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なんで元寇って過小評価されてるの?? [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2017/09/22(金) 21:07:56.73
神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
慶長の役と比べればわかる

戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき
0254日本@名無史さん
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2019/03/19(火) 22:53:03.26
>>250
文字として記録が残ってる最古は13世紀後半、つまり鎌倉時代。
ただ和歌山の大谷古墳から5世紀頃の鉄製の馬冑が発掘されてるし、
6世紀以降の関東平野の数多くの古墳から出土してる馬埴輪の多くも
馬鎧に相当する胸当てが装備されてる。
0255日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 00:07:20.58
なんで博多に上陸しようと思ったのか
もちろん大陸から近くて、太宰府を後ろに構える大都市だってのはわかるが
だからこそ防御もそれなりと考えないか?
こそっと山口鳥取あたりから上陸して畿内目指せばと思うんだが
0256日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 00:27:58.99
対馬壱岐から見えるとこじゃないと
0257日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 00:33:46.18
船を作るのも航海も高麗の担当だから実績がないのに鳥取あたりに大群で来れないだろ。
二、三隻ならともかく。
0258日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 00:55:17.27
一説によると、刀伊の入寇に関して日本側は被害甚大で刀伊と同じ女真から朝貢を受けていた高麗に管理責任があるとキレてたので、高麗側は入寇は美味しいと錯覚してた可能性が高く、それを模倣してみただけって考察もある
0259日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 01:32:34.63
>>258
刀伊の入寇もほとんど高麗に仕業だろ
0260日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 08:01:35.30
矢が尽きたから帰ったって模範的な敗北の婉曲表現だろ
0261日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 12:23:29.48
鷹島の海底から引き上げられた元寇船の遺物に矢尻が出てることは内緒な
0262日本@名無史さん
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2019/03/20(水) 14:16:08.33
矢はたくさん残ってたけど、矢が尽きたことにしました
0263日本@名無史さん
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2019/03/24(日) 07:11:15.90
久々にスレ見たけど、パフォくんまだ生きとったんか
0264日本@名無史さん
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2019/03/24(日) 15:20:52.98
というかなんでわざわざ日本になんぞ攻めてきたのかがわからん
西方ではカイドゥの大攻勢の結果、皇族から離反者がでたり直系皇族が捕虜になったりと散々な有様で元の主力軍もそっちに釘付けにされているというのに
0266日本@名無史さん
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2019/03/24(日) 23:45:24.35
高麗軍の兵力を減らしておきたかったからだろ
0268日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 03:03:00.78
お花畑かよ
0269日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 04:03:38.69
>>268
ファビョってんのか?
0270日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 10:49:16.96
呆れてんだよ
0272日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 14:58:24.50
>>264
それが、どうも「硫黄貿易」がらみ臭いんだよな。

まず、北宋も南宋も、契丹遼やタングート大夏、女真金といった北方騎馬軍団への防衛力として
唐代に発明された黒色火薬を使ったロケット砲を大量配備して、対騎馬軍団体制を敷いていた。

この黒色火薬の原料は木炭、硝石、硫黄だが、当時の北宋、南宋の版図で硫黄だけが国産化できなかった。

当時の世界で硫黄の大産地と言ったら、紅海沿岸、ジャワ島、そして日本列島。

そういう理由で、宋代には九州の博多には民間貿易船や宋朝から直接派遣された特権商人の船団が、
大規模な硫黄買い付けに来ていた。これが、平安中期以降に日宋貿易が活性化した背景で、
当時の宋側の史料でも日本との貿易で真に国益となるのは木材と硫黄の交易だけだとはっきり書かれている。

南宋とモンゴルが対峙していた文永の役の段階では、貿易港博多を軍事占拠するだけでも南宋への硫黄供給を
遮断して南宋攻略を有利にする効果が見込めたし、南宋を滅ぼしてその国家機能を接収した後の弘安の役の
段階では、硫黄の大産地である日本列島自体を接収することで大元ウルス自体の火器軍備強化が見込めた。

実は、日宋貿易、日元貿易で硫黄が非常に大規模に交易されていたことを日本史研究者が認識するようになったのは
かなり新しく、やっと21世紀になってからの事。つまり、20世紀までに書かれた歴史学書や論文では硫黄交易はほぼ
黙殺に近い状態。というのも、研究者自身、硫黄が交易されていたといっても何の目的で宋が輸入していたのか、
その用途がピンとこなかったため、日本産の貿易対価で宋側がありがたがるものと言ったら砂金ぐらいしかないだろうと
決めつけていたんだな。硫黄なんて漢方薬の原料として少量が交易されていたんだろうぐらいに思われていた。
0273日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 15:18:21.17
>>272
よかった
「それを発見しのは何を隠そうわしなのだ!天才のわしなのだ!」とか言い出したらどうしようかとヒヤヒヤしながら読ませてもらったよ
非常に勉強になった

ただ問題点は元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明な点
だから高麗人が唆しただけなんじゃないか説が有力になってる
0274日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 15:32:20.77
>>273
日宋貿易と宋朝の火器武装のリンクについては、言い出しっぺの山内晋次が山川の「日本史リブレット」の一冊、
「日宋貿易と『硫黄の道』」に詳しく書いているから、一読をお勧めする。

実は、杉山正明の「遊牧民から見た世界史」の20世紀に出された旧版では硫黄貿易との関連は触れられていないんだが、
21世紀になってから出された文庫新装版では、文永の役が硫黄貿易の遮断だという仮説を挙げているらしい(私はまだ旧版しか読んでない)。

杉山も明らかに山内の研究から刺激を受けていると言っていいだろう。

あと、クビライ帝は元寇と前後してジャワ島遠征も実行している事と、南宋の国家機能接収後に西アジアへの海路通商に力を注いでいる事にも
注目していいんじゃないかな。どれも、それぞれジャワ島の硫黄と紅海の硫黄の確保を目的の一つにしていた可能性が指摘できる。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/25(月) 17:26:35.95
参考までに

科研費研究課題「硫黄流通からみた古代・中世の日本とアジア」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23520847/

科研費研究課題「火薬原料の国際流通からみた前近代の日本とユーラシア」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-26370779/

科研費研究課題「学際的手法による中・近世日本のサルファーラッシュ・シルバーラッシュの比較総合研究」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-17H02394/

中世の日本、琉球王国が,東アジアにおける軍需物資のサプライチェーンにおいて
重要な位置を占めていた事が、理解してもらえると思う。

今、この事を元寇と直接結びつけているのは杉山正明だけだけど、
これから研究が進むことによって関連が浮かび上がってくる分野である蓋然性は
かなり高いと思う。
0276日本@名無史さん
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2019/03/25(月) 17:45:54.88
>>273
>>元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明

可能性と推論で語れば、兵力が少なめだった文永の役の時には戦略目標は硫黄交易拠点の博多の制圧と確保で、
莫大な兵力を集めた弘安の役の時には日本国全体の征服による硫黄産地の掌握、
という事だった可能性が指摘できる。

問題は、おそらく大元ウルス側でも、日本のどこであれだけ大量の硫黄が産出しているのかが解明できていなかった
蓋然性が高い事だろう。それが判明していれば、薩摩硫黄島や硫黄鳥島に大艦隊を送って対馬侵攻の時みたいに
制圧してしまっていただろう。
0277日本@名無史さん
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2019/05/02(木) 22:38:19.94
ご歓談中失礼します
高麗専門の専スレが立ちましたので宣伝に参りました
各地域お詳しい方々とも是非ワールドワイドにお話し出来たらと思っております
ご興味あられましたらお立ち寄りくださいませ

高麗時代史専用スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1556797827/
0278日本@名無史さん
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2019/05/15(水) 14:05:27.18
高句麗=扶余族を始祖に持つウラル・ツングース

新羅=倭人始祖に持つ倭種

伽耶=ガッツリ倭人

百済=倭人に媚びへつらう元漢人
0279日本@名無史さん
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2019/06/08(土) 17:00:52.25
鈴木大拙の「日本的霊性」読んでみ。元寇が日本精神史上、大事件だったことがわかる。
0280日本@名無史さん
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2019/07/08(月) 12:51:22.56
水軍不慣れな上にセウォル号に乗せられたら負け確定
0281日本@名無史さん
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2019/07/08(月) 17:47:30.22
済州島攻略も成功させてるし南宋征服も水軍が不可欠で
南宋を滅亡させた崖山の戦いなんか海戦
不慣れどころではないんだなあ
0282日本@名無史さん
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2019/08/05(月) 10:12:02.43
神風で船酔いしてぼろぼろ。

天皇陛下様の神通力をあなどってはならない。
0283日本@名無史さん
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2019/08/17(土) 21:28:03.25
>>254
鎌倉時代に馬鎧あったんだな。
詳細知ってたら教えてくれ。
古代と戦国時代、江戸時代の馬鎧は実物が残ってるよね。

下鞍と障泥はどの時代もつけてるけど、
あれも鎧の役割をしていたんじゃないだろうか。
0284日本@名無史さん
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2019/08/18(日) 13:31:33.07
個人的に元寇で打ち震えるのは、弘安の役における最後の後始末(鷹島掃討戦)

暴風ですでに万単位の溺死者が発生していたものの、命からがら鷹島に集結した
将兵も多数おり、その数は十万。ただし武具や矢玉はおろか、最低限の水と食糧
と生活用品すらほぼ皆無。軍ではなく着の身着のままの被災難民に成り果てていた

司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する
ゆえに歴史的な意味からいえばこの時点で戦争は終わっている。だが、鷹島もまた
元軍の民間人虐殺の被害地であり、負傷し飢えた敗残兵になったからとて元軍が慈
悲の対象であろうはずもない。かくして日本軍による、血の復讐の宴が開催された

残存兵らは、この苦境の中で指導力を発揮していた下級将校を臨時の将軍とあおぎ、
その指揮の下でありあわせの工具を総動員、船を仕立てて脱出する計画を立てる
だが台風一過、状況を把握した日本軍が好機を逃すはずもなく、完全武装で総攻撃
指揮官が地元の御家人クラスであることから戦力はせいぜい数千人、あるいは千人を
大きく越えなかったかもしれないが、ほぼ丸腰の元軍は一方的に敗れ、投降が相次ぐ

かくして元軍の犠牲の大部分が、この時に生じる。2万〜3万人の、比較的元気で
技能のある江南人が選抜されて奴隷となった他は、推定8万が斬首されている
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/18(日) 13:59:17.60
まぁ江南人と高麗人が津島や壱岐でやったことを考えれば皆殺しが妥当というほかない
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/18(日) 21:14:23.35
>>打ち震える

悪趣味だな。
武勇も技自慢もロマンも無い、ただの殺戮じゃん。
こういう事言う人って神風とか回天とか桜花みたいな特攻兵器に興味津々だったりするの?
やっぱり「魂が打ち震える」たりするものなのか?
0287日本@名無史さん
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2019/08/18(日) 21:18:20.66
>>司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する

これは日本側の記録にも残っているね。
という事は日本側の兵が目撃していたという事だ。
なんで追わなかった?
なんで逃がした?
なんで討ち取らなかった?

ここが一番のつっこみ所だよ。
0288日本@名無史さん
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2019/08/19(月) 08:06:27.97
>>287
目の前に武装してる可能性がある敵性集団が万単位でいるのにか?
頭使え、無視はできんだろう?
それに捕虜にして売り飛ばせるだろうが
0289日本@名無史さん
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2019/08/19(月) 17:53:04.37
>>286
先の見えない絶望の末の特攻戦法を、鷹島戦と混同する発想は無かった
鷹島掃討戦は、渡海軍事行動のリスクと敗戦時の人的被害の大規模化の、劇的実例だ
大正義日本海がもたらした惨劇は大陸政権による日本侵攻の、最強の抑止力となった

「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や
(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって
死んだ魂が泣く」(高麗王臣下の漢詩)

「大風雨がおこり、大浪のために沈壊。蒙古軍は半ば海に没し、残るは400隻
のみ。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、倭人のためにことごとく殺され
る。ゆえに白骨山(鷹島)という」(南宋遺臣の鄭思肖)

いっぽう日本側も、鷹島掃討戦の凄まじさを示す多くの地名を現地に残している
「首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷」などだ
それまでの国内戦とは異質な、大量殺害が起きていたことが窺える

なお地獄の鷹島から脱出して帰国を果たした者は、高麗の史書では11人確認できる
さらに、捕虜となってから10年以上のちに帰国できた一握りの兵士が現れ、かれら
は部下を見捨てて逃亡した将軍らを皇帝に告発した(すでにフビライの孫の代)

結果、范文虎ら数人の将官が妻子ごと処刑された。ある意味、元にとって真の終幕
0290日本@名無史さん
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2019/08/19(月) 21:18:43.65
>>289
まぁ江南人と高麗人が津島や壱岐でやったことを考えれば皆殺しが妥当というほかない
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 10:25:37.47
>>290
江南人(南宋人)って文永の役の時の対馬壱岐の被害
ってか文永の役自体に参加してなくない?

南宋が元に征服されたのって文永の役の後だよね?
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 10:29:13.05
>>284
あと南宋人の助命って比較的元気とか技能があるとかで選別されてたっけ?

『九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍為唐人、不殺而奴之』

元史には↑とあったから元気や技能の有無じゃなく単に国籍での選別だと思ってたけど
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 10:30:50.56
>>289
>20万人は白骨山の上に置き去りにされ

弘安の役の時の軍勢、総数でも20万人もいたっけ…?
0294日本@名無史さん
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2019/08/22(木) 21:03:50.83
>>289
陰惨な事柄に興味を持つ感覚が分からんって言ってるの。
そういう人って「魂が打ち震える」って言葉を良く使うんだよね。
0295日本@名無史さん
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2019/08/22(木) 21:20:49.80
負けたら被害者ヅラして罰を逃れようとするのが普通だからな
0296日本@名無史さん
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2019/08/23(金) 19:29:06.64
>>294
日本侵攻を目論む強大な陸軍の壊滅という要素は、大きい

それに日本側文献も確認したところ、日本の斬殺刑カウント数は5,000人
これは日本のほうが正確な数字と思われる。
京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(閏7月12日条)には、台風に
より元軍が崩壊し元兵2,000人が降伏したとあり、助命も含めて1万に達していない
可能性もある。では、ほかの10万人前後の未帰還者はどうなったか? そう、溺死

「張氏墓誌銘」によれば台風により荒れた波の様子は「山の如し」であった
軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという
また、将官すら溺死した。高麗王・高宗の孫で東路軍の左副都元帥アラテムルである

幕末の史書「日本外史」は「屍が海を覆い、海の上を歩いて渡れるほどであった」と
表現。日本兵が手を汚した実数は、全体比率として少ない可能性もある
むろん10万人の未帰還者の主因が海難なら海難で恐るべき数字であり、この大きな
損失について真に打ち震えるべきは、大陸側ではなかろうか(ゆえに、元寇の海難に
関する大陸民の民間伝承の類が聞こえないのは残念。命の安さの反映だろうか?)
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 01:52:54.07
>>294
元史では、一度日本で捕虜になった後に脱出帰国して范文虎らの嘘を告発した兵士の話として

>八月一日、風破舟。
>五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下。

と台風の後に范文虎ら将軍たちに見捨てられた人数を十万余と記し、

>方伐木作舟欲還、七日、日本人來戰、盡死。
>餘二三萬為其虜去。

と日本軍との戦闘後捕虜になったのは二、三万余と記してる
その後に>>292

斬殺刑だけじゃなくその前の戦闘で戦死か敗走した人数もかなりあったのかな?
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 12:17:30.25
>>295
その通り
0299日本@名無史さん
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2019/08/29(木) 13:46:12.06
>>287
その記録読んでないけど、目撃例として書かれてたの?

戦後南宋人が助命されてるんだから彼らから聞き取った可能性もあるんじゃ?
0300日本@名無史さん
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2019/08/29(木) 14:23:37.64
>>287
元史に出てくるその時に見捨てられた南宋人の証言によれば
暴風で船が壊れたのは八月一日、諸将が彼らを見捨てて逃げたのが五日、
日本軍がやってきて戦闘になったのは七日

元軍の諸将が逃げた時に日本軍はいない
偵察などで少数の日本人が目撃していた可能性はあるが
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 17:41:55.64
まあ、その国の置かれた自然環境ってのは、立派な防御力だからな。
ロシアの冬将軍がなければ、最終的な勝敗はさておき、ナポレオンやヒトラーはもっと進撃できてたわけだからな。
0302日本@名無史さん
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2019/09/10(火) 17:34:02.81
攻め込む側は相手の自然環境を重視しないといけないわけだな
あまり変わらない地続きの隣国とかならともかく
海を隔てたり遠く離れて自然環境が祖国と段違いだったりするなら

そういう意味では元寇も自然舐めすぎ
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 04:19:03.73
天の時、地の利、人の和って中国の言葉だっけ?
元寇は全部欠けてるね
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 15:34:58.16
モンゴルと高麗だから中国関係ないしな
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 15:40:58.86
クビライは日本遠征前に中国の言葉引用して
土地だけじゃなく人も欲しいんだから殲滅とかするなよって釘刺したりしてるけど
そういうのは学んでなかったのかな
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/19(木) 15:41:30.70
>>279
そういう個人の持論には興味ないわ
0307日本@名無史さん
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2019/09/21(土) 10:10:25.66
>>299
蒙古襲来絵詞
「同五日、関東の御使ひ合田五郎遠俊・安藤左衛門二郎重綱払暁に馳せ来たりしに、
季長行き向かて、「海上を隔て候間、船候はで、御大事に洩れ候ぬと覚え候」と申に、
合田五郎「兵船候はでは、力無き御事にこそ候へ」と申すところに、
肥前国の御家人其名忘る「鷹島の西の浦より破れ残り候船に、賊徒数多混み乗り候を払ひ除けて、
然るべき物どもと覚え候乗せて、早逃げ帰り候」と申に、
季長「仰せの如く払ひ除け候は、歩兵と覚え候。船に乗せ候は良き者にてぞ候覧。
是を討ち止め度くこそ候へ」と申すに、合田五郎「異賊早、逃げ帰り候」と申候。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 09:31:57.17
>>287 >>307
郎党連れてたとしてもそれだけの人数じゃ、少なくとも二、三万を相手取るのは無理だわな
一旦戻って全軍での掃討戦を選ぶのは適切な判断
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/29(日) 12:03:43.06
史料だと弘安の役で明らかに東路軍と江南軍って合流して博多湾に突入し、撃退されて
鷹島に逃げ込んだところで台風に遭ってるよな。

【八幡大菩薩愚童訓筑紫本】

「弘安四年之夏ノ比、蒙古大唐高麗己下之国々共之兵
駆具シテ三千余艘ニ數千万人乗ツレテ来ケリ。
其中ニ高麗之丘船五百艘ハ、壹岐対馬ヨリ上テ見合者ヲ打殺ス」

「是ヨリシテ高麗之舟ハ宗像ノ崎ニ寄、蒙古
大唐之舟ハ対馬ニハ寄ラズ壹岐之嶋ニ着。
自其筥崎之前成野志賀二之嶋ニソ付ニケル。
是ヲ見テ高麗之舟モ宗像ヨリ押出テ、蒙古カ舟ト一所ニ成、今度者一定勝ベケレハ
居住スヘキ[米斤]トテ、世路之具足、耕作コレノ為トテ
鋤鍬及持タリケリ」

「其後九国之兵巳ニ度々之合戦ニ及ヌ。
「開東ヨリノ武士ハ何ニ手次ノ程ヲ見給カシ」ト進ムレハ、
城次郎カ手ハ新左近十郎、今井彦次郎、財部九郎伯父甥押寄テ、
散々ニ命ヲ限卜闘フ、[彳及]テ討死シテ失ニケリ。
其後遙之奥鷹ノ嶋ヘコソ引退ケレ」

この戦闘が6月6日〜13日に行われた東路軍との戦闘じゃないのは、日本側に関東勢が
参加してることでもわかる。
5月21日に対馬襲撃されて6月13日までに関東から博多まで軍隊移動させるのは不可能。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/30(月) 07:01:17.76
>>287
全軍がそれを目の前にして追わなかった、ならともかく
目撃者がいた、程度じゃ別にツッコミ所でもない
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/14(月) 02:34:24.17
>>309
よく鎌倉からの本体が到着する前に九州だけで勝っちゃったというのは間違い?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/29(水) 20:37:09.43
鷹島に置いてけぼりになった10万の兵士は掃討しなくても船を破壊して放置すれば勝手に餓死したり疫病死したんじゃないかな? 秀吉ならそうしたと思うのだが
それでも鎌倉武士としては危険を冒しても首級を挙げて手柄を立てたかったとか?

現在の鷹島にはモンゴル村があってパオに宿泊もできるそうだけど、当時の悲惨さを知ってたら怖くて寝てられるかよとw
0315日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/30(木) 00:03:00.90
鷹島の陸や海の10万もの兵士の亡骸はどうしたんだろう?
鷹島だけでなく他の戦場もだけど、死体を放置すると疫病の原因になることは当時の人も知ってたと思うが量が膨大過ぎて埋めることもできなかったんじゃないかな?
もしかして鷹島周辺はその後何年も人が住めない荒廃した土地になったりしたのかな?
0317日本@名無史さん
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2020/01/31(金) 06:44:49.58
>>315
飢饉で大量の餓死者がでても放置していたようだが(?)

方丈記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98
>養和年間(1181-82年)2年間にわたって飢饉(養和の飢饉)があり、多くの死者が出た。
>仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、
>その数を数えたところ、養和2年4月・5月の左京だけで、42,300人余に達した

寛喜の飢饉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%96%9C%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89
>藤原定家の日記『明月記』にはその状況が詳しく書かれており、寛喜3年9月には北陸道と四国で凶作になったこと、
>翌7月には餓死者の死臭が定家の邸宅にまで及んだ
0318日本@名無史さん
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2020/02/01(土) 11:33:25.39
飢饉や戦乱で大量の腐乱死体が放置された場合どれくらいの時間が経過すれば腐肉が分解し疫病の危険などが除去され農耕や生活などの復旧ができるのだろうかと妙なことに関心があります
特に鷹島はもともと住んでいた住民はほとんど虐殺されただろうけど、七人塚の家族の中で灰の中に隠れて助かったおばあさんみたいにわずかに助かった住民はその後どうなったんでしょう?
鷹島に帰って復旧できるまでどれくらいかかったんでしょう
逆に腐乱死体が肥料になるのかななどと不謹慎な想像をしたりしています
0319日本@名無史さん
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2020/02/11(火) 03:55:19.89
>>314
元史では鷹島の兵士たちは木を切って船を造って帰ろうとしてた
けど仮に船を造っても全員載せるほどの分はできないだろうし
水や物資も帰還日数×乗員分必要になるし、
あるいはその前に飢えるだろうから、
そのまま餓死する可能性もあるけど決死の覚悟で
略奪にくる可能性もあったと思う
0320日本@名無史さん
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2020/02/11(火) 04:43:40.51
>>317
現代みたいな疫学の知識はないにしても
貴族とか穢れとか気にしそうだけどそういうの放置して気にならんのかな
0321日本@名無史さん
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2020/02/11(火) 10:18:16.93
穢れてるから放置なんだろ
0322日本@名無史さん
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2020/02/12(水) 13:54:58.46
>>321
放置すると家の中まで死臭が届くのも放置してることにならん?
死臭には穢れ云々って考えはなかったのかな
てか単純に臭いのは嫌じゃないんだろうか
0323日本@名無史さん
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2020/02/12(水) 17:03:39.90
風下に捨てなおすんじゃない?
0324日本@名無史さん
垢版 |
2020/02/13(木) 20:57:02.34
平清盛ら平家一党が住んでた六波羅は風葬地の鳥辺野が近いが腐臭が漂ってこなかったのかな?
0326日本@名無史さん
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2020/03/06(金) 12:45:50.55
元寇から宋の滅亡まで期間空きすぎじゃない?
それもその後にも戦争や反乱鎮圧起きてるし
0327日本@名無史さん
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2020/04/01(水) 00:28:39.03
【日本史】元寇、神風でモンゴル軍退散との“虚構”は、なぜ生まれたのか?
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1585574319/

久々の元寇スレ、と思ったら内容が…
フビライ側に初めから交戦する意思があったかどうか、はなはだ疑問とか、
鎌倉幕府が冷静に対応してれば回避できたとかなあ…
0328日本@名無史さん
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2020/04/01(水) 10:45:06.54
源平の鎌倉武士が問答無用で朝鮮コマ人皆殺ししてて笑えるw
武士のどこに百済派、新羅派の親朝鮮要素あるの?
0329日本@名無史さん
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2020/04/01(水) 13:23:01.24
めっちゃ杉山正明氏の影響受けた記事だね
けど杉山正明氏は他はともかく元寇については
クビライに対して甘い見方をしてる印象がある

高麗史でクビライが日本に使者送った頃にはもう侵略を口にしてることは
単に分野違いで知らなかっただけかもしれないけど
使者の行動が丁寧な交渉というには疑問なのは元史でだって読み取れるし
0330日本@名無史さん
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2020/04/02(木) 15:03:35.08
上のスレで元寇の原因が日本が使者斬ったせいって言ってる人何人もいるけど、
昔っからいたけどこんなに沢山いたっけ?
1スレでこれだけ多く書き込まれるほどには流行ってなかったと思うんだけど
誰か流行らせてでもいるの?
0331日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/04(土) 04:03:19.81
そりゃあNHKが元寇は日本が悪かったと言う番組を放送しているんだから一般人は信じちゃうよね
0332日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/04(土) 06:31:12.74
他にもあるみたいだね
方や子供向け?、方や歴史好きの人の趣味本とはいえ
本として、しかも事典や講義って題名の本ですらそうなのか

946 名無しさん@1周年 ▼ 2020/03/31(火) 02:05:10.93 ID:uS6hTEkT0 [1回目]
>>777
日本が元寇の前に使者斬ったって話や、それを元寇の発端という話は、
歴史が専門の学者とかが書いた本では全く読んだことないけど、
歴史学者じゃなくて歴史好きの実業家の出口治明という人物の
「「全世界史」講義 I古代・中世編」と「全世界史 上巻」と、
子ども向けの歴史漫画シリーズの事典だけど
「学研まんがNEW日本の歴史」の「人物学習事典」では読んだことあったなあ

『「全世界史」講義 I古代・中世編: 教養に効く!人類5000年史』 出口治明
『全世界史 上巻』 出口治明
>クビライは海外の事情に通じており、日本と交易をするつもりで使節を送りました。
>ところが鎌倉幕府は、国際情勢も外交上の儀礼も知らずに使者を斬ってしまった。
>それが文永の役(一二七四)の発端でした。元寇については後述します。

『学研まんがNEW日本の歴史』の『人物学習事典』  大石 学 (監修)
>国書を受け取った幕府は、要求を無視する決意をかため、十八歳の時宗を執権職につけて、
>幕府内部の体制を新たにして、危機にのぞむことにしました。
>その後、何回か元の使者が来ても、時宗は、求めをことわり、使者を追い返したり殺したりしました。
>そして西日本の御家人たちを九州にまとめ、守りをかためました。
>一二七四年、フビライは兵力二万五千人をこえる大軍をおくってきました(文永の役)。

ただし、『全世界史』は2016/1/18の発売で、『学研まんがNEW日本の歴史』の『人物学習事典』は2013/4/1発売、
ネット上ではその十年以上前から広まっているようだから、これらの本が発というわけではないだろうし、
出口氏は『全世界史』の前書きで
>僕は、歴史を専門として学んだわけではありません。
>この本は、一人の歴史好きの市民の趣味が高じたものに過ぎません。
と書いてるように歴史学者というわけではないから、それを前提に読むべきだろうけど。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/06(月) 04:38:45.49
出口治明氏ってよくクビライに好意的な視点で書いてる人だっけ…
それ自体は別に悪いことじゃないけど…
0334日本@名無史さん
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2020/04/10(金) 05:02:23.35
同じ出口治明氏の「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」が持ってたからちょっと元寇についての箇所見てみた。

呉座勇一氏との対談の所でも使者斬ったことについて言及して、モンゴルと鎌倉幕府の対応を並べて比較してたけど、

>出口 モンゴル戦争(文永の役一二七四年、弘安の役一二八一年)についてお聞きしたいことがあります。
>最初にモンゴルが日本に持ってきた国書は、「仲良くして商売をやろうや」という話で、そう無茶なことは書いてなかったと思うのですが、鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴ですね。
>なんでこんな対応をしたのでしょうか。

「最初にモンゴルが日本に持ってきた国書は、「仲良くして商売をやろうや」という話で、そう無茶なことは書いてなかったと思うのですが」←文永の役の前
「鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴ですね。」←文永の役後
と侵略される前の交渉の最初期のモンゴルの国書と、侵略後の幕府の対応を並べて比較させてるのが疑問だった
「かなり乱暴ですね。なんでこんな対応をしたのでしょうか。」ってそりゃあっちが攻めてきたからなんじゃ
先に乱暴なことしたのはクビライなんだけど…

対談してる呉座氏もそれについて特に突っ込まないまま
外交担当の朝廷が国交を結ぶ意思を示さないから幕府は戦う準備をする以外選択肢はなかったと答えてるけど、
単に朝廷が国交を結ぶ意思を示さないなら文永の役前だってそうだったけど、
それでも幕府は使者を斬ったことはなかったのにな

呉座氏は「戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―」では
元寇前の使者について詳しく正確なことを書いているし、
元寇前の対応についてもモンゴルは服属か否かと迫っているから外交交渉の余地はなく、
服属していたらただし、南宋への進攻作戦に参加するよう命じたであろうと書いてたから、
別に鎌倉幕府の外交姿勢については批判的なわけではなさそうだけど
0335日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/10(金) 05:03:58.47
一応同じ本の元寇についての記述のある「第4章 モンゴル戦争と悪党」の項では、
文永の役前の幕府の対応については「「そんなもん放っておいたらええで」と突き放していた」とか
放置したことのみ書いていて斬ったとは書いてないとはいえ…
この書き方だとまた同じ誤解を招きそうな

この「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」の内容は初出が「週刊文春」2017年11月2日号〜2018年11月1日号となっていて、
「鎌倉幕府が使者を斬ってしまったのが文永の役の発端」と書いてる「「全世界史」講義T 古代・中世編」は2016年1月の発売のようだから、
その間に文永の役前の使者については正確な所をちゃんと知ったのかとも思うけど、
でもだったらなんで同じ本の対談では文永の役前と後を並べて比べてるんだろう
0336日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/10(金) 06:17:39.64
あ、334で二冊挙げてるから紛らわしかったな
>>335の「同じ本」は「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」の方
0337日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/11(土) 00:53:54.01
文永の役前の幕府の対応についても大都まで使節団派遣してるんだから
「そんなもん放っておいたらええで」と突き放していたわけではない。
幕府が外交問題で朝廷に秘密裏に独自の動きをしていたとなると、日本中世史は
根底から覆される部分が出てくるけど。
南宋との同盟の話だって、鎌倉から南宋へ渡った僧が暗躍していたことを考えれば
幕府主導で行われていたと思うのが普通。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/11(土) 09:35:07.02
五回目の趙良弼の時に太宰府西守護所が派遣した奴か
元からは偵察と思われてたみたいだし戦争見越しての偵察だったのかもね
0339日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/11(土) 09:48:42.81
>>334
2回目の使者の時の「最初にモンゴルが日本に持ってきた「仲良くして商売をやろうや」の国書」に対比させるなら
日本の対応は返書しなかったことの方だし、それだって学者によって解釈に違いはあるとはいえ
その国書でももう兵を動かすのを匂わせてのものだったわけだし、
7回目の使者の時の「鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴」に対比させるなら、
モンゴルの対応は文永の役とそれによる虐殺などの被害の方なんじゃ

文永の役前は使者を斬ってないのを見ても、
「なんでこんな対応」になったのかは文永の役が分かれ目になってるよね
0340日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/11(土) 20:18:18.40
日蓮は幕府が法華経を尊重せず禅宗などを保護することを批判して、仏罰として地震や外寇が起こると予言してたから、元寇も仏罰と見てたんでしょ?
元の使節が斬られた滝の口の刑場では、日蓮も危うく斬られそうになったこともあり、
日蓮系の団体信者は元に共感してるのではあるまいか?
0341日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/11(土) 23:12:59.85
>>339
2回目の使者が持ってきた国書だって「仲良くして商売をやろうや」なんて内容じゃないよ。
「モンゴルは天命によって世界の支配者になったから日本の方から挨拶に来い」とか
書いてあるわけで。
モンゴル研究者の杉山は「あれはモンゴルの外交文書の定型文で日本にだけ
酷い内容だったわけじゃない」とか主張してるけどさ。
相手のある外交文書でそんなモンゴル内だけの理屈を主張されても受け入れられるわけない。
当然、その定型文の国書を送られた国は日本以外もみんな拒絶的な態度をとってる。
明らかにモンゴルの外交姿勢が悪い。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/16(木) 07:36:56.45
>>332
これネットの方が先らしいけどネットでは何時からなんだろう
0343日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/16(木) 18:17:59.26
ネットでは2000年代はまだ稀だったのが10年代になってから増えていって、
ここ数年では急速に増えてる感じだけど
2chの古いログ見てたら、2005年の書き込みにはもうあったし、
「小学校の頃はいきなり使者の首斬ったって教わった」ってのもあった
教師によるだろうけど、学校で教師が教えてるものすら昔からそんなんなのか…

236 :日本@名無史さん:2005/12/30(金) 16:55:19
>>232
そうそう。結構みんな勘違いしてるんだよね。
ホントに使者の首斬ったのは1275年なのに。
漏れも小学校の頃はいきなり使者の首斬ったって教わった。鎌倉武士テラ弱スな流れだった。
ついでに時宗とフビライはすっげー悪い奴って教わった。
https://academy6.5ch.net/test/read.cgi/history/1128253450/
0344日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/18(土) 17:29:13.24
本じゃないけど、有料販売されてる教材にも2008年(Google日付)の時点で既にあった
Google日付は実際より後の日付になってること多いからもっと前かもしれないけど
学校で使われてるのかなこれ

>[解説]元のフビライ・ハンは高麗を征服した後,日本も従うようにと使者を送ってきた。
>幕府の執権北条時宗は使者を斬って,これを拒絶した。
>1274年,元軍3万が九州の博多湾に上陸し,集団戦法とすぐれた火器によって日本軍をなやましたすえ,内紛や暴風雨のために引き上げた(文永の役)。
>さらに,1281年 ,約14万の大軍で,襲来した。幕府軍は,博多湾沿いに築いた石塁を利用して戦った。
>元の大軍は上陸できないまま,暴風雨に襲われて大損害を受けて退却した(弘安の役)。
【FdData 高校入試:中学社会歴史:鎌倉】 Fd教材開発(2008/01/16)
http://www.fdtext.com/dan/fdn_sr04_kama.pdf

>元のフビライ・ハンは高麗を征服した後,日本も従うようにと使者を送ってきた。
>幕府の執権北条時宗は使者を斬って,これを拒絶した。
>その結果,1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2度にわたって日本に攻め込んだ。
【FdData中間期末:中学社会歴史:鎌倉】 Fd教材開発(2011/11/18)
http://www.fdtext.com/dat/pdf_re2_1_kamakura.pdf
0345日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/18(土) 17:41:03.48
古いのを探したら、玉川大学・玉川学園制作・著作となってる「鎌倉時代の勉強をしよう」ってHPにもあった
Googleの日付だと2002、2003年のもので、こんな昔っから、しかも大学のHPに歴史の勉強用に載せてるものにすらあったんだな
しかもこのHP、「元寇」で検索すると2番目に表示されるから、元寇について調べようとした時にここを見る人多そう
二番目と三番目の方ははっきりと日本が使者を斬ったからフビライが怒って日本を攻めたように書いちゃってるし、
一番目の方にしても、朝廷が返書しようとして幕府が反対して取りやめになったのって金有成の時のことなら、
その後に来た使者って趙良弼のことになるから殺されてるわけがないんだけど
でも別の元寇の解説にはちゃんと使者殺害を文永の役後、弘安の役の前としてるものもあったりして
なんか所によって書いてることが違うなこのHP…

>その当時の日本人には国と国の付き合いかたが分からなかった.
>朝廷は返書を出そうとしましたが幕府はそれを握(にぎ)りつぶしました.
>そして,その後に来た使者を殺してしまったのです.
>本やテレビでは「日本の決意を示すため」としてありますが,
>冷静(れいせい)に判断(はんだん)すればそんなことはしないはずです.
>国際的な常識ではたとえ戦争中でも使者を殺すことは許されません.これは昔も今も同じです・・・
小学生とゲンボー先生のページ19(2002/02/01)
https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/el19.html
0346日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/18(土) 17:41:38.31
>1.元は最初「元と貿易をしよう」と言ってきたのです。
>ただその時の手紙の内容が「他の国は皆OKといったぞ!
>お前らもよ〜く考えて答えろよ,できれば軍隊を使いたくないからね〜」というような半分おどしの手紙だったのです。
>幕府は元のことを中国からきたお坊さんから聞きました。
>それによると強力な騎馬軍団(きばぐんだん)で多くの国を支配したとのことです。
>日本と貿易をしていた中国(南宗=なんそう))も侵略(しんりゃく)されていました。
>それで幕府はあわてて元とのおつき合いを拒否したのです。
>それどころか使者を切ってしまいました。いくら昔でも使者を切り殺すなど国際ルールを無視しています。
>それで、頭に来た元の一番偉(えら)い人(フビライといいます)が、日本攻撃(こうげき)を命じたのです。
>海を隔(へだ)てた日本を支配してもあまり利益になりませんが,
>元は他国へのメンツもあって日本を攻撃(こうげき)してきたのです。
小学生とゲンボー先生のページ6(2003/08/29)
https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/el6.html

>そこで,フビライハーンは日本の王に対して「交易をしよう」という手紙を書きました.
>しかし,その手紙には「交易しないのなら,軍隊を送るがそんなことはしたくないなあ・・」というおどしの言葉も書いてありました.
>元にはもう一つ目的がありました。
>それは当時元と戦っていた南宋と日本の貿易額が大きく人の行き来も多かったため、
>日本と南宋をなんとかして切り離そうとしたのです。
>しかし、日本には南宋から日本に逃げてきた人が沢山いて,
>その人達が「元」の恐ろしさを伝えていたために,日本は元の申し出を拒否したのです.
>日本は拒否のしるしに元の使者を処刑しました.このことに怒ったフビライが日本遠征を命じたのです.
中学生とゲンボー先生14(2003/03/01)
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/jh13.html
0347日本@名無史さん
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2020/04/21(火) 14:11:53.83
今は映像授業サービスとWEB予備校の動画にもあるし、
学校といいオンライン授業といい、そう勉強してしまった人も増えたんだろうな

・トライイットという中学生・高校生向け映像授業サービス
【中学歴史】「元寇 文永の役と弘安の役」 映像授業のTry IT (トライイット).html
https://www.try-it.jp/chapters-2878/lessons-2898/point-2/
>日本に興味を持ったフビライ・ハンでしたが、いきなり軍隊を送ったわけではありません。
>まず日本に使者を送り、降伏して元の支配に下るよう要求しました。
>当時の執権である 北条時宗 は、フビライの要求を拒否するだけでなく、元の使者を処刑してしまいました。
>この行為に激怒したフビライが、日本に大軍を送ってきたわけです。ついに戦いが始まります。

・無料WEB予備校・塾 チノポスの授業動画
竹内睦泰 元寇と得宗専制政治
https://www.youtube.com/watch?v=b4_azPkG7-o
>元の皇帝フビライは、日本に服属要求。家来になれといいました。
>日本側は北条時宗、家来になれと言ったモンゴルの、フビライの、使者を、二人の首を刎ねます。拒否。元寇でございます。
>まず文永の役。元高麗軍三万人が来ます。博多湾に上陸。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/21(火) 16:27:58.74
単なるネットの書き込みだけなら鵜呑みにしない人でも信用するような
教育媒体にまで浸透した結果かあ…
そりゃ年々増えていくわけだ
0349日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/22(水) 09:01:51.26
鹿島昇の本だったかな
元の友好の使者を斬首するという外交の常識的にも異常な行動に出たのは
義経=ジンギスカンだからそれを隠すため、
みたいなぶっ飛んだ話見て吹いた覚えがあるw
0350日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/22(水) 15:09:50.93
>>343]
流石に教科書にはないと思うけど、それなのに教えてる教師がいるってどうなってんだろ
0351日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/22(水) 19:24:54.00
チョンコ敗北スレ
0352日本@名無史さん
垢版 |
2020/04/22(水) 22:26:50.84
>>350
教師が授業を盛り上げようとして教科書にない話を盛るのが問題なんだよ。
鎌倉武士がモンゴル軍に「やーやー我こそは」と名乗ったなんてどこの史料にもないけど
実話だと信じてる人多いだろ。
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