光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 肖像画は何歳の時がモデルかわからんだろう
淀殿が高野山に収めた両親(浅井長政とお市)の肖像画も
浅井長政は没年29歳、お市は没年37歳だが
お市のほうを老けて描いているわけではない >>651
光秀の子供の年齢などを照らし合わせると、光秀若かった説のほうが妥当だよね >>643
秀吉が潰れても勝家が残っているからね。 >>652
別に肖像画が晩年の姿だと決まってるわけでは無いからね
でも、淀殿の場合は両親の肖像画を奉納するのに
浅井長政の死後、再婚して再婚相手と自害を選んだ10年後の母の姿では釣り合いが取れなかったのだと思う
両親が生きてて幸せだった頃の両親の姿を選んだのだろうと思う
明智光秀は死後に描かれた肖像画だけど
何か特別な理由が無い限り、普通は晩年の姿だと考えて良いのでは無いかな
今でも私たちは先祖の遺影を残す時、本人が若い時ではなく
亡くなる直前の元気だった頃の遺影を飾る事が多いと思うし 当時天海に直球で
「あなたは明智光秀ではないのですか?」
と尋ねた人はいなかったのかな??? 天海存命のときには、天海の足利将軍ご落胤説が出ていたらしい。
光秀が疑われるようになったのは、天海死後らしい。 明智ファンマジ馬鹿
明智が天海になって120歳まで生きたとか本気で信じてそうだわ。
あの健康に気を使って死ぬ間際で
一切れの天ぷらしか贅沢しなかった
家康ですら120歳まで生きれなかったってのに。 >>661
光秀のファンが言ってることじゃないでしょ、この説。
あなたの言ってることの裏を返すと、
「年齢のことを除いては、天海=光秀を否定する材料はない」
ということなんだけど…
光秀って、ほんとは信長よりも秀吉よりも年下だったんじゃないの?
どうなのよ?
55才で亡くなったという後世の「明智軍記」だけを信用するのは正しいことなの? 光秀が1540年生まれだとすると、天海は103歳で亡くなったことになる。
なんとちょうどよい年齢! うん。
やっぱ信長より年下じゃないと。
自分は信忠に家督譲ってるのに、自分よりも年上の老いぼれ武将を最前線や主戦場に出し、更に「キンカ頭」と言って足蹴にするのはどうもね、、、
まあ、鬼柴田はもっと年上なんだけど、彼は信行のときに一度裏切ってるからね。
ライバルである秀吉と一緒くらいが、一番しっくり来るね。 キンカ頭は昭和の創作みたいだし、足蹴はフロイスの噂話集が元だし 安価をつけられないほど負けている犬が遠くから吠えているw >>661
光秀は医学の知識があり、永禄九年の段階で幕府の医者が光秀から学んだ薬についての知識を医学書に書き留めるほど
前半生はよくわかってないけど、医学に関しての知識がありすぎるから
医者として生計をたてていた時期があったのではないか?と疑っている人もいるぐらいだよ
家康も健康に気を遣い、自分で薬の調合をしてたのは有名だけど
光秀こそ当然、病や健康に気を遣い、薬の調合もしていたのは間違いないと思う
加えて山科言経はじめ、当代の有名医師との付き合いも親密だった
120歳とは言わないけど、よくわかってない生年が言われてるより遅くて若かったなら
そして、天正10年に殺されてなかったら天海くらい長生きしててもおかしくない人ではある 天海は大坂の役に従軍してないだろ
明治以前は「大阪」じゃなくて「大坂」だから >>662
どの説をとった場合でも光秀は秀吉より年下ではないだろ
信長の家臣団のなかでは柴田勝家を除いて年配者だったから
秀吉も自分に従うと思ってたのだし >>671
国家安康事件については、天海と崇伝が関与したようだよ
天海は冬の陣〜夏の陣終了後まで機内に滞在していたようだ >>673
>どの説をとった場合でも光秀は秀吉より年下ではないだろ
↑wikipediaに天文9年説があるよ
「明智光秀には子年生まれの伝承があり、『明智物語』では天文18年(1549年)に光秀は元服前であったことが書かれていることから求められる。」
>信長の家臣団のなかでは柴田勝家を除いて年配者だったから
>秀吉も自分に従うと思ってたのだし
↑この部分はどこの文献にあったの?初耳です。 秀吉さんより年下だとしたら、天海説は可能性90%だね 筆跡鑑定に使った書状は、光秀本人の筆によるものか不明 光秀書状の中で
自筆だと確定しているものはあるんだろうか?
本能寺の変後の書状で、細川家に残ってるのは偽書の疑いがあるよね
ボストン美術館蔵の光秀書状こそが自筆だというのも見たことがあるけど
どうして自筆だと言えるのだろう?内容も知らないし真偽の程はよく分からない 細川書状は乱筆だから光秀の手ではないというのだが
そもそも他の手紙が祐筆の手によるものならば文字が整っているのは当たり前のことで
親戚の細川には光秀が自筆で書いたともいえるし >>661
医学についてはまさか曲直瀬道三と道三違いをしていたという
オチじゃないよね?とツイッターで見かけてなるほどねーと
滋賀でみつかった書状から光秀が早い段階から近江に地盤を築いて
いたことが確認できるっていうニュース絡みでのツイートだけど
曲直瀬って実家が近江源氏の流れだからまああり得なくもないかなと
斎藤道三とも仲良かったしね >>684
細川宛書状は内容がガイジレベルなので
光秀や祐筆が書いた明智家公的書状ではないと考えるほうが妥当 >>685
確かに曲直瀬の下にいたと考える方が前半生の謎部分も実は
辻褄が合いやすい傾向なんだよな…
曲直瀬の立場上朝廷や将軍家との接点が多いから自然と
知人なんかも増えるし京に屋敷持っていても不思議じゃないし
曲直瀬自身が医学以外にも詳しい知識人だった 曲直瀬道三の弟子の施薬院全宗は後に秀吉の側近&侍医になるけど
本能寺の変以前は光秀と懇意で京から坂本城に引っ越した後
光秀が京都に逗留する時は度々全宗の家に泊まってるのが兼見卿記に出てくるそうだよ
曲直瀬も施薬院も医者で茶人だよね >>686
それは単にお前にとって都合の悪い内容だからだろ
光秀が書いたわけではないと断言できる明確な理由があるわけではない >>687>>688
なるほどなあ…
そうなると曲直瀬の下にいた可能性もかなり高くなるよな でも曲直瀬ってかなり色んな記録が残ってる人だしそんな人物の元にいたというなら
光秀に関しても逆にもっと詳しいことが残ってそうな気もするけど
本能寺でやらかしたせいで抹消されてしまったんだよと言われてしまえばそれまでだが 戦での実績を考えると光秀は武家だろうと思うよ
医者と付き合いがあったらしいけど ○○の下にいたなら、誰々の子供なら記録があって然りとか
これできたから武家などなどみたいな思い込みは捨てた方がいいとおも 影武者は光秀の書を手本に練習するだろうから
「似てるが他人」に当てはまるね
影武者なら光秀死後も光秀への忠誠心を持ち続けてもおかしくないし
出家する前の経歴は秘密にするだろうね 大僧正って、光秀みたいな落ち武者が出家して、そんなぽっと出でなれるもんでもないんでしょ? >>699
ぽっと出で大僧正に任ぜられたから当初は周りにも違和感あったはず 寺で偉くなるには数々の儀式をすべて覚えたりしながら上がってくんでしょ?
すでにジジイの光秀が能力的にもそんなプロセス踏めるだろうか と、光秀の年齢を勝手に決める頭の固い人が多いのであった
実際は、信長や秀吉よりも下だってあり得るはずである 光秀の影武者がもとからそこそこ修行済みだとしたらあり得るな 以上に伸びてると思ったら、案の定キチガイが発狂か
女性説ってこういう頭のおかしい奴の妄言だってハッキリ分かるわ
仏門に帰依しているから、の一言で済む話 明智軍はキリスト教徒を助けて味方になるよう要請してるから
あんまり敵視はしてないんだけど(キリストさんも神様の1人だという日本人的な考え方だよね)
キリスト教のフロイスは明智光秀は神道と仏教の大いなる友だと言って敵視してる
たぶん、フロイスにそう言わせるような神道と仏教に多大な貢献をしてたんだろうと思う
信長の息子達はキリスト教徒だったとも言われてるけど
仏教徒が本能寺の変後、光秀の事を英雄だと絶賛してる文献もあるし
明智光秀が出家したら一介の僧侶では済まないような気はするね 明智なんちゃらが勝手に唱えてた説かと思っていたが
江戸時代から囁かれてた話なんだな 大僧正って天皇とか朝廷が任命するんだよね?
あまり天台宗での地位は関係ないような?
天海って歴代天台座主に名前が無いんだね >>715
天台座主はその頃には法親王か有力公家の子弟ばかりだからな
天海の出自ではどうあがいても無理
3代将軍家光は天海のために江戸に天台宗寛永寺を創建して徳川家菩提寺に加えたが
天海、弟子の公海死後は寛永寺のトップに都から法親王を連れてきて就任させていた もし、本当に天海が明智光秀だったとすると
細川ガラシャの辞世の句
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
は光秀に対して強烈な批判に聞こえるね
仏教僧になった(だった)光秀に対して深くキリスト教を信仰するのも批判的に見えてくる
ガラシャが光秀に対して何か言及してる資料ってあるのかな?
父親の事をどう考えていたのだろう?
ガラシャの元に届けられた頸を盛林寺で供養した逸話しか知らないなぁ
全部で三体あったけどどれも違うと言ったのだっけ?
うろ覚え… 4歳のお福が光秀の顔を覚えてるのかよ
父親でもないのに 四歳のときに見た神々しい光秀の姿が目に焼き付いたんやね 何故女性だと縁談が殺到しないのか
周辺大名とすれば婚姻関係を結べれば取り込めるかもしれないし
謙信だって実子に後を継がせたかっただろうに(女だとしたらな)
婚姻関係は下から上にばかりお願いするものではない
信長が浅井とか秀吉から家康とか格下に娘を送る場合もある
本当こいつは都合のいいようにしか解釈しないな
相手大名からしても男系血族を送って謙信の婿となれば
自分の血縁が後を継ぐ可能性も出てくるわけで殺到しないわけがない 八切説を掘り起こしては切り売りしてる物書き多いよね この説をもとに大河作れば面白いのに
最近の大河は何でもありだから >>1
ガチだと言ってるでしょ
『宇宙王子(皇子)』とか、
そういう作品が好きだったほうの「光秀」でしょ、
同じ名前の従兄弟がいるんだけど「光秀」という名前
上の名前は違う ちなみに家は
現在、小手子の像〜〜〜〜〜?????
というものが建てられているところがあるんだけど、
むかーし、あの辺りに住んでいたと言っていた あと仏教?百済から伝えられたと言ってる人がいたり、
このとき初めて伝わったとか
それ以前から知っていたとか、
そういうのは、ほとんど後付け 小手神社というのも、
なぜか『聖化 日神 日霊 津』(AD200年頃?)?
同じような名前の家の人だったり 天海伝説
wikiを読んだだけだから、詳しいことはわからないけど、
陸奥・・・?東北地方のほうでしょ 親戚か誰かがスレを建てたりしているのかな?
何か知っている人とか
これも老婆談なんだけど、
(天草伝説?)銀という親戚もいたよ
と言っていたり 本当の天草や天海(?)のwikiを作成するなら
本名:□□ 銀?〜。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
謎の刀・・・。 『聖化』の人物について調べてみて
『天帝』より授かり・・・、
天草伝説とも合致しているでしょ、 ほんとに・・・何神話なんだろう
「天と海を治めている」とか まさか・・・・・・・・「聖化」から〜〜〜〜〜〜〜直系なのかな?みたいな話 聖化のところを読んでみた?
日本と朝鮮(実際は朝鮮と日本?)は同じである。
みたいなことが書いてあるでしょ
そういうのも現在の視点、表現、
当時は日本()ではなかった・・・というのが正解 俺の知り合いの郷土史家も、これはかなり信憑性が高い説だと言っていたよ。 自分は、秀吉が秀吉側近に命じて、毛利攻めのとき大阪までの間で拠点を保つ。と、同時に明智家の旗印の幟を持った集団を本能寺に向かわせ、手薄の織田を攻める。危機を感じた光秀が近くに敵がいることを察知。 >>748 続き
本能寺へ。そこには明智の紋所の軍隊が織田を攻めている。織田を守るにしても大混乱。何とか信長を見つけたが、信長もわしは、もうここで死んだことでよいという事で、信長を救出しただけになる。 >>749
以降、光秀が謀反を起こした濡れ衣を背をおわされ…拠点に残した秀吉の軍にほぼ壊滅。だが、ことの始終を把握した家康は光秀が裏切り者ではないことを察知。何とか光秀を見つけ、人里離れた庵にかくまう。光秀は現世をはなれ、出家。その後徳川の僧として天海になる。 違うよ
ただ病気で本人がどうにかできる問題では無いことを他人がとやかく言うことではないと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています