なんで元寇って過小評価されてるの?? [無断転載禁止]©2ch.net
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神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
慶長の役と比べればわかる
戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき >>214
この時点で既にクビライの娘が高麗王に嫁いでたのに、
それでもそんな扱いって娘婿の地位って高麗にとってはあまり意味なかったのかな
モンゴルにとっては影響力を強める意味があったとしても >>230
フビライの娘婿になったのは忠烈王で、彼の即位は1274年の8月。
第一次東征軍の出発は同年10月初旬だから、忠烈王は第一次東征の準備にほぼタッチして
いないと言える。 この話のかみ合わなさはパフォコン思い出す
あいつまだいるのかな >>232
話が噛み合ってない? どこが?
>この時点で既にクビライの娘が高麗王に嫁いでたのに、
「この時点」とは高麗が第一次東征の準備をフビライに命じられて、実行して
いる時点だ。
この時点の「高麗王」とは元宗だ。
元宗の嫁はフビライの娘ではない。
それだけのことだ。 キムチが混ざるとこういう歴史考察も一気に興ざめするな
日本国内じゃ資料が少ないとかの理由であまりスポットが当てられてなかったけど
海外じゃ北条時宗は有名だぞ 元寇では武士はボロ負けwww
一騎打ちに拘って返り討ちwww
神風のおかげで偶然勝てただけwww
ところが元軍や南宋軍の資料では全く違うことが書かれているのですよ。
一騎打ちに拘った資料も実はどこにも無いんですね。
元軍の記録では、武士は密集して騎射を行ったのちに少数で突撃したとあります。
また上陸した元は博多周辺から外に侵攻することも出来ずに野戦と夜討ちによて蹴散らされました
日本大嫌いな人達が、一騎打ちで負けたのを隠すために書き換えた説発覚!
神風云々も、当時の寺社と幕府が結託したものですし。
というのも防衛戦なので恩賞として与える土地も無かったんですね。
そして寺社も独自の武力を持つ集団で政治にもバリバリ介入していたので、
自分たちが神風を吹かせたのだと恩賞や名誉を独り占めしたのです。
まあ今でもありますけど、現場で活躍した人たちにムキーッとなって嘘八百を塗り固めたんじゃないですかねw
自分たちの記録ではなく敵の資料によって実態がわかる、というのも情けない話しですがw 対馬、壱岐、九州北部と戦場が限られていたのが大きいのかな。
仮に京都まで攻め込まれていたら大々的に扱われそう。 >>235
日本側にも、竹崎季長のあの絵詞で騎武者が数人でユニット組んで突撃してるシーンがあるんだよね
苦戦したのは事実だと思うが、それは対馬と壱岐の話じゃねーかな?
しかも苦戦の理由は単に兵力の差によるものだろう
あんな日本の最果ての島に増援を送るなんて不可能だし、現地の武家が頑張って力及ばずってとこだろう
日本って意外と古来から権力者が嫌いみたいで(竹取物語は反藤原を暗示してるらしい)
しかも当時は日蓮率いるカルト教団が幅を利かせて鎌倉に楯突いてたから
御家人が頑張ったって言っても取り合ってくれなかったんだろうな 竹崎季長も先駆けの武功を認めてもらえなくて問注所だか侍所だかに申し立てして
やっとの事で所領をもらったんだもんねぇ。 >>237
>日本側にも、竹崎季長のあの絵詞で騎武者が数人でユニット組んで突撃してるシーンがあるんだよね
白石勢のことなら、絵詞では9騎の集団が突撃している。しかしそれは絵巻だから省略したのだ。
実数は何人かと言えば、季長じしんが絵のなかに「其勢百余騎」と注釈しているから、約100騎
の集団だった。
5騎の竹崎勢を瞬時に無力化した敵の歩兵部隊は100騎の白石勢に対抗できず逃げた。
しかしそこまでだ。白石勢の働きは結局、竹崎を救出しただけだった。もったいない。
絵詞に出て来る限りでは、騎兵集団は竹崎勢5騎、白石勢100騎、菊池勢100騎とも、
いずれも単独で、かつ個々の判断で動いている。
つまり、個々の騎兵集団がいわゆる「集団戦法」を行っているが、それ以上の連携というもの
が見られない。
なぜこのようになるか。それは日本軍の軍隊組織から来ていると思う。
5騎の指揮者である竹崎が総司令官の景資に直接、意見具申しているように、各騎兵集団の指揮者で
ある御家人は、指揮する兵力に拘わらず皆、総司令官に直結していた。
これは軍隊組織と言えるほどのものではない。 >>233
230だけど、スマンカッタ
即位時期まで覚えてなかった
>>234
Zelda Fan Boyという渾名がついてしまってる…
某ゲームに登場して知名度上がったけど、家紋がトライフォースと似てるから… どっかの大学の論文によると大鎧の小札は、
日本刀と同じように、硬くて脆い鉄と柔らかくて粘り強い鉄の合わせ鍛造らしい。
これマジなん? >>33
あの時代に馬を大量に海上輸送するのは無理じゃね
九州に上陸したモンゴル騎兵なんか実際はほとんどいなかったろうな >>242
モンゴル騎兵が大量に上陸出来ても日本の地形じゃ実力発揮できないだろう。
モンゴルやカザフ共和国の時代劇でも草原での回戦ではなく、対立部族の集落(ゲルの野営地)を
襲撃する様な場合、モンゴル人も下馬して刀槍で白兵戦してるよ。
狭隘地で騎射戦が有効でない場合は、モンゴル人もその環境に合わせて戦うってこと。
モンゴル相撲のブフだって騎馬戦での格闘術ではなく、徒歩での肉弾戦での格闘術。 元の記録
我が軍は勇敢に戦ったが敵が強かった。
鎌倉の記録
残ってない。焼かれた。
九州の記録
敵は非常に強かったが、多大の犠牲者を出し勝った。
どちらも信用度が低い。
我が一族は300人出した。
本当は100人。
総兵力も嘘臭い。 >>244
同じくらい三国志も好きだよな。しかも史実じゃなくて演義の方
国取りレースが琴線に触れるんだろうか 鴨長明「方丈記」は北条記のシャレ。
一遍上人の「時宗」は、北条時宗を暗示している。
元寇でモンゴルが襲来したため、北条時宗が忍術をはじめとする秘術を開いて、秘密結社を組織したのではないか。
1251年:北条時宗誕生。
1274年:モンゴル軍来襲。一遍上人遊行開始。
まちがいなく、一遍上人の時宗は北条時宗の秘密結社。一遍は、この年に九州に布教にいっている。
一遍の時宗は、日本軍人だ。
1275年:鴨長明が賀茂家の継承者争いに負ける。
鴨長明が「方丈記(北条記)」をいつ書いたかは謎。
日本の貴族でもかなり深いゆかりのある賀茂氏が北条氏を支持していることを示しているのだろう。
そして刹那主義の「方丈記」は、日本の行く末を川の流れの泡に例えて書いているのだ、おそらく。
1281年:モンゴル軍再来襲。
1284年:北条時宗死す。 平安鎌倉時代って馬鎧あったのかな。
戦国時代と古代は聞くけど、平安鎌倉は聞いたことない。 矢が尽きた( ・`д・´)キリッ
もっと上手い言い訳考えろよと思う そもそもどういう勝利を想定して来てたのかが甚だ疑問 >>250
文字として記録が残ってる最古は13世紀後半、つまり鎌倉時代。
ただ和歌山の大谷古墳から5世紀頃の鉄製の馬冑が発掘されてるし、
6世紀以降の関東平野の数多くの古墳から出土してる馬埴輪の多くも
馬鎧に相当する胸当てが装備されてる。 なんで博多に上陸しようと思ったのか
もちろん大陸から近くて、太宰府を後ろに構える大都市だってのはわかるが
だからこそ防御もそれなりと考えないか?
こそっと山口鳥取あたりから上陸して畿内目指せばと思うんだが 船を作るのも航海も高麗の担当だから実績がないのに鳥取あたりに大群で来れないだろ。
二、三隻ならともかく。 一説によると、刀伊の入寇に関して日本側は被害甚大で刀伊と同じ女真から朝貢を受けていた高麗に管理責任があるとキレてたので、高麗側は入寇は美味しいと錯覚してた可能性が高く、それを模倣してみただけって考察もある 矢が尽きたから帰ったって模範的な敗北の婉曲表現だろ 鷹島の海底から引き上げられた元寇船の遺物に矢尻が出てることは内緒な 矢はたくさん残ってたけど、矢が尽きたことにしました というかなんでわざわざ日本になんぞ攻めてきたのかがわからん
西方ではカイドゥの大攻勢の結果、皇族から離反者がでたり直系皇族が捕虜になったりと散々な有様で元の主力軍もそっちに釘付けにされているというのに >>264
チョンコが刀伊の入寇の真似したらウハウハだって思い込んだから >>266
朝貢国の兵力=元が利用できる兵力だから口減らしする必要性はない >>270
チョンコって出っ歯でいつも口開いてるから呆れ顔に見えるよな >>264
それが、どうも「硫黄貿易」がらみ臭いんだよな。
まず、北宋も南宋も、契丹遼やタングート大夏、女真金といった北方騎馬軍団への防衛力として
唐代に発明された黒色火薬を使ったロケット砲を大量配備して、対騎馬軍団体制を敷いていた。
この黒色火薬の原料は木炭、硝石、硫黄だが、当時の北宋、南宋の版図で硫黄だけが国産化できなかった。
当時の世界で硫黄の大産地と言ったら、紅海沿岸、ジャワ島、そして日本列島。
そういう理由で、宋代には九州の博多には民間貿易船や宋朝から直接派遣された特権商人の船団が、
大規模な硫黄買い付けに来ていた。これが、平安中期以降に日宋貿易が活性化した背景で、
当時の宋側の史料でも日本との貿易で真に国益となるのは木材と硫黄の交易だけだとはっきり書かれている。
南宋とモンゴルが対峙していた文永の役の段階では、貿易港博多を軍事占拠するだけでも南宋への硫黄供給を
遮断して南宋攻略を有利にする効果が見込めたし、南宋を滅ぼしてその国家機能を接収した後の弘安の役の
段階では、硫黄の大産地である日本列島自体を接収することで大元ウルス自体の火器軍備強化が見込めた。
実は、日宋貿易、日元貿易で硫黄が非常に大規模に交易されていたことを日本史研究者が認識するようになったのは
かなり新しく、やっと21世紀になってからの事。つまり、20世紀までに書かれた歴史学書や論文では硫黄交易はほぼ
黙殺に近い状態。というのも、研究者自身、硫黄が交易されていたといっても何の目的で宋が輸入していたのか、
その用途がピンとこなかったため、日本産の貿易対価で宋側がありがたがるものと言ったら砂金ぐらいしかないだろうと
決めつけていたんだな。硫黄なんて漢方薬の原料として少量が交易されていたんだろうぐらいに思われていた。 >>272
よかった
「それを発見しのは何を隠そうわしなのだ!天才のわしなのだ!」とか言い出したらどうしようかとヒヤヒヤしながら読ませてもらったよ
非常に勉強になった
ただ問題点は元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明な点
だから高麗人が唆しただけなんじゃないか説が有力になってる >>273
日宋貿易と宋朝の火器武装のリンクについては、言い出しっぺの山内晋次が山川の「日本史リブレット」の一冊、
「日宋貿易と『硫黄の道』」に詳しく書いているから、一読をお勧めする。
実は、杉山正明の「遊牧民から見た世界史」の20世紀に出された旧版では硫黄貿易との関連は触れられていないんだが、
21世紀になってから出された文庫新装版では、文永の役が硫黄貿易の遮断だという仮説を挙げているらしい(私はまだ旧版しか読んでない)。
杉山も明らかに山内の研究から刺激を受けていると言っていいだろう。
あと、クビライ帝は元寇と前後してジャワ島遠征も実行している事と、南宋の国家機能接収後に西アジアへの海路通商に力を注いでいる事にも
注目していいんじゃないかな。どれも、それぞれジャワ島の硫黄と紅海の硫黄の確保を目的の一つにしていた可能性が指摘できる。 参考までに
科研費研究課題「硫黄流通からみた古代・中世の日本とアジア」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23520847/
科研費研究課題「火薬原料の国際流通からみた前近代の日本とユーラシア」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-26370779/
科研費研究課題「学際的手法による中・近世日本のサルファーラッシュ・シルバーラッシュの比較総合研究」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-17H02394/
中世の日本、琉球王国が,東アジアにおける軍需物資のサプライチェーンにおいて
重要な位置を占めていた事が、理解してもらえると思う。
今、この事を元寇と直接結びつけているのは杉山正明だけだけど、
これから研究が進むことによって関連が浮かび上がってくる分野である蓋然性は
かなり高いと思う。 >>273
>>元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明
可能性と推論で語れば、兵力が少なめだった文永の役の時には戦略目標は硫黄交易拠点の博多の制圧と確保で、
莫大な兵力を集めた弘安の役の時には日本国全体の征服による硫黄産地の掌握、
という事だった可能性が指摘できる。
問題は、おそらく大元ウルス側でも、日本のどこであれだけ大量の硫黄が産出しているのかが解明できていなかった
蓋然性が高い事だろう。それが判明していれば、薩摩硫黄島や硫黄鳥島に大艦隊を送って対馬侵攻の時みたいに
制圧してしまっていただろう。 ご歓談中失礼します
高麗専門の専スレが立ちましたので宣伝に参りました
各地域お詳しい方々とも是非ワールドワイドにお話し出来たらと思っております
ご興味あられましたらお立ち寄りくださいませ
高麗時代史専用スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1556797827/ 高句麗=扶余族を始祖に持つウラル・ツングース
新羅=倭人始祖に持つ倭種
伽耶=ガッツリ倭人
百済=倭人に媚びへつらう元漢人 鈴木大拙の「日本的霊性」読んでみ。元寇が日本精神史上、大事件だったことがわかる。 済州島攻略も成功させてるし南宋征服も水軍が不可欠で
南宋を滅亡させた崖山の戦いなんか海戦
不慣れどころではないんだなあ 神風で船酔いしてぼろぼろ。
天皇陛下様の神通力をあなどってはならない。 >>254
鎌倉時代に馬鎧あったんだな。
詳細知ってたら教えてくれ。
古代と戦国時代、江戸時代の馬鎧は実物が残ってるよね。
下鞍と障泥はどの時代もつけてるけど、
あれも鎧の役割をしていたんじゃないだろうか。 個人的に元寇で打ち震えるのは、弘安の役における最後の後始末(鷹島掃討戦)
暴風ですでに万単位の溺死者が発生していたものの、命からがら鷹島に集結した
将兵も多数おり、その数は十万。ただし武具や矢玉はおろか、最低限の水と食糧
と生活用品すらほぼ皆無。軍ではなく着の身着のままの被災難民に成り果てていた
司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する
ゆえに歴史的な意味からいえばこの時点で戦争は終わっている。だが、鷹島もまた
元軍の民間人虐殺の被害地であり、負傷し飢えた敗残兵になったからとて元軍が慈
悲の対象であろうはずもない。かくして日本軍による、血の復讐の宴が開催された
残存兵らは、この苦境の中で指導力を発揮していた下級将校を臨時の将軍とあおぎ、
その指揮の下でありあわせの工具を総動員、船を仕立てて脱出する計画を立てる
だが台風一過、状況を把握した日本軍が好機を逃すはずもなく、完全武装で総攻撃
指揮官が地元の御家人クラスであることから戦力はせいぜい数千人、あるいは千人を
大きく越えなかったかもしれないが、ほぼ丸腰の元軍は一方的に敗れ、投降が相次ぐ
かくして元軍の犠牲の大部分が、この時に生じる。2万〜3万人の、比較的元気で
技能のある江南人が選抜されて奴隷となった他は、推定8万が斬首されている まぁ江南人と高麗人が津島や壱岐でやったことを考えれば皆殺しが妥当というほかない >>打ち震える
悪趣味だな。
武勇も技自慢もロマンも無い、ただの殺戮じゃん。
こういう事言う人って神風とか回天とか桜花みたいな特攻兵器に興味津々だったりするの?
やっぱり「魂が打ち震える」たりするものなのか? >>司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する
これは日本側の記録にも残っているね。
という事は日本側の兵が目撃していたという事だ。
なんで追わなかった?
なんで逃がした?
なんで討ち取らなかった?
ここが一番のつっこみ所だよ。 >>287
目の前に武装してる可能性がある敵性集団が万単位でいるのにか?
頭使え、無視はできんだろう?
それに捕虜にして売り飛ばせるだろうが >>286
先の見えない絶望の末の特攻戦法を、鷹島戦と混同する発想は無かった
鷹島掃討戦は、渡海軍事行動のリスクと敗戦時の人的被害の大規模化の、劇的実例だ
大正義日本海がもたらした惨劇は大陸政権による日本侵攻の、最強の抑止力となった
「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や
(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって
死んだ魂が泣く」(高麗王臣下の漢詩)
「大風雨がおこり、大浪のために沈壊。蒙古軍は半ば海に没し、残るは400隻
のみ。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、倭人のためにことごとく殺され
る。ゆえに白骨山(鷹島)という」(南宋遺臣の鄭思肖)
いっぽう日本側も、鷹島掃討戦の凄まじさを示す多くの地名を現地に残している
「首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷」などだ
それまでの国内戦とは異質な、大量殺害が起きていたことが窺える
なお地獄の鷹島から脱出して帰国を果たした者は、高麗の史書では11人確認できる
さらに、捕虜となってから10年以上のちに帰国できた一握りの兵士が現れ、かれら
は部下を見捨てて逃亡した将軍らを皇帝に告発した(すでにフビライの孫の代)
結果、范文虎ら数人の将官が妻子ごと処刑された。ある意味、元にとって真の終幕 >>289
まぁ江南人と高麗人が津島や壱岐でやったことを考えれば皆殺しが妥当というほかない >>290
江南人(南宋人)って文永の役の時の対馬壱岐の被害
ってか文永の役自体に参加してなくない?
南宋が元に征服されたのって文永の役の後だよね? >>284
あと南宋人の助命って比較的元気とか技能があるとかで選別されてたっけ?
『九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍為唐人、不殺而奴之』
元史には↑とあったから元気や技能の有無じゃなく単に国籍での選別だと思ってたけど >>289
>20万人は白骨山の上に置き去りにされ
弘安の役の時の軍勢、総数でも20万人もいたっけ…? >>289
陰惨な事柄に興味を持つ感覚が分からんって言ってるの。
そういう人って「魂が打ち震える」って言葉を良く使うんだよね。 負けたら被害者ヅラして罰を逃れようとするのが普通だからな >>294
日本侵攻を目論む強大な陸軍の壊滅という要素は、大きい
それに日本側文献も確認したところ、日本の斬殺刑カウント数は5,000人
これは日本のほうが正確な数字と思われる。
京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(閏7月12日条)には、台風に
より元軍が崩壊し元兵2,000人が降伏したとあり、助命も含めて1万に達していない
可能性もある。では、ほかの10万人前後の未帰還者はどうなったか? そう、溺死
「張氏墓誌銘」によれば台風により荒れた波の様子は「山の如し」であった
軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという
また、将官すら溺死した。高麗王・高宗の孫で東路軍の左副都元帥アラテムルである
幕末の史書「日本外史」は「屍が海を覆い、海の上を歩いて渡れるほどであった」と
表現。日本兵が手を汚した実数は、全体比率として少ない可能性もある
むろん10万人の未帰還者の主因が海難なら海難で恐るべき数字であり、この大きな
損失について真に打ち震えるべきは、大陸側ではなかろうか(ゆえに、元寇の海難に
関する大陸民の民間伝承の類が聞こえないのは残念。命の安さの反映だろうか?) >>294
元史では、一度日本で捕虜になった後に脱出帰国して范文虎らの嘘を告発した兵士の話として
>八月一日、風破舟。
>五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下。
と台風の後に范文虎ら将軍たちに見捨てられた人数を十万余と記し、
>方伐木作舟欲還、七日、日本人來戰、盡死。
>餘二三萬為其虜去。
と日本軍との戦闘後捕虜になったのは二、三万余と記してる
その後に>>292
斬殺刑だけじゃなくその前の戦闘で戦死か敗走した人数もかなりあったのかな? >>287
その記録読んでないけど、目撃例として書かれてたの?
戦後南宋人が助命されてるんだから彼らから聞き取った可能性もあるんじゃ? >>287
元史に出てくるその時に見捨てられた南宋人の証言によれば
暴風で船が壊れたのは八月一日、諸将が彼らを見捨てて逃げたのが五日、
日本軍がやってきて戦闘になったのは七日
元軍の諸将が逃げた時に日本軍はいない
偵察などで少数の日本人が目撃していた可能性はあるが まあ、その国の置かれた自然環境ってのは、立派な防御力だからな。
ロシアの冬将軍がなければ、最終的な勝敗はさておき、ナポレオンやヒトラーはもっと進撃できてたわけだからな。 攻め込む側は相手の自然環境を重視しないといけないわけだな
あまり変わらない地続きの隣国とかならともかく
海を隔てたり遠く離れて自然環境が祖国と段違いだったりするなら
そういう意味では元寇も自然舐めすぎ 天の時、地の利、人の和って中国の言葉だっけ?
元寇は全部欠けてるね クビライは日本遠征前に中国の言葉引用して
土地だけじゃなく人も欲しいんだから殲滅とかするなよって釘刺したりしてるけど
そういうのは学んでなかったのかな >>299
蒙古襲来絵詞
「同五日、関東の御使ひ合田五郎遠俊・安藤左衛門二郎重綱払暁に馳せ来たりしに、
季長行き向かて、「海上を隔て候間、船候はで、御大事に洩れ候ぬと覚え候」と申に、
合田五郎「兵船候はでは、力無き御事にこそ候へ」と申すところに、
肥前国の御家人其名忘る「鷹島の西の浦より破れ残り候船に、賊徒数多混み乗り候を払ひ除けて、
然るべき物どもと覚え候乗せて、早逃げ帰り候」と申に、
季長「仰せの如く払ひ除け候は、歩兵と覚え候。船に乗せ候は良き者にてぞ候覧。
是を討ち止め度くこそ候へ」と申すに、合田五郎「異賊早、逃げ帰り候」と申候。 >>287 >>307
郎党連れてたとしてもそれだけの人数じゃ、少なくとも二、三万を相手取るのは無理だわな
一旦戻って全軍での掃討戦を選ぶのは適切な判断 史料だと弘安の役で明らかに東路軍と江南軍って合流して博多湾に突入し、撃退されて
鷹島に逃げ込んだところで台風に遭ってるよな。
【八幡大菩薩愚童訓筑紫本】
「弘安四年之夏ノ比、蒙古大唐高麗己下之国々共之兵
駆具シテ三千余艘ニ數千万人乗ツレテ来ケリ。
其中ニ高麗之丘船五百艘ハ、壹岐対馬ヨリ上テ見合者ヲ打殺ス」
「是ヨリシテ高麗之舟ハ宗像ノ崎ニ寄、蒙古
大唐之舟ハ対馬ニハ寄ラズ壹岐之嶋ニ着。
自其筥崎之前成野志賀二之嶋ニソ付ニケル。
是ヲ見テ高麗之舟モ宗像ヨリ押出テ、蒙古カ舟ト一所ニ成、今度者一定勝ベケレハ
居住スヘキ[米斤]トテ、世路之具足、耕作コレノ為トテ
鋤鍬及持タリケリ」
「其後九国之兵巳ニ度々之合戦ニ及ヌ。
「開東ヨリノ武士ハ何ニ手次ノ程ヲ見給カシ」ト進ムレハ、
城次郎カ手ハ新左近十郎、今井彦次郎、財部九郎伯父甥押寄テ、
散々ニ命ヲ限卜闘フ、[彳及]テ討死シテ失ニケリ。
其後遙之奥鷹ノ嶋ヘコソ引退ケレ」
この戦闘が6月6日〜13日に行われた東路軍との戦闘じゃないのは、日本側に関東勢が
参加してることでもわかる。
5月21日に対馬襲撃されて6月13日までに関東から博多まで軍隊移動させるのは不可能。 >>287
全軍がそれを目の前にして追わなかった、ならともかく
目撃者がいた、程度じゃ別にツッコミ所でもない >>309
よく鎌倉からの本体が到着する前に九州だけで勝っちゃったというのは間違い? 鷹島に置いてけぼりになった10万の兵士は掃討しなくても船を破壊して放置すれば勝手に餓死したり疫病死したんじゃないかな? 秀吉ならそうしたと思うのだが
それでも鎌倉武士としては危険を冒しても首級を挙げて手柄を立てたかったとか?
現在の鷹島にはモンゴル村があってパオに宿泊もできるそうだけど、当時の悲惨さを知ってたら怖くて寝てられるかよとw 鷹島の陸や海の10万もの兵士の亡骸はどうしたんだろう?
鷹島だけでなく他の戦場もだけど、死体を放置すると疫病の原因になることは当時の人も知ってたと思うが量が膨大過ぎて埋めることもできなかったんじゃないかな?
もしかして鷹島周辺はその後何年も人が住めない荒廃した土地になったりしたのかな? >>315
飢饉で大量の餓死者がでても放置していたようだが(?)
方丈記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98
>養和年間(1181-82年)2年間にわたって飢饉(養和の飢饉)があり、多くの死者が出た。
>仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、
>その数を数えたところ、養和2年4月・5月の左京だけで、42,300人余に達した
寛喜の飢饉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%96%9C%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89
>藤原定家の日記『明月記』にはその状況が詳しく書かれており、寛喜3年9月には北陸道と四国で凶作になったこと、
>翌7月には餓死者の死臭が定家の邸宅にまで及んだ 飢饉や戦乱で大量の腐乱死体が放置された場合どれくらいの時間が経過すれば腐肉が分解し疫病の危険などが除去され農耕や生活などの復旧ができるのだろうかと妙なことに関心があります
特に鷹島はもともと住んでいた住民はほとんど虐殺されただろうけど、七人塚の家族の中で灰の中に隠れて助かったおばあさんみたいにわずかに助かった住民はその後どうなったんでしょう?
鷹島に帰って復旧できるまでどれくらいかかったんでしょう
逆に腐乱死体が肥料になるのかななどと不謹慎な想像をしたりしています >>314
元史では鷹島の兵士たちは木を切って船を造って帰ろうとしてた
けど仮に船を造っても全員載せるほどの分はできないだろうし
水や物資も帰還日数×乗員分必要になるし、
あるいはその前に飢えるだろうから、
そのまま餓死する可能性もあるけど決死の覚悟で
略奪にくる可能性もあったと思う >>317
現代みたいな疫学の知識はないにしても
貴族とか穢れとか気にしそうだけどそういうの放置して気にならんのかな >>321
放置すると家の中まで死臭が届くのも放置してることにならん?
死臭には穢れ云々って考えはなかったのかな
てか単純に臭いのは嫌じゃないんだろうか 平清盛ら平家一党が住んでた六波羅は風葬地の鳥辺野が近いが腐臭が漂ってこなかったのかな? 元寇から宋の滅亡まで期間空きすぎじゃない?
それもその後にも戦争や反乱鎮圧起きてるし 【日本史】元寇、神風でモンゴル軍退散との“虚構”は、なぜ生まれたのか?
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1585574319/
久々の元寇スレ、と思ったら内容が…
フビライ側に初めから交戦する意思があったかどうか、はなはだ疑問とか、
鎌倉幕府が冷静に対応してれば回避できたとかなあ… 源平の鎌倉武士が問答無用で朝鮮コマ人皆殺ししてて笑えるw
武士のどこに百済派、新羅派の親朝鮮要素あるの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています