光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 所の番組でも筆跡は否定してる
本当に光秀と天海の筆跡なら別人 私もフジで先週あった「新説!所JAPAN」見たよ
光秀と天海の筆跡鑑定は別人
でも、そこで並べられた光秀と天海の肖像画はちょっと似てるように感じる
木俣守勝が「小納戸役」という、当時の秘書室長の役だった事が新しい情報だった
機密文書を扱ったり、身の回りの世話もする主君と一心同体の役どころらしい
そういう人が友好的に破格の退職金代わりの宝物とともに家康の家臣に戻る
何か裏がありそうだよね
そういえば、本能寺の変の直前は稲葉家に那波直治も信長に言われて返してるよね 本人説は完全に否定されてるが
親類縁者の線はまだ可能性が残るから
肖像画が似てるのは面白いね 筆跡鑑定なんてあてにならん。
祐筆に書かせて花押だけ書いてたら意味無し。 >>828
他の筆跡鑑定でさえ否定されたのをフジがとどめ 筆跡は別人
本人以外が書いてるから当たり前
真実は同一人物 サムライは鎧が分かればかなり正確に身長が割り出せるが
僧侶の服は緩いからわからないかもなあ 結局、当時からそういう噂があったんだから、光秀を見知ってる人が天海を見て、「これは…」と思ったんだろ?
そのときは誰も徳川に逆らえないし、謀反人と喚かれることもない。
そもそも、天皇家にも光秀の血ははいってるしな。 光秀を見知ってる人が光秀の部下や親族を見知っててもいいわけだから どうしても、天海を“光秀”じゃなく、“光秀の親戚”にしたい人がいるようだねw
家康が光秀を崇め奉ってるならまだ理解できるが、光秀の縁戚に平伏していたとしたらビックリだwww
普通の人が、家康と面会しただけで幕府のトップになっちゃったのかよっ!www
家康って、話してちょっと気が合って仲良くなっただけの出自不明のオッサンを、
三河衆やを差し置き、今まで師事していた僧侶もすっぽり、自分の息子や孫まで任せちゃうのかよっ!
死んだと思われていた才能溢れた織田家筆頭の光秀が出てきたと考えるほうが自然だろ
信雄、有楽斎はじめ、織田家の連中には恩義を売りまくって反抗できなくしているわけだし しかも、たいした武勲も逸話もない出自不明の明智秀満にしたい人が多いのには辟易する、、、
光秀が駄目だったら秀満!っていうことにしたいんだろうか??? 光秀が完全に否定されてるんだから
その周辺で探るのが当たり前だと思うが 天海は光秀でなければ光秀の親戚でもない
のに何を頑張ってるのだか 光秀でなければ、どうでもいい。
秀満とか言って往生際悪い。 天海は光秀じゃないかという噂があり、そこにおまえが出てきて、
「それは光秀じゃなく秀満だ」
というのが学問?
そもそも、「光秀だからこそ」、天海だという噂が立ったのでは?
最初から、「光秀ありきの説」では?
光秀で整合性が取れなくなったら、親戚の名前を出して来て、なんとか説を押し通すのが学問?
それって、
「天海は光秀じゃなく、岡崎三郎信康だ!」
と言ってるのと一緒では?
それは学問じゃないねw >>836
それなら後ではっきり光秀って書き残してる
こんな都市伝説程度の噂では終わってない 秀満は娘婿だから、光秀と似てたら逆におかしいんだよなwww >>847
「明智軍記」だと秀満は光秀の叔父の子
つまり光秀の従弟に当たるって話だったはず もう誰が天海でもいいじゃん!笑
豊臣秀長が生きていて天海になったという方が人格的にも年齢的にも整合性がある
流された福島正則を助けようとしたのも理に適う
ただし、豊臣を滅ぼしたのだけは筋が通らなく成るけど笑 「中禅寺湖なんて、ワシが馬に乗ったまま渡ったるわ!」
という天海の逸話でも伝わってるのなら、
天海=秀満と信じてやっても良い
明智平の銘々の一件があるから、
どうしても明智一族としたいのだろうけど、
娘婿の秀満はもともと明智の姓は名乗ってなかった
そんなに明智の名字に拘ると思えない >>851
秀満は光秀の娘に婿入りして明智姓を名乗り
光秀の後継者みたいな位置付けだったんだろ
光秀に嫡男はいたが若年だったし 信長への謀反は事情を鑑み、まだ同情の余地がある。
小栗栖で殺されたということだが、首が腐っていたから生きていたというのも頷ける。
だからこそ天海説が出たわけだ。
家康が師と仰いでもおかしくない。
秀満が生きていたとしたら…
光秀の女房子どもを殺しておいて、自分だけがおめおめと生き残ったということになるんだぞ。
そんな武士の風上にも置けないようなやつを家康が認めるはずもないし、要職に付ける説得力にも欠ける。 だから、天海は天台宗の坊主なんだぞ
家康から延暦寺復興を命じられて坂本に住んでいた時期もある
比叡山焼き討ちの実行犯で坂本を焼け野原にしてそこに坂本城建てて住んでた
光秀のわけがないんだよ
光秀は延暦寺と敵対関係にあった園城寺の末寺西教寺を菩提寺にしたくらいだし
延暦寺とは対立関係にあった >>853
秀満は坂本城で自分の妻子を殺した
光秀の妻煕子は本能寺より前に死んでたし
光秀の娘たちは他家へ嫁ぎ息子は出家したから
光秀の子は自分の妻だった倫以外殺していない 光秀の詳しい資料が足りないからフロイスの光秀評
「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。」
というところが、
方広寺鐘銘事件の言いがかりまで付けて結局は豊臣を滅亡させた天海に被るんだよね 光秀より明智秀満の方が、坂本城炎上の時に亡くなってる確実性が高いよ
妻の光秀長女と共に坂本城で死んだのだと思う
まだ幼児だった息子の三宅藤兵衛をガラシャが保護した
ガラシャは姉夫婦の子供だから保護し、自分が自決する時の遺言で
自分の子供は忠興の子供だから大丈夫だろうが、三宅藤兵衛の行く末を特別に忠興に頼むと懇願してる
親の無い子だから心配だったのだろうと思う >>857
「晴豊公記」によれば、丹波で捕らえられた明智秀満の妻を保護して
継子に引き合わせた、と書かれてある
これによれば秀満妻(光秀長女)は坂本城で死んでいないし
秀満の子とされる三宅藤兵衛も秀満妻の「継子」と記載されていることから
秀満妻である光秀長女とは血縁関係がなくガラシャの甥でもないことになる つまり、天海=光秀の仮定からはじまり、
光秀と天海の筆跡で似てる文字があることから
秀満だと喚き散らす気狂いが湧いてきた
まったくの他人でも似てる文字はありうる
天海=秀満は、天海=光秀よりも可能性が薄い
というか、ただの気狂いのこじつけ だから、秀満が殺したのは光秀の妻子だろ。そんな奴が出てきたところで家康は認めない。 >>860
だから光秀の妻子は坂本城で死んでないって
光秀の妻・煕子は本能寺の変の6年前に死んでるし(西教寺の墓碑)
光秀の娘はガラシャをはじめ他家へ嫁いでおり無事
息子も長男の光慶は生きてて坊主になってる(次男以下はいたかどうか不明
自称光秀の末裔さんによればいたことになってる、とにかく次男以下も含めて無事)
秀満の妻となっていた光秀娘も無事なら誰も坂本城で死んでいない 心が荒んでるなぁw
もっとピュアな気持ちで物事考えろよ。君達にはロマンというものが分からないのか? 大河で、光秀が天海になる筋書きだったら、この説を認めてやる 正直言うと確実に光秀と天海が書いた筆跡で筆跡鑑定したなら答え出てる
どこも近い筋が書いた可能性大だが別人だって言ってる
だから光秀が書いた物、天海が書いた物なら別人だろ つまり筆跡鑑定で別人って答え出てる
あれが光秀と天海が書いた筆跡じゃないって証拠出さないと別人だね 裁判じゃないんだから、どっちが証拠を出さないと、こっちが負けなんてことはない。
お互いが書いたと言われる書物の筆跡を見る限り別人という判断をくださざるを得ないというだけ。
真実は、天海=光秀かも知れない。 日光国立公園のHPにも、以下の記載があるね。
公の機関が、この説を信じてるwww
日光中禅寺【にっこうちゅうぜんじ】に向かう いろは坂を登ると素晴らしい景色が見られる明智平があります。名づけたのは天海大僧正【てんかいだいそうじょう】といわれています。
天海は「明智光秀【あけちみつひで】」であるという説があります。
明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、京都の合戦に敗れ竹やりに襲われ亡くなったと伝えられていますが、襲われたのは影武者で、光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたというのです。
寺では、信長に焼き討ちをされたので、その敵を討ってくれた光秀を優遇したといわれています。長寿院にて是春と名のり、剃髪して仏教を学んだそうです。
比叡山の文庫のなかに大僧都にまでなった光秀の名がはっきりと記載されてあるそうです。
光秀は、天海として家光に色々と教示し、その天海が昔の名をどこかに残しておきたくて、日光で一番眺めのよい場所を「明智平」と命名したと伝えられています。
比叡山長寿院にも、願主光秀、慶長20年2月17日の日付で灯籠が寄進されているそうです。 山崎の合戦の後、三男信孝が、小栗栖で討ち取られた光秀の首と身体を合わせ、褌一丁にして、都の外れの往来が激しい街道(粟田口?)で十字架に掛けて晒した(宣教師フロイス)。
つまり信孝も宣教師も、光秀本人と確認していたということ。だからこそ秀吉は、清須会議で勝家を黙らせることができた。
よって、天海(1536-1643)は名門土岐源氏の明智一族もしくは斉藤一族かもしれないが、光秀(1528-1582)本人ではないことは明白。 だいたい生きてれば秀吉の横暴を許すわけがないと思うがな 秀吉は、天皇も足利将軍も寺社もすべて大切にしている
横暴は、朝鮮出兵と関白秀次追い落としだけだ >>870
家光の光は光秀の光で、江戸図屏風に描かれた朱傘の家光も桔梗紋を付けてるから、明智出身なんだろう。
家光には、家康と斉藤福(春日局)との子供だから幼名・竹千代説がある。
秀忠になかなか男子が生まれなかったため、家光(竹千代)を養子(嫡子)として諸大名にお披露目してしまった後で、正室浅井江との間に忠長が生まれたため、
あれだけ自分に平伏していた大名が自分に目もくれなくなり、家光が世をはかなんで自害しようとしたのを見た実母・斉藤福が駿府の家康に直訴して、嫡男に返り咲いた。
つまり家光vs忠長の兄弟争いは、明智(斎藤)vs浅井の戦いであり、前者が勝ったことで天下泰平となったのが、光秀=天海説となって残ったのかもしれない。 >>872
秀吉は釜茹でとか朝鮮問題で晩年は横暴だって言われてる 叡山を焼き討ちして、快川を殺した信長より、全然横暴じゃない >>1
エンペラーは何か知っている人なの?
現代に転生とか、そういう話でしょ
黒衣(ブラック・サバス、おずぼーん・・・)の何やら〜 他のスレにも書いたと思うんだけど、
光秀という名前の親戚がいて
宇宙王子(皇子?)という作品を読んでいたことがあったり、
ストーカーがいるのかな? あの曲(某まいく・おー)があって・・・、
なぜか5月15日生まれ?妹と同じ? ストーカーがいるのではなく・・・なにかのw
ホンモノの家なのかな? 『姥清水』
龍宮〜長い竿〜寒いな(不明)〜〜〜?
家は、このような名前の家 5月15日 wiki
豊耳聡聖徳(?)、
馬乗っていて、謎の刀を持っていたとか、ほとんど同じ それとも、
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トヨトミミ()の関係者なのかな? >>873
浅井江が、自らの立場を高めてくれる長男であるはずの家光(家康+光秀)を全く可愛がらなかったことや、
家光が「二世権現」と署名した謎も解けるな >>883
それなら、どこかの家中に文書として残っていておかしくないだろ。 家康って、自分の子をさんざん差別したのに、自分の次の代からは絶対に長子を跡継ぎと決めるなんて、ワガママだなwww >>883
弟・忠長は、顔が伯父の信長に似ていたこともあり、江から溺愛されたらしい。
最終的に名誉の切腹をさせざるをえなかったのは、忠長が秀忠実子を自覚していて、家光が将軍の座に座ることに不満を爆発させ、忠長の異常行動で徳川家中が大混乱していたから。
家光が父・家康を、異常に思慕していたのは、そのコンプレックスの裏返し。
家光は、春日局と家康の子(幼名・竹千代w)と見て間違いない。 父親が秀忠で母親が春日局ってだけでしょ?
家康が父じゃない 個人的には同一人物であって欲しいけど肖像画が全く似てないのはなんだかなあ
光秀は美男子だけど天海は違うし >>886 >>887
またこんなことをw
徳川家光は将軍になると江の父浅井長政に
自身の外祖父であるという理由で中納言を追贈
春日局が実母なら春日局の父斎藤利三が中納言 天海が本当に甲冑着けて戦場に同行したのなら、完全に光秀だな 金地院崇伝も、安国寺恵瓊でさえも、甲冑は着けなかったんだじゃないの? もと武士だったのでは?という話ならわかるが
イコール光秀になる理由がわからないなあ 春日局がお久しゅうございますと言ったんだから、光秀決定なんだよ。 >>900
本能寺の時に4歳だった春日局が光秀の顔を覚えてるかよw
だいたい幼女だったのに光秀に会ったことないんじゃない >>903
おまえ、4才のときに親戚の顔を見分けられなかったの? 4歳の時に会ったきりの人が名前を変えてたら無理だな 名前が変わっていても、25年ぶりに会った叔母を見分けられた俺は天才。 >>906
光秀は春日局の親戚じゃないだろ
お前は4歳の時に会ったっきりの親父の会社の上司の顔を
20年後に見分けられるの どっちとも言えないが…
斎藤家にとって、光秀は親戚以上、神様のような存在だったでしょ
お福が乳母になったのは25歳くらいだから、もし光秀が天海だったとしたら20年ぶりの再会…
それくらいじゃ見分けられるのでは?
また、これも天海=光秀という大前提だけど…
天海に会う前に、「実は、おまえの元主君だ」って聞かされた上で会わされたんじゃない?
だとしたら、顔を覚えてなくとも「お久しゅうございます」は不自然じゃない。 斎藤利三は主君変えまくって光秀に従ったのは晩年でしょ
もとは光秀の同僚だった時期もあるらしいし神様なわけがない 父親が光秀なんかに仕えなければ春日局は4歳で
路頭に迷うことにもならなかった
光秀のことは怨んでいたと思う 久しぶりにあった人全員に当てはまるんだから
完全に無意味な話だよ 権勢を誇った春日局が、そこまで低姿勢なんだったら、「かつての主筋」だろうね >>869
>光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せたというのです。
>寺では、信長に焼き討ちをされたので、その敵を討ってくれた光秀を優遇したといわれています。
ノリノリで焼き討ちを率先した光秀を匿うはずがない レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。