光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 『トヨトミミ』
グーグルで検索しても同じような画像ばかり :カブキロックス『虹の都』
:mike oldfield『let there be light』
『バトシーラー つちわらし』ググると
『最初の人間』という作品の画像が出て来たり 知恵 リンゴ関係の話だと思う、
日本では『ヒドラの市』という人物が・・・・同じ存在 ヒドラの市=三つ首の竜、蛇?
すさのお・・・同一の存在 最近、観た作品なんだけど、少年ジャンプの作品
市(市子という女のキャラになっていた)
「売国奴が何やら」と言っていたり その市子というキャラの髪の色
たしか銀髪、アッシュ 灰色?だった いつの時代の話なんだろう
臣下、配下だか知らなけど、
実際は上の人間(凄い家)だと書いてあるはず、
某という家(人物)の配下なんだけど、その家よりも上の家
シンデレラ(日本版)という話もそう、
着物を縫っていたりした家の話 同じような話
wiki『シンデレラ』→『落窪物語』
落窪の姫:ヒロイン。
皇女を母に持つため、出自は継母や異母姉妹達より遥かに高いが、
継母から下女同然の扱いを受けていた。
長年針子として家族の着物や小物類を縫わされ続けていたためか、
裁縫が非常に得意。 この話でしょ
『何者にもなれない お前たち』
家の写真と同じような気がするんだけどw 『キュウリ』『葱の華』が写っていて、
むかーし、どこかの城に通い、機織りなんかをしていた家だと言っていたし
どういう事なんだろう、蚕を飼っていたとか 『須 王 津』
この話と同じような気がするんだけど、
菅原氏の事も書かれていたり
電気(発電)を起こしていたというのは、
本当は、いざなぎ、いざなみの話でしょ とりあえず、農民に竹槍で討ち取られたのは嘘なんだよ 光秀が比叡山延暦寺の土地を奪って
坂本城を築いたのに? 焼き討ち後は、延暦寺は光秀の管理下で問題もなかった。
光秀はその間、延暦寺を懐柔したのだろう ねえねえ
じゃあさ、光秀が生きてたらと仮定してだよ?
比叡山に逃げ込んででもいいし、他のところに逃げたでもいいし、
とりあえず、山崎の合戦から、ほとぼりが冷めるとするよね?
でさ
足利だって、織田有楽だっているわけだしさ、
最強・秀吉の御伽衆になればよかったんじゃないの?
天王山でぶつかったとはいえ、もともと光秀と秀吉は仲悪くなかったわけだし
切磋琢磨した仲だし
協力し合い金ヶ崎の殿軍を務めた仲だし
なぜ、わざわざ、徳川なんかに駆け込んだのかね?
「実力」や「義理堅さ」だけで考えたら、徳川よりも上杉、毛利、島津、加藤、福島、黒田なんかだよね?
そう考えると、やっぱり、本能寺の変の黒幕って、家康だからなんじゃないの?
本能寺の貸しを返してもらう意味で、徳川のところに行ったんじゃないの? 可能性1
本能寺の変は、家康と光秀の共謀
可能性2
本能寺の変は光秀冤罪で秀吉が光秀を謀反人に仕立てた フロイスの光秀評
「己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」
これが本当なら、山崎の戦いて負けたなら、天海になっていてもおかしくないとは思う
証拠も残さないで、天海の出自も偽装しそうだ >>519
いやいや、もちろんそうなんだけど、
「受け入れる側」である徳川の素地も重要だよね?
光秀が、いきなり訪ねて来たところで、シカトすりゃあいい話。
光秀に能力はあるのは明白だから、姓名を変えて重職につけるくらいまではよし。
もちろん、秀吉が首実験したことになってるから、秀吉に届け出て秀吉の顔を潰すことはできない。
自身の部下にして、土岐氏を再興させるとか、旗本として幕末まで置いとくくらいがちょうどいい。
しかし、家康のやったことってさ「幕府の指南役」に迎え入れちゃってるわけ。
つまり、自身も師事し、平伏してる。
そこまで光秀を厚遇するということは、なんなんだろうなって話。
(もちろん、光秀=天海として論じてます)
結局、本能寺の黒幕で、臆するところがあるから、光秀を厚遇したんじゃないかと…
あと…
このスレでは書かれてないけど…
家康の死の淵に際して、藤堂高虎は頻繁に見舞いに訪れたことは周知の事実なんだけど、
天海が光秀だとしたら、天海を見て高虎は何も思わなかったのか疑問です。
高虎は、大納言秀長卿の右腕だったわけだし、天王山で光秀を打ち破った主力は秀長軍でしょ。
光秀の顔はよく知っていたはず。
藤堂家の側近に何か伝わってても、おかしくないんじゃないのかなあ >>516
延暦寺は光秀の管轄下に入ったことはない
坂本に侵略して坂本城を建てた光秀は
焼失した延暦寺の伽藍をそのまま放置
豊臣秀吉の寄進まで延暦寺は死に体 光秀は延暦寺政所を置いていた。
延暦寺は光秀の管理下にあった。 延暦寺政所は創建当初からあり光秀が置いたものではない
また延暦寺から信長に直接光秀に寺領を奪われたという訴えがなされ
信長がこれを認めて光秀に返すように言っている
延暦寺にとって光秀は略奪者でしかなかった 光秀が坂本を治めていた時代、延暦寺政所は光秀の与力が務めていた。 >>523
それ、どこの資料にあるの?
延暦寺ではなく、京の東寺から光秀が横領して訴えられたのと勘違いではないの?
義昭が光秀に対して給付した八幡宮領山城下久世荘は東寺に所有権があると幕府と朝廷に訴え出ている文書が残ってる
永禄12年か元亀元年の4月のことらしい(どちらの年かはっきりしない)
この頃、光秀は幕府から恩賞を受けていた
延暦寺の所領は焼き討ちの後
信長の命で押さえて信長から光秀に与えられたのに
延暦寺が信長に訴え出ても仕方ないのでは? まだ言ってるの?ガチだと言ってるでしょ
家の親戚の話をしているんじゃないの? 上の名前は明智ではないけど光秀という名前、
母親の旧姓:『天王宮 山王院』のような名前 伊達郡に、とある山があって、
昔そこの山の上のほうに住んでいたことがある
という話でしょ ポケモソ?と信長の野望のコラボ、
光秀、フリーザ、寒い?が出て来たり これは偶然なのかもしれないけど、オズボーンの曲
死ぬために生まれてきた?みたいな曲があったり 普通に考えてもわかる、
ポケモンとか、他のゲームや漫画などもそう、
詐欺のような感じがする、原作者、原案者がいると表記されているけど?
実際は他の人(家)の話でしょ 天王(不明)の宮(家)だと書いてあるはず、
どういう事なんだろう
例えば『ボーボボ』
調べると出てくる画像とか、家の写真と同じじゃない? 『』内を調べてみて、
『葱の華』が写っていて『胡瓜の葉』も写っている?
『何者にもなれない お前たち』? 光秀天海説で一番の障害になってるのは年齢じゃないよね
明智光秀の家臣の多くが徳川家臣として取り立てられてるが
光秀直系の子孫が徳川家臣になっている者がいない事だよね
徳川幕府の重臣の家柄に明智光秀の子供でも居れば信ぴょう性があるのになと思う >>543
光秀の息子は行方知れずなので除外するが
光秀の孫は熊本藩主と旗本になっている
その旗本は大坂夏の陣で豊臣方についたにも関わらず
幕府に召し抱えである >>545
熊本藩主になった光秀の孫って細川忠興の息子だろw
細川家は豊臣政権でも大名だったし
光秀の孫だから徳川家康が一介の浪人を取り立てて熊本藩主にしたわけでもなんでもない
しかも熊本藩8代藩主以降はガラシャの血を引かず忠興と側室の血筋になっており
元首相の細川護煕などもこの血筋のため光秀の血をひいていない
旗本になったほうの光秀の孫は津田信澄の息子
津田信澄は織田信長の甥で織田政権では信長の三子(信忠、信雄、信孝)に次ぐ
序列を誇った近親者
光秀の男系が取り立てられていないことからも
光秀のための取り立てでなかったことが分かる >>547
光秀は家系図上、7人ぐらい男子がいる
その後どうなったか全員不明 >>543
実際は明智より武田の家臣の方が多く取り立てられているがな 明智光秀=天海説の一縷の望みは
天海が光秀なら、家康と光秀が天下を取ったという事だ
家康と光秀といえば
「タヌキ親父」と「偽装するのに抜け目がなく、…計略と策謀の達人」だと評されること
江戸幕府をひらいてこれより先、謀反を許す前例を作る訳にはいかないから
謀反人明智とは関係無い別人や別の家族になりすまして抜け目ない偽装でわからなくする
人を騙すのが得意な2人が天下を取ったなら、それは簡単に出来そうだ >>548
明智〇三郎の祖先が載っている系図ならパチモンだぜ? 主人殺しとは距離を取るのが普通だろ
自分の評判が下がるだけ 何言ってんだい!
親殺しの斉藤道三だっているし
信玄だって信虎を追放してるやい!
分家が主家を追い落とすなんぞ、当たり前の戦国時代だい!
それを言うなら、天子様や公家を粗略に扱った信長こそ、大謀反人だい!!! 大義名分も味方もいない主人殺しは戦国時代でも受け入れられない
戦国時代を誤解してるだろ 一番大義名分がないのが、大阪の陣だなw
イチャモンつけて、なにがなんでも開戦
なにがなんでも堀を埋めちまえ
やっぱり、裏で明智が全部指導したのかなw 天海の弟子たちとか、川越の喜多院なんかを継いだ人って、純粋な僧侶?
武家上がりとかいなかったのかな?
もしくは、明智の血筋とか よほどの高僧でない限り、僧侶の俗世時代の情報は後世に伝わらないし 待て待て
天海って「よほどの高僧」だぞ!w
大僧正な上に、死して大師じゃねえかw
弘法大師と同列だ! 喜多院の後継者たちのことについて書いたつもりなのだが 織田有楽と天海が江戸城の廊下ですれ違って、
有楽が「あーーーーー!!!!!」と天海を指差して叫んだという逸話でもあったら、
光秀=天海説を信じてやるぞ テレ東の筆跡鑑定は本人
NHKの筆跡鑑定は別人なのだが…似てるくせも多く、近親者・血縁者の可能性大などというものだった…
本人じゃなくとも、明智の血縁者が幕府の中枢に入り込んでるという時点で十分にセンセーショナルなのだが…
てか、やっぱ本人の可能性が高いのだが
有楽は光秀をよく見知っていたの?
有楽は佐々成政について戦に行ったけど使い物にならず、ほぼ官僚だったんじゃないの?
姉川の合戦も、光秀が華々しい活躍した姉ヶ崎の殿軍も見てないんじゃないの?
その後は、信忠について甲州に行っちゃってたんじゃないの?
本能寺の変から20年以上経ってるんだし、容姿も変わってるし、坊主頭だったら見分けがつかないんじゃないの?
そもそも有楽は本能寺の変の折、逃げ回ってるわけじゃん。もし本物の光秀と対峙したとしても対決する矜持なんて持ってないんじゃないの?
家康の懐刀なんだし、お追従を述べて終わりでしょ。それが有楽の生き方でしょ? このスレに狂気が過ぎたる者
一人語りの統失と光秀天海説に憎悪を向け異常なこだわりを見せる自閉症 >>566
筆跡鑑定で、仮に光秀本人の書と偽書をサンプルに使っていたのなら別人判定が出るよ 本能寺の変後、細川家に最後に送った助けを求める書状の筆跡で
素人が見ても天海と全然違うから別人だと言ってた人のブログ読んだことあったけど
あれ、偽書と言う人もいるよね
筆跡鑑定するなら、ボストン美術館蔵の光秀書状と比べればいのに
光秀直筆らしい、なぜそれが直筆だと認定されてるのか知らないけど 光秀が細川に送ったという書状の字は、汚い字なんだよな
それは、精神的不安定さのなかで光秀が書いたからなんて説明する人がいるけど
山崎の戦い直前に書いた土橋宛書状は汚い字じゃないんだけどね
細川宛書状は、字の汚い細川家臣が書いた偽書?のような気もする >>571
あの書状は信長が死んで細川親子が剃髪した事を光秀が知った後の6月9日付のものだけど
細川とは婚姻関係もあったし、この書状の前に既に味方になるよう、光秀から書状があってもいいのにそれはの遺されて無い
あの書状が語るのは
1、細川親子は本能寺の変に全く関与してなかった事
2、光秀の政権下なら摂津、但馬、若狭いづれかの領国を貰えた事
3、光秀の謀反は息子達、次世代の為以外には理由がない事
の3点
偽書だとしたら、何かわからないけど3番目で何か他の謀反の理由を隠してるように読み取れるよね その書状の内容は非常にみっともない
光秀はこういう手紙を出すようなへたれだったんです
ということを喧伝する目的で細川が偽書を作ったとしたら
細川のゴミぶりがすさまじい >>571
そもそも土橋宛のは光秀直筆なのか?
普通、対外的な文書は祐筆が書くよね 光秀は雑賀衆に対しては
自分の背後には足利義昭が付いているから
安心して味方に付いてほしい
まずは早急に援軍を送ってほしいといってるし
この時期の光秀がはったりかましては
援軍を募っていたのは事実だよね >>575
確か義昭とは明言してなかったはずだけど、本当に義昭の事で良いのかな?
義昭を見限って信長に付いた光秀なのに、今更義昭をまつりあげるかな?
かなり切羽詰まっていたとはいえ、不自然だなぁと
義輝の遺児の可能性とかはないのかな? >>576
「上意」といってるから将軍だよ
足利義輝の遺児に雑賀衆への命令権などない >>574
文書は祐筆が書くという前提だと、筆跡鑑定の前提条件も崩れてしまうねw
また、祐筆が書いたとすると、細川宛書状の悪筆ぶりが解せない
公的文書は、通常字が上手な者が書くだろうし。細川宛書状の疑惑が深まってしまうw >>578
豊臣秀吉などの例だと対外的な文書は祐筆に書かせるが
自分の身内に宛てたもの(北政所、茶々、豪姫など宛)は直筆で書き
この手紙が残っている
細川は娘婿で光秀の身内だから
身内あての手紙として光秀が直筆で書いた可能性がある 寺や神社に奉納した文は光秀直筆だと思うが、それらと比べても細川宛文書の字は悪筆。
また、wikiにもあるが、細川宛文書は文書の形式に則っていない。現代で置き換えると
小中学生が書いたビジネス文書みたいな感覚。光秀ほどの者がそんな文書を出すだろうか?ということもある ここまで議論してわかるとおり、天海が細川家に何も融通してやらなかったのは当然 だな。親戚筋から字が汚えと喧伝され、更に相手にされなかったことにされちゃったんだから。
天海の細川に対する怒りはすごかったろう。 本徳寺に行けば、いつでも光秀公の肖像画を見ることができますか? 本徳寺が公開期間を決めているようですよ。
今年は顕彰会のイベントでも肖像画を公開していたようです。 しかしあの絵は数ある戦国大名の肖像画の中でも屈指の美形だよな
光秀が死んで大分経ってから描かれたものらしいけど 娘も息子も美形と言われてるから不細工では無かったのだろうと思う
美形で頭良くて出自良ければ妬まれるねw
でも、天海って美形?? 天海の肖像画はデフォルメされているからアレだけど
天海の彫像は写実的で美老人だよ 大河ドラマの「麒麟がくる」だけど
麒麟とは王が仁政を行うときに出現するとか書いてあるね
王とは信長のことを指すのかな?でも信長は「仁」のイメージじゃない
もしかして、王とは家康のことを指したりして >>589
では、名前は明かされないけど、光秀に似た人が僧体で関ヶ原の家康の陣で参謀として現れたり
方広寺の鐘銘にイチャモンつける事を進言したりするのかも? 天海の人生における見どころはだな、
改易され、失意の中にいる福島正則を助けようとしたところだよ
なぜ、幕府の宗教面を支える僧侶が、豊臣恩顧の罰せられた大名をなんとかしようとしたのか?
天海と福島正則の間になにかあったのか?
そうじゃなくて、光秀と正則の間になにかあったのか?
そこが、この問題の醍醐味なんだよ そうだな。下戸の光秀が、大酒飲みの正則に、何故シンパシーを感じたのか不明だ。 確かに天海が下戸だったと証明されれば、光秀=天海説に信憑性が出るかもw 光秀下戸説は、信長が光秀にパワハラした話が根拠だったと思う
光秀が下戸というのも実は定かではないかも >>590
おんな城主では、関ケ原の戦いがちらりと入ったよね
そんな感じで天海の関ケ原とのかかわりを描写できるかも
>方広寺の鐘銘にイチャモンつける事
これこそ仁政だよ 光秀の出自は、有力なのが2説ある。ひとつは美濃春日井明智城の一族、もう一つは美濃恵那郡
の明智城の一族。前者ならば、光秀は美濃土岐氏の一族の出身、後者なら美濃遠山氏の一族出身
となる。どちらも美濃の名門でだが、恵那の明智には、山崎の合戦後、一人の侍が現れ、主人の
形見として弔ってほしいと鎧帷子を置いて立ち去ったとの伝説が残っている。
もしこれが本当ならやはり光秀は山崎の合戦で討たれた可能性が高いのではと思ってしまうな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています