山崎の合戦の後、三男信孝が、小栗栖で討ち取られた光秀の首と身体を合わせ、褌一丁にして、都の外れの往来が激しい街道(粟田口?)で十字架に掛けて晒した(宣教師フロイス)。
つまり信孝も宣教師も、光秀本人と確認していたということ。だからこそ秀吉は、清須会議で勝家を黙らせることができた。
よって、天海(1536-1643)は名門土岐源氏の明智一族もしくは斉藤一族かもしれないが、光秀(1528-1582)本人ではないことは明白。