なんで元寇って過小評価されてるの?? [無断転載禁止]©2ch.net
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神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
慶長の役と比べればわかる
戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき 敵側の元史も高麗史も戦闘による敗北認めてるのに
後世のクズチョンや左翼は歴史捏造して罪悪感とかないんかな 69 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 14:58:17.44 ID:qaYXonuO0
最近言われ始めた珍説で「鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった!全部日本のせい!」
ってのがあるよな
そもそもモンゴルが日本を属国にしようとして使者を送った事実は完全無視でw 74 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 15:21:22.21 ID:NlYCR7Vx0
>>69
それ自分も今年だけでも二十回は見た
けど、そもそも鎌倉幕府が『元寇の前に』使者を斬った事実なんてないから、
珍説というか、捏造というか、ファンタジーというか……
元寇の前の使者は6回なんだけど、これは6回ともちゃんと帰国していて、
その後に一度目の元寇の文永の役が起き、
その翌年に来日した七回目の使者が切られてるのが、使者処刑の最初
だから『戦争が起こった後に』鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった、
という意味不明な説になるんだよね
何かそういう史実と違う展開のフィクションでもあるのかなあ? 90 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 18:01:57.02 ID:UzBalQN40
>>69
↓のように元寇の頃に日本に送られた使節のうち、
戦争前の使節はみんな生還でくっきり分かれてるのに、
なんでそんなわけわからん説が蔓延するんだろう?
1回目 高麗で引き返した(生還)
2回目 蒙古国牒状書持ってきたけど返事もらえなかった(生還)
3回目(1回目と同じ人) 対馬で拒まれて島民捕えて帰った(生還)
4回目 島民帰した(生還)
5回目 日本からの使者?連れて帰った(生還)
6回目(5回目と同じ人) フビライに>>1の報告した(生還)
(文永の役)
7回目 処刑…(死亡)
8回目 また処刑…(死亡)
(弘安の役)
9回目 台風で引き返した(生還)
10回目 日本に行きたくない船員に使者が殺された…(死亡)
11回目 日本に来ずに手紙だけ届けた(生還)
12回目(4回目と同じ人) 鎌倉へ連行、のち15年後に病没(生存、日本に留めて帰さず)
13回目 お坊さんだったんで幽閉のち赦免、日本のお寺の住職になった(生存、日本に留めて帰さず)
13回中、生還8回(本土に来れたのは4回)、死亡3回。
時期で分けると
文永の役前→生還、
文永の役後→処刑
弘安の役後→生かすが帰さず日本に留める >>186
コピペになんだけど、丁度ニュース速報+のスレで、
それ言ってる人が何人もいる… >>184
>上陸して負けて船に逃げてるんだけど
元軍が船に乗る前に日本軍が「引き退いて」いる。 >>190
ただ引いたなら陸に陣地構築するだろう
上陸するのが一番大変なんだぞ
戦の素人かよ
船に戻らざるを得なかったが正しい >>192
>ただ引いたなら陸に陣地構築するだろう
日本軍が「引き退いた」ことは認めるのか?
それとも日本軍は「引き退かなかった」と主張するのか? >>193
日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ
翌日の戦闘が始まる前に蒙古軍は海上に逃れてる
船は降ろすのも乗せるのも手間がかかるからいかに蒙古が急いで船に乗ったか分かるな >>194
>日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ
小規模な戦闘は日没後も続いたと言いたいわけか?
>日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ
戦闘は収まったが日本軍はその場に留まったと言いたいわけか? 約740年前の元寇げんこうで戦死した対馬の守護代・宗資国そうすけくに(助国)ら約80人の武士を慰霊する小茂田浜神社の例大祭が11日、長崎県対馬市厳原町で行われた。
資国らは1274年(文永11年)、約900隻の軍船で同市の小茂田浜などに侵攻した元軍と高麗軍計約3万人と戦い、全滅したと伝えられる。
例大祭では巫女みこ神楽の奉納や武者行列、浜辺で弓矢を射る儀式などがあり、島内外から訪れた参拝者が往時をしのび、平和の世が続くことを願った。
参拝者の中には、文永の役当時の対馬を描いた歴史漫画「アンゴルモア元寇合戦記」(KADOKAWA)の原作者たかぎ七彦さん(東京)らの姿もあった。
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181113/20181113-OYS1I50004-L.jpg
https://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20181113-OYS1T50030.html 軽視も何も文永は単純に戦闘に負けて撤退決めて弘安は2ヶ月何も出来なかったわけで武士の圧勝なんだが 文永の役 総数 27,000〜39,700人
弘安の役 総数 140,000〜156,989人および江南軍水夫
確かに兵力は文永んときは少ないが、それは相対的な物で
少ないから軽視とか偵察程度だったとか言うには無理がある数字だよな
普通に侵攻する気満々の数だわ
それに良く考えたら「台風が来たから撤退しよう」なんて船でやって来た連中がそんなバカな決定をするはずがない
海が荒れたら陸に留まる、即ち占領した陣地を断固死守する、大陸育ちの連中なら尚更そうする
台風の中の海路を帰るなんて普通に自殺行為
つーことは橋頭堡を築く暇も無く船まで押し戻されての撤退だと考えるのはふつう >普通に侵攻する気満々の数だわ
2万程度の兵数がなくては未知の国に初めて行くのに怖くて威力偵察もできない。
>つーことは橋頭堡を築く暇も無く船まで押し戻されての撤退だと考えるのはふつう
日本軍が元軍を海に追い落としたという史料はいっさいない。
白張装束30人とか、兵船2艘とかの「神軍説話」を除けばね。
高麗史を読めば第一次東征の準備がいかにボロボロだったか、よく分かるよ。
とにかく行って帰るのが精いっぱいの軍隊だ。
主将のクドゥンがまた、なにかと言えば「回軍」を考える人物だったし。 南北朝期に九州の国人が足利幕府に反抗的なのは元寇の戦後処理に不満だったから? >戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき
口で言うのは簡単なんだが、それを認めると御家人達に褒美を与えなくてはならなくなる。
防衛戦なので領地を得たわけではないので、十分に褒美を与える為の原資が無い。 弘安の役ならいざ知らず、文永の役でフルボッコされたのは鎌倉武士。 >現代人が評価すべきって意味じゃ?
「御家人の手柄ではなく、神風のお陰である」という当時の幕府や朝廷の見解がそのまま継承された。 >>205
ならなんで文永で日本征服できんかったんや >>209
真珠湾攻撃はアメリカを征服する気だったのか? と言うのと一緒。 海洋国家米国や欧州でない限り日本は倒せんよ
大航海時代も得ていないアジアなど日本の敵ではない 3万強の大兵力を率いてその目的が日本の端っこで偵察と略奪するだけって
そんなコスパの悪いことする国家や軍隊があるか?
少なくとも北九州までは版図に飲み込む気ぐらいはあっただろ
真珠湾になぞらえるんなら刀伊の入寇の3000程度で十分だ
隷下の高麗軍がやる気無かった説がちょいちょい出てくるが、あいつら普通に殺意満々だったし
発掘された軍船もしっかりした造りだったらしい
つーかその軍備のせいで高麗の民は疲弊したんだけどな
八幡愚童訓は「バカなガキでも分かる八幡様のありがたいお話」という宗教書なので
あんなものを鵜呑みにしてはいけない >>211
国力の比較をしているのではない。
元寇の時代に真珠湾攻撃のような、征服を目的とせず、局地的に一定の打撃を与えて
終るような作戦を行うにはどうするかを考えて見よう。
その時代に、飛行機や艦砲のような遠隔の攻撃手段があったわけではない。
相手に打撃を与えるには、人間が上陸して直接に働くよりほかに手段がないのだ。
昔の海戦の主たる攻撃手段が、相手の船に乗り移って白兵戦をやることであったこと
と対比される。
つまり、渡海・上陸して戦闘をやったからといって、それが征服作戦なのか、単なる
打撃作戦なのかを外形的に区別することはできないのだ。 >>212
コスパだけではわからない。
当時、しょせんは「少数民族」に過ぎない蒙古は、大国の南宋と伸るか反るかの決戦のまっ最中だった。
だから文永の役は全面的に高麗に依存した戦争だったのだ。それでもって高麗がいかに疲弊しようが、
知ったことではない。高麗が耐え切れずに倒れれば、労せずして直轄領にするだけの話だ。
相手が元だと思うからおおげさになるが、船と食糧という、遠征軍の最も基本的な資源において、
第一次東征軍は高麗の国力の範囲でまかなえる規模でしかなかったのだ。
その意味では、文永の役は日本と元の戦争ではなく、日本と高麗の戦争だった。
お客さんのようにして蒙漢軍が乗ってはいたが、これはフビライの親衛隊で、いざとなれば
カーンの地位の裏付けでもある。だから損害少なく安全に帰ることが第一だ。
そのためには、何かといえば「回軍」を持ち出す安全主義のクドゥンが、主将として適任だった。
日本征服などとおおげさに考えることはない。 その高麗の、具体的な準備状況を見てみよう。
●1274年1月、大船300隻を起工、7月の出発をめざす。
大船300隻を半年で作ろうというのだ。
●春の農繁期に造船労働者の半数を帰農させる。
●6月、大船300隻と付属小舟、関連資材の完成を王がフビライに報告。
●7月、王が死亡。忠烈王が即位。
恐らく葬儀、服喪、即位のため遠征準備にとって空白期間が生じた。
●船員の徴募遅れのため高麗人担当官が更迭。忠烈王の回顧によれば予定の約半数しか集まらず。
●出発が10月にずれ込む。
10月は新暦の12月、すでに季節風が強くなる航海不適の季節である。
●(恐らく自前の船で参加する予定だった)女真軍が出発に間に合わず。
●結局、出発したのは予定の半数にも満たない126隻。船員も予定の約半数の6700人。
これだけのことがあって、なお日本征服をめざす司令官がいるだろうか。
恐らくクドゥンの頭の中は、逆風を突いて乏しい食料で帰る帰途のことで一杯になって
いただろう。
日本征服など夢物語である。 >>215
文永の役の何年か前に、南宋と日本を征討するとか言ってなかったっけ 蒙古と言えば騎馬だが、なぜ馬を連れてこなかったのだろうか?
船に馬を乗せるのは大変なのか?
逆に、秀吉の朝鮮出兵の時は、馬は現地調達したのか? 馬は連れて来ているよ。絵詞を見れば赤坂を撤退する小部隊の指揮官らしいのが
馬に乗っている。祖原山の本陣の図でも十人ぐらいの上級者らしいのが馬に乗っている。
また安国論私抄の捕虜尋問記録では、一船当たり5頭の馬を積んだと言っている。
ただ、本来のモンゴル軍のように、戦闘員が全軍騎馬で、さらに各自数頭の替え馬を引く
というような姿ではない。
これは、連れて来れなかったというよりも、元軍の中身がすでにモンゴル軍というよりも
シナ軍になっていたからだろう。
つまり、蒙漢軍は本国でもあのような歩騎混成の編成だったのだろう。 アホの妄想ってしょうもないな
普通に戦闘で負けて(指揮官も負傷)このままじゃ全滅だから早期撤退決めた以外の何が想像出来るのか
神風の次は征服する気がなかったとかもう想像力の欠如だから歴史から離れた方がいい
いや、文永は日本がフルボッコされたとか妄想して次に日本と高麗の戦争とか言い出してるから
チョンなりの惨めな妄想の類かな >神風の次は征服する気がなかったとかもう想像力の欠如だから歴史から離れた方がいい
>>215のような状況でも、なお日本を征服するつもりだったというのは、確かに素晴らしい
想像力だな。 >>214>>215の言ってることって嘘とまでは言わんが都合の良い低い数字を恣意的に拾ってる
南宋とは文永の役の前年の決戦でほとんど決着はついてた
南宋は既に虫の息、じゃあ次は日本だと順当に駒を進めてた
高麗の船126隻ってのは千料舟という軍荷専用の大型船を指してて
上陸用のバートル船は300もある。恐らくこっちに主力兵を載せてたろう
船員の6700もあくまで水夫であって高麗兵は5300〜8000は用意してる
そして蒙古漢軍は15000〜25000。ふつうに高麗軍より大所帯
蒙古の高官による現地視察や手柄の横取りなどという「お客さん」とは到底言えない
クドゥンは単に引き際を心得てただけだ
金方慶が「敵地でこそ士気が上がるからどんどん攻めるべきだ」と無茶な理論を展開したのに対して
「普通に兵を消耗するだけだから撤退しよう」と諭してる 幕府の動員数って実際どれだけあったのかな
承久の乱の時に19万って数字があるけど史書の
数字はある程度割り引かないと駄目だから
それでも推定される人口から見たら
最大12万から17万は動員出来そうか? >>214
>お客さんのようにして蒙漢軍が乗ってはいたが、
蒙漢軍の方が高麗軍より多くなかったっけ
お客さん? 223
>蒙漢軍の方が高麗軍より多くなかったっけ
>お客さん?
数が多かろうと自前でない船に乗せてもらっているという意味でお客さんだ。
旅客機だって乗員より乗客の方が多いだろう? フビライの命令で船を作ったんだからお客じゃないだろ。 >>221
>嘘とまでは言わんが都合の良い低い数字を恣意的に拾ってる
低い数字とは126隻、6700人のことと思うが、その数字は君も使っているではないか。
君も恣意的なのか?
>南宋とは文永の役の前年の決戦でほとんど決着はついてた
前進拠点である襄陽の陥落が転換点だったのはその通りだが、弱体化したとは言え、巨大な南宋の
本体は残っている。襄陽の後は点の戦いが面の戦いに移行したのだ。当然、大軍が必要である。
>南宋は既に虫の息、じゃあ次は日本だと順当に駒を進めてた
いかにも決着がついた南宋戦から浮いた軍隊を日本侵攻に廻したように読めるが、それは印象操作。
南宋平定作戦にはバヤンの本隊だけで20万(他に支隊)、日本向けはたったの一万五千だ。
そしてバヤンの本隊が長江を渡ったのはまさに1274年の12月。南宋平定と第一次東征は同時進行
していたのだ。 >高麗の船126隻ってのは千料舟という軍荷専用の大型船を指してて
>上陸用のバートル船は300もある。恐らくこっちに主力兵を載せてたろう
船に兵を載せるということは、そこで生活させるのだよ。絵詞の海戦場面に描かれた、甲板も
ないような舟艇で、どうやって生活するのか。
また、大船126隻という数字はバートルや汲水小舟を伴わず単独で出て来る数字だ。
大船、バートル、汲水小舟はワンセットだったと思われるから、大船126隻ならバートルも
126隻だった可能性がある。
>船員の6700もあくまで水夫であって高麗兵は5300〜8000は用意してる
高麗兵が船員の代わりに操船したという史料はいっさい無い。また、船員が集まらず高麗が苦労した
のは、船員が専門技術者だったからだ。数がいるからと言って、農民兵を転用できたとは限らない。
>クドゥンは単に引き際を心得てただけだ
その通り! 私が言いたのもそこだ。めでたく意見が一致したね。 >>224
自前でない船に乗るからお客さんって論理がよくわからん
自前じゃないってもクビライの命令で作った船だろ? >>214
この時点で既にクビライの娘が高麗王に嫁いでたのに、
それでもそんな扱いって娘婿の地位って高麗にとってはあまり意味なかったのかな
モンゴルにとっては影響力を強める意味があったとしても >>230
フビライの娘婿になったのは忠烈王で、彼の即位は1274年の8月。
第一次東征軍の出発は同年10月初旬だから、忠烈王は第一次東征の準備にほぼタッチして
いないと言える。 この話のかみ合わなさはパフォコン思い出す
あいつまだいるのかな >>232
話が噛み合ってない? どこが?
>この時点で既にクビライの娘が高麗王に嫁いでたのに、
「この時点」とは高麗が第一次東征の準備をフビライに命じられて、実行して
いる時点だ。
この時点の「高麗王」とは元宗だ。
元宗の嫁はフビライの娘ではない。
それだけのことだ。 キムチが混ざるとこういう歴史考察も一気に興ざめするな
日本国内じゃ資料が少ないとかの理由であまりスポットが当てられてなかったけど
海外じゃ北条時宗は有名だぞ 元寇では武士はボロ負けwww
一騎打ちに拘って返り討ちwww
神風のおかげで偶然勝てただけwww
ところが元軍や南宋軍の資料では全く違うことが書かれているのですよ。
一騎打ちに拘った資料も実はどこにも無いんですね。
元軍の記録では、武士は密集して騎射を行ったのちに少数で突撃したとあります。
また上陸した元は博多周辺から外に侵攻することも出来ずに野戦と夜討ちによて蹴散らされました
日本大嫌いな人達が、一騎打ちで負けたのを隠すために書き換えた説発覚!
神風云々も、当時の寺社と幕府が結託したものですし。
というのも防衛戦なので恩賞として与える土地も無かったんですね。
そして寺社も独自の武力を持つ集団で政治にもバリバリ介入していたので、
自分たちが神風を吹かせたのだと恩賞や名誉を独り占めしたのです。
まあ今でもありますけど、現場で活躍した人たちにムキーッとなって嘘八百を塗り固めたんじゃないですかねw
自分たちの記録ではなく敵の資料によって実態がわかる、というのも情けない話しですがw 対馬、壱岐、九州北部と戦場が限られていたのが大きいのかな。
仮に京都まで攻め込まれていたら大々的に扱われそう。 >>235
日本側にも、竹崎季長のあの絵詞で騎武者が数人でユニット組んで突撃してるシーンがあるんだよね
苦戦したのは事実だと思うが、それは対馬と壱岐の話じゃねーかな?
しかも苦戦の理由は単に兵力の差によるものだろう
あんな日本の最果ての島に増援を送るなんて不可能だし、現地の武家が頑張って力及ばずってとこだろう
日本って意外と古来から権力者が嫌いみたいで(竹取物語は反藤原を暗示してるらしい)
しかも当時は日蓮率いるカルト教団が幅を利かせて鎌倉に楯突いてたから
御家人が頑張ったって言っても取り合ってくれなかったんだろうな 竹崎季長も先駆けの武功を認めてもらえなくて問注所だか侍所だかに申し立てして
やっとの事で所領をもらったんだもんねぇ。 >>237
>日本側にも、竹崎季長のあの絵詞で騎武者が数人でユニット組んで突撃してるシーンがあるんだよね
白石勢のことなら、絵詞では9騎の集団が突撃している。しかしそれは絵巻だから省略したのだ。
実数は何人かと言えば、季長じしんが絵のなかに「其勢百余騎」と注釈しているから、約100騎
の集団だった。
5騎の竹崎勢を瞬時に無力化した敵の歩兵部隊は100騎の白石勢に対抗できず逃げた。
しかしそこまでだ。白石勢の働きは結局、竹崎を救出しただけだった。もったいない。
絵詞に出て来る限りでは、騎兵集団は竹崎勢5騎、白石勢100騎、菊池勢100騎とも、
いずれも単独で、かつ個々の判断で動いている。
つまり、個々の騎兵集団がいわゆる「集団戦法」を行っているが、それ以上の連携というもの
が見られない。
なぜこのようになるか。それは日本軍の軍隊組織から来ていると思う。
5騎の指揮者である竹崎が総司令官の景資に直接、意見具申しているように、各騎兵集団の指揮者で
ある御家人は、指揮する兵力に拘わらず皆、総司令官に直結していた。
これは軍隊組織と言えるほどのものではない。 >>233
230だけど、スマンカッタ
即位時期まで覚えてなかった
>>234
Zelda Fan Boyという渾名がついてしまってる…
某ゲームに登場して知名度上がったけど、家紋がトライフォースと似てるから… どっかの大学の論文によると大鎧の小札は、
日本刀と同じように、硬くて脆い鉄と柔らかくて粘り強い鉄の合わせ鍛造らしい。
これマジなん? >>33
あの時代に馬を大量に海上輸送するのは無理じゃね
九州に上陸したモンゴル騎兵なんか実際はほとんどいなかったろうな >>242
モンゴル騎兵が大量に上陸出来ても日本の地形じゃ実力発揮できないだろう。
モンゴルやカザフ共和国の時代劇でも草原での回戦ではなく、対立部族の集落(ゲルの野営地)を
襲撃する様な場合、モンゴル人も下馬して刀槍で白兵戦してるよ。
狭隘地で騎射戦が有効でない場合は、モンゴル人もその環境に合わせて戦うってこと。
モンゴル相撲のブフだって騎馬戦での格闘術ではなく、徒歩での肉弾戦での格闘術。 元の記録
我が軍は勇敢に戦ったが敵が強かった。
鎌倉の記録
残ってない。焼かれた。
九州の記録
敵は非常に強かったが、多大の犠牲者を出し勝った。
どちらも信用度が低い。
我が一族は300人出した。
本当は100人。
総兵力も嘘臭い。 >>244
同じくらい三国志も好きだよな。しかも史実じゃなくて演義の方
国取りレースが琴線に触れるんだろうか 鴨長明「方丈記」は北条記のシャレ。
一遍上人の「時宗」は、北条時宗を暗示している。
元寇でモンゴルが襲来したため、北条時宗が忍術をはじめとする秘術を開いて、秘密結社を組織したのではないか。
1251年:北条時宗誕生。
1274年:モンゴル軍来襲。一遍上人遊行開始。
まちがいなく、一遍上人の時宗は北条時宗の秘密結社。一遍は、この年に九州に布教にいっている。
一遍の時宗は、日本軍人だ。
1275年:鴨長明が賀茂家の継承者争いに負ける。
鴨長明が「方丈記(北条記)」をいつ書いたかは謎。
日本の貴族でもかなり深いゆかりのある賀茂氏が北条氏を支持していることを示しているのだろう。
そして刹那主義の「方丈記」は、日本の行く末を川の流れの泡に例えて書いているのだ、おそらく。
1281年:モンゴル軍再来襲。
1284年:北条時宗死す。 平安鎌倉時代って馬鎧あったのかな。
戦国時代と古代は聞くけど、平安鎌倉は聞いたことない。 矢が尽きた( ・`д・´)キリッ
もっと上手い言い訳考えろよと思う そもそもどういう勝利を想定して来てたのかが甚だ疑問 >>250
文字として記録が残ってる最古は13世紀後半、つまり鎌倉時代。
ただ和歌山の大谷古墳から5世紀頃の鉄製の馬冑が発掘されてるし、
6世紀以降の関東平野の数多くの古墳から出土してる馬埴輪の多くも
馬鎧に相当する胸当てが装備されてる。 なんで博多に上陸しようと思ったのか
もちろん大陸から近くて、太宰府を後ろに構える大都市だってのはわかるが
だからこそ防御もそれなりと考えないか?
こそっと山口鳥取あたりから上陸して畿内目指せばと思うんだが 船を作るのも航海も高麗の担当だから実績がないのに鳥取あたりに大群で来れないだろ。
二、三隻ならともかく。 一説によると、刀伊の入寇に関して日本側は被害甚大で刀伊と同じ女真から朝貢を受けていた高麗に管理責任があるとキレてたので、高麗側は入寇は美味しいと錯覚してた可能性が高く、それを模倣してみただけって考察もある 矢が尽きたから帰ったって模範的な敗北の婉曲表現だろ 鷹島の海底から引き上げられた元寇船の遺物に矢尻が出てることは内緒な 矢はたくさん残ってたけど、矢が尽きたことにしました というかなんでわざわざ日本になんぞ攻めてきたのかがわからん
西方ではカイドゥの大攻勢の結果、皇族から離反者がでたり直系皇族が捕虜になったりと散々な有様で元の主力軍もそっちに釘付けにされているというのに >>264
チョンコが刀伊の入寇の真似したらウハウハだって思い込んだから >>266
朝貢国の兵力=元が利用できる兵力だから口減らしする必要性はない >>270
チョンコって出っ歯でいつも口開いてるから呆れ顔に見えるよな >>264
それが、どうも「硫黄貿易」がらみ臭いんだよな。
まず、北宋も南宋も、契丹遼やタングート大夏、女真金といった北方騎馬軍団への防衛力として
唐代に発明された黒色火薬を使ったロケット砲を大量配備して、対騎馬軍団体制を敷いていた。
この黒色火薬の原料は木炭、硝石、硫黄だが、当時の北宋、南宋の版図で硫黄だけが国産化できなかった。
当時の世界で硫黄の大産地と言ったら、紅海沿岸、ジャワ島、そして日本列島。
そういう理由で、宋代には九州の博多には民間貿易船や宋朝から直接派遣された特権商人の船団が、
大規模な硫黄買い付けに来ていた。これが、平安中期以降に日宋貿易が活性化した背景で、
当時の宋側の史料でも日本との貿易で真に国益となるのは木材と硫黄の交易だけだとはっきり書かれている。
南宋とモンゴルが対峙していた文永の役の段階では、貿易港博多を軍事占拠するだけでも南宋への硫黄供給を
遮断して南宋攻略を有利にする効果が見込めたし、南宋を滅ぼしてその国家機能を接収した後の弘安の役の
段階では、硫黄の大産地である日本列島自体を接収することで大元ウルス自体の火器軍備強化が見込めた。
実は、日宋貿易、日元貿易で硫黄が非常に大規模に交易されていたことを日本史研究者が認識するようになったのは
かなり新しく、やっと21世紀になってからの事。つまり、20世紀までに書かれた歴史学書や論文では硫黄交易はほぼ
黙殺に近い状態。というのも、研究者自身、硫黄が交易されていたといっても何の目的で宋が輸入していたのか、
その用途がピンとこなかったため、日本産の貿易対価で宋側がありがたがるものと言ったら砂金ぐらいしかないだろうと
決めつけていたんだな。硫黄なんて漢方薬の原料として少量が交易されていたんだろうぐらいに思われていた。 >>272
よかった
「それを発見しのは何を隠そうわしなのだ!天才のわしなのだ!」とか言い出したらどうしようかとヒヤヒヤしながら読ませてもらったよ
非常に勉強になった
ただ問題点は元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明な点
だから高麗人が唆しただけなんじゃないか説が有力になってる >>273
日宋貿易と宋朝の火器武装のリンクについては、言い出しっぺの山内晋次が山川の「日本史リブレット」の一冊、
「日宋貿易と『硫黄の道』」に詳しく書いているから、一読をお勧めする。
実は、杉山正明の「遊牧民から見た世界史」の20世紀に出された旧版では硫黄貿易との関連は触れられていないんだが、
21世紀になってから出された文庫新装版では、文永の役が硫黄貿易の遮断だという仮説を挙げているらしい(私はまだ旧版しか読んでない)。
杉山も明らかに山内の研究から刺激を受けていると言っていいだろう。
あと、クビライ帝は元寇と前後してジャワ島遠征も実行している事と、南宋の国家機能接収後に西アジアへの海路通商に力を注いでいる事にも
注目していいんじゃないかな。どれも、それぞれジャワ島の硫黄と紅海の硫黄の確保を目的の一つにしていた可能性が指摘できる。 参考までに
科研費研究課題「硫黄流通からみた古代・中世の日本とアジア」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23520847/
科研費研究課題「火薬原料の国際流通からみた前近代の日本とユーラシア」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-26370779/
科研費研究課題「学際的手法による中・近世日本のサルファーラッシュ・シルバーラッシュの比較総合研究」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-17H02394/
中世の日本、琉球王国が,東アジアにおける軍需物資のサプライチェーンにおいて
重要な位置を占めていた事が、理解してもらえると思う。
今、この事を元寇と直接結びつけているのは杉山正明だけだけど、
これから研究が進むことによって関連が浮かび上がってくる分野である蓋然性は
かなり高いと思う。 >>273
>>元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明
可能性と推論で語れば、兵力が少なめだった文永の役の時には戦略目標は硫黄交易拠点の博多の制圧と確保で、
莫大な兵力を集めた弘安の役の時には日本国全体の征服による硫黄産地の掌握、
という事だった可能性が指摘できる。
問題は、おそらく大元ウルス側でも、日本のどこであれだけ大量の硫黄が産出しているのかが解明できていなかった
蓋然性が高い事だろう。それが判明していれば、薩摩硫黄島や硫黄鳥島に大艦隊を送って対馬侵攻の時みたいに
制圧してしまっていただろう。 ご歓談中失礼します
高麗専門の専スレが立ちましたので宣伝に参りました
各地域お詳しい方々とも是非ワールドワイドにお話し出来たらと思っております
ご興味あられましたらお立ち寄りくださいませ
高麗時代史専用スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1556797827/ 高句麗=扶余族を始祖に持つウラル・ツングース
新羅=倭人始祖に持つ倭種
伽耶=ガッツリ倭人
百済=倭人に媚びへつらう元漢人 鈴木大拙の「日本的霊性」読んでみ。元寇が日本精神史上、大事件だったことがわかる。 済州島攻略も成功させてるし南宋征服も水軍が不可欠で
南宋を滅亡させた崖山の戦いなんか海戦
不慣れどころではないんだなあ 神風で船酔いしてぼろぼろ。
天皇陛下様の神通力をあなどってはならない。 >>254
鎌倉時代に馬鎧あったんだな。
詳細知ってたら教えてくれ。
古代と戦国時代、江戸時代の馬鎧は実物が残ってるよね。
下鞍と障泥はどの時代もつけてるけど、
あれも鎧の役割をしていたんじゃないだろうか。 個人的に元寇で打ち震えるのは、弘安の役における最後の後始末(鷹島掃討戦)
暴風ですでに万単位の溺死者が発生していたものの、命からがら鷹島に集結した
将兵も多数おり、その数は十万。ただし武具や矢玉はおろか、最低限の水と食糧
と生活用品すらほぼ皆無。軍ではなく着の身着のままの被災難民に成り果てていた
司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する
ゆえに歴史的な意味からいえばこの時点で戦争は終わっている。だが、鷹島もまた
元軍の民間人虐殺の被害地であり、負傷し飢えた敗残兵になったからとて元軍が慈
悲の対象であろうはずもない。かくして日本軍による、血の復讐の宴が開催された
残存兵らは、この苦境の中で指導力を発揮していた下級将校を臨時の将軍とあおぎ、
その指揮の下でありあわせの工具を総動員、船を仕立てて脱出する計画を立てる
だが台風一過、状況を把握した日本軍が好機を逃すはずもなく、完全武装で総攻撃
指揮官が地元の御家人クラスであることから戦力はせいぜい数千人、あるいは千人を
大きく越えなかったかもしれないが、ほぼ丸腰の元軍は一方的に敗れ、投降が相次ぐ
かくして元軍の犠牲の大部分が、この時に生じる。2万〜3万人の、比較的元気で
技能のある江南人が選抜されて奴隷となった他は、推定8万が斬首されている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています