光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 この説は日本史上、一番まともで信憑性があるんじゃね? >>106
天海は色んな所へ行って顔晒してるじゃんw
関ケ原後は信長の焼き討ち以来荒廃していた延暦寺の再興を命じられ
自ら延暦寺の塔頭に住んで延暦寺の僧たちに顔晒してるし
小田原やら大阪の役でも家康の陣中にあって諸大名に顔を晒している
日光山を任されたため日光東照宮造営に当たっても
工事を担当する日本各地の諸大名たちと会っている 顔晒しても大丈夫なんだよ。
あの太閤殿下が、首実検をしたと宣言したんだから。
まさかキンカ頭だとわかっても、みんな光秀とは言えなかったんだろうな。 最初に天海は明智光秀じゃないかと考えた人は
何を根拠にそう思ったんだろう?
単に天海ほど抜擢された大僧正の前半生や出自が不明になってることに疑問を感じて
実は表の歴史では正体を明かせないような人物だったのではないか?と探したら光秀が浮かんできただけかな?
それとも何か重要な手掛かりがあったのかなぁ 影武者徳川家康をはじめ、近年になってこういった説が出てきたのかと思いきや、
天海=光秀説は、江戸時代からあったという…
天海が亡くなったあとから、囁かれ始めたのかな…
生きてるときは、言うことが憚られたのかな…
バレたら、本能寺の黒幕が家康だと誹りを受けるからねえ
まあ、そうだとしたら、光秀が生きてることを知ってる藤吉郎も同罪だけど 江戸時代から、天海って光秀だと思われてたのかよっ!!! 天海のお弟子さんたちは羨ましいなあ。
信長に従軍していたときの戦物語をさんざん聞かせてもらえたんだから。 天海は、金ヶ崎の殿軍が、すべて秀吉の手柄になってることを悔しがっていたんだろうなあ 秀吉は金ヶ崎の手柄を独り占めしようとして文書を焼いたが
一通だけ残ってしまったのだ 信長が家康を殺そうとしていたという説と、光秀=天海説を合わせると、かなり納得できるんだが 光秀の首は百姓に拾われたといってるが
大将首を落として放置する兵なんているかな? 信長が西洋文明を取り入れ脱亜入欧が16世紀に起き、
日本は東洋の西洋として近代化を迎えていた 天皇制が終わり、英国のように王室制になっていたな。 >>121
光秀は百姓に竹槍で致命傷を負わされて家来に介錯させたんだろ
家来はそれを見つからないように土に埋めたが百姓たちに掘り返された
家来が死んだ光秀の首を抱えて何キロも逃走するのは無理だし見つかる 光秀は百姓に竹槍で致命傷を負わされて家来に介錯させたというのは軍記物が根拠
秀吉のリアルタイムの手紙では百姓が拾ったと書かれている。手紙のほうが信憑性が
高いと思う 秀吉が滝川一益に宛てた手紙によれば
光秀は百姓に殺され首は溝に捨てられていたと書かれてある
しかし秀吉が主君討ちをした光秀を故意に貶めた可能性もなくはない
そもそも光秀はただ一騎になって逃げていたわけではないのに
それこそ家臣はどうしてたんだという話 なんで首切って溝に捨ててたん。
首が価値アリはわかってそうだしとわけわからんかな…深い理由があるか… 打ち取った人と届けた人が別なのはちょっと怪しいよね
裏切りがあったのかな?
天海になっていてほしいと思うけど可能性は低い…
兼見卿記によると
届けられた光秀の頚は村井貞勝の親戚の村井清三と織田信孝の検証で確認されてるんだよね
どちらも一族の主人を本能寺や二条城で殺されてるから嘘は無いと思う
ただ、当代記では光秀は67歳だけど
光秀の年齢はもっと若かったのではないかと思う
明智秀満は47と俗書にあるけど、子孫に伝わる享年は26歳だそう
子供達が若いので光秀も20歳若くてもおかしくないなとは思う だが、江戸時代の天海周辺の事柄から、天海=光秀の可能性が強く感じられることも事実 村井清三と織田信孝は頻繁に光秀と会っていたわけじゃない
秀吉が、腐敗しかかった光秀に似た首を見せれば騙すことができたかもしらん >>131
年齢と筆跡が合わないんだから本人ではないよ
部下か血縁かでしょ 光秀の年齢は確たるものがないし、同一人物という鑑定結果もある 同一という鑑定結果は一度たりとも出てないよ
似てるが別人という鑑定結果をTV局が曲解しただけ 似てるという部分をやたらと番組が強調してただけで
同一人物という鑑定結果は出てないんだぜ 大阪夏の陣での、天海の活躍ぶりや、家康への献策を聞きたいな。
結局それが、真田の本陣急襲を許していたら、お笑いだなw 天海って豊臣を滅ぼすために開戦させる口実をつくるための難癖付けたり
江戸幕府の法を整備したりということには長けていたが
軍師としての功績ってあったっけ 光秀って秀吉には負けたが
金ヶ崎の退き口で絶体絶命の信長を救うべく殿を勤めたり比叡山焼き討ちを実行したり
信長配下の命令で丹波・丹後平定を行ったり
優れた武功があったから信長家臣では最初に城持ち大名に取り立てられたはず >>141
秀吉より出世が早いというのは驚嘆に値するが、
まあ織田家中の重臣は父祖の城を私有して織田家に仕えていたからな つか、なんで春日の局が天海に会った時に
お久しぶりですなんて言うたんや?
明智(元主君)の関係者で顔見知りじゃないと
いうわんでしよ 春日局は京にいたことがあるから
そのころ、比叡山にいた光秀と
会ってたのかもな 斉藤と光秀で新幕府を牛耳ることができたんだから、御の字だなw 「関係者」では、大御所があんな扱いはしない
「光秀本人」じゃなきゃ、成り立たない待遇 >>146
光秀は信長が出した比叡山焼き討ち令の実行者で
焼き討ち後は延暦寺の所有だった坂本を信長から貰って坂本城建ててるのに
比叡山が光秀を匿う訳がないだろうw 信長は延暦寺全体を焼き討ちしようとしたが
光秀の進言で、延暦寺は少数の建物を焼くことで済ませた。
織田が殲滅したのは坂本の僧兵と信長包囲網の土豪
なお、僧兵は延暦寺主流派から嫌われていた模様 >>151
信長の焼き討ちによって比叡山の上にある
比叡山延暦寺の最も重要な本堂・根本中堂が焼失しているんだが
延暦寺トップの天台座主であった覚恕法親王も死にはしなかったものの
信長の追求を怖れて武田信玄のところへ亡命している 少数の建物が本堂・根本中堂
焼き討ちで延暦寺の高名な僧の死者は出たかな? 信長にナイショで高僧や真面目な僧侶は逃していたのでは?
秀吉もコッソリ敵を逃して助命していたみたいだし
でも敵対してたり、堕落した者は皆殺しにした
あと重要な文化財も持ち出せるものは残ってる
フロイスが光秀の事を悪魔(神道や仏教)の大いなる友
と言ってるのは
本能寺の変以外にも何か仏教界に貢献してたからだろうね >>149
願望で歴史を語るのは良くないよ
歴史のすべてがわかるわけはないんだから
何故か厚遇されてる人なんて沢山いるだろ 徳川家綱の乳母まで明智系ということは、限りなく黒に近い 光秀天海スレに来て
光秀は天海じゃないと叫んでいる謎の勢力が草 >>158
それは柳生宗矩の末裔に絡む勢力だから気にするな ここは天海光秀説を議論する場だと思っていたが
盲信する人の集まりだったのか? >願望で歴史を語るのは良くないよ
>歴史のすべてがわかるわけはないんだから
これは議論じゃなくてイチャモン >>153
お前、歴史を何も知らないんだなw
延暦寺は麓の坂本も比叡山の山上も全山焼き討ち
織田軍の明智光秀らは最初に坂本に放火、麓にいた高僧たちが山上に避難すると
追って山上に上がり、山上も焼いた
焼き討ちによって死んだ僧や僧の家族は3000~4000だという
また延暦寺の伽藍で焼け残ったのは離れたところにあった西塔の瑠璃堂のみ
焼かれたのは少数の建物だけで
たまたまそれが本堂・根本中堂だけだったっていったい何の史料を呼んでるの? 昭和後期の発掘調査でしょ
「焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、
他の場所でも焼土層が確認できるのが、この焼き打ち以前に廃絶していたものが大半であった」
とかWikipediaに書いてあるから
誇張されて伝えられてるってあったけど 当時も高僧たちは皆麓の坂本に住んでたからね
坂本にあった僧&僧兵たちの邸を焼き払った後で
一部の高僧たちが山上に逃げたために山上の建物も焼いた
尚、坂本の焼き討ち後にこの地を与えられたのが
延暦寺攻めに功績のあった明智光秀 でも光秀って、若い頃叡山で籠もっていた時期があったんだよね。
どういう心境で焼き討ち決行したんだろうか? >>166
そんな史実は確認されてない
明智光秀の前半生はよくわかってない
でも、延暦寺焼き討ちの時、坂本の西教寺も焼き討ちしたが、
坂本を統治した後、西教寺を復興させたのも明智光秀だよね >>163
>焼き討ちによって死んだ僧や僧の家族は3000~4000だという
このソースは?戦国版小説吉田学校の信長公記でなければいいけど
それで、焼き討ちによって死んだ僧には高僧もいたよね
具体的な死者の名を挙げてくれないかね? 天海の寺って坂本城の前の山にあったんでしょ?なら光秀と何かしらの関係があるのかもね。史料には残ってない光秀の子供とかね? 明智憲三郎は信憑性の低い系図に載っている光秀の子の子孫と自称しているが
自称子孫の関係者? >>167
光秀の前半は分かっていないなら元は武家の次男で出家して天界と名乗ってたかもね。
んで足利学校で勉強して卒業後に信濃へ行きそこから美濃へ美濃で明智光安?の養子になり明智光秀となった。
元は僧侶だったから延暦寺などにも知己がいたと言う説も唱えたい 続き
明智光秀は斎藤道三に仕えたが義龍とは不仲?になり名門の朝倉へ行きそこで義昭に仕える。僧侶としての教養などがあったので義昭に仕えることができた。
その後義昭と共に京都へ。その後信長に仕えて坂本城を貰う 坂本は比叡山から近いのと
元坊主なので坂本をもらえたのかも?
坂本城の近くに慈眼寺を建てる。ここに天海が住職になる。この時の天海は光秀の子供?かと思ってる 光秀の子供だとすると
「似てるが別人」という筆跡鑑定の結果や20年位年齢が合わない事
その割に光秀=天海説に肯定的な話がたくさんある事の全てが丸く収まるよな ”おんな城主直虎”で、本能寺の変のときの家康の顛末をやっていたが、
実はそのとき家康は光秀と通じていたということにドラマではなっている。
変が起こったとき、家康一行はウルトラ逃避行で地元に逃げ返れたというのも、
それだと納得が行く。
光秀も家康も信長により身内が死に追いやられてるわけで、同じような感情を信長に持っていても不思議ない。
また、この当時、ドラマのように実は信長は家康を邪魔くさく思っていて、
いつでも滅ぼそうと虎視眈々と狙っていたとしても全く不思議ない。
信長のことだからね。 信長に寄って身内を殺されたのは
光秀=母親
家康=長男
だね、家康は手伝い戦ばかりだったのでね。 >>174
もしも、伊賀越えなどの家康のピンチに光秀の息子が関わっていたら命の恩人になるよね?光秀自体が動かなくても書状などでやり取りしてたとも推察できる >>178
本能寺の変の時に光秀の嫡男は元服前だったっぽいが
本能寺の変にも山崎の戦いにも光秀の息子は誰も参戦していない
成人した息子がいたのならば息子の功名のためにも
父光秀の天下取りに当然武将として参加するよね >>179
光秀の前半が僧侶ならその時に子供がいたのかもしれん。
山崎の戦いは天下取りではないのかと思う >>181
築山殿は家康家臣が勝手に殺したんだろ
家康がこの家臣を処分していないことからも
家康の命令っぽいが どうなんだろうね。妻子を持たないのは
本当なのか? >>183
出家前に妻を持てる。
還俗してからも妻を持てる。
妻帯できる宗派もある。 >>185
1つ目と2つ目は僧侶の時期の話じゃないじゃんw
出家したわけでもない成人した息子がいたなら光秀に従軍したはず
3つ目は妻対できるのは本願寺の浄土真宗だけなので光秀は無関係
光秀が坂本に建てた明智家の菩提寺・西教寺は天台宗なので
(延暦寺系の天台宗ではなく、平安時代に分離した園城寺系の天台宗
(現在の天台寺門宗)) >>186
>成人した息子がいたなら光秀に従軍したはず
それは決め付けだろ。
いろいろな事情で、例えば他家に養子に行っていたとか、離れ離れになっていたらそうはならない
本人(息子)が従軍を希望したとしても、周りが許さない。
とにかく、記録のはっきりした息子は一人だけなんだろ。
本能寺の変の時の光秀は既にジジイになってるわけで、若いときに出来た息子の記録は残っていない。 光秀にはいろいろな生年説がある。本能寺のときに若かった可能性もある。 光秀が若かった説だと天海になりすますのに
ちょうどいい年齢だし、
なんだやっぱり光秀だったか 光秀って、家康や秀吉とも仲良くやってたんだよな
だからこそ、秀吉も首実検でテキトーやったんだろうし
家康も、江戸幕府の命運を任せたんだろうな
やっぱ、光秀だよな >>187
そもそも光秀に成人した息子がいたという史料がないのに
いないという奴は決めつけだ
史料はないが俺がいたというのだからきっといたんだ、というのが間違っている >>191
>史料はないが俺がいたというのだからきっといたんだ、というのが間違っている
おれはそこまで断言してないよ。いたかもしれないと言ってる。
それよりも、資料がないからいないと決め付ける方がおかしいと思うが。
わからないのだから、誰もどちらとも断言できないのが正解。
でも、普通に考えると、昔の武家は一般に嫁取りも早かったのだから、
嫁がいても子供がいても全然不自然ではない。
だから光秀の消息不明の若い時代に息子が出来たと想像しても誰も積極的に否定できない。 >>192
いや、だから光秀の成人した息子が合戦に参加しない理由の説明になっていないw
光秀の子供で年上なのは女ばかりだったんだろ
光秀の娘が3、4人、光秀の生前に他家に嫁いでいる
しかし光秀の息子が嫁取りした記録もない
光秀の娘たちは皆そこそこの大名に嫁いでいるので
光秀の息子も成人してるならそこそこの大名の娘を娶っただろうに
なんで光秀の娘の記録はあるのに息子の記録はないんだ? >>193
>だから光秀の成人した息子が合戦に参加しない理由の説明になっていないw
君も理解力ないよねw
だから光秀に”明智家”の息子として成人した人はいないんだろ。
記録にはっきりした光秀の息子は成人してない(十三くらいだったっけ?)わけだから。
若いときに息子がいたとしても、他家に養子に行ってたり、出家してたかも知れない。
そうだとしたら、本能寺の変に同行する必要なんかないわけで。また、仮に変に参加したくても出来ない可能性が高いわけで。
で、その若いころの子供のうちの一人が天海だった可能性はあるよね。 俺が家康なら、息子は斬って捨てるか、明智家を再興させて旗本にでもしとくわ。
ましてや教えを請うて、幕府はおろか息子や孫の命運、自分の死後を任せる気にはならん。
天海は惟任日向守、その人だったんだよ。
山アでぶつかった高虎と光秀を一緒にしとくのは世間的にまずいし、信長殺しの犯人を公にできないから、天海はあのような処遇だったのだろう。 光慶と自然は一次資料に出てるよ。
記録にない幻の光秀の長男の話になるとファンタジーの世界 まあ信長は約束は破ってるよな光秀に対して
波多野攻めの時は光秀の母親を人質に出して一旦は許してるが後に波多野は滅ぼせと約束を反故にしている。つぎは四国攻め 光秀は元親と縁戚関係になって
しかも信長は四国切り取り自由とまで約束するが
元親が四国を制覇しかけると反故にした。
これが決定打かな?面子を潰された光秀と信義もない信長に我慢できなかったのが本能寺のキッカケの一つかと思う 自然もなの?
実在が確認できるのは光慶のみと聞いたが >>197
光秀の母が殺された話は後世の創作の可能性が高い。
長宗我部については、光秀が謀反を起こすほどのことかな?
本能寺の実行犯は秀吉で、光秀ははめられた可能性もありだが 光秀が本能寺を襲撃したことは間違い無いと思うけどな
本城惣右衛門覚書は斎藤利三の雑兵だった人の話だし
光秀の息子の自然は大河ドラマで出てるね
次回最終回のキーマンになりそう?なのかな?
実際の自然は元服した明智光慶の可能性が高いと明智憲三郎さんのブログで見たよ
天正2年の連歌会に光秀と共に自然丸も出席してる
その後、自然の代わりに光慶を連れて出席しているからとの事 光慶は天正6年の文献に出てくるし
自然は天正9年の文献に出てくるので二人は別人じゃないかな >>200
本城惣右衛門覚書に書かれていることと、当時の京都の地理が一致しないので
偽書の疑いがもたれている。 >>203
そうなんだ
でも、すごく臨場感溢れる記述だよね なろうの異世界小説のなかにも臨場感あふれるものがあるし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています