光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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>>375
もし、延暦寺が荒廃していて無力な存在だったなら
焼き討ちのターゲットにならなかっただろうよ 「あたごさま」っていう童歌について詳しく知ってる人いないか?
岐阜と愛知に伝わってる歌らしいけど、何となく詞が光秀のことを歌ってるような気がするんだよな
岐阜は光秀ゆかりの地だしそもそもタイトルからしてある意味で直球だし
光秀=天海と童歌と言ったらかごめかごめが有名だけど他にも何かないのかな >>379
どの部分?
方言で歌われているから標準語に書き直したのを
読む限りそんな感じしないよ? 天海は108歳まで生きたのか。
それだったら、誰よりも人脈も知り合いも多いわけだ。
はっきり、天海は光秀だ。
と、記述した書類が数多くでてきて当然だ。
自分でも言っているはずだし、徳川家は当然知っている。
だから証拠があるはずだよ。
川越喜多院は身近なところなので、光秀が住職をしていたとしたら嬉しいが。 どうして天海の出自ははっきりしないんだろうね
仏教界といっても、さほど広くない世界だろうに
天海が徳川幕府の黒衣の宰相扱いに抜擢されてる時
若い頃の天海の上司や同僚、先輩、後輩は接点があった事で自慢したくならなかったのかな? 若い頃の天海の上司(信長)や同僚(秀吉)、先輩(柴田勝家)、後輩(森蘭丸)
皆死んでるな んなわけねえだろ。天海だったらおもろいなと誰が考え始めたのか知らんが まあ本人かどうかはともかく
本人若しくは親類縁者なのは確かだろう 光秀の近親者説は、NHKが元だよな。
テレ東による天海の筆跡鑑定は光秀のものという結論。
NHkのそれは、似てる字や特徴もあるので、本人じゃないけど血縁者の可能性があるという結論だった。
清和源氏の土岐家傍流の明智家なわけで、明智の血を引くというだけで、影の宰相として祭り上げるのはおかしいなあ。
光秀本人だとしたら頷けるけど… 光秀が爺さんで江戸時代まで生きられない場合
幕府が明智系の者を重用する理由を考えると
天海は光秀の近親だろうということになるが
光秀が若ければ光秀本人が黒衣の宰相でOk >>397
筆跡鑑定は、本物の光秀書状を使えば本人と出るし
偽書を使えば他人と鑑定されるだろう。
光秀の書状といわれるもののなかには、偽書が疑われるものもあるし 光秀にも天海にも祐筆が居ただろうし
光秀は眼病を患って薬を貰った事もあったはず
天海は高齢だし、メガネも無い時代で遺っている文書に自筆があるのかな?
筆跡鑑定は全く当てにならないよ 最後まで足利将軍を立てようとした光秀のことは、家康も信用したんだろうなあ。
初めて家康と天海が会ったとき、2人で長く密談したという伝承があるけど、山アの後の放浪生活はもちろん、姉ヶ崎の殿軍の鮮やかさなどを語り合ったのだろう。
光秀ほど、徳川幕府の力になってくれたら頼もしい存在はいないからな。 >>401
家康は老眼鏡を掛けていたらしい。
だから、天海くらいの偉い坊さんなら老眼鏡を持っていたのでは。
大河ドラマでは秀吉も老眼鏡をかけている。 >>405そうなんだ
昔の事を知ると、学校で習った事なのか自分が思い込んでいたのかわからないけど
実際の日本人は自分が思ってたよりずっと文明が進んでいたと思い知らされる事が多々あるね
言われてみれば、正倉院宝物に美しい細工のガラスの器があるのに
戦国期にメガネがない方が不自然だね 先月出版された『本能寺の変・生きていた光秀』(著・井上慶雪)。光秀=天海説を信じる人には興味深い内容。
この本によると、山崎の戦いのあと光秀は
→比叡山に潜伏。このころ叡山で死亡した会津出身の天海と入れ替わり、光秀天海となる。
→その後、大阪府貝塚市鳥羽の海雲寺(光秀の長男が創建)及び岸和田市の本徳寺(光秀の肖像画を所有)に潜伏。
※わらべ歌「かごめかごめ」の歌詞にある「後ろの正面だぁれ」は上記の寺の位置を示すらしい
→その後、家康と合流。 訂正・4行目
誤 (光秀の長男が創建)
正 (光秀の長男が住職) 失礼しました。追加して訂正・4行目
誤 (光秀の長男が創建)
誤 (光秀の長男が住職)
↓
正 (光秀の子弟が住職) 『河童バビィ』・・・
『呪術師』と書いてあるはず
そしてキュウリの葉、葱の華などの写っている写真、
あれは家の写真なんだけど
光秀という名前の親戚がいたり、
何かを知っていて、そのような名前を付けたのかな 陸奥?いまの福島県のほうのことでしょ、
むかーし住んでいた事があると言っていた、
伊達郡というところの山の上のほう、寺院が何やらとか ちなみに家は▢野という名前、
光秀という人の母親の旧姓も。
『霊山 棒術』
このような名前 江戸幕府の3代、4代将軍の乳母が光秀の重臣の子と孫だからガチ 将軍家には光秀の血は入ってないんだっけ?
細川家もガラシャの血筋じゃないよね?
将軍家が光秀の血筋だったら、この説は鉄板なんだけどなあー 家光の実母は春日局である、という説があるが
もしそれが事実なら、光秀本人ではないにせよ、
その重臣斎藤家の血は将軍家に入っていることになる。 >>421
既出だが
徳川家光は将軍に就任すると自身の外祖父であるとして
江の父である浅井長政に中納言を追贈している
家光の母が春日局なら斎藤利三が外祖父で中納言だからw >>420
謀反人の関係者が将軍の乳母という事実だけで十分だろう いやあの時代器量があれば人の前歴はあまり問題にはしてないぞ
斉藤利三の関係者なら春日の局の兄は秀吉の時代に既に士官が認められていたし
おば(利三の姉妹)の嫁いだ蜷川親長は家康の御伽衆だ
大体春日の局にしてから万石級の家老(しかも秀吉の甥の家)の正室なんだから
謀反人の娘だからって将来が閉ざされるようなことはなかったんだろう
大体謀反人に文句言い出したら三河一向一揆の連中とかどうなるんだ 江戸時代に入ってから重用された謀反人関係者で、明智光秀に関わる者以外の例を挙げてくれ
本田正信は天正時代に召し抱えられた者なので除外 わかってないな
別に陰謀論に絡めなくとも本人に器量が有ったから採用されたで説明できるということ 光秀に関わる者以外で、重用された者の例をわかってないということ? 春日の局は将軍の乳母なんだからその関係者が重用されるのは不思議ではないでしょ
問題は『謀反人の係累なのに』採用されたという論拠 春日局が家光の乳母になったのは夫の稲葉正成が小早川秀秋の家臣で
関ケ原で小早川秀秋の東軍寝返りを実現させた家康の恩人だったから
さっさと秀秋が死んでしまったせいで浪人となり苦労していたので
家康が与えた褒美なんだが
福が乳母に上がった3年後(大奥は男子禁制のためこの時福は離縁している)
稲葉正成は家康から1万石もらい大名に昇格している >>431
明智光秀を栄達させるならまず家康によって光秀の子が大名に取り立てられるだろう
もしくは遠縁をたどって明智家を再興させるだろう
春日局の夫や息子の稲葉が取り立てられても明智から遠すぎるんだが 将軍の乳母の関係者が栄達するのがそんなに不思議に見えるの? >>432
とりあえず細川忠隆くらい何とかしてやれって話だよな 春日局が乳母になったのは利三が殺されて20年以上経ってから
母の実家の稲葉家の養女になって結婚も稲葉一族とで
完全に稲葉家の人
春日局のお陰で稲葉家は老中とか幕府の要職に就いてる
光秀が天海なら、幕府の要職に子孫が居るはずなのに居そうにないよね…
あら、江戸中期ならただ1人、老中になった土岐頼捻という人が居た!
でもこの人は光秀とは別系統の再興された土岐明智氏だね
菅沼藤蔵(初代土岐定政)から5代目だからずっと後年で天海関係ない >あら、江戸中期ならただ1人、老中になった土岐頼捻という人が居た!
>でもこの人は光秀とは別系統の再興された土岐明智氏だね
>菅沼藤蔵(初代土岐定政)から5代目だからずっと後年で天海関係ない
そもそも、土岐頼稔が活躍した18世紀のことは論題になっていないのだが >>436
明智宗家は豊臣秀吉の時代に本家である土岐を名乗ることを許された
というだけでそもそも明智姓を名乗っていない
明智家は復興していない 土岐定政が残した土岐家の系図は明智宗家の系図。
元主君の土岐姓を名乗るという栄誉にあずかって明智宗家が再興したということ。
それに、土岐定政は光秀のはとこなので、光秀の血縁の人物。 >>443
光秀を顕彰するなら明智家再興だろう
光秀の霊を弔って墓守しなければとお家再興とはいえない
再興されたのはあくまでも土岐氏であって
土岐氏の墓守が再興されたというだけ
当たり前だが光秀とは無関係 土岐定政が明智家の系図を自分のルーツの系図ですと言って幕府に提出している。
この意味がわからない? >>445
その家系図に明智光秀が載っていないのだから意味がない
この意味が分からない? >>445
土岐定政は豊臣秀吉存命中に死んでいて
土岐氏を名乗ることを認めたのは秀吉だが
誰にどんな家系図出したの> 正しくは定政の子が幕府に土岐系図を提出した。
そのころ、定政が死んでいるからどうのこうのということしか言えないようだが >>448
その家系図を提示してくれる?
明智光秀の名を家系図に掲載し
明智光秀の墓を土岐氏墓所に置ききちんと供養したんだよね?
光秀の首塚とか江戸時代半ばに全然違うところから
末裔を名乗る人が出てきて勝手にやってたけど
家康が光秀を顕彰するために土岐氏再興を認めたなら
なんで土岐氏がきちんと管理しないの? おばかですか?
家系図についてはググレカス。
光秀は明智宗家ではないので、沼田土岐家は光秀のことを先祖供養する必要がない。 >>450
ネットでググっただけでものをいう史料提示できないおバカw
土岐氏は光秀を供養などしていないしそもそも土岐氏再興は光秀と何の関係もないのにw 復興されたのは土岐氏であって
明智氏は再興されていない ググる能力もないのなら、図書館には幕臣の系図が置かれているので調べるがいい。
光秀の事を調べている人なら、たいていはこの系図のことを知っている。 >>453
土岐氏の家系図に光秀は載っていないのに何言ってんだ、こいつ
光秀が載った土岐氏の家系図出せと言ったら
ググれとか図書館にあるとか光秀のこと調べてるなら
土岐氏の家系図に光秀が載ってることぐらい知ってるとか適当なこと言って
その家系図の名前を言ってごらん?
言わずに逃げるだろうなあ、そんなのないから >明智光秀の名を家系図に掲載し
>明智光秀の墓を土岐氏墓所に置ききちんと供養したんだよね?
と書いたのは>>449だ。俺は沼田土岐家は自分のルーツとして明智家の系図を
幕府に提出したと書いたのだが。誤った事実を記憶してしまう>>455は深刻な知的障害。
で、池沼に説明すると、沼田土岐家が提出した系図は寛永諸家系図伝土岐系図。
土岐定政の父は明智定明で定明以前は明智家累代の当主が記されている。
だが、寛永諸家系図伝土岐系図は、明智宗家のものだけ記されているので光秀が
出てこない。だが、美濃守護の土岐宗家の系図の続群書類従土岐系図には、
土岐支族まで記録されており、そこには明智分家の光秀が記されている。
その系図によると、光秀は土岐定政のはとこにあたる。
双方の系図ともネット上で見ることができるが、障害者には困難なのかな。 >>456
ネット自慢の池沼の説明では
土岐氏再興が明智家再興になるという説明になってないな
結局、幕府に提出した土岐氏系図に光秀が出てこないというこちらの主張を
そのまま認めてしまってるぞ、池沼 明智宗家の系図に光秀が出てこなくとも、土岐定政は光秀のはとこで明智氏嫡流。
土岐定政は明智氏を再興したが、定政は明智氏嫡流で光秀の主君になるはずだった者。
沼田土岐家は、明智家の系図を幕府に提出して、土岐に名を変えた明智氏と自認した。
懇切丁寧に説明してさしあげたが、池沼の相手は疲れる。
ちなみに明智宗家の系図に光秀が出ているとはどこにも書かれていない。
沼田土岐系図に光秀ガ~というのは>>499が騒いでいたこと。
おまえが>>499ならおまえはマッチポンプw ハトコだというのが本当だとしたら
光秀の方が嫡流のようなイメージはある
光秀の方が年上だろうし、趣味とか洗練されてて田舎で育った定政より高貴な感じがするw
定政の母の実家の菅沼氏って土岐明智の正妻になるくらいの家格だったのかな?
元々は光秀の祖父が嫡男だったけど、曽祖父との折り合い悪く廃嫡されて
弟の定政の祖父に家督が譲られたというのを何かで見たことあるけど
兄弟で家督争いをして、親は弟の方の味方するってのはこの時代、よくある話で
よくある話すぎて本当なのか眉唾だけど
光秀の年齢は丹羽長秀(天文4年 (1535年)生)と同じくらいじゃないかな?
惟住と惟任だし、初期の信長の2人に対する扱いが似てるような気がするから >>460
織田家臣内で早くから城主になり、戦だけでなく、戦後処理や統治、税の徴収も任されてるところ
信長の親族と婚姻関係があり、準親族扱いで信頼厚いところが似てるかなと思った 光秀の大河ドラマが決定だそうだけど、最後に天海になるといいなあ やるなら子供時代からやるだろうし仏門に流された兄弟や親戚とか、足利将軍家との遠縁を匂わす演出があってもおかしくはないな。 >>463
NHKの公式によれば大河「麒麟がくる」の光秀の出自は曖昧
美濃国で牢人をしてたところを土岐家家老・斎藤利政(斎藤道三)に
見いだされて仕官するところから始まる 明智軍記の設定も無視するんなら、ぜひ光秀天海説も取り入れてほしい。
実在が怪しい直虎の大河ドラマをやってもうたんだから、それくらい平気だろ >>467
直虎は実在してただろ
江戸時代中期に井伊家が幕府に家系図を提出した際に
かつて井伊家に女当主がいたことを隠すため
直虎は関口家から迎えた男養子で一代で絶えたというのを出した 明智光秀さんも450年ぐらい未来に大河ドラマの主役になるなら
200年くらい見つからないような仏像の中とかに自伝でも遺しておいてくれれば良かったのにね
作り話や誇張しなくとも、事実だけで面白いドラマだろうなぁ 自伝書いて仏像の中に隠す暇があったらできること沢山あるんじゃないですかね >>469
光秀が自伝書いて仏像の中に入れたところで
その仏像を誰がどこで450年間保管するのかというw >>469
「自伝」に事実だけを書くとなぜ信じれるのかw 別に事実と違うことが書かれていても
今みたいにわからない事だらけの状態よりマシだと思う >>474
事実と違うことが書いてあってもいいなら
「明智軍記」でいいんじゃない >>475
光秀本人がなにを考えていたのかを知りたいから
そこからなぜ本能寺の変を起こすことになったのか推察したいから
もし、事実が書かれてなくても
自伝なら書いてある意味だけではなく、他の情報も得られるでしょ
なぜ、そう事実と違う事を書いたのか、なぜその言葉を使ったのかとか色々
そして明智光秀がどう考えていたのか掴めるところがきっとある
ゴーストライターが書いたものでも、かなり薄まるけど光秀が検閲したのならまだいい
でも、明智軍記は光秀死後、かなり後年になっての物語だから光秀自身の考えはほとんど反映されてない
ないよりましだけど >>476
本能寺のあたりは他の史料もあるからだが(光秀が嘘を書けばある程度分かる)
出自などほかに史料が何もないところへ光秀が嘘書いておいたら
それが史実として扱われたかもしれんね もし、光秀によって出自が遺されてたなら
何かしら検討の余地が残されてたと思う
ある系図の一部が合致するとか、なぜ合致しないかとかで推測の余地が充分にありそう
戦争に負けるというのは辛い事だね
全てが勝者や生き残った者の都合良く改ざんされるから
負けた者は死ぬだけでなく生きていた過去も歪められてわからなくなってしまう
秀吉は太閤記などの自伝的物語を作らせて多く流布させているけど
それが誇張があって嘘書いてたとしてもある程度推測できる
秀吉は頭のいい、自己主張の強い人だよね
(本来的な意味で)子孫が望めないと思ってたんだろうと推測する
意識してるかしてないかわからないけど、だからこそこういう自伝的な物語を作らせる衝動が起きたのかなと思う 『天皇 起源』
別に天王でも良いけど?天王宮 山王院の話でしょ
『天王 きゅうり』
むかーし住んでいた事があるんだよというところも同じ 調べてみると
天王、須・・・スメラなど、
あと、このような事を言っている人もいたり
>死ぬと○○院と呼ばれるわけですが、すべて地名がつきます。
>白川、堀川、醍醐、宇多、嵯峨、鳥羽、水尾、一条、二条、三条、花山、花園、伏見、朱雀・・・すべて都(京都)の地名です。
>ほんの少しの例外はあります。 キュウリの葉?葱の華・・・などの写っている写真、
このスレにも貼り付けたはず
それとも漫画、アニメの話なのかな
『何者にもなれない お前たち』? 自分の家(正確には当時、結婚した嫁の家)で蚕を飼い、
機織りもしていた、あと落雁のようなものを作っていて、
寺院に通っていたんだよ
落雁も食べるものではなくて供えるものだと言っていた、
米を粉にして、型にいれて固めるんだよとかw 現在、小手子の像というものが
建てられているところがあるんだけど、
そっちのほうの話、山の上のほう。 伊達郡川俣町という掲示板
スサノオ(スサノヲ?)と名乗る人がいたんだけど、
もしかして本物?または、あの写真の親戚か何かなのかな
ちなみに家は川崎(神奈川県の川崎市)に住んでいるんだけど 鷹、鳶、鷲?
むかーし、部屋に、そのような像(置物?)が飾ってあったり、
老婆が捨ててしまったから、もうないけど それにしても、おかしな
老婆が、このような事を言っているよ
と親(父親)に話をしてみても
そんな話、知らないよというだけ 上のほうに書いたかな、
もれ(仮)の言ってる光秀(親戚なんだけど)
母親の旧姓:天王宮 山王院のような名前
家は、そういう名前の家 家は兄、弟(書き込みをしている人)、妹・・・5月15日生まれ
偶然なのかな?となるでしょ 『山王 地名』だとして・・・天海=明智光秀、
寺院に通っていたみたいだよ(これは母親も言ってる)と言っていたり、
りゅーま、りょーま?が何やら〜(老婆談)とか 『亀戸天神』の話もしていた、
その伊達郡という掲示板を読んでみると、家と同じような話ばかり、
受験?などで言ったわけではないと言ってる 『天皇と天王はどうちがうのですか?』
それはそうなるだろう、
そもそも日本起源(発祥)ではないんだから 何か隠されている事でもあるのかな
『皇帝のいない八月』という作品
香野という人物(女優)が出演していたり
老婆が言うには、むかーし結婚した家があって、たしか香野とか言ったかな〜、
伊達郡の飯野というところ・・・と言っているし 偶然なのか、何なのか・・・
『白面サイ』でしょ、とあるニンジャ作品、サイ=サトシ
弟(二男)だと言ってる人がいたり >天王:
>1
>春秋戦国時代の中国において、もとは諸侯たる王と区別して、本来の天子たる王を意味する言葉。
>2
>仏教用語。
>仏教における仏の一種の名称。
>つまり、如来や菩薩、明王などと同じく、仏の種類を意味する言葉。
それにしても老婆だよ、同じようなことを言っていたし、
なぜ詳しいのか?なんだよな 『松傾』
日本の話ではないぞ
と言ってる人がいたような気がするんだけど >>1
だからガチだと言ってるのに、
まだ、わからないの? オカルト?
そのようなスレにも書き込みをしているんだけど、
話が通じない 確実だろう
『天王 スサノオ』画像をググってみると
『すばる星』『プレアデス星団』という画像も出てくる 『トヨトミミ』
グーグルで検索しても同じような画像ばかり :カブキロックス『虹の都』
:mike oldfield『let there be light』
『バトシーラー つちわらし』ググると
『最初の人間』という作品の画像が出て来たり 知恵 リンゴ関係の話だと思う、
日本では『ヒドラの市』という人物が・・・・同じ存在 ヒドラの市=三つ首の竜、蛇?
すさのお・・・同一の存在 最近、観た作品なんだけど、少年ジャンプの作品
市(市子という女のキャラになっていた)
「売国奴が何やら」と言っていたり その市子というキャラの髪の色
たしか銀髪、アッシュ 灰色?だった いつの時代の話なんだろう
臣下、配下だか知らなけど、
実際は上の人間(凄い家)だと書いてあるはず、
某という家(人物)の配下なんだけど、その家よりも上の家
シンデレラ(日本版)という話もそう、
着物を縫っていたりした家の話 同じような話
wiki『シンデレラ』→『落窪物語』
落窪の姫:ヒロイン。
皇女を母に持つため、出自は継母や異母姉妹達より遥かに高いが、
継母から下女同然の扱いを受けていた。
長年針子として家族の着物や小物類を縫わされ続けていたためか、
裁縫が非常に得意。 この話でしょ
『何者にもなれない お前たち』
家の写真と同じような気がするんだけどw 『キュウリ』『葱の華』が写っていて、
むかーし、どこかの城に通い、機織りなんかをしていた家だと言っていたし
どういう事なんだろう、蚕を飼っていたとか 『須 王 津』
この話と同じような気がするんだけど、
菅原氏の事も書かれていたり
電気(発電)を起こしていたというのは、
本当は、いざなぎ、いざなみの話でしょ とりあえず、農民に竹槍で討ち取られたのは嘘なんだよ 光秀が比叡山延暦寺の土地を奪って
坂本城を築いたのに? 焼き討ち後は、延暦寺は光秀の管理下で問題もなかった。
光秀はその間、延暦寺を懐柔したのだろう ねえねえ
じゃあさ、光秀が生きてたらと仮定してだよ?
比叡山に逃げ込んででもいいし、他のところに逃げたでもいいし、
とりあえず、山崎の合戦から、ほとぼりが冷めるとするよね?
でさ
足利だって、織田有楽だっているわけだしさ、
最強・秀吉の御伽衆になればよかったんじゃないの?
天王山でぶつかったとはいえ、もともと光秀と秀吉は仲悪くなかったわけだし
切磋琢磨した仲だし
協力し合い金ヶ崎の殿軍を務めた仲だし
なぜ、わざわざ、徳川なんかに駆け込んだのかね?
「実力」や「義理堅さ」だけで考えたら、徳川よりも上杉、毛利、島津、加藤、福島、黒田なんかだよね?
そう考えると、やっぱり、本能寺の変の黒幕って、家康だからなんじゃないの?
本能寺の貸しを返してもらう意味で、徳川のところに行ったんじゃないの? 可能性1
本能寺の変は、家康と光秀の共謀
可能性2
本能寺の変は光秀冤罪で秀吉が光秀を謀反人に仕立てた フロイスの光秀評
「己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」
これが本当なら、山崎の戦いて負けたなら、天海になっていてもおかしくないとは思う
証拠も残さないで、天海の出自も偽装しそうだ >>519
いやいや、もちろんそうなんだけど、
「受け入れる側」である徳川の素地も重要だよね?
光秀が、いきなり訪ねて来たところで、シカトすりゃあいい話。
光秀に能力はあるのは明白だから、姓名を変えて重職につけるくらいまではよし。
もちろん、秀吉が首実験したことになってるから、秀吉に届け出て秀吉の顔を潰すことはできない。
自身の部下にして、土岐氏を再興させるとか、旗本として幕末まで置いとくくらいがちょうどいい。
しかし、家康のやったことってさ「幕府の指南役」に迎え入れちゃってるわけ。
つまり、自身も師事し、平伏してる。
そこまで光秀を厚遇するということは、なんなんだろうなって話。
(もちろん、光秀=天海として論じてます)
結局、本能寺の黒幕で、臆するところがあるから、光秀を厚遇したんじゃないかと…
あと…
このスレでは書かれてないけど…
家康の死の淵に際して、藤堂高虎は頻繁に見舞いに訪れたことは周知の事実なんだけど、
天海が光秀だとしたら、天海を見て高虎は何も思わなかったのか疑問です。
高虎は、大納言秀長卿の右腕だったわけだし、天王山で光秀を打ち破った主力は秀長軍でしょ。
光秀の顔はよく知っていたはず。
藤堂家の側近に何か伝わってても、おかしくないんじゃないのかなあ >>516
延暦寺は光秀の管轄下に入ったことはない
坂本に侵略して坂本城を建てた光秀は
焼失した延暦寺の伽藍をそのまま放置
豊臣秀吉の寄進まで延暦寺は死に体 光秀は延暦寺政所を置いていた。
延暦寺は光秀の管理下にあった。 延暦寺政所は創建当初からあり光秀が置いたものではない
また延暦寺から信長に直接光秀に寺領を奪われたという訴えがなされ
信長がこれを認めて光秀に返すように言っている
延暦寺にとって光秀は略奪者でしかなかった 光秀が坂本を治めていた時代、延暦寺政所は光秀の与力が務めていた。 >>523
それ、どこの資料にあるの?
延暦寺ではなく、京の東寺から光秀が横領して訴えられたのと勘違いではないの?
義昭が光秀に対して給付した八幡宮領山城下久世荘は東寺に所有権があると幕府と朝廷に訴え出ている文書が残ってる
永禄12年か元亀元年の4月のことらしい(どちらの年かはっきりしない)
この頃、光秀は幕府から恩賞を受けていた
延暦寺の所領は焼き討ちの後
信長の命で押さえて信長から光秀に与えられたのに
延暦寺が信長に訴え出ても仕方ないのでは? まだ言ってるの?ガチだと言ってるでしょ
家の親戚の話をしているんじゃないの? 上の名前は明智ではないけど光秀という名前、
母親の旧姓:『天王宮 山王院』のような名前 伊達郡に、とある山があって、
昔そこの山の上のほうに住んでいたことがある
という話でしょ ポケモソ?と信長の野望のコラボ、
光秀、フリーザ、寒い?が出て来たり これは偶然なのかもしれないけど、オズボーンの曲
死ぬために生まれてきた?みたいな曲があったり 普通に考えてもわかる、
ポケモンとか、他のゲームや漫画などもそう、
詐欺のような感じがする、原作者、原案者がいると表記されているけど?
実際は他の人(家)の話でしょ 天王(不明)の宮(家)だと書いてあるはず、
どういう事なんだろう
例えば『ボーボボ』
調べると出てくる画像とか、家の写真と同じじゃない? 『』内を調べてみて、
『葱の華』が写っていて『胡瓜の葉』も写っている?
『何者にもなれない お前たち』? 光秀天海説で一番の障害になってるのは年齢じゃないよね
明智光秀の家臣の多くが徳川家臣として取り立てられてるが
光秀直系の子孫が徳川家臣になっている者がいない事だよね
徳川幕府の重臣の家柄に明智光秀の子供でも居れば信ぴょう性があるのになと思う >>543
光秀の息子は行方知れずなので除外するが
光秀の孫は熊本藩主と旗本になっている
その旗本は大坂夏の陣で豊臣方についたにも関わらず
幕府に召し抱えである >>545
熊本藩主になった光秀の孫って細川忠興の息子だろw
細川家は豊臣政権でも大名だったし
光秀の孫だから徳川家康が一介の浪人を取り立てて熊本藩主にしたわけでもなんでもない
しかも熊本藩8代藩主以降はガラシャの血を引かず忠興と側室の血筋になっており
元首相の細川護煕などもこの血筋のため光秀の血をひいていない
旗本になったほうの光秀の孫は津田信澄の息子
津田信澄は織田信長の甥で織田政権では信長の三子(信忠、信雄、信孝)に次ぐ
序列を誇った近親者
光秀の男系が取り立てられていないことからも
光秀のための取り立てでなかったことが分かる >>547
光秀は家系図上、7人ぐらい男子がいる
その後どうなったか全員不明 >>543
実際は明智より武田の家臣の方が多く取り立てられているがな 明智光秀=天海説の一縷の望みは
天海が光秀なら、家康と光秀が天下を取ったという事だ
家康と光秀といえば
「タヌキ親父」と「偽装するのに抜け目がなく、…計略と策謀の達人」だと評されること
江戸幕府をひらいてこれより先、謀反を許す前例を作る訳にはいかないから
謀反人明智とは関係無い別人や別の家族になりすまして抜け目ない偽装でわからなくする
人を騙すのが得意な2人が天下を取ったなら、それは簡単に出来そうだ >>548
明智〇三郎の祖先が載っている系図ならパチモンだぜ? 主人殺しとは距離を取るのが普通だろ
自分の評判が下がるだけ 何言ってんだい!
親殺しの斉藤道三だっているし
信玄だって信虎を追放してるやい!
分家が主家を追い落とすなんぞ、当たり前の戦国時代だい!
それを言うなら、天子様や公家を粗略に扱った信長こそ、大謀反人だい!!! 大義名分も味方もいない主人殺しは戦国時代でも受け入れられない
戦国時代を誤解してるだろ 一番大義名分がないのが、大阪の陣だなw
イチャモンつけて、なにがなんでも開戦
なにがなんでも堀を埋めちまえ
やっぱり、裏で明智が全部指導したのかなw 天海の弟子たちとか、川越の喜多院なんかを継いだ人って、純粋な僧侶?
武家上がりとかいなかったのかな?
もしくは、明智の血筋とか よほどの高僧でない限り、僧侶の俗世時代の情報は後世に伝わらないし 待て待て
天海って「よほどの高僧」だぞ!w
大僧正な上に、死して大師じゃねえかw
弘法大師と同列だ! 喜多院の後継者たちのことについて書いたつもりなのだが 織田有楽と天海が江戸城の廊下ですれ違って、
有楽が「あーーーーー!!!!!」と天海を指差して叫んだという逸話でもあったら、
光秀=天海説を信じてやるぞ テレ東の筆跡鑑定は本人
NHKの筆跡鑑定は別人なのだが…似てるくせも多く、近親者・血縁者の可能性大などというものだった…
本人じゃなくとも、明智の血縁者が幕府の中枢に入り込んでるという時点で十分にセンセーショナルなのだが…
てか、やっぱ本人の可能性が高いのだが
有楽は光秀をよく見知っていたの?
有楽は佐々成政について戦に行ったけど使い物にならず、ほぼ官僚だったんじゃないの?
姉川の合戦も、光秀が華々しい活躍した姉ヶ崎の殿軍も見てないんじゃないの?
その後は、信忠について甲州に行っちゃってたんじゃないの?
本能寺の変から20年以上経ってるんだし、容姿も変わってるし、坊主頭だったら見分けがつかないんじゃないの?
そもそも有楽は本能寺の変の折、逃げ回ってるわけじゃん。もし本物の光秀と対峙したとしても対決する矜持なんて持ってないんじゃないの?
家康の懐刀なんだし、お追従を述べて終わりでしょ。それが有楽の生き方でしょ? このスレに狂気が過ぎたる者
一人語りの統失と光秀天海説に憎悪を向け異常なこだわりを見せる自閉症 >>566
筆跡鑑定で、仮に光秀本人の書と偽書をサンプルに使っていたのなら別人判定が出るよ 本能寺の変後、細川家に最後に送った助けを求める書状の筆跡で
素人が見ても天海と全然違うから別人だと言ってた人のブログ読んだことあったけど
あれ、偽書と言う人もいるよね
筆跡鑑定するなら、ボストン美術館蔵の光秀書状と比べればいのに
光秀直筆らしい、なぜそれが直筆だと認定されてるのか知らないけど 光秀が細川に送ったという書状の字は、汚い字なんだよな
それは、精神的不安定さのなかで光秀が書いたからなんて説明する人がいるけど
山崎の戦い直前に書いた土橋宛書状は汚い字じゃないんだけどね
細川宛書状は、字の汚い細川家臣が書いた偽書?のような気もする >>571
あの書状は信長が死んで細川親子が剃髪した事を光秀が知った後の6月9日付のものだけど
細川とは婚姻関係もあったし、この書状の前に既に味方になるよう、光秀から書状があってもいいのにそれはの遺されて無い
あの書状が語るのは
1、細川親子は本能寺の変に全く関与してなかった事
2、光秀の政権下なら摂津、但馬、若狭いづれかの領国を貰えた事
3、光秀の謀反は息子達、次世代の為以外には理由がない事
の3点
偽書だとしたら、何かわからないけど3番目で何か他の謀反の理由を隠してるように読み取れるよね その書状の内容は非常にみっともない
光秀はこういう手紙を出すようなへたれだったんです
ということを喧伝する目的で細川が偽書を作ったとしたら
細川のゴミぶりがすさまじい >>571
そもそも土橋宛のは光秀直筆なのか?
普通、対外的な文書は祐筆が書くよね 光秀は雑賀衆に対しては
自分の背後には足利義昭が付いているから
安心して味方に付いてほしい
まずは早急に援軍を送ってほしいといってるし
この時期の光秀がはったりかましては
援軍を募っていたのは事実だよね >>575
確か義昭とは明言してなかったはずだけど、本当に義昭の事で良いのかな?
義昭を見限って信長に付いた光秀なのに、今更義昭をまつりあげるかな?
かなり切羽詰まっていたとはいえ、不自然だなぁと
義輝の遺児の可能性とかはないのかな? >>576
「上意」といってるから将軍だよ
足利義輝の遺児に雑賀衆への命令権などない >>574
文書は祐筆が書くという前提だと、筆跡鑑定の前提条件も崩れてしまうねw
また、祐筆が書いたとすると、細川宛書状の悪筆ぶりが解せない
公的文書は、通常字が上手な者が書くだろうし。細川宛書状の疑惑が深まってしまうw >>578
豊臣秀吉などの例だと対外的な文書は祐筆に書かせるが
自分の身内に宛てたもの(北政所、茶々、豪姫など宛)は直筆で書き
この手紙が残っている
細川は娘婿で光秀の身内だから
身内あての手紙として光秀が直筆で書いた可能性がある 寺や神社に奉納した文は光秀直筆だと思うが、それらと比べても細川宛文書の字は悪筆。
また、wikiにもあるが、細川宛文書は文書の形式に則っていない。現代で置き換えると
小中学生が書いたビジネス文書みたいな感覚。光秀ほどの者がそんな文書を出すだろうか?ということもある ここまで議論してわかるとおり、天海が細川家に何も融通してやらなかったのは当然 だな。親戚筋から字が汚えと喧伝され、更に相手にされなかったことにされちゃったんだから。
天海の細川に対する怒りはすごかったろう。 本徳寺に行けば、いつでも光秀公の肖像画を見ることができますか? 本徳寺が公開期間を決めているようですよ。
今年は顕彰会のイベントでも肖像画を公開していたようです。 しかしあの絵は数ある戦国大名の肖像画の中でも屈指の美形だよな
光秀が死んで大分経ってから描かれたものらしいけど 娘も息子も美形と言われてるから不細工では無かったのだろうと思う
美形で頭良くて出自良ければ妬まれるねw
でも、天海って美形?? 天海の肖像画はデフォルメされているからアレだけど
天海の彫像は写実的で美老人だよ 大河ドラマの「麒麟がくる」だけど
麒麟とは王が仁政を行うときに出現するとか書いてあるね
王とは信長のことを指すのかな?でも信長は「仁」のイメージじゃない
もしかして、王とは家康のことを指したりして >>589
では、名前は明かされないけど、光秀に似た人が僧体で関ヶ原の家康の陣で参謀として現れたり
方広寺の鐘銘にイチャモンつける事を進言したりするのかも? 天海の人生における見どころはだな、
改易され、失意の中にいる福島正則を助けようとしたところだよ
なぜ、幕府の宗教面を支える僧侶が、豊臣恩顧の罰せられた大名をなんとかしようとしたのか?
天海と福島正則の間になにかあったのか?
そうじゃなくて、光秀と正則の間になにかあったのか?
そこが、この問題の醍醐味なんだよ そうだな。下戸の光秀が、大酒飲みの正則に、何故シンパシーを感じたのか不明だ。 確かに天海が下戸だったと証明されれば、光秀=天海説に信憑性が出るかもw 光秀下戸説は、信長が光秀にパワハラした話が根拠だったと思う
光秀が下戸というのも実は定かではないかも >>590
おんな城主では、関ケ原の戦いがちらりと入ったよね
そんな感じで天海の関ケ原とのかかわりを描写できるかも
>方広寺の鐘銘にイチャモンつける事
これこそ仁政だよ 光秀の出自は、有力なのが2説ある。ひとつは美濃春日井明智城の一族、もう一つは美濃恵那郡
の明智城の一族。前者ならば、光秀は美濃土岐氏の一族の出身、後者なら美濃遠山氏の一族出身
となる。どちらも美濃の名門でだが、恵那の明智には、山崎の合戦後、一人の侍が現れ、主人の
形見として弔ってほしいと鎧帷子を置いて立ち去ったとの伝説が残っている。
もしこれが本当ならやはり光秀は山崎の合戦で討たれた可能性が高いのではと思ってしまうな。 >恵那の明智には、山崎の合戦後、一人の侍が現れ、主人の
>形見として弔ってほしいと鎧帷子を置いて立ち去ったとの伝説が残っている。
これは何という資料に出ているの? これは明智に伝わる伝説です。たしかそこに石碑があったと思います。
今は朝ドラのロケ地で人気の岐阜県岩村というところの近くになります。
そこに残る岩村城は、江戸時代松平一族が治めていましたが、元々
は遠山氏の本拠で明知城はその支城に当たりました。江戸時代には廃城に
なっているので、今はただの雑木林ですが、光秀にかかわる伝承は
地元では根強い人気があるようです。 それでその鎖帷子の現物は今でも遺されているのかな? >>602
確か供養塔に納められて現存は確認できないかと。そこは光秀の墓と伝えられているようですね。 >>604
ありがとう
明智光秀の供養塔や首塚、胴塚ってたくさんあるね
ガラシャが供養したといわれてる京都宮津市の盛林寺にも首塚があるよね
ガラシャの元には頸が三体持ち込まれたが、どれも光秀のものではなかったと読んだことがある
でも、ガラシャは光秀だと思って供養したのかな 教派的には違っても、とても信頼してた事は確かでしょ? 徳川家康の臨終の際の遺言は
駿河の久能山に我が遺骨を葬り
下野の日光には位牌だけを祀れだったのに
勝手に天海は自分の墓を造っていた日光にも
家康の遺言に背き分骨する始末の坊主 天海もメチャクチャやったなw
そのへんは光秀とキャラが違うのか、一緒なのか 明智光秀が禿げてたとかカツラを使用してたというのは信頼できる文献では見当たらない
明智光秀は禿げだったという記述は
ハゲ=坊主=明智光秀
つまり、光秀は僧侶になったと暗に言いたかったのではないかな? 信長にキンカ頭って言われてたんだからツルッパゲだったんじゃないの どうでもいいがキンカ頭ではなくて
金柑(きんかん)頭だよな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
TGA ヒストリアで水野勝成やってたけど
明智の日向守を踏襲したから怪しいな
すべてを知ってるんだな 任官した時、家康から「光秀の武功にあやかれ」と光秀所用の熊毛の朱槍をプレゼントしてもらった人だね
「鬼日向」さん
家康は光秀存命中も友好関係にあったし
本能寺の変後も明智光秀の事を悪く言ってないよね これは信憑性が高い説なんだが
子孫と称する怪しい人たちが
おかしなことを言ってるから
相手にされない ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな >>628
北条政子が死んでいたら、義時も覇王にならなかったかも? 医療大麻オイルの紹介
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戦国時代だからあまり表沙汰にされてなかったけど、秀吉の家臣奉行官兵衛が大麻をやって天下統一をサポートしました
江戸幕府後には徳川家康が大麻を研究し、幕府御用達となった 十兵衛の頃から諸国漫遊してたから、地理から宗教から医術から兵法からすべてに通じてたんだろうな
一方の三成は、敗走して生米を食ったせいで腹を壊してた
そこが光秀と三成の差だな
鉄砲・大砲には、特に通じてたろう
関ヶ原だって光秀(天海)あってこそ
それに得意の鉄砲隊を用い、おやっさんと共に金ヶ崎の退きを成功させたからな
おやっさんと違って苦労知らずの秀頼を捻り潰すのなんて楽勝だったろう
家康はいい人材を味方につけたもんだ >>634
三成が腹壊してたのは敗走する前からで生米食ったせいではない
関ケ原の戦いの最中も腹壊してたし
処刑される前も水を所望して刑使から「柿ならある」と言われ
柿は腹をこわすからいらないと言った
もともと腹を壊しやすかった
だいたい光秀の前半生は不詳
大河板や日本史板で光秀は室町幕府の裕福な高級官僚だったと騒いでる奴がいるくらい 光秀天海説での光秀の前半生って
若い頃僧侶だったから年取って天海になれた説じゃないのん? いやいや。
天王山のあと、延暦寺に逃げ込んで僧侶になったってやつでしょ。 光秀って、いろんな武将から一目置かれてたから、やっぱり前半生、苦労したんだろうね。
出自がいいから、あまり語られないけど、経験値では秀吉並だったのかな >>638
いろんな武将から一目置かれていなかったから
信長・信忠を殺したのに天下取れなかったんだろ 秀吉が戻ってくるのが常識外の早さだったんだよ
もう少し遅ければ、違った展開になったんだよ >>641
本能寺の直後から山崎の戦いまでの間に
有力大名らが誰も光秀を支持して光秀の臣下になる方針を打ち出していない さすがに、下剋上・逆臣だから、みんな日和見だろうな。
将軍宣下でももらわんと。
中国大返しが成功してなかったらどうなったか見ものだね。 >>643
中国大返しして秀吉が近畿入りしたら
皆秀吉のところへ一斉に集まってきたから
みんな秀吉が帰ってくるのを待ってたんだよ
秀吉は人望があるから 信忠だよなぁ。
なんでお前さんまで討ち死にしてんだよって話でさ。
織田家家督の信忠さえ生きてれば、禿げネズミや狸爺が
政権簒奪する余地はなかっただろうに。 それを言うなら、前田利家がもう少し長生きしてくれたら
そもそも、豊臣秀長が死ななかったら
だな たった2,30年の間に歴史観ってごろごろ変わるんだなあ
おれがガキの昭和の頃は、秀吉が貧しい百姓から努力と気配りで関白にまでなる
実直なヒーローとして扱われていた。「おんな太閤記」の西田敏行の功績大。
信長はキチガイ扱いだったし、光秀は裏切り者の3日天下のヒールとしか社会の先生から教わらなかった。
変わらないのは家康の狸オヤジw 名前が似てるからって光秀と三成を同じカテゴリーにするのやめてほしいw まったく似ていない。光秀はひかり☆。三成はただの3 間違える人多いよね
石田三成の肖像画すごく年寄りに見えるね
享年40歳なのに
明智光秀の方が若く見える
やっぱり、明智光秀は定説(享年55歳)より若かったのでは?と思う 肖像画は何歳の時がモデルかわからんだろう
淀殿が高野山に収めた両親(浅井長政とお市)の肖像画も
浅井長政は没年29歳、お市は没年37歳だが
お市のほうを老けて描いているわけではない >>651
光秀の子供の年齢などを照らし合わせると、光秀若かった説のほうが妥当だよね >>643
秀吉が潰れても勝家が残っているからね。 >>652
別に肖像画が晩年の姿だと決まってるわけでは無いからね
でも、淀殿の場合は両親の肖像画を奉納するのに
浅井長政の死後、再婚して再婚相手と自害を選んだ10年後の母の姿では釣り合いが取れなかったのだと思う
両親が生きてて幸せだった頃の両親の姿を選んだのだろうと思う
明智光秀は死後に描かれた肖像画だけど
何か特別な理由が無い限り、普通は晩年の姿だと考えて良いのでは無いかな
今でも私たちは先祖の遺影を残す時、本人が若い時ではなく
亡くなる直前の元気だった頃の遺影を飾る事が多いと思うし 当時天海に直球で
「あなたは明智光秀ではないのですか?」
と尋ねた人はいなかったのかな??? 天海存命のときには、天海の足利将軍ご落胤説が出ていたらしい。
光秀が疑われるようになったのは、天海死後らしい。 明智ファンマジ馬鹿
明智が天海になって120歳まで生きたとか本気で信じてそうだわ。
あの健康に気を使って死ぬ間際で
一切れの天ぷらしか贅沢しなかった
家康ですら120歳まで生きれなかったってのに。 >>661
光秀のファンが言ってることじゃないでしょ、この説。
あなたの言ってることの裏を返すと、
「年齢のことを除いては、天海=光秀を否定する材料はない」
ということなんだけど…
光秀って、ほんとは信長よりも秀吉よりも年下だったんじゃないの?
どうなのよ?
55才で亡くなったという後世の「明智軍記」だけを信用するのは正しいことなの? 光秀が1540年生まれだとすると、天海は103歳で亡くなったことになる。
なんとちょうどよい年齢! うん。
やっぱ信長より年下じゃないと。
自分は信忠に家督譲ってるのに、自分よりも年上の老いぼれ武将を最前線や主戦場に出し、更に「キンカ頭」と言って足蹴にするのはどうもね、、、
まあ、鬼柴田はもっと年上なんだけど、彼は信行のときに一度裏切ってるからね。
ライバルである秀吉と一緒くらいが、一番しっくり来るね。 キンカ頭は昭和の創作みたいだし、足蹴はフロイスの噂話集が元だし 安価をつけられないほど負けている犬が遠くから吠えているw >>661
光秀は医学の知識があり、永禄九年の段階で幕府の医者が光秀から学んだ薬についての知識を医学書に書き留めるほど
前半生はよくわかってないけど、医学に関しての知識がありすぎるから
医者として生計をたてていた時期があったのではないか?と疑っている人もいるぐらいだよ
家康も健康に気を遣い、自分で薬の調合をしてたのは有名だけど
光秀こそ当然、病や健康に気を遣い、薬の調合もしていたのは間違いないと思う
加えて山科言経はじめ、当代の有名医師との付き合いも親密だった
120歳とは言わないけど、よくわかってない生年が言われてるより遅くて若かったなら
そして、天正10年に殺されてなかったら天海くらい長生きしててもおかしくない人ではある 天海は大坂の役に従軍してないだろ
明治以前は「大阪」じゃなくて「大坂」だから >>662
どの説をとった場合でも光秀は秀吉より年下ではないだろ
信長の家臣団のなかでは柴田勝家を除いて年配者だったから
秀吉も自分に従うと思ってたのだし >>671
国家安康事件については、天海と崇伝が関与したようだよ
天海は冬の陣〜夏の陣終了後まで機内に滞在していたようだ >>673
>どの説をとった場合でも光秀は秀吉より年下ではないだろ
↑wikipediaに天文9年説があるよ
「明智光秀には子年生まれの伝承があり、『明智物語』では天文18年(1549年)に光秀は元服前であったことが書かれていることから求められる。」
>信長の家臣団のなかでは柴田勝家を除いて年配者だったから
>秀吉も自分に従うと思ってたのだし
↑この部分はどこの文献にあったの?初耳です。 秀吉さんより年下だとしたら、天海説は可能性90%だね 筆跡鑑定に使った書状は、光秀本人の筆によるものか不明 光秀書状の中で
自筆だと確定しているものはあるんだろうか?
本能寺の変後の書状で、細川家に残ってるのは偽書の疑いがあるよね
ボストン美術館蔵の光秀書状こそが自筆だというのも見たことがあるけど
どうして自筆だと言えるのだろう?内容も知らないし真偽の程はよく分からない 細川書状は乱筆だから光秀の手ではないというのだが
そもそも他の手紙が祐筆の手によるものならば文字が整っているのは当たり前のことで
親戚の細川には光秀が自筆で書いたともいえるし >>661
医学についてはまさか曲直瀬道三と道三違いをしていたという
オチじゃないよね?とツイッターで見かけてなるほどねーと
滋賀でみつかった書状から光秀が早い段階から近江に地盤を築いて
いたことが確認できるっていうニュース絡みでのツイートだけど
曲直瀬って実家が近江源氏の流れだからまああり得なくもないかなと
斎藤道三とも仲良かったしね >>684
細川宛書状は内容がガイジレベルなので
光秀や祐筆が書いた明智家公的書状ではないと考えるほうが妥当 >>685
確かに曲直瀬の下にいたと考える方が前半生の謎部分も実は
辻褄が合いやすい傾向なんだよな…
曲直瀬の立場上朝廷や将軍家との接点が多いから自然と
知人なんかも増えるし京に屋敷持っていても不思議じゃないし
曲直瀬自身が医学以外にも詳しい知識人だった 曲直瀬道三の弟子の施薬院全宗は後に秀吉の側近&侍医になるけど
本能寺の変以前は光秀と懇意で京から坂本城に引っ越した後
光秀が京都に逗留する時は度々全宗の家に泊まってるのが兼見卿記に出てくるそうだよ
曲直瀬も施薬院も医者で茶人だよね >>686
それは単にお前にとって都合の悪い内容だからだろ
光秀が書いたわけではないと断言できる明確な理由があるわけではない >>687>>688
なるほどなあ…
そうなると曲直瀬の下にいた可能性もかなり高くなるよな でも曲直瀬ってかなり色んな記録が残ってる人だしそんな人物の元にいたというなら
光秀に関しても逆にもっと詳しいことが残ってそうな気もするけど
本能寺でやらかしたせいで抹消されてしまったんだよと言われてしまえばそれまでだが 戦での実績を考えると光秀は武家だろうと思うよ
医者と付き合いがあったらしいけど ○○の下にいたなら、誰々の子供なら記録があって然りとか
これできたから武家などなどみたいな思い込みは捨てた方がいいとおも 影武者は光秀の書を手本に練習するだろうから
「似てるが他人」に当てはまるね
影武者なら光秀死後も光秀への忠誠心を持ち続けてもおかしくないし
出家する前の経歴は秘密にするだろうね 大僧正って、光秀みたいな落ち武者が出家して、そんなぽっと出でなれるもんでもないんでしょ? >>699
ぽっと出で大僧正に任ぜられたから当初は周りにも違和感あったはず 寺で偉くなるには数々の儀式をすべて覚えたりしながら上がってくんでしょ?
すでにジジイの光秀が能力的にもそんなプロセス踏めるだろうか と、光秀の年齢を勝手に決める頭の固い人が多いのであった
実際は、信長や秀吉よりも下だってあり得るはずである 光秀の影武者がもとからそこそこ修行済みだとしたらあり得るな 以上に伸びてると思ったら、案の定キチガイが発狂か
女性説ってこういう頭のおかしい奴の妄言だってハッキリ分かるわ
仏門に帰依しているから、の一言で済む話 明智軍はキリスト教徒を助けて味方になるよう要請してるから
あんまり敵視はしてないんだけど(キリストさんも神様の1人だという日本人的な考え方だよね)
キリスト教のフロイスは明智光秀は神道と仏教の大いなる友だと言って敵視してる
たぶん、フロイスにそう言わせるような神道と仏教に多大な貢献をしてたんだろうと思う
信長の息子達はキリスト教徒だったとも言われてるけど
仏教徒が本能寺の変後、光秀の事を英雄だと絶賛してる文献もあるし
明智光秀が出家したら一介の僧侶では済まないような気はするね 明智なんちゃらが勝手に唱えてた説かと思っていたが
江戸時代から囁かれてた話なんだな 大僧正って天皇とか朝廷が任命するんだよね?
あまり天台宗での地位は関係ないような?
天海って歴代天台座主に名前が無いんだね >>715
天台座主はその頃には法親王か有力公家の子弟ばかりだからな
天海の出自ではどうあがいても無理
3代将軍家光は天海のために江戸に天台宗寛永寺を創建して徳川家菩提寺に加えたが
天海、弟子の公海死後は寛永寺のトップに都から法親王を連れてきて就任させていた もし、本当に天海が明智光秀だったとすると
細川ガラシャの辞世の句
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
は光秀に対して強烈な批判に聞こえるね
仏教僧になった(だった)光秀に対して深くキリスト教を信仰するのも批判的に見えてくる
ガラシャが光秀に対して何か言及してる資料ってあるのかな?
父親の事をどう考えていたのだろう?
ガラシャの元に届けられた頸を盛林寺で供養した逸話しか知らないなぁ
全部で三体あったけどどれも違うと言ったのだっけ?
うろ覚え… 4歳のお福が光秀の顔を覚えてるのかよ
父親でもないのに 四歳のときに見た神々しい光秀の姿が目に焼き付いたんやね 何故女性だと縁談が殺到しないのか
周辺大名とすれば婚姻関係を結べれば取り込めるかもしれないし
謙信だって実子に後を継がせたかっただろうに(女だとしたらな)
婚姻関係は下から上にばかりお願いするものではない
信長が浅井とか秀吉から家康とか格下に娘を送る場合もある
本当こいつは都合のいいようにしか解釈しないな
相手大名からしても男系血族を送って謙信の婿となれば
自分の血縁が後を継ぐ可能性も出てくるわけで殺到しないわけがない 八切説を掘り起こしては切り売りしてる物書き多いよね この説をもとに大河作れば面白いのに
最近の大河は何でもありだから >>1
ガチだと言ってるでしょ
『宇宙王子(皇子)』とか、
そういう作品が好きだったほうの「光秀」でしょ、
同じ名前の従兄弟がいるんだけど「光秀」という名前
上の名前は違う ちなみに家は
現在、小手子の像〜〜〜〜〜?????
というものが建てられているところがあるんだけど、
むかーし、あの辺りに住んでいたと言っていた あと仏教?百済から伝えられたと言ってる人がいたり、
このとき初めて伝わったとか
それ以前から知っていたとか、
そういうのは、ほとんど後付け 小手神社というのも、
なぜか『聖化 日神 日霊 津』(AD200年頃?)?
同じような名前の家の人だったり 天海伝説
wikiを読んだだけだから、詳しいことはわからないけど、
陸奥・・・?東北地方のほうでしょ 親戚か誰かがスレを建てたりしているのかな?
何か知っている人とか
これも老婆談なんだけど、
(天草伝説?)銀という親戚もいたよ
と言っていたり 本当の天草や天海(?)のwikiを作成するなら
本名:□□ 銀?〜。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
謎の刀・・・。 『聖化』の人物について調べてみて
『天帝』より授かり・・・、
天草伝説とも合致しているでしょ、 ほんとに・・・何神話なんだろう
「天と海を治めている」とか まさか・・・・・・・・「聖化」から〜〜〜〜〜〜〜直系なのかな?みたいな話 聖化のところを読んでみた?
日本と朝鮮(実際は朝鮮と日本?)は同じである。
みたいなことが書いてあるでしょ
そういうのも現在の視点、表現、
当時は日本()ではなかった・・・というのが正解 俺の知り合いの郷土史家も、これはかなり信憑性が高い説だと言っていたよ。 自分は、秀吉が秀吉側近に命じて、毛利攻めのとき大阪までの間で拠点を保つ。と、同時に明智家の旗印の幟を持った集団を本能寺に向かわせ、手薄の織田を攻める。危機を感じた光秀が近くに敵がいることを察知。 >>748 続き
本能寺へ。そこには明智の紋所の軍隊が織田を攻めている。織田を守るにしても大混乱。何とか信長を見つけたが、信長もわしは、もうここで死んだことでよいという事で、信長を救出しただけになる。 >>749
以降、光秀が謀反を起こした濡れ衣を背をおわされ…拠点に残した秀吉の軍にほぼ壊滅。だが、ことの始終を把握した家康は光秀が裏切り者ではないことを察知。何とか光秀を見つけ、人里離れた庵にかくまう。光秀は現世をはなれ、出家。その後徳川の僧として天海になる。 違うよ
ただ病気で本人がどうにかできる問題では無いことを他人がとやかく言うことではないと思う 今日日光に行ってきたが、やっぱりこの説はほんものとみた 松木だけが光司の話題をしてないな
スレタイに従えないなら出て行け >>752
くれぐれも言っておくが、
あの紋は桔梗じゃないからな。 国家の承認/後援を受けてまめまめしく手弁当込みで
活動してきた返還運動の組織・団体が、国家によって
凄い勢いで切り捨てられるという歴史的場面に居合わせてるのかもしれない 光秀が天海になったという歴史ドラマが始まりそうだね >>765
NHKがダメなら
民放テレビ局でも良いからやってもらいたいなぁ 男女逆転の大奥なんてあったくらいだから
天海が光秀で謙信が女の大河とか一度作ってみればいいのにね。 >>741
「俺は空海よりも凄い!」って言うフカシなんじゃないか? >>768
謙信女説は今の時代受けはいいと思うけど
上杉謙信をやったばかりというイメージの人が居るんじゃないかな? >>782
何もないぞ。普通の住宅街(笑)
醍醐寺とか近いから季節は違うが醍醐の花見の思いを馳せるぐらいかな。 ガチだったらいいなぁと思う
ガチなら光秀は偉人だよね
他は名を変えて生き残った人が多いけど、斎藤利三に関しては
味方の裏切りがあって悲惨な最期を遂げたから
春日局を優遇した
自分の子孫をある程度しか優遇はしてない
なんとか対面を保って暮らせる程度だよね
僧侶となって完全に世俗を捨てた
ただ、理想とする国造りだけに余生を使った
となればね >>788
知らないんだろうが斎藤利三には息子たちもいた
春日局だけが唯一の子ではないんだよ
利三に報いたかったのならば普通は息子を取り立てる
しかし息子が徳川家に取り立てられたのは家康死後
家光の時代になり乳母の春日局に大きな権力を譲渡したため
春日局の取り立ててその兄が旗本になっている
そもそも乳母が大権力をもった例は春日局が特殊なだけで
それ以外の乳母はそこまでの身内の大出世に繋がったことなどない
天海が明智光秀で斎藤利三の子を取り立てたと言うのは合っていない その息子も本能寺の割とすぐ後に許されて加藤清正に仕えてるからな
謀反人の係累だから迫害されたというのも疑わしい とにかく一番割りを食ったのは津田信澄だ
ほんと可哀想な人生 ときどき、天海の正体は明智秀満って言う人がいるけど、なんなん?
光秀じゃなかったとしても、どうしても明智の一族が天海の正体じゃないと気がすまないん? 光秀本人の可能性は低いが光秀関係の誰かである可能性は高いから >>794
それはなんで?
やはり、お福との対面の対応?
光秀本人じゃないのに、家康が師事するの? 光秀本人じゃないと家康が師事しないという思い込みでもあるのかな? 「大した能力もない陪臣」を、いきなり江戸幕府の要職…しかも、「家康の指南役」につける方がおかしいねw ロマンはあるけどねぇ
比叡山焼き討ちの実行犯でもあったけど一方で
延暦寺の高僧や経典を独断で保護したって事も聞いたことあるんだよな
比叡山の地元だとどう伝わってるんだ
事実なら天海とどこかで関係があるかもね 比叡山を焼き討ちした主戦力は光秀だったから比叡山の所領をもらう事になったんだろうけど
フロイスから見れば光秀は「悪魔とその偶像の大いなる友」だと言うのだから
反キリスト教で仏教との関わりが深いんだよね 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、毛利元就は下戸 >>797
「大した能力もない陪臣」ではなかったという事だろ >>800
うそだーい。
武田勝頼の髑髏に酒を入れて回し飲みしたんだい! 義経と一緒。はたまた西郷とか。人々の願望や反感が誇大妄想を産む >>806
模写すれば似るんだから親族である必要性はない 一族郎党壊滅させたうえ自分だけ長生きとか糞過ぎるな 関ヶ原だか、大坂の陣の屏風絵の天海も、天海の肖像画と違うな この説って、昔から言われてたんでしょ?
光秀を知ってる人が天海を見て、これはと思ったんだろうね。 所の番組でも筆跡は否定してる
本当に光秀と天海の筆跡なら別人 私もフジで先週あった「新説!所JAPAN」見たよ
光秀と天海の筆跡鑑定は別人
でも、そこで並べられた光秀と天海の肖像画はちょっと似てるように感じる
木俣守勝が「小納戸役」という、当時の秘書室長の役だった事が新しい情報だった
機密文書を扱ったり、身の回りの世話もする主君と一心同体の役どころらしい
そういう人が友好的に破格の退職金代わりの宝物とともに家康の家臣に戻る
何か裏がありそうだよね
そういえば、本能寺の変の直前は稲葉家に那波直治も信長に言われて返してるよね 本人説は完全に否定されてるが
親類縁者の線はまだ可能性が残るから
肖像画が似てるのは面白いね 筆跡鑑定なんてあてにならん。
祐筆に書かせて花押だけ書いてたら意味無し。 >>828
他の筆跡鑑定でさえ否定されたのをフジがとどめ 筆跡は別人
本人以外が書いてるから当たり前
真実は同一人物 サムライは鎧が分かればかなり正確に身長が割り出せるが
僧侶の服は緩いからわからないかもなあ 結局、当時からそういう噂があったんだから、光秀を見知ってる人が天海を見て、「これは…」と思ったんだろ?
そのときは誰も徳川に逆らえないし、謀反人と喚かれることもない。
そもそも、天皇家にも光秀の血ははいってるしな。 光秀を見知ってる人が光秀の部下や親族を見知っててもいいわけだから どうしても、天海を“光秀”じゃなく、“光秀の親戚”にしたい人がいるようだねw
家康が光秀を崇め奉ってるならまだ理解できるが、光秀の縁戚に平伏していたとしたらビックリだwww
普通の人が、家康と面会しただけで幕府のトップになっちゃったのかよっ!www
家康って、話してちょっと気が合って仲良くなっただけの出自不明のオッサンを、
三河衆やを差し置き、今まで師事していた僧侶もすっぽり、自分の息子や孫まで任せちゃうのかよっ!
死んだと思われていた才能溢れた織田家筆頭の光秀が出てきたと考えるほうが自然だろ
信雄、有楽斎はじめ、織田家の連中には恩義を売りまくって反抗できなくしているわけだし しかも、たいした武勲も逸話もない出自不明の明智秀満にしたい人が多いのには辟易する、、、
光秀が駄目だったら秀満!っていうことにしたいんだろうか??? 光秀が完全に否定されてるんだから
その周辺で探るのが当たり前だと思うが 天海は光秀でなければ光秀の親戚でもない
のに何を頑張ってるのだか 光秀でなければ、どうでもいい。
秀満とか言って往生際悪い。 天海は光秀じゃないかという噂があり、そこにおまえが出てきて、
「それは光秀じゃなく秀満だ」
というのが学問?
そもそも、「光秀だからこそ」、天海だという噂が立ったのでは?
最初から、「光秀ありきの説」では?
光秀で整合性が取れなくなったら、親戚の名前を出して来て、なんとか説を押し通すのが学問?
それって、
「天海は光秀じゃなく、岡崎三郎信康だ!」
と言ってるのと一緒では?
それは学問じゃないねw >>836
それなら後ではっきり光秀って書き残してる
こんな都市伝説程度の噂では終わってない 秀満は娘婿だから、光秀と似てたら逆におかしいんだよなwww >>847
「明智軍記」だと秀満は光秀の叔父の子
つまり光秀の従弟に当たるって話だったはず もう誰が天海でもいいじゃん!笑
豊臣秀長が生きていて天海になったという方が人格的にも年齢的にも整合性がある
流された福島正則を助けようとしたのも理に適う
ただし、豊臣を滅ぼしたのだけは筋が通らなく成るけど笑 「中禅寺湖なんて、ワシが馬に乗ったまま渡ったるわ!」
という天海の逸話でも伝わってるのなら、
天海=秀満と信じてやっても良い
明智平の銘々の一件があるから、
どうしても明智一族としたいのだろうけど、
娘婿の秀満はもともと明智の姓は名乗ってなかった
そんなに明智の名字に拘ると思えない >>851
秀満は光秀の娘に婿入りして明智姓を名乗り
光秀の後継者みたいな位置付けだったんだろ
光秀に嫡男はいたが若年だったし 信長への謀反は事情を鑑み、まだ同情の余地がある。
小栗栖で殺されたということだが、首が腐っていたから生きていたというのも頷ける。
だからこそ天海説が出たわけだ。
家康が師と仰いでもおかしくない。
秀満が生きていたとしたら…
光秀の女房子どもを殺しておいて、自分だけがおめおめと生き残ったということになるんだぞ。
そんな武士の風上にも置けないようなやつを家康が認めるはずもないし、要職に付ける説得力にも欠ける。 だから、天海は天台宗の坊主なんだぞ
家康から延暦寺復興を命じられて坂本に住んでいた時期もある
比叡山焼き討ちの実行犯で坂本を焼け野原にしてそこに坂本城建てて住んでた
光秀のわけがないんだよ
光秀は延暦寺と敵対関係にあった園城寺の末寺西教寺を菩提寺にしたくらいだし
延暦寺とは対立関係にあった >>853
秀満は坂本城で自分の妻子を殺した
光秀の妻煕子は本能寺より前に死んでたし
光秀の娘たちは他家へ嫁ぎ息子は出家したから
光秀の子は自分の妻だった倫以外殺していない 光秀の詳しい資料が足りないからフロイスの光秀評
「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。」
というところが、
方広寺鐘銘事件の言いがかりまで付けて結局は豊臣を滅亡させた天海に被るんだよね 光秀より明智秀満の方が、坂本城炎上の時に亡くなってる確実性が高いよ
妻の光秀長女と共に坂本城で死んだのだと思う
まだ幼児だった息子の三宅藤兵衛をガラシャが保護した
ガラシャは姉夫婦の子供だから保護し、自分が自決する時の遺言で
自分の子供は忠興の子供だから大丈夫だろうが、三宅藤兵衛の行く末を特別に忠興に頼むと懇願してる
親の無い子だから心配だったのだろうと思う >>857
「晴豊公記」によれば、丹波で捕らえられた明智秀満の妻を保護して
継子に引き合わせた、と書かれてある
これによれば秀満妻(光秀長女)は坂本城で死んでいないし
秀満の子とされる三宅藤兵衛も秀満妻の「継子」と記載されていることから
秀満妻である光秀長女とは血縁関係がなくガラシャの甥でもないことになる つまり、天海=光秀の仮定からはじまり、
光秀と天海の筆跡で似てる文字があることから
秀満だと喚き散らす気狂いが湧いてきた
まったくの他人でも似てる文字はありうる
天海=秀満は、天海=光秀よりも可能性が薄い
というか、ただの気狂いのこじつけ だから、秀満が殺したのは光秀の妻子だろ。そんな奴が出てきたところで家康は認めない。 >>860
だから光秀の妻子は坂本城で死んでないって
光秀の妻・煕子は本能寺の変の6年前に死んでるし(西教寺の墓碑)
光秀の娘はガラシャをはじめ他家へ嫁いでおり無事
息子も長男の光慶は生きてて坊主になってる(次男以下はいたかどうか不明
自称光秀の末裔さんによればいたことになってる、とにかく次男以下も含めて無事)
秀満の妻となっていた光秀娘も無事なら誰も坂本城で死んでいない 心が荒んでるなぁw
もっとピュアな気持ちで物事考えろよ。君達にはロマンというものが分からないのか? 大河で、光秀が天海になる筋書きだったら、この説を認めてやる 正直言うと確実に光秀と天海が書いた筆跡で筆跡鑑定したなら答え出てる
どこも近い筋が書いた可能性大だが別人だって言ってる
だから光秀が書いた物、天海が書いた物なら別人だろ つまり筆跡鑑定で別人って答え出てる
あれが光秀と天海が書いた筆跡じゃないって証拠出さないと別人だね 裁判じゃないんだから、どっちが証拠を出さないと、こっちが負けなんてことはない。
お互いが書いたと言われる書物の筆跡を見る限り別人という判断をくださざるを得ないというだけ。
真実は、天海=光秀かも知れない。 日光国立公園のHPにも、以下の記載があるね。
公の機関が、この説を信じてるwww
日光中禅寺【にっこうちゅうぜんじ】に向かう いろは坂を登ると素晴らしい景色が見られる明智平があります。名づけたのは天海大僧正【てんかいだいそうじょう】といわれています。
天海は「明智光秀【あけちみつひで】」であるという説があります。
明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、京都の合戦に敗れ竹やりに襲われ亡くなったと伝えられていますが、襲われたのは影武者で、光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたというのです。
寺では、信長に焼き討ちをされたので、その敵を討ってくれた光秀を優遇したといわれています。長寿院にて是春と名のり、剃髪して仏教を学んだそうです。
比叡山の文庫のなかに大僧都にまでなった光秀の名がはっきりと記載されてあるそうです。
光秀は、天海として家光に色々と教示し、その天海が昔の名をどこかに残しておきたくて、日光で一番眺めのよい場所を「明智平」と命名したと伝えられています。
比叡山長寿院にも、願主光秀、慶長20年2月17日の日付で灯籠が寄進されているそうです。 山崎の合戦の後、三男信孝が、小栗栖で討ち取られた光秀の首と身体を合わせ、褌一丁にして、都の外れの往来が激しい街道(粟田口?)で十字架に掛けて晒した(宣教師フロイス)。
つまり信孝も宣教師も、光秀本人と確認していたということ。だからこそ秀吉は、清須会議で勝家を黙らせることができた。
よって、天海(1536-1643)は名門土岐源氏の明智一族もしくは斉藤一族かもしれないが、光秀(1528-1582)本人ではないことは明白。 だいたい生きてれば秀吉の横暴を許すわけがないと思うがな 秀吉は、天皇も足利将軍も寺社もすべて大切にしている
横暴は、朝鮮出兵と関白秀次追い落としだけだ >>870
家光の光は光秀の光で、江戸図屏風に描かれた朱傘の家光も桔梗紋を付けてるから、明智出身なんだろう。
家光には、家康と斉藤福(春日局)との子供だから幼名・竹千代説がある。
秀忠になかなか男子が生まれなかったため、家光(竹千代)を養子(嫡子)として諸大名にお披露目してしまった後で、正室浅井江との間に忠長が生まれたため、
あれだけ自分に平伏していた大名が自分に目もくれなくなり、家光が世をはかなんで自害しようとしたのを見た実母・斉藤福が駿府の家康に直訴して、嫡男に返り咲いた。
つまり家光vs忠長の兄弟争いは、明智(斎藤)vs浅井の戦いであり、前者が勝ったことで天下泰平となったのが、光秀=天海説となって残ったのかもしれない。 >>872
秀吉は釜茹でとか朝鮮問題で晩年は横暴だって言われてる 叡山を焼き討ちして、快川を殺した信長より、全然横暴じゃない >>1
エンペラーは何か知っている人なの?
現代に転生とか、そういう話でしょ
黒衣(ブラック・サバス、おずぼーん・・・)の何やら〜 他のスレにも書いたと思うんだけど、
光秀という名前の親戚がいて
宇宙王子(皇子?)という作品を読んでいたことがあったり、
ストーカーがいるのかな? あの曲(某まいく・おー)があって・・・、
なぜか5月15日生まれ?妹と同じ? ストーカーがいるのではなく・・・なにかのw
ホンモノの家なのかな? 『姥清水』
龍宮〜長い竿〜寒いな(不明)〜〜〜?
家は、このような名前の家 5月15日 wiki
豊耳聡聖徳(?)、
馬乗っていて、謎の刀を持っていたとか、ほとんど同じ それとも、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
トヨトミミ()の関係者なのかな? >>873
浅井江が、自らの立場を高めてくれる長男であるはずの家光(家康+光秀)を全く可愛がらなかったことや、
家光が「二世権現」と署名した謎も解けるな >>883
それなら、どこかの家中に文書として残っていておかしくないだろ。 家康って、自分の子をさんざん差別したのに、自分の次の代からは絶対に長子を跡継ぎと決めるなんて、ワガママだなwww >>883
弟・忠長は、顔が伯父の信長に似ていたこともあり、江から溺愛されたらしい。
最終的に名誉の切腹をさせざるをえなかったのは、忠長が秀忠実子を自覚していて、家光が将軍の座に座ることに不満を爆発させ、忠長の異常行動で徳川家中が大混乱していたから。
家光が父・家康を、異常に思慕していたのは、そのコンプレックスの裏返し。
家光は、春日局と家康の子(幼名・竹千代w)と見て間違いない。 父親が秀忠で母親が春日局ってだけでしょ?
家康が父じゃない 個人的には同一人物であって欲しいけど肖像画が全く似てないのはなんだかなあ
光秀は美男子だけど天海は違うし >>886 >>887
またこんなことをw
徳川家光は将軍になると江の父浅井長政に
自身の外祖父であるという理由で中納言を追贈
春日局が実母なら春日局の父斎藤利三が中納言 天海が本当に甲冑着けて戦場に同行したのなら、完全に光秀だな 金地院崇伝も、安国寺恵瓊でさえも、甲冑は着けなかったんだじゃないの? もと武士だったのでは?という話ならわかるが
イコール光秀になる理由がわからないなあ 春日局がお久しゅうございますと言ったんだから、光秀決定なんだよ。 >>900
本能寺の時に4歳だった春日局が光秀の顔を覚えてるかよw
だいたい幼女だったのに光秀に会ったことないんじゃない >>903
おまえ、4才のときに親戚の顔を見分けられなかったの? 4歳の時に会ったきりの人が名前を変えてたら無理だな 名前が変わっていても、25年ぶりに会った叔母を見分けられた俺は天才。 >>906
光秀は春日局の親戚じゃないだろ
お前は4歳の時に会ったっきりの親父の会社の上司の顔を
20年後に見分けられるの どっちとも言えないが…
斎藤家にとって、光秀は親戚以上、神様のような存在だったでしょ
お福が乳母になったのは25歳くらいだから、もし光秀が天海だったとしたら20年ぶりの再会…
それくらいじゃ見分けられるのでは?
また、これも天海=光秀という大前提だけど…
天海に会う前に、「実は、おまえの元主君だ」って聞かされた上で会わされたんじゃない?
だとしたら、顔を覚えてなくとも「お久しゅうございます」は不自然じゃない。 斎藤利三は主君変えまくって光秀に従ったのは晩年でしょ
もとは光秀の同僚だった時期もあるらしいし神様なわけがない 父親が光秀なんかに仕えなければ春日局は4歳で
路頭に迷うことにもならなかった
光秀のことは怨んでいたと思う 久しぶりにあった人全員に当てはまるんだから
完全に無意味な話だよ 権勢を誇った春日局が、そこまで低姿勢なんだったら、「かつての主筋」だろうね >>869
>光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたというのです。
>寺では、信長に焼き討ちをされたので、その敵を討ってくれた光秀を優遇したといわれています。
ノリノリで焼き討ちを率先した光秀を匿うはずがない 最近の説かと思ったら、江戸時代中期くらいから言われていたものらしいね 天海の豊臣潰しが熾烈すぎるので
余程豊臣家に恨みを持つ者だという推測から出た話 豊臣に恨みを持つものなら光秀以外にもいっぱい居るぞ。織田家のほうが恨み強そうだけど >>925
家康は秀吉も嫌いだったが信長も嫌いだった
織田なら重用せんだろ
織田信雄や織田有楽斎は大坂の役のギリギリまで
姪の淀殿のところにいたというのもあるし >>924
てか家康の豊臣潰しだろ?天海はサポートしたにすぎないから うん。だから秀吉には話を通さずに事を起こしたんだろうね。
細川も秀吉も味方にならなかった恨みから、天海になってから豊臣つぶしをしたのだろう。 天海は豊臣に対する復讐を果たしたというが
天海=光秀なら秀吉に討たれていないことになる
つまり前提が破綻している
そもそも家康は本能寺の変直後に自分をついでに討とうとした男を側近に使うか?
駿河の人質時代に怒られた侍を数十年後駿河領を支配した時に処刑したほど執念深いぞ 討たれていないから、復讐できたのでは?
頼朝も清盛に討たれずに済んだから復讐できた
あなたは歴史を復習なさい >>939
光秀が天海かどうかにかかわらず
神君(=東照大権現。家康の事)伊賀超えは眉唾物だと言われてるだろ 光秀が天海かどうかにかかわらず
本能寺の変を家康が知っていて対処した可能性はある
つまり光秀と家康は通じていた
それは秀吉も同様で…
だとしたら、光秀は秀吉に怒りをもっていたとしても不思議じゃない… >>942
秀吉は本能寺の変を聞いた後で毛利と和睦している
信長・信忠が死ぬと最初から分かっていたら
無謀な中国攻めなどまともにやらずのらりくらりしてたはずw 中国大返しも神君伊賀越も怪しいよね
明智が信長を討とうとしてる情報を秀吉も家康も知ってたと思う >>945
じゃなぜ、それを信長に知らせないの?
秀吉も家康も、知らせれば恩賞間違いなしだが 信長が死んでもらった方が良いと皆が思ってたから黙認してたんだろ。 それはない
個人的に攻撃を受けた奴はそうだろうが
戦乱の世や混乱がある程度落ち着いて来たのだから
信長は必要 泰平の世の天下人という意味ではそれは信長でなくても良かった。実際ぽっと出の秀吉でもある程度務まったし、最終的には源氏長者の徳川家康に渡ったが、誰も信長の天下を望んでた勢力は無かったよ >>950
誰もいなかったって、当時生きてたわけでもないのに >>951
まああの頃は大変だったな。、昨日のことのように思いだすよ 信長って、対抗勢力とこき使われた直参には嫌がられたかもだけど、民衆や素直に従った人にとっちゃ良い人だったんじゃ… 寧々に送った手紙など、信長はいい人としか思えない。 天海が光秀だとしたら、一族郎党がみんな死んだのに、自分だけ生き延びた未練者ということになる
光秀がそんな人物だったとは、思いたくない >>940
光秀が天海に化けた過程を誰にも納得できるように説明できるなら
キリストが日本で死んだという説も多分説明できる
平知盛が対馬宗氏の先祖に成ったという説の方がよほど信憑性がある フロイスの光秀評があるから
天海の正体は明智光秀じゃないのか?と思っちゃうよね
「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、
独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、
戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。
また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた」 昔YouTubeにあった動画(1990年代のテレビ番組) で初めて光秀=天海説を知った
児玉清がレポーターやってたな
岩辺晃三という光秀=天海説を推す人が出ていてちょっと調べたりしたわ 敵は、(エリカ様の)本能にアリ!
(※ MDMAシャブSEX )
エリカ様 NHK大河ドラマに、ご謀叛!
是非もナシ・・・
(※ 主役が明智光秀だし、しょうがない罠w) 勝手なこと書くな。
エリカ様は、シャブはやってない!
頭脳派のジャンキーだぞ! 信長から家康殺害を命じられた光秀が、一世一代の賭けに出て
家康に全てを打ち明け共闘しようとしたが
家康が裏切った、或いは初めから了承したふりをして状況を見て動くつもりでいたが
流石に秀吉の大返しまでは予測できなかった。
家康は秀吉が死ぬまで、こいつも自分とは別ルートの謀略に絡んでいたのでは?と疑り続けたに違いない。
おそらくは秀吉と二人だけの場で、さり気なく信長の話題を持ち出して反応を伺ったりしてたんだろう。
死にかけの秀吉から秀頼のことを頼むと言われた時に、家康は内心せせら笑っていた筈。
「老いぼれが…アンタがしたことを俺がやっていけない道理があるのか?」とね。
もしかすると人払いをして、本能寺の件は事前に知ってたんでしょ?と秀吉の耳元で囁いた光景すら妄想してしまうな。
概ね、明智の子孫の人が言っていることに同意する。 俺は、明智の子孫と言われてる人は明智の子孫じゃないと思う
本当の明智の子孫は、今上天皇 >>969
自称子孫の説は、学会ではまったく相手にされていない
子孫の本なんか読むくらいなら、鈴木眞哉、藤本正行の本を読んだほうがいい >>820
光秀本人を知ってるはずの織田有楽斉や織田信雄は家康や秀忠夫妻と親しくて、江戸城にしょっちゅう出入りしてるぞ。天海が光秀だったら絶対バレる。天海=光秀説が信じられない一番の理由だな。 あと細川忠興なんかも、光秀の顔を知ってるから、江戸城ですれ違えば、すぐにバレる 江戸城で光秀にペコペコする家康や秀忠を見て、忠興は肝を冷やしたろうな
忠興が味方についたら、下剋上が成功したやもしれん いやさすがに天海に扮した状態なら光秀時代を知ってる人物とは遭遇しないように行動したしできただろ。細川忠興が来そうな日程や場所なんてのは全部把握して避けてたに違いないよ。 >>976
諸大名は参勤交代で江戸屋敷にいるときには江戸城への登城義務があるから
どのみち会ってしまうんだが
日光東照宮の采配も任されていたから諸大名にそれぞれ工事分担したのも
天海だろうし 殿中で顔を合わせても、表立って
「お身は、日向守どのでござらぬか」
と言えぬ、我々のつらさよ。 会う事があって
似てるなーとは思ったけど
だいぶ前に死んだ人だし
家康と光秀の繋がりは知れてないから
まず、他人の空似程度にしか思わなかったと思うよ
喋ったら声でわかる人も居たかも知れないけど
喋らなければ良いわけだし
その辺は明智光秀なら人を欺く事は簡単だ 関ヶ原に出陣してたぐらいだからただの坊主じゃないよ わかるとしたら、信長の遺児や弟たちくらい?
もちろん忠興や津田信澄くらいのつながりだったらわかるとして、他の大名レベルじゃ、わからないだろ。
光秀と居並び信長の軍議に参加してたくらいの連中じゃないと、判断は難しいと思われ。 >>979
4歳の時に会ったっきりの春日局が一目見て光秀だと気づいたのだから
よっぽど特徴的な顔してたんだと思うよw
幼児でも忘れられない顔だから他の大名たちなど一目瞭然w >>981
ルイス・フロイスでも光秀の顔を見たことあって人となりを知ってるのだから
織田家家臣や友好関係にある諸大名は広く知ってたはずだよ
光秀は一時期信長の命令で京都に自宅を構えて住んでいて
信長の使いで天皇や公家のところへもよく行ってるからね
そっちからも公家の日記やお湯殿日記に残ってないのがおかしい 光秀は信長の命令で天皇や公家のところへ行っていただけで
別に親しくなかったらしい
光秀は近衛前久の自宅から出撃したという噂を建てられた前久が逃げ回ってるが
前久自体、武家と親しい嫌われ者だったから流されただけらしいし
他の公家は光秀のことなど誰もかれも知らん顔 >>984
そんなお前におススメの本がある
鈴木眞哉・藤本正行「信長は謀略で殺されたのか」(洋泉社歴史新書) 天海の字と光秀の字は別人なんだろ?
間違いなく本人が書いてるなら同一人物じゃない あの時代も、今の時代も、本人が書くことは稀である
俺も年賀状・礼状は、すべて女房に任せてるわ まあそんなことを根拠の一つにしないといけない時点で相当苦しい説だな >>988
それなら筆跡鑑定しないでしょ
本人が書いてると思ってるから筆跡鑑定してるわけで 紙に汗や指紋がついていれば、指紋鑑定とか、DNA鑑定とか 戦国の世で活躍したのは前を向いたものたちだと思うんだよな
伝統や既得権益や復讐のような概念を持つものは淘汰された
光秀は室町再興や土岐家や斎藤家などの怨念を背負って信長と対峙した
家康が天下を取ったとき、戦国の概念と真逆の新しい伝統や既得権益を作り出そうとした時、光秀のような感覚の存在を参考にしたとは思う
同一人物とは思えないけど、例えば仏門に入った甥や従姉などの縁者だとは思うね >>992
光秀は室町幕府再興なんて願ってないでしょw
義昭に従わず信長直臣になったし本能寺の後あわてて
雑賀衆に自分のバックには義昭公がいるから安心して援軍を送ってほしいと手紙を書いたが
実際には毛利に匿われている義昭と連絡を取っていた形跡はなく雑賀衆も信じなかった
足利義昭の子や孫たちは出家させられて生きていたのに
江戸幕府は別に取り立ててないしね そりゃ江戸幕府が出来てしまえば室町幕府再興は諦めるでしょ このスレッドは1000を超えました。
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