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『八幡大菩薩愚童訓筑紫本』
「蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル。」
「本ヨリ牛馬ヲ美物卜スル者ナレハ、射殺タル馬ヲ喰テ飽満セリ。冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、
力ハ強シ、命ヲタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ。」

劉復亨のような漢人世侯はモンゴル帝国初期からモンゴル軍の中枢。
漢人世侯がいたからモンゴル軍ではないなんて言ったら、オゴデイ・カーン以降モンゴル軍など
存在しなかったことになってしまう。
さらに、襄陽生券軍はモンゴル軍の攻撃に6年間も耐え抜いた、南宋軍の最精鋭。
旧南宋軍の大半が南宋攻撃に投入される中、最精鋭のみを抽出してクビライ自身の親衛部隊と
一緒に日本遠征に投入してるわけで、文永の役がどれだけ帝国の威信を賭けた戦いだったかわかるな。

あと、一代要記が「自宰府申之」としてるのは「十月五日、異國群勢襲來之由」だけじゃん。
その後が大宰府の報告なんかじゃないのは、ガチ同時代史料の勘仲記と比較すれば一目瞭然。

『一代要記』
「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島」

『勘仲記』
「去十三日於對馬島、筑紫少卿代官凶賊等合戦云々」

ここまでハッキリと一代要記の記述は嘘情報なのだから史料としての価値はない。
一方、帝王編年記の「是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。
其外皆以追返云々」は大宰府からの飛脚情報だ。
したがって史料的には文永の役は合戦による大宰府軍の勝利。

そもそも10月20日の戦闘は現地史料によって武士がモンゴル軍に圧勝したのが確実なわけで、
わざわざ京都に「負けた」なんて嘘を報告する必要がない。