光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 光秀は雑賀衆に対しては
自分の背後には足利義昭が付いているから
安心して味方に付いてほしい
まずは早急に援軍を送ってほしいといってるし
この時期の光秀がはったりかましては
援軍を募っていたのは事実だよね >>575
確か義昭とは明言してなかったはずだけど、本当に義昭の事で良いのかな?
義昭を見限って信長に付いた光秀なのに、今更義昭をまつりあげるかな?
かなり切羽詰まっていたとはいえ、不自然だなぁと
義輝の遺児の可能性とかはないのかな? >>576
「上意」といってるから将軍だよ
足利義輝の遺児に雑賀衆への命令権などない >>574
文書は祐筆が書くという前提だと、筆跡鑑定の前提条件も崩れてしまうねw
また、祐筆が書いたとすると、細川宛書状の悪筆ぶりが解せない
公的文書は、通常字が上手な者が書くだろうし。細川宛書状の疑惑が深まってしまうw >>578
豊臣秀吉などの例だと対外的な文書は祐筆に書かせるが
自分の身内に宛てたもの(北政所、茶々、豪姫など宛)は直筆で書き
この手紙が残っている
細川は娘婿で光秀の身内だから
身内あての手紙として光秀が直筆で書いた可能性がある 寺や神社に奉納した文は光秀直筆だと思うが、それらと比べても細川宛文書の字は悪筆。
また、wikiにもあるが、細川宛文書は文書の形式に則っていない。現代で置き換えると
小中学生が書いたビジネス文書みたいな感覚。光秀ほどの者がそんな文書を出すだろうか?ということもある ここまで議論してわかるとおり、天海が細川家に何も融通してやらなかったのは当然 だな。親戚筋から字が汚えと喧伝され、更に相手にされなかったことにされちゃったんだから。
天海の細川に対する怒りはすごかったろう。 本徳寺に行けば、いつでも光秀公の肖像画を見ることができますか? 本徳寺が公開期間を決めているようですよ。
今年は顕彰会のイベントでも肖像画を公開していたようです。 しかしあの絵は数ある戦国大名の肖像画の中でも屈指の美形だよな
光秀が死んで大分経ってから描かれたものらしいけど 娘も息子も美形と言われてるから不細工では無かったのだろうと思う
美形で頭良くて出自良ければ妬まれるねw
でも、天海って美形?? 天海の肖像画はデフォルメされているからアレだけど
天海の彫像は写実的で美老人だよ 大河ドラマの「麒麟がくる」だけど
麒麟とは王が仁政を行うときに出現するとか書いてあるね
王とは信長のことを指すのかな?でも信長は「仁」のイメージじゃない
もしかして、王とは家康のことを指したりして >>589
では、名前は明かされないけど、光秀に似た人が僧体で関ヶ原の家康の陣で参謀として現れたり
方広寺の鐘銘にイチャモンつける事を進言したりするのかも? 天海の人生における見どころはだな、
改易され、失意の中にいる福島正則を助けようとしたところだよ
なぜ、幕府の宗教面を支える僧侶が、豊臣恩顧の罰せられた大名をなんとかしようとしたのか?
天海と福島正則の間になにかあったのか?
そうじゃなくて、光秀と正則の間になにかあったのか?
そこが、この問題の醍醐味なんだよ そうだな。下戸の光秀が、大酒飲みの正則に、何故シンパシーを感じたのか不明だ。 確かに天海が下戸だったと証明されれば、光秀=天海説に信憑性が出るかもw 光秀下戸説は、信長が光秀にパワハラした話が根拠だったと思う
光秀が下戸というのも実は定かではないかも >>590
おんな城主では、関ケ原の戦いがちらりと入ったよね
そんな感じで天海の関ケ原とのかかわりを描写できるかも
>方広寺の鐘銘にイチャモンつける事
これこそ仁政だよ 光秀の出自は、有力なのが2説ある。ひとつは美濃春日井明智城の一族、もう一つは美濃恵那郡
の明智城の一族。前者ならば、光秀は美濃土岐氏の一族の出身、後者なら美濃遠山氏の一族出身
となる。どちらも美濃の名門でだが、恵那の明智には、山崎の合戦後、一人の侍が現れ、主人の
形見として弔ってほしいと鎧帷子を置いて立ち去ったとの伝説が残っている。
もしこれが本当ならやはり光秀は山崎の合戦で討たれた可能性が高いのではと思ってしまうな。 >恵那の明智には、山崎の合戦後、一人の侍が現れ、主人の
>形見として弔ってほしいと鎧帷子を置いて立ち去ったとの伝説が残っている。
これは何という資料に出ているの? これは明智に伝わる伝説です。たしかそこに石碑があったと思います。
今は朝ドラのロケ地で人気の岐阜県岩村というところの近くになります。
そこに残る岩村城は、江戸時代松平一族が治めていましたが、元々
は遠山氏の本拠で明知城はその支城に当たりました。江戸時代には廃城に
なっているので、今はただの雑木林ですが、光秀にかかわる伝承は
地元では根強い人気があるようです。 それでその鎖帷子の現物は今でも遺されているのかな? >>602
確か供養塔に納められて現存は確認できないかと。そこは光秀の墓と伝えられているようですね。 >>604
ありがとう
明智光秀の供養塔や首塚、胴塚ってたくさんあるね
ガラシャが供養したといわれてる京都宮津市の盛林寺にも首塚があるよね
ガラシャの元には頸が三体持ち込まれたが、どれも光秀のものではなかったと読んだことがある
でも、ガラシャは光秀だと思って供養したのかな 教派的には違っても、とても信頼してた事は確かでしょ? 徳川家康の臨終の際の遺言は
駿河の久能山に我が遺骨を葬り
下野の日光には位牌だけを祀れだったのに
勝手に天海は自分の墓を造っていた日光にも
家康の遺言に背き分骨する始末の坊主 天海もメチャクチャやったなw
そのへんは光秀とキャラが違うのか、一緒なのか 明智光秀が禿げてたとかカツラを使用してたというのは信頼できる文献では見当たらない
明智光秀は禿げだったという記述は
ハゲ=坊主=明智光秀
つまり、光秀は僧侶になったと暗に言いたかったのではないかな? 信長にキンカ頭って言われてたんだからツルッパゲだったんじゃないの どうでもいいがキンカ頭ではなくて
金柑(きんかん)頭だよな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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TGA ヒストリアで水野勝成やってたけど
明智の日向守を踏襲したから怪しいな
すべてを知ってるんだな 任官した時、家康から「光秀の武功にあやかれ」と光秀所用の熊毛の朱槍をプレゼントしてもらった人だね
「鬼日向」さん
家康は光秀存命中も友好関係にあったし
本能寺の変後も明智光秀の事を悪く言ってないよね これは信憑性が高い説なんだが
子孫と称する怪しい人たちが
おかしなことを言ってるから
相手にされない ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな >>628
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戦国時代だからあまり表沙汰にされてなかったけど、秀吉の家臣奉行官兵衛が大麻をやって天下統一をサポートしました
江戸幕府後には徳川家康が大麻を研究し、幕府御用達となった 十兵衛の頃から諸国漫遊してたから、地理から宗教から医術から兵法からすべてに通じてたんだろうな
一方の三成は、敗走して生米を食ったせいで腹を壊してた
そこが光秀と三成の差だな
鉄砲・大砲には、特に通じてたろう
関ヶ原だって光秀(天海)あってこそ
それに得意の鉄砲隊を用い、おやっさんと共に金ヶ崎の退きを成功させたからな
おやっさんと違って苦労知らずの秀頼を捻り潰すのなんて楽勝だったろう
家康はいい人材を味方につけたもんだ >>634
三成が腹壊してたのは敗走する前からで生米食ったせいではない
関ケ原の戦いの最中も腹壊してたし
処刑される前も水を所望して刑使から「柿ならある」と言われ
柿は腹をこわすからいらないと言った
もともと腹を壊しやすかった
だいたい光秀の前半生は不詳
大河板や日本史板で光秀は室町幕府の裕福な高級官僚だったと騒いでる奴がいるくらい 光秀天海説での光秀の前半生って
若い頃僧侶だったから年取って天海になれた説じゃないのん? いやいや。
天王山のあと、延暦寺に逃げ込んで僧侶になったってやつでしょ。 光秀って、いろんな武将から一目置かれてたから、やっぱり前半生、苦労したんだろうね。
出自がいいから、あまり語られないけど、経験値では秀吉並だったのかな >>638
いろんな武将から一目置かれていなかったから
信長・信忠を殺したのに天下取れなかったんだろ 秀吉が戻ってくるのが常識外の早さだったんだよ
もう少し遅ければ、違った展開になったんだよ >>641
本能寺の直後から山崎の戦いまでの間に
有力大名らが誰も光秀を支持して光秀の臣下になる方針を打ち出していない さすがに、下剋上・逆臣だから、みんな日和見だろうな。
将軍宣下でももらわんと。
中国大返しが成功してなかったらどうなったか見ものだね。 >>643
中国大返しして秀吉が近畿入りしたら
皆秀吉のところへ一斉に集まってきたから
みんな秀吉が帰ってくるのを待ってたんだよ
秀吉は人望があるから 信忠だよなぁ。
なんでお前さんまで討ち死にしてんだよって話でさ。
織田家家督の信忠さえ生きてれば、禿げネズミや狸爺が
政権簒奪する余地はなかっただろうに。 それを言うなら、前田利家がもう少し長生きしてくれたら
そもそも、豊臣秀長が死ななかったら
だな たった2,30年の間に歴史観ってごろごろ変わるんだなあ
おれがガキの昭和の頃は、秀吉が貧しい百姓から努力と気配りで関白にまでなる
実直なヒーローとして扱われていた。「おんな太閤記」の西田敏行の功績大。
信長はキチガイ扱いだったし、光秀は裏切り者の3日天下のヒールとしか社会の先生から教わらなかった。
変わらないのは家康の狸オヤジw 名前が似てるからって光秀と三成を同じカテゴリーにするのやめてほしいw まったく似ていない。光秀はひかり☆。三成はただの3 間違える人多いよね
石田三成の肖像画すごく年寄りに見えるね
享年40歳なのに
明智光秀の方が若く見える
やっぱり、明智光秀は定説(享年55歳)より若かったのでは?と思う 肖像画は何歳の時がモデルかわからんだろう
淀殿が高野山に収めた両親(浅井長政とお市)の肖像画も
浅井長政は没年29歳、お市は没年37歳だが
お市のほうを老けて描いているわけではない >>651
光秀の子供の年齢などを照らし合わせると、光秀若かった説のほうが妥当だよね >>643
秀吉が潰れても勝家が残っているからね。 >>652
別に肖像画が晩年の姿だと決まってるわけでは無いからね
でも、淀殿の場合は両親の肖像画を奉納するのに
浅井長政の死後、再婚して再婚相手と自害を選んだ10年後の母の姿では釣り合いが取れなかったのだと思う
両親が生きてて幸せだった頃の両親の姿を選んだのだろうと思う
明智光秀は死後に描かれた肖像画だけど
何か特別な理由が無い限り、普通は晩年の姿だと考えて良いのでは無いかな
今でも私たちは先祖の遺影を残す時、本人が若い時ではなく
亡くなる直前の元気だった頃の遺影を飾る事が多いと思うし 当時天海に直球で
「あなたは明智光秀ではないのですか?」
と尋ねた人はいなかったのかな??? 天海存命のときには、天海の足利将軍ご落胤説が出ていたらしい。
光秀が疑われるようになったのは、天海死後らしい。 明智ファンマジ馬鹿
明智が天海になって120歳まで生きたとか本気で信じてそうだわ。
あの健康に気を使って死ぬ間際で
一切れの天ぷらしか贅沢しなかった
家康ですら120歳まで生きれなかったってのに。 >>661
光秀のファンが言ってることじゃないでしょ、この説。
あなたの言ってることの裏を返すと、
「年齢のことを除いては、天海=光秀を否定する材料はない」
ということなんだけど…
光秀って、ほんとは信長よりも秀吉よりも年下だったんじゃないの?
どうなのよ?
55才で亡くなったという後世の「明智軍記」だけを信用するのは正しいことなの? 光秀が1540年生まれだとすると、天海は103歳で亡くなったことになる。
なんとちょうどよい年齢! うん。
やっぱ信長より年下じゃないと。
自分は信忠に家督譲ってるのに、自分よりも年上の老いぼれ武将を最前線や主戦場に出し、更に「キンカ頭」と言って足蹴にするのはどうもね、、、
まあ、鬼柴田はもっと年上なんだけど、彼は信行のときに一度裏切ってるからね。
ライバルである秀吉と一緒くらいが、一番しっくり来るね。 キンカ頭は昭和の創作みたいだし、足蹴はフロイスの噂話集が元だし 安価をつけられないほど負けている犬が遠くから吠えているw >>661
光秀は医学の知識があり、永禄九年の段階で幕府の医者が光秀から学んだ薬についての知識を医学書に書き留めるほど
前半生はよくわかってないけど、医学に関しての知識がありすぎるから
医者として生計をたてていた時期があったのではないか?と疑っている人もいるぐらいだよ
家康も健康に気を遣い、自分で薬の調合をしてたのは有名だけど
光秀こそ当然、病や健康に気を遣い、薬の調合もしていたのは間違いないと思う
加えて山科言経はじめ、当代の有名医師との付き合いも親密だった
120歳とは言わないけど、よくわかってない生年が言われてるより遅くて若かったなら
そして、天正10年に殺されてなかったら天海くらい長生きしててもおかしくない人ではある 天海は大坂の役に従軍してないだろ
明治以前は「大阪」じゃなくて「大坂」だから >>662
どの説をとった場合でも光秀は秀吉より年下ではないだろ
信長の家臣団のなかでは柴田勝家を除いて年配者だったから
秀吉も自分に従うと思ってたのだし >>671
国家安康事件については、天海と崇伝が関与したようだよ
天海は冬の陣〜夏の陣終了後まで機内に滞在していたようだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています