関ヶ原で西軍が勝つにはどうすればよかったんや
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多分これについてはよく議論されてるんやろうけど、話したくなったw
一つ一つの出来事を詳しく書いていってほしい >>104
ちょつとスレちがいになるが秀長と家康が長生き合戦をしていたらどうなだろう? 西軍が籠城策を用いなかった理由は家康打倒を目的にしていたから
大阪城に籠城していては家康は絶対に攻めてこないから家康打倒は実現できない
もしこのIFなら西軍は大義を失い、領国に帰る大名が続出する 大坂籠城とわかれば安心して上杉征伐に専念出来るもんな 三成の挙兵がもうすこし遅く家康と景勝が合戦を始めた後ならどうだったろう。 >>108
それは東軍にとって地獄だね
まず東部戦線は膠着戦になる
伊達も最上も様子見に入るからね
で、膠着戦になると西軍が秀頼の下で輝元を主将として大軍であることがわかると、
東軍についてる豊富恩顧の連中が必ず動揺する
そうすると、裏切るやつが出てくるからそれを潮に寝返り続出
戦国時代の再来になりそうだね >>106
いや家康は攻めてくるだろ
秀頼様を君側の奸から救出するそぶりを見せないと、
東軍に味方した豊臣恩顧系の諸侯が納得しない >>109
佐竹が徳川の後ろをつき真田が江戸城に攻めよせる。 後年の二条城の対面の時に家康を殺せば何とかなったかも知れん。
家康相手に戦を起こしちゃ相手の思う壺だよ。三成は徹底して不戦を貫くべきだった。 >>111
江戸城を落とした功労者は誰かということで揉めそう >>112
北マンの命で宇喜多が挙兵しちゃったのが先なんだけどね >>110
攻めてこないだろ。史実でも2か月も江戸に籠ってたのは豊臣配下が信用できなかったからだよ。西軍が籠城策なんか取ったらまず攻めてこない
家康が上杉を攻めた後に立てば間違いなく西軍が勝った。そこしか後から
考えたら勝機はない いろいろ考えると家康は相当幸運に恵まれていたことがわかるね
ちょっとでも史実と違った展開になっていたらどうなっていたか全くわからなかった
ただ、西軍の敗因は運が悪かったからではない
総大将がしっかりしていなかったことにつきる
やはり戦は大将次第ですな >>116
毛利輝元はいつも通り二股かけてた
こういう時に二股かけるのは宝治合戦で負けてからはこの家の習性でもある
元就は大内と尼子の両方に基本的には通じていた >>117
元就はそんな甘ちゃんじゃないぞ
尼子の方が優勢な状況であえて大内についたんよ
そして尼子の大軍を一手に引き受けて耐え抜いた
陶に対しても不利ながら策謀を用いつつ正面から戦った
どっちつかずの態度は取らんよ元就は
そして戦う時は自ら先頭に立って戦ったわ 関ヶ原で勝てたら最大功労者は誰になるんだ?
宇喜多か真田か? 史実の関ヶ原は、戦一つでケリがついたけど、
西軍が勝つとして、家康の首を取れなかったら元の戦国に戻るだけじゃないの? >>120
各地方がそれぞれ国家となってそれなりに安定するかも ≪五大老≫
徳川内大臣ー武蔵、相模、伊豆、上総、下総、上野、下野、安房
前田大納言ー加賀、能登、越中
毛利中納言ー安芸、長門、周防、石見、出雲、隠岐、備後、備中
上杉中納言ー陸奥ノ内、出羽ノ内、佐渡
宇喜多中納言ー備前、美作
島津少将ー薩摩、大隅、
伊達少将ー陸奥ノ内
佐竹侍従ー常陸
小早川中納言ー筑前
最上侍従ー出羽ノ内
長曾我部侍従ー土佐
鍋島侍従ー肥前
織田中納言ー美濃 >>120
一日で終わると思ってなかった人たちが大勢いたからねえw
上杉さんとか、黒田さんとかw ≪関ケ原役の後≫
前田ー加賀、能登、越中
毛利ー長門、周防
上杉ー出羽ノ内
島津ー薩摩、大隅、
伊達ー陸奥ノ内
佐竹ー出羽ノ内
小早川ー備前、美作
最上ー出羽ノ内
鍋島ー肥前
加藤ー肥後
福島ー安芸、備後
浅野ー紀伊
黒田ー筑前
細川ー豊前
蜂須賀ー阿波
山内ー土佐
藤堂ー伊勢、伊賀
池田ー播磨 ≪明治維新後≫
前田ー侯爵
毛利ー公爵
上杉ー伯爵
島津ー公爵
伊達ー伯爵
佐竹ー侯爵
鍋島ー侯爵
浅野ー侯爵
黒田ー侯爵
細川ー侯爵
蜂須賀ー侯爵
山内ー侯爵
藤堂ー侯爵
池田ー侯爵 秀忠軍が到着して、徳川パーフェクト勝利の場合、
領土配分がどうなるのかも気になる >>121
うーん。豊臣政権が室町幕府化してグダグダが続くような気がする 西軍も総大将がしっかりしていたら、
関ケ原一つで壊滅しなかっただろうに。
大阪くらいでもうひと戦ができただろうに、 家臣のロリ嫁取り上げた挙句にその家臣を虐殺するようなやつだからどうしようもないw >>129
「島津奔る」という小説の中で義弘が家臣の中馬大蔵の女房を犯す場面が出てきていたが。 >>129
ああいった価値観はどうなのだろうな。
旧約聖書でもそういった事例を挙げて、預言者がけしからんといさめているけど、
その割にはダビデ王にしても、毛利家にしても結構皆がついていって
いるのだよな。
あの当時の人は家来の嫁を取り上げるのは罪だとは思っていなかったのかな? 鎌倉初期、源頼家が御家人の安達景盛の妻を取り上げたとき、北条政子が頼家を
諫めたというエピソードがある。
家臣の妻を取り上げるのはよくないという価値観は昔からあったのではないか? ≪関ケ原役 西軍が勝利したら・・・夢≫
徳川ー改易
前田ー出羽ノ内
毛利ー安芸、長門、周防、石見、出雲、隠岐、備後、備中、豊前
上杉ー越後、越中、上野、佐渡
宇喜多ー備前、美作、播磨
島津ー薩摩、大隅、肥後
伊達ー伊豆
佐竹ー常陸 、上総
小早川ー淡路
最上ー伊賀
長曾我部ー土佐 、伊予
鍋島ー壱岐
織田ー美濃 、飛騨
石田ー近江
大谷ー敦賀
真田ー信濃
小西ー紀伊
立花ー筑前、筑後
安国寺ー讃岐
九鬼ー伊勢、志摩 >>1
これが幕末明治維新の頃だと、宣伝工作がかなり力を発揮したのだけどな。
徳川になると鎖国をして、貿易ができなくなって貧乏になるぞと言っても
だれも乗ってこないだろうしな。
むしろ大名に、うちが勝てば100万石やるぞと手紙を出すほうが
手っ取り早いよな。 ≪関ケ原役 西軍が勝利したら・・・夢≫
徳川ー改易
前田ー出羽ノ内ー5万石
毛利ー安芸、長門、周防、石見、出雲、隠岐、備後、備中、豊前ー160万石
上杉ー越後、越中、上野、佐渡ー160万石
宇喜多ー備前、美作、播磨ー80万石
島津ー薩摩、大隅、肥後ー100万石
伊達ー伊豆ー2万石
佐竹ー常陸 、上総ー60万石
小早川ー淡路ー1万石
最上ー伊賀ー2万石
長曾我部ー土佐 、伊予ー50万石
鍋島ー壱岐ー1万石
織田ー美濃 、飛騨−30万石
石田ー近江ー40万石
大谷ー若狭、越前ー30万石
真田ー信濃ー30万石
小西ー紀伊−40万石
立花ー筑前、筑後ー40万石
安国寺ー讃岐−20万石
九鬼ー伊勢、志摩−35万石
平塚為広ー大和ー25万石
直江兼続ー下野ー30万石
真田幸村ー丹波−25万石 西軍が勝利したら、史実と比較して諸侯の所領が大き過ぎる事態になるな
豊臣宗家は諸侯に対するコントロールが効かなくなり、室町幕府のような
弱い政権になるだろう。
やがて、諸侯同士の合戦も頻発するようになり、再び戦国時代になるのではないか? 関白―小早川秀秋
五大老―宇喜多、毛利、上杉、前田(利政)、佐竹
五奉行―石田、小西、増田、長束、前田(玄以) 秀秋からみれば、
光成から関白にしてやるといわれても、秀次事件を想起して震えたんじゃないかww
むしろ家康が提示した上方2か国のほうが現実的な利益だ
実際に拝領した備前美作の2か国が上方といえるのかは疑問だが 備前美作は上方じゃねえなあw
せめて播磨くらいじゃないと
まあ文句言ったところでどうにもならん立場だからね まあその点播磨もらった池田輝政はさすが家康の婿だから優遇度が凄いわな 池田は、親の敵の娘と結婚して正解だった。命乞いしてもらえたし、所領は増えるし。 >>139
豊臣の領土が減るのは史実と同じっぽいな 関白―豊臣秀頼
五大老―宇喜多大納言、毛利内大臣、上杉大納言、前田(利政)中納言、佐竹中納言
五奉行―石田少将、小西少将、増田侍従、長束侍従、前田(玄以)宰相 >>145
秀吉には強力な直轄軍というものを形成する暇がなかったからな
他人に領地大盤振る舞いしてようやく天下取れたという点で足利尊氏に酷似している
所詮足利幕府の二の舞にしかならんわ まあ秀吉は100万石クラスの大大名である信雄や丹羽や蒲生を、
戦を起こすことなく命令書1本で改易や大幅減封に処したり、
上杉や伊達や徳川に国替えを命じて実行させている
特定大名への追討令を発して、すぐに恩赦で引っ込めたりの朝令暮改の室町幕府とは
やはり異なるよ
ただ関ヶ原で西軍が勝利した場合は、豊臣政権がそうなる可能性はあったが >>150
それは秀吉個人の力だからな
それを支える客観的基盤がないわけだから秀吉が死んだ瞬間に足利幕府レベルの力しかなくなるのよ
やはり秀次を潰したのが致命傷だった 明治維新とは違った情報工作、
とにかく、西軍が勝つ、西軍が勝つと宣伝しまくるしかないだろうな。
実際にまともに戦えば西軍が勝つ可能性はかなりあったのだからな。 秀次が生きていても秀次側と秀頼側で二分して国内騒乱になったと思う。 >>153
秀長が1615年あたりまで生きていたらどうなっただろう? 豊臣政権は秀吉の個人商店でしかなかったんだよな
大阪城や金銀が残ろうが後はカスな形骸に過ぎないって それだな
全国販売してただけの人気店豊臣商店
それが創業店主が亡くなって無能な息子とバカ嫁がくいつぶしただけ
番頭も自分のことばかりで取引先をふりまわして信用をなくす
大手取引先の徳川株式会社が助け船をだそうとしても反発
ついには商圏もろともよそにもっていかれてエンド >>157
文藝春秋などの最近の記事によれば吉川の離反は東軍の勢いに恐れをなしての命乞いに近かった模様
また西軍の行動は戦略的に不利化した大垣周辺からの急撤退であり実際は東軍による追撃戦に近いとか 西軍が勝つには秀頼を担ぎ出すしかないが流石に10歳前後の子供を戦場に駆り出すのは無理。
なので秀頼の、誰も文句のつけようのない後見人、まあ叔父か養父あたりを戦場に駆り出すしかない。
叔父は既にこの世にいないので、許嫁の父あたりを後見人として戦場に連れてくるべきだったね。
結局、秀頼の嫁選びが一番の秀吉の失敗だった。 いずれにしろ西軍は総大将が腰座っておらず、その結果戦力が分散してるわけだから勝てんわな
東軍も戦力集中に失敗してんだけど総大将の家康が現場におるから全然違う 秀頼かつぎだす名聞もないよな
徳川もべつに豊臣をないがしろにしてないわけで >>163
そんなんなんでもいいんだよw
家康の前田討伐、上杉討伐、後年の大坂攻め、全部難癖だろw 上杉討伐は豊臣への敬意がたりない、謀反のための武装をしているとしているわけで。
あくまで豊臣のために動いているのを止める西側があきらかに謀反なわけで。
もちろん徳川が難癖王なのはわかってるよ
でもそれはそれより後の話 >>165
秀頼を献帝、家康を曹操、三成を劉備、上杉を孫権と考えればいい >>166
それはアリだな
なんだかんだで三国志を引用するのは歴史を楽しむうえでまあアリだわ >>163
内府違いの条々で十分だろ
あとは輝元が千成瓢箪と一緒に秀頼引き連れて毛利全軍が結集して動けばよかった
つうかそれしか方法ない
もっともこれで毛利勝ったら毛利が徳川になるだけで豊臣家にとってなんもプラスじゃないけどなw 毛利全軍プラス小早川秀包&立花宗茂だったら実はこれ当時の日本最強の布陣だろ
小牧長久手以後約15年実戦経験してない徳川より朝鮮で明相手に散々戦ったこっちの方が相当強いだろ >>168
内府ちがいもさ、三成が言っても説得力ないよな 輝元が元就だったら普通に西軍勝ってたなw
裏切りが出るのも東軍からだろうよww >>161
許嫁の父は戦場に間に合わなかったが、祖父なら居た。 >>171
隆景が生きていたら毛利家はどう動いたか? 西軍はもともと戦意が低いのだから、無理に決戦することなく、畿内に駐留して動かなければ
よかった。岐阜の織田秀信に少し援軍を出す程度でよかった。
毛利輝元・石田三成・小西行長・恵瓊などの首脳は大坂城に本陣を置いて、動かなければよい。
タイミングを見て、天皇の仲裁の勅旨を得て、東軍と和解すればよかった。 >>176
そいつが動くのは関ヶ原で東軍が勝ったあと。
単独で戦うほどの器じゃないよ。 如水が九州で落としたのは西軍の城だから袋叩きになる 吉川広家がおるから袋叩きにはならんよ
どっちに転んでもいいように計算して動いている >関ヶ原で西軍が勝つにはどうすればよかったんや
天下の名城大坂城に陣を敷けばよかっただけ そうだよなあ
豊臣の看板のかかった大坂城を攻めるわけにもいかんわけで >>183
家康の最終目標は秀頼殺して徳川の天下にすることだから
どさくさに紛れて秀頼殺しちゃうよw
関ケ原の時に家康が秀頼殺してたら
諸大名は一丸となって家康を攻めただなんて妄想
前田は家康に生母を人質に取られてたし
ほかの東軍大名もほぼ家康の姻戚 関ケ原はもう西軍に勝ち目はないから
もっと早くに家康に天ぷらをたくさん食べさせればよかったのだ >>185
それなら上杉討ちにいくまえにやれること >>187
歴史を知らない奴だな
家康は秀吉・利家が死ぬとまず最初に「前田征討」を発表した
すると前田利長は家康に実母を人質として差し出し
どうか家康の家臣にしてください私を攻めないでくださいとお願いした
そこで家康は戦わずして前田を家臣にすることができた
そこで家康は上杉にも同じことをした
上杉も前田同様、実母なりを家康の人質に出して家臣になるはずだった
それを拒否したので「さっさと人質出して家臣にならんかい」が上杉征討
最終的に秀頼を殺すにしてもまず大老全員から人質とって家臣にしてからと思ったんだよ >>187
そもそも秀頼に謀反をたくらんだから殺すべしとした前田利長が
家康に人質を出して実母を江戸城へ送り
家康に臣従の製紙を出しただけで「謀反無し、許す」になったわけで
この時点で諸大名は家康を主君として動いている
上杉に対しても謀反の心がないなら「徳川の城である江戸城に」
人質を出せと要求している
秀頼に人質を出せなどとは一言も言ってないし
実際に秀頼になど人質を出しても家康は「殺せ」としか言わない >>188
歴史がどうこう、じゃないだろ
秀頼殺すなら関ヶ原以前にやれてたってこと
やらないでいた時点で関ヶ原時点までは徳川に秀頼殺害の意志はないってこと 関ケ原合戦の時点では、まだ豊臣方の諸将が健在なので、秀頼に手を出すことはできない。
五大老クラスでも、家康に臣従しない大名は、毛利・宇喜多・小早川などがあり、島津・
長宗我部・織田・佐竹なども家康の勢力圏には入っていない。
石田・小西・恵瓊などは徳川と激しく対立している。
この時点では、大阪城と秀頼は西軍側が抑えており、朝廷も西軍の勢力下にある。
したがって、西軍は大坂城・秀頼・朝廷を拠点として、「負けない」体制を築けばよかった。
持久戦になれば、西軍のほうが優勢だったはずだ。 >>191
暗殺はそういうの関係ない
歴史上わりかし謎の死をとげる有力者はいたわけで このスレ30年前からタイムスリップしてきたような人ばかりですね どうも岐阜城早期陥落で全国的に流れが変わった。
秀信に2000ほど援軍つけて籠城させ、清洲の正則らが攻城戦にてこずったところで宇喜田勢など伊勢方面軍をぶつけて野戦で勝てば行けるんでは。
でも天下三分か4分で乱れそうだが。 >>195
中央で膠着すればする程西で黒田が、東で上杉と伊達が勢力拡大しますね >>196
黒田黒田言ってる奴は司馬小説を鵜呑みにして史実を知らない人 >>190
関ケ原前に家康が秀頼を殺せなかったからって
なんで関ケ原の時の秀頼は絶対安泰なんだ
関ケ原で勝利した家康は何でもできる立場 陰謀の日本中世史面白い。
増田長盛がぶれてる理由、毛利輝元のやる気もわかった。 関ヶ原で西軍が負けた決定的理由
大軍を擁する毛利が参戦しなかったからという簡単な理由
毛利も上杉や黒田官兵衛と同じく関ヶ原が一日で終わると考えておらず、
まず四国制圧、その後九州を制圧する算段だった
大軍同士の決戦が一日で終わる例は多いね
日本、ローマ帝国、イングランド征服 徳川・前田連合と、毛利・宇喜多・上杉のどっちが多数派でどっちに勝ち目があるか、みんなが迷ってた。
家康もパニックになり必死だった。
それが、清洲勢の岐阜城陥落で流れが決まった。
大垣勢で赤坂を強襲できれば流れを逆転するチャンスはあったが、兵力不足。
伊勢路勢が遅く、行軍中に調略で半分中立化。赤坂夜襲前に家康と小早川着陣で勝負あった。
西軍の戦力分散が致命的失敗。家康の反転が遅ければ、畿内をじっくり制圧しててもいいんだが。
上杉北進を見極めて決戦場に向けて東海道を突進した家康のリーダーシップの勝利。
輝元が正当性根拠の秀頼を手放せず出陣できなかったのは仕方ないが、
濃尾平野への戦力集中は指示すべきだった。
毛利の四国征伐はどうみても余計。
中央で勝利すれば四国は論功行賞で取れるのに。 三好長慶を大河ドラマに 協議会設立
http://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20180612/8020002023.html
徳島県生まれの戦国武将で、一時は近畿地方や四国地方を広く勢力下に置いたとされる
三好長慶を主人公にしたNHK大河ドラマの誘致を目指す協議会が、徳島市内で設立されました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています