曰く「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん」」 >>81 チンギスカン時代のモンゴル軍なんて全ての点で元寇のモンゴル軍より劣ってるだろ。 チンギスカンのモンゴル軍が日本を攻めていたら、全滅してモンゴル帝国の歴史も 一代で終わっていたよ。
0084日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/21(金) 17:17:19.49 >>83 金朝の混乱で発生した契丹人難民が高麗に逃げ込んだんだけど、高麗の力では対処できなくて 1218年にモンゴル軍の協力でやっと鎮圧。 それ以来モンゴルから貢物を要求させるようになったんだけど、それが嫌になって使者殺害。 事情聴取に来た使者も弓で追い返す。 その結果、モンゴル軍が高麗に侵攻。 高麗正規軍は惨敗し、首都を包囲されてあっさり降伏。 で、モンゴル軍が占領統治のための役人だけ残して引き上げたら、その役人を皆殺し。 高麗のやり方って酷すぎるよな。
0085日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/21(金) 18:04:40.05 >>80 蒙古襲来絵詞(絵巻)のことなら、 有名なあの一場面の左右にもっと長い絵が繋がっていて、 蒙古の方にも騎馬武者が描かれている
0088日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/22(土) 00:34:11.28 ベトナムの陳朝はモンゴルの使者をいきなり投獄して拷問死させてる。 ビルマのパガン朝はモンゴルの使節団の半数を処刑。 鎌倉幕府は高麗や陳朝やパガン朝と違って、モンゴルの方から戦争仕掛けるまでは 使者を全員無事に帰国させてるんだからな。 それなのに文永の役の後で使者を処刑したら「世界の外交ルールを無視した蛮行」 とか滅茶苦茶な叩かれ方してるだろ。 当時の「世界の外交ルール」とやらをちゃんと調べたうえで叩いてるとは思えない。
0090日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/22(土) 07:01:26.98 >>81 >1.陸続きではない日本相手にはモンゴル騎馬軍団を投入できなかった モンゴル騎馬軍団戦法を投入できなかった モンゴル騎馬軍団基地から50q以上離れた敵軍に対して 騎馬集団のみでアタックを繰り返す戦法 日本軍の夜襲のためモンゴル騎馬軍団基地を作れなかった。 日本軍の弓の射程がモンゴル騎馬軍の弓の射程の1.7倍程あった。 高句麗軍歩兵や明軍歩兵の弓の射程は、日本軍の弓の射程の半分程度であった。 海岸に石垣又は崖があると日本軍の矢にさらされて上陸できない。
0091日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/22(土) 13:21:39.22 >>88 東大の日本史専門の学者レベルでもそう言うからな 海外の歴史は専門外と言い訳するだろうがならば当時の外交ルールに反するとか事実と違うこと言うなよと
0093日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/23(日) 22:21:11.32 >>85 >蒙古襲来絵詞(絵巻)のことなら、 >有名なあの一場面の左右にもっと長い絵が繋がっていて、 >蒙古の方にも騎馬武者が描かれている 右の方ならたった一騎、赤坂から退却する部隊の指揮官らしいのが馬に 乗っている。 左の方なら祖原山の元軍本陣の図で、せいぜい2割ぐらいが騎馬だ。 チンギスカンの騎馬部隊はそんなものではない。 兵卒に至るまで全員が騎馬で、しかも全員が複数の替え馬を引いている。 そんな軍隊を舟で渡海させるのは大変、というかほぼ不可能。 しかしそれ以前に、東征軍の主力である蒙漢軍がすでに中国式の軍隊で、 歩騎混成だった。それがそのままやって来たと考えればよい。
0094日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/24(月) 02:59:39.15 >>93 >チンギスカンの騎馬部隊はそんなものではない。 >兵卒に至るまで全員が騎馬で、しかも全員が複数の替え馬を引いている。 >そんな軍隊を舟で渡海させるのは大変、というかほぼ不可能。 替え馬は1騎兵あたり5〜6頭 敵軍から100km以上離れた母基地から出撃する。 敵軍から40〜50km離れた前線基地に予備の馬4〜5頭置き、そこから出撃する。 攻撃は敵軍までの往復時間を入れて1日に1回。 翌日又は数日後に馬を交換して武器の補充をして出撃する。 それの繰り返しで敵の疲労を待つ。 前線基地は敵の索敵圏外の遠方に置く。 敵は蒙古騎馬隊が次に何時攻めて来るのかわからない。 ある日ある時に突然蒙古騎馬隊が攻めて来るのである。
0095日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/24(月) 16:26:20.12 >>88 メッチャな叩かれ方と言えば、元寇が起きたのは 鎌倉幕府が使者を処刑して怒らせたせい、 みたいなのもネットでは何年か前から見るようになったなあ… 弘安の役が、ならともかく元寇がってのは 元寇までは使者を全員無事に帰国させてる以上ありえないのに なんでそんな話が出て来たんだろう しかも広まってるのかなんかしらんが、年々見かけること多くなったし
0096日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/25(火) 05:08:47.46 >>95 本郷の本とかで北条時宗の外交はダメとかサラッと書いていて呆れたよ 具体的にどこがどうダメなのか触れもしない 選択肢なんて最初から2つしかない 戦うか従うか こういう状況で外交の出番なんてねえだろって まさかお話合いをしたら戦争が回避できたとでも本気で思ってるのかね?
0098日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/25(火) 09:07:06.77 >>97 普通は返書なんか送らないだろ。 武力をチラつかせた蝶状に返書返したら、武力に屈したと思われるじゃん。 だから諸外国がみんなモンゴルの外交に反発してるわけで。
0100日本@名無史さん垢版 | 栗砲2018/09/25(火) 17:09:45.56 「服属せよ」と暗に言っている国書に「お断り」と返事したら、結局は攻められる。 まあ、返事しないことで引き延ばし効果はあったけどね。