光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 「関係者」では、大御所があんな扱いはしない
「光秀本人」じゃなきゃ、成り立たない待遇 >>146
光秀は信長が出した比叡山焼き討ち令の実行者で
焼き討ち後は延暦寺の所有だった坂本を信長から貰って坂本城建ててるのに
比叡山が光秀を匿う訳がないだろうw 信長は延暦寺全体を焼き討ちしようとしたが
光秀の進言で、延暦寺は少数の建物を焼くことで済ませた。
織田が殲滅したのは坂本の僧兵と信長包囲網の土豪
なお、僧兵は延暦寺主流派から嫌われていた模様 >>151
信長の焼き討ちによって比叡山の上にある
比叡山延暦寺の最も重要な本堂・根本中堂が焼失しているんだが
延暦寺トップの天台座主であった覚恕法親王も死にはしなかったものの
信長の追求を怖れて武田信玄のところへ亡命している 少数の建物が本堂・根本中堂
焼き討ちで延暦寺の高名な僧の死者は出たかな? 信長にナイショで高僧や真面目な僧侶は逃していたのでは?
秀吉もコッソリ敵を逃して助命していたみたいだし
でも敵対してたり、堕落した者は皆殺しにした
あと重要な文化財も持ち出せるものは残ってる
フロイスが光秀の事を悪魔(神道や仏教)の大いなる友
と言ってるのは
本能寺の変以外にも何か仏教界に貢献してたからだろうね >>149
願望で歴史を語るのは良くないよ
歴史のすべてがわかるわけはないんだから
何故か厚遇されてる人なんて沢山いるだろ 徳川家綱の乳母まで明智系ということは、限りなく黒に近い 光秀天海スレに来て
光秀は天海じゃないと叫んでいる謎の勢力が草 >>158
それは柳生宗矩の末裔に絡む勢力だから気にするな ここは天海光秀説を議論する場だと思っていたが
盲信する人の集まりだったのか? >願望で歴史を語るのは良くないよ
>歴史のすべてがわかるわけはないんだから
これは議論じゃなくてイチャモン >>153
お前、歴史を何も知らないんだなw
延暦寺は麓の坂本も比叡山の山上も全山焼き討ち
織田軍の明智光秀らは最初に坂本に放火、麓にいた高僧たちが山上に避難すると
追って山上に上がり、山上も焼いた
焼き討ちによって死んだ僧や僧の家族は3000~4000だという
また延暦寺の伽藍で焼け残ったのは離れたところにあった西塔の瑠璃堂のみ
焼かれたのは少数の建物だけで
たまたまそれが本堂・根本中堂だけだったっていったい何の史料を呼んでるの? 昭和後期の発掘調査でしょ
「焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、
他の場所でも焼土層が確認できるのが、この焼き打ち以前に廃絶していたものが大半であった」
とかWikipediaに書いてあるから
誇張されて伝えられてるってあったけど 当時も高僧たちは皆麓の坂本に住んでたからね
坂本にあった僧&僧兵たちの邸を焼き払った後で
一部の高僧たちが山上に逃げたために山上の建物も焼いた
尚、坂本の焼き討ち後にこの地を与えられたのが
延暦寺攻めに功績のあった明智光秀 でも光秀って、若い頃叡山で籠もっていた時期があったんだよね。
どういう心境で焼き討ち決行したんだろうか? >>166
そんな史実は確認されてない
明智光秀の前半生はよくわかってない
でも、延暦寺焼き討ちの時、坂本の西教寺も焼き討ちしたが、
坂本を統治した後、西教寺を復興させたのも明智光秀だよね >>163
>焼き討ちによって死んだ僧や僧の家族は3000~4000だという
このソースは?戦国版小説吉田学校の信長公記でなければいいけど
それで、焼き討ちによって死んだ僧には高僧もいたよね
具体的な死者の名を挙げてくれないかね? 天海の寺って坂本城の前の山にあったんでしょ?なら光秀と何かしらの関係があるのかもね。史料には残ってない光秀の子供とかね? 明智憲三郎は信憑性の低い系図に載っている光秀の子の子孫と自称しているが
自称子孫の関係者? >>167
光秀の前半は分かっていないなら元は武家の次男で出家して天界と名乗ってたかもね。
んで足利学校で勉強して卒業後に信濃へ行きそこから美濃へ美濃で明智光安?の養子になり明智光秀となった。
元は僧侶だったから延暦寺などにも知己がいたと言う説も唱えたい 続き
明智光秀は斎藤道三に仕えたが義龍とは不仲?になり名門の朝倉へ行きそこで義昭に仕える。僧侶としての教養などがあったので義昭に仕えることができた。
その後義昭と共に京都へ。その後信長に仕えて坂本城を貰う 坂本は比叡山から近いのと
元坊主なので坂本をもらえたのかも?
坂本城の近くに慈眼寺を建てる。ここに天海が住職になる。この時の天海は光秀の子供?かと思ってる 光秀の子供だとすると
「似てるが別人」という筆跡鑑定の結果や20年位年齢が合わない事
その割に光秀=天海説に肯定的な話がたくさんある事の全てが丸く収まるよな ”おんな城主直虎”で、本能寺の変のときの家康の顛末をやっていたが、
実はそのとき家康は光秀と通じていたということにドラマではなっている。
変が起こったとき、家康一行はウルトラ逃避行で地元に逃げ返れたというのも、
それだと納得が行く。
光秀も家康も信長により身内が死に追いやられてるわけで、同じような感情を信長に持っていても不思議ない。
また、この当時、ドラマのように実は信長は家康を邪魔くさく思っていて、
いつでも滅ぼそうと虎視眈々と狙っていたとしても全く不思議ない。
信長のことだからね。 信長に寄って身内を殺されたのは
光秀=母親
家康=長男
だね、家康は手伝い戦ばかりだったのでね。 >>174
もしも、伊賀越えなどの家康のピンチに光秀の息子が関わっていたら命の恩人になるよね?光秀自体が動かなくても書状などでやり取りしてたとも推察できる >>178
本能寺の変の時に光秀の嫡男は元服前だったっぽいが
本能寺の変にも山崎の戦いにも光秀の息子は誰も参戦していない
成人した息子がいたのならば息子の功名のためにも
父光秀の天下取りに当然武将として参加するよね >>179
光秀の前半が僧侶ならその時に子供がいたのかもしれん。
山崎の戦いは天下取りではないのかと思う >>181
築山殿は家康家臣が勝手に殺したんだろ
家康がこの家臣を処分していないことからも
家康の命令っぽいが どうなんだろうね。妻子を持たないのは
本当なのか? >>183
出家前に妻を持てる。
還俗してからも妻を持てる。
妻帯できる宗派もある。 >>185
1つ目と2つ目は僧侶の時期の話じゃないじゃんw
出家したわけでもない成人した息子がいたなら光秀に従軍したはず
3つ目は妻対できるのは本願寺の浄土真宗だけなので光秀は無関係
光秀が坂本に建てた明智家の菩提寺・西教寺は天台宗なので
(延暦寺系の天台宗ではなく、平安時代に分離した園城寺系の天台宗
(現在の天台寺門宗)) >>186
>成人した息子がいたなら光秀に従軍したはず
それは決め付けだろ。
いろいろな事情で、例えば他家に養子に行っていたとか、離れ離れになっていたらそうはならない
本人(息子)が従軍を希望したとしても、周りが許さない。
とにかく、記録のはっきりした息子は一人だけなんだろ。
本能寺の変の時の光秀は既にジジイになってるわけで、若いときに出来た息子の記録は残っていない。 光秀にはいろいろな生年説がある。本能寺のときに若かった可能性もある。 光秀が若かった説だと天海になりすますのに
ちょうどいい年齢だし、
なんだやっぱり光秀だったか 光秀って、家康や秀吉とも仲良くやってたんだよな
だからこそ、秀吉も首実検でテキトーやったんだろうし
家康も、江戸幕府の命運を任せたんだろうな
やっぱ、光秀だよな >>187
そもそも光秀に成人した息子がいたという史料がないのに
いないという奴は決めつけだ
史料はないが俺がいたというのだからきっといたんだ、というのが間違っている >>191
>史料はないが俺がいたというのだからきっといたんだ、というのが間違っている
おれはそこまで断言してないよ。いたかもしれないと言ってる。
それよりも、資料がないからいないと決め付ける方がおかしいと思うが。
わからないのだから、誰もどちらとも断言できないのが正解。
でも、普通に考えると、昔の武家は一般に嫁取りも早かったのだから、
嫁がいても子供がいても全然不自然ではない。
だから光秀の消息不明の若い時代に息子が出来たと想像しても誰も積極的に否定できない。 >>192
いや、だから光秀の成人した息子が合戦に参加しない理由の説明になっていないw
光秀の子供で年上なのは女ばかりだったんだろ
光秀の娘が3、4人、光秀の生前に他家に嫁いでいる
しかし光秀の息子が嫁取りした記録もない
光秀の娘たちは皆そこそこの大名に嫁いでいるので
光秀の息子も成人してるならそこそこの大名の娘を娶っただろうに
なんで光秀の娘の記録はあるのに息子の記録はないんだ? >>193
>だから光秀の成人した息子が合戦に参加しない理由の説明になっていないw
君も理解力ないよねw
だから光秀に”明智家”の息子として成人した人はいないんだろ。
記録にはっきりした光秀の息子は成人してない(十三くらいだったっけ?)わけだから。
若いときに息子がいたとしても、他家に養子に行ってたり、出家してたかも知れない。
そうだとしたら、本能寺の変に同行する必要なんかないわけで。また、仮に変に参加したくても出来ない可能性が高いわけで。
で、その若いころの子供のうちの一人が天海だった可能性はあるよね。 俺が家康なら、息子は斬って捨てるか、明智家を再興させて旗本にでもしとくわ。
ましてや教えを請うて、幕府はおろか息子や孫の命運、自分の死後を任せる気にはならん。
天海は惟任日向守、その人だったんだよ。
山アでぶつかった高虎と光秀を一緒にしとくのは世間的にまずいし、信長殺しの犯人を公にできないから、天海はあのような処遇だったのだろう。 光慶と自然は一次資料に出てるよ。
記録にない幻の光秀の長男の話になるとファンタジーの世界 まあ信長は約束は破ってるよな光秀に対して
波多野攻めの時は光秀の母親を人質に出して一旦は許してるが後に波多野は滅ぼせと約束を反故にしている。つぎは四国攻め 光秀は元親と縁戚関係になって
しかも信長は四国切り取り自由とまで約束するが
元親が四国を制覇しかけると反故にした。
これが決定打かな?面子を潰された光秀と信義もない信長に我慢できなかったのが本能寺のキッカケの一つかと思う 自然もなの?
実在が確認できるのは光慶のみと聞いたが >>197
光秀の母が殺された話は後世の創作の可能性が高い。
長宗我部については、光秀が謀反を起こすほどのことかな?
本能寺の実行犯は秀吉で、光秀ははめられた可能性もありだが 光秀が本能寺を襲撃したことは間違い無いと思うけどな
本城惣右衛門覚書は斎藤利三の雑兵だった人の話だし
光秀の息子の自然は大河ドラマで出てるね
次回最終回のキーマンになりそう?なのかな?
実際の自然は元服した明智光慶の可能性が高いと明智憲三郎さんのブログで見たよ
天正2年の連歌会に光秀と共に自然丸も出席してる
その後、自然の代わりに光慶を連れて出席しているからとの事 光慶は天正6年の文献に出てくるし
自然は天正9年の文献に出てくるので二人は別人じゃないかな >>200
本城惣右衛門覚書に書かれていることと、当時の京都の地理が一致しないので
偽書の疑いがもたれている。 >>203
そうなんだ
でも、すごく臨場感溢れる記述だよね なろうの異世界小説のなかにも臨場感あふれるものがあるし 子孫の説は今後の光秀研究における厄介なノイズ要素になり得そうだな
徹頭徹尾でたらめならともかく中途半端に正確な部分もあるから見極めるのが面倒 自称子孫の目的は、本能寺の真実を探ることではなく
けんざぶろうが正当な子孫ぽいと世間に印象づけることで一貫している 憲三郎ってことは三男なんだろ?
兄貴二人はどういうふうに思ってるんだろうな >>194
だから君のは妄想だよ。史料がないと自分ではっきり認めてるじゃん。
だけど史料がないから違うというのは理解力がないからだ。
光秀の隠し子がこっそり他家で育てられて天海になったんだ。
これが理解できないのは理解力がないだけって無茶苦茶。
「史料の裏付けは一切ない。全部僕の妄想」で間違いないのに
それをはっきりいうのは「理解力がない」になるんだ? 秀吉の息子すら粗略にするような奴が、逆臣光秀の子を自分の師にするはずがないwww だめな大河ドラマが光秀じじい説を採用しているからといって
天海が光秀の子でなくてはならないというわけではない
光秀が天海というほうがすっきりする 今回の女城主は、最後に光秀が天海になるんかいな
無理だとしても、いつか大河で光秀をやってほしいし、天海=光秀のドラマ化をしてほしい
謎に満ちた半生なんだから、どうにでも脚本はできるはず
CMじゃないけど、信長と光秀はほんとは仲良し的なドラマも面白い 内藤如安を出せばいいのに
信長に恨みを持つキリシタン大名
光秀を買収して信長暗殺したのも実は内藤。
徳川将軍は内藤をフィリピン追放にしはしたが、完全な鎖国ではなかったから
内藤は秀吉に続いて日本商人の貿易を推進していただろう
内藤氏の家系は、どうも英語が得意らしいのも
https://pbs.twimg.com/media/DQ1_1_DVwAAUmnE.jpg >>215
信長と光秀は仲良しだっただろ
信長は裏切られるなんて思いもせず光秀に大軍預けておいたんだから
家康が光秀と一緒に本能寺を起こして信長・信忠を殺したが天下取りに失敗し
その後天海になった光秀を丁重に迎えて天下取りしたなんて
徳川の子孫たちの抗議で大河化できないだろう あの…
みなさん、光秀(&家康)の「本能寺の変」の成功失敗の分かれ目ってどこだと思います?
みんな、「山崎の合戦」こそが分かれ目だと言いますが、
もし、事前の計画、根回しがしっかりしていたとしたら、
「将軍宣下」こそが分かれ目になりますよね?
光秀か家康が、禁裏から将軍宣下を受けたとすれば、
天下の趨勢は決まったと思います
さすがの秀吉や勝家も、「織田家の跡目争い」とか「謀反」ではなく、
天皇からの指示だとしたら、従うしかないと思われます
禁裏に根回ししてこその本能人の変であり、
光秀に将軍宣下があったような資料も存在したかと記憶します。
そして
「光秀と家康で密約があっての本能寺の変」
なんだったとしたら、
「家康は、光秀に征夷大将軍を譲る密約」
ということことだったんでしょうか?
家康や三河家臣団は、光秀の下風に立つことをよしとしたのでしょうか???
家康の家系も怪しいもんですが、光秀の家系もかなり怪しいです。
源氏としたって、新田や武田なんかと比べ、怪しすぎます。
家康側として、そんな光秀にすべてを任せる決断をしたのか、とても疑問です。
やはり、光秀の人柄がずば抜けてよかったのでしょうかねえ >>218
木曽義仲なんて簡単に将軍宣下をなかったことにされてるし
一度光秀が将軍宣下を受けてしまえばこっちのものということはない
そもそもこの頃、毛利に匿われている足利義昭がまだ将軍のまま
しかし世間は将軍の命令に従っていないからな 今川や武田ならまだしも、
明智や徳川に征夷大将軍を与えるなんて… 中村の水飲み百姓が関白になれるんだから
家柄なんて関係ない まーた歴史小説を鵜呑みにしてる
関白になった百姓なんて日本に一人もいないからな 秀吉が実は良いとこの出という説は偽書の悪名高い武功夜話が出典だから根拠は薄い 普段は百姓やっていて合戦になったら出稼ぎに行くような
半農半兵の一般庶民というのが妥当なところじゃないのか 確かおねの方はまだ良い家柄で
身分違いだから結婚を反対されてたんだよね
秀吉はイケメンじゃないけど
おねさんと結婚できて運がひらけて良かったね
光秀の出自は色々言われてるけど上流階級なのは確実 光秀のことを貧乏人とdisった光秀嫌いの太田牛一には草 松平の出自も怪しいw
松平といい 明智平といいwwww 戦国武将なんぞ出自が怪しくない人間の方が少ない
光秀は一次資料にも一応土岐氏の出らしいという記述があるんだっけ やはり武田勝頼が将軍になっときゃあ良かったんだ。
そうしたら、俺の住んでる甲府が首都だったのに。 >>231
秀吉百姓説なんてあやしいどころか完全に歴史小説家の創作だよ
家出をして針の売り子などで生計を立てていたが同族が貧しい生活をしてるのが
可哀想でおねの実家が援助したんだよ
その辺の話は手紙に残されてるよ 秀吉の母親は織田信秀のお側衆と再婚しているから底辺ではないやろ >>238
秀吉の出自ははっきりしないが下層階級出身なのは確かというのが通説だけど
そこまで断言するなら具体的なソースは? >>236
光秀が土岐氏だというのは「明智軍記」が初出で一次史料ではない
美濃国守護・土岐氏から南北朝時代に別れた支流で土岐氏家臣に明智氏がいたことは事実で
江戸時代になって土岐氏支流の明智氏と明智光秀が結びつけられたものと思われる
同時代史料だと光秀は「細川(藤孝)の中間」で足軽のちょっと上ぐらい
細川藤孝は管領細川氏の同族とはいえ傍系の傍系なのでその中間はあまり良い出身ではない
ただ細川藤孝の中間ならば光秀は都育ちであっておかしくなく
京ことばに長けており公家たちとの折衝役として信長に重用されたというのも合致する
光秀が美濃国育ちならば京ことばなど話せるはずもなく尾張ものがやっても一緒だったろうから
主君の細川藤孝の命令で放浪中の足利義昭の世話役についたのだろうと >>241
立入宗継の日記に「美濃国住人ときの随分衆也」という記述がある
少なくとも光秀がそう名乗っていたのは事実なんだろう >光秀が土岐氏だというのは「明智軍記」が初出
これは誤り
>>242の「美濃国住人ときの随分衆也」が正しい 明智軍記のネタ元になったとされる濃陽諸士伝記にも土岐の支族と書かれてる
まあこれもあんまり信頼性の高くない史料みたいだけど >>237
将軍になる頃には多分甲府から移動してるだろ 徳川編纂の史記「当代記」に本能寺の変の時、光秀の年齢が享年67歳と付記されてる
67歳だったと取って付けて書き込まれてる訳だけど
どうも、光秀の仕事ぶりや交友関係、子供の年齢、肖像画を見ると67歳は無いなーと思う
信長の家来になったばかりの1570年、金ヶ崎の退き口で殿軍を務めたのは池田勝正を頭に秀吉と光秀
秀吉当時33歳、池田勝正は31〜40歳、光秀55歳?
殿って逃げ足の速い30代の人が適任かと
光秀は京での政治力と共に武力も買われたと思うけど
人間50年と言ってた信長が50歳をとっくに過ぎてる光秀をわざわざ足利義昭からヘッドハンティングするだろうか?
享年67歳なら、妻の煕子の父親だと言われてる妻木広忠の一つ年下になる
当代記は何か間違いではないのかな?
それか、天海は光秀ではないと否定する為に光秀の年齢を20歳くらい詐称したのではないのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています