関ヶ原で西軍が勝つにはどうすればよかったんや
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どうも岐阜城早期陥落で全国的に流れが変わった。
秀信に2000ほど援軍つけて籠城させ、清洲の正則らが攻城戦にてこずったところで宇喜田勢など伊勢方面軍をぶつけて野戦で勝てば行けるんでは。
でも天下三分か4分で乱れそうだが。 >>195
中央で膠着すればする程西で黒田が、東で上杉と伊達が勢力拡大しますね >>196
黒田黒田言ってる奴は司馬小説を鵜呑みにして史実を知らない人 >>190
関ケ原前に家康が秀頼を殺せなかったからって
なんで関ケ原の時の秀頼は絶対安泰なんだ
関ケ原で勝利した家康は何でもできる立場 陰謀の日本中世史面白い。
増田長盛がぶれてる理由、毛利輝元のやる気もわかった。 関ヶ原で西軍が負けた決定的理由
大軍を擁する毛利が参戦しなかったからという簡単な理由
毛利も上杉や黒田官兵衛と同じく関ヶ原が一日で終わると考えておらず、
まず四国制圧、その後九州を制圧する算段だった
大軍同士の決戦が一日で終わる例は多いね
日本、ローマ帝国、イングランド征服 徳川・前田連合と、毛利・宇喜多・上杉のどっちが多数派でどっちに勝ち目があるか、みんなが迷ってた。
家康もパニックになり必死だった。
それが、清洲勢の岐阜城陥落で流れが決まった。
大垣勢で赤坂を強襲できれば流れを逆転するチャンスはあったが、兵力不足。
伊勢路勢が遅く、行軍中に調略で半分中立化。赤坂夜襲前に家康と小早川着陣で勝負あった。
西軍の戦力分散が致命的失敗。家康の反転が遅ければ、畿内をじっくり制圧しててもいいんだが。
上杉北進を見極めて決戦場に向けて東海道を突進した家康のリーダーシップの勝利。
輝元が正当性根拠の秀頼を手放せず出陣できなかったのは仕方ないが、
濃尾平野への戦力集中は指示すべきだった。
毛利の四国征伐はどうみても余計。
中央で勝利すれば四国は論功行賞で取れるのに。 三好長慶を大河ドラマに 協議会設立
http://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20180612/8020002023.html
徳島県生まれの戦国武将で、一時は近畿地方や四国地方を広く勢力下に置いたとされる
三好長慶を主人公にしたNHK大河ドラマの誘致を目指す協議会が、徳島市内で設立されました。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
P3R 三成軍六千が全力で徳川以下七万を蹴散らせばよかった 関ヶ原が野戦になったのは、西軍が籠城し攻城戦になると面倒なことになるので
避けたため、秀忠軍が着くのも待たず家康側は開戦に踏み切った 未だに司馬小説そのものの知識でドヤってる奴がいることに驚き。
ここって昭和のままかいなwww >>206
その程度の理屈なら徳川家康を西軍に引き込んだ方が早いんでね? 死ぬまでまとう徳川家康。
隠忍自重の一言に尽きる。 毛利、吉川、小早川を無力化し寝返らせた黒田長政の活躍だろう
先代から続き毛利家は黒田に翻弄されっぱなしなんだよな >>213
黒田官兵衛は小早川景驍ェ危険と秀吉にそれとなく告げ口したが
秀吉がダメならと毛利が喰われてしまった 毛利が下りてきてたら楽勝だった
小早川が裏切っても大丈夫だったさ
しかし毛利家って関ヶ原の恨み〜とかずっと持ってたって本当かね?
吉川広家に仕切られたことや輝元のマヌケさが原因なのに、負かされた相手を恨んでどうするよ >>161
鎌倉幕府つぶした軍勢の大将は4歳児だぞ 家康の寿命が尽きるまで「次」を起こさなければ勝てる。
豊臣家の音頭をだれかが執れればだが。 毛利秀元は、豊臣秀長の娘(秀吉の養女にもなった)である大善院の婿のはず。
関ケ原の戦い当時も大善院は存命のはずだから、秀頼の出陣が無理なら、大善院を連れて行って、関ケ原における名目上の大将にしたら良かったんじゃないだろうか。
豊臣家の血縁だし、秀次たちも秀吉の姉の子で女系だったので、秀頼の子どもが育たなければ、大善院の子どもが(できたなら)関白になる可能性すらあった重要人物。
東軍にはお勝の方もいたみたいだし、西軍に大善院が居たって不思議は無かった。 >>221
豊臣の音頭を取っていたのが家康その人だったんですけど >豊臣の音頭を取っていたのが家康その人だったんですけど
家康が寿命が尽きるまで豊臣家の音頭を執っていれば、西軍の勝ち。 徳川家康を「豊臣政権の執権」につなぎとめ、徳川宗家代々がこの地位に就く形に持ち込めれば、豊臣政権は維持されたといえるわな。
でも家康がそんな鎖を引きちぎって幕府を開いたのは、秀吉死去時で250万石という卓越した石高を持っていたから。
これはもちろん、秀吉自身が関東に与えたものだが、これぐらいしないと転封を承知しないと思われていた。
つまり、問題の源泉は、
天正壬午の乱で家康の旧武田領蚕食を牽制しなかったばかりか、影で後押ししたという秀吉の致命的戦略ミスにある。
あの時、家康ではなく上杉を支援して諏訪湖ぐらいまで取らせれば、家康は関東に移封させても100万石程度で済み、
五大老筆頭のまま、豊臣政権を壟断するだけで済んだ可能性が高い。 秀吉存命中に、秀頼、宇喜多秀家、福島正則、加藤清正のいずれかを征夷大将軍にしていればどうだろう?
関ヶ原に勝っても、家康に幕府は開けない。 秀吉存命中でも家康には遠慮せざるを得ない状況だったんだから、
秀吉が死ねばすべては家康次第、という状況になるのが必然。
秀長・秀次と貴重な一門を失った段階で秀吉は詰んだのかもしれない。 天正自身が無ければ、秀吉は家康に総攻撃を行い、家康は滅んでいた、というが、
この時家康は北条と同盟していたしその北条と伊達が同盟し、上杉・佐竹連合と対峙していた。
島津や長曾我部も反秀吉だったから、秀吉の味方で目立つのは毛利、大友、上杉、佐竹ぐらいしかおらず
、調略次第では家康勝っちゃうかも、という形成。 >>226
幕府を開いたらそれには逆らっちゃいけないと家康が考えていたとでも?
秀家「さあ、オレは将軍だぞ」
家康「知るか。宇喜多なんか滅ぼしたるわ」
清正、正則「俺は将軍だぞ」
家康「知るか。お前らなんか滅ぼしたるわ」
清正、正則「すみませんでした、あなたに従います」
大野治長「秀頼さまが将軍です」
家康「知るか」→あとは史実のように 秀次が切腹した段階で詰んだ。
この段階で豊臣政権の存続は諦め、家康へ諸大名の前で公式に禅譲し、
秀頼の後見を頼めば、家康も自分の政権の下で面倒をみたかもしれない。 >>229
そんなことは考えてないよ。
でも、関ヶ原後に将軍になったから、諸大名は臣下の礼をとったわけで、将軍になれなかったら、家康も諸大名も豊臣家臣のまま。
家康が言うことを聞かすためには、豊臣を叩き、各大名をひとつひとつ潰していかなければならない。
家康にそれほどの時間は残されてないよ。 黒田家を味方に付けてたら勝てたな
その後天下を掠め取られたとは思うが >>232
将軍になったら誰でも従うのか。
じゃあ足利にさからった信長はなんなんだろうな。 >>234
232をよく読みなおして、落ち着いて説得力のある反論をしてくれることを期待してるよ。 家康が将軍になったって臣下の礼をとらなかった武将も数多くいたんだけどそれはどう説明するんだか 将軍になっても実力が伴わなければいうことを聞かせるなんて無理だと思うけど? 加藤清正や福島正則を征夷大将軍に任官させるような朝廷工作をだれがやるのか?
それに朝廷だって一大名程度を征夷大将軍になんか任命するわけないだろ。 >>238
226では「秀吉が存命中に」とあるね。 >>236
>>237
232をもう一度声に出して読んでみよう。 >>241
ちゃんと読めてないのにどうしてそんなこと言えるのかな?
幼稚とか批評するのは、説得力のある反論ができないからみたいに見えるよ。 まず、任命の件。
秀吉存命中ということは、対外戦争中ということ。豊臣姓の外征将軍を征夷大将軍に任命することは道理にかなう。
しかも秀吉の意思であれば、何の障害もないよね。 次に将軍の権威の件。
仮に加藤清正が将軍になり、その後歴史通りに関ヶ原が展開したとしよう。
清正は東軍だし、将軍を罷免するわけにはいかない。
そうなれば、家康は豊臣政権の大老として主君秀頼の名のもとに戦後処理をするしかない。
家康が諸大名を臣下にするのは、個別に行うしかなく、そんな状況で九州にいる将軍清正を倒すには何年かかるやら。
さらに秀頼を滅ぼすとなると、時間がかかりすぎて家康の寿命が尽きるだろう。
実力を伴わない将軍に従うものは少ないが、権威のない実力者に従う者もそう多くないのだよ。 加藤清正は秀吉在世中は豊臣子飼いの一大名に過ぎないし、出自的に無理だろ。
家康は任官された時点では400万石の石高と内大臣の官職をもっていたし、
家系図を新田家傍流に書き換えて任官されるように土台を入念に準備している。 家康を征夷大将軍させない、秀吉が在世中に意図していたなら、
足利義昭にそのまま任官を続けさせることで、名誉職にさせていたはず。 >>246
加藤清正と福島正則は豊臣姓で秀吉と血縁関係もあるから、少なくも秀吉存命中には問題なく征夷大将軍になれる。
外征将軍だしね。
初代征夷大将軍坂上田村麻呂の出自は東漢氏で、それほど貴種というわけではないね。 >>247
なるほど、そういう手もあるかもね。
ただ、足利義昭は秀吉より先に死んでしまったんだよね。
空席になった将軍職が名誉職であり続けるかどうかは微妙かもしれない。 >初代征夷大将軍坂上田村麻呂の出自は東漢氏で、それほど貴種というわけではないね。
少なくとも朝廷の直臣であり、豊臣の陪臣である福島や加藤と同列ではないし、
近衛府勤務からスタートしていて、天皇に対する信任に至っては別格。
そんなゴリ押しで朝廷相手に紛糾するぐらいなら足利家をそのまま継続させて将軍家とした方が効率が良い。 >>226
秀頼は豊臣家なんだから関白にはなれても武士の頂点である征夷大将軍はなれないんじゃないかな? 宇喜多や加藤や福島は血統の面から不安要素が多いし >>229
そもそも家康に将軍任官を豊臣は後押ししてたやろ 四の五の言わずに三成が単体で東軍蹴散らせば良かったんだよ >>250
東漢氏は渡来系でもともと蘇我氏の陪臣のような氏族だった。
同じ源氏とはいえ源頼朝の陪臣(御家人)だった足利氏が将軍になったわけだから、摂関家である豊臣姓の加藤、福島が将軍になるのがそんなに無理とは思えないな。
小早川秀秋も関白になれると自他ともに思っていたわけでしょ? >>251
豊臣政権当時、武家の棟梁は武家関白だよ。 >東漢氏は渡来系でもともと蘇我氏の陪臣のような氏族だった。
田村麻呂自身は近衛府から出仕して紛れもない直臣だし、天皇の信任は歴史的にも稀に見る厚さ。
加藤や福島なんか当時の天皇からすればどこの馬の骨か分からぬ上に、秀吉の子分に過ぎない。
秀吉がゴリ押ししたとしてもそのせめぎあいの姿を諸大名に晒し、時間を浪費するだけだろ。
>同じ源氏とはいえ源頼朝の陪臣(御家人)だった足利氏が将軍になったわけだから、
源氏の分家筋だし、全国の武家を二分する一方の指導者だろ
>摂関家である豊臣姓の加藤、福島が将軍になるのがそんなに無理とは思えないな
加藤や福島が豊臣本家を乗っ取る形で諸大名に号令する立場になり、家系図も源氏なりそれなりの家に書き換えればなれるかも。 豊臣の家臣内ですら内輪もめするような加藤や福島が
征夷大将軍を名乗るだけの統率力には値しないだろ。
足利のような確かな血筋でもないし。 >>256
坂上田村麻呂のときの桓武天皇と、秀吉が関白になって以降の天皇じゃ持ってる権力が全然違う。
せめぎあいになんぞならんよ。
実際、秀吉は臣下を内大臣やら大納言にもしている。
あと、足利が源氏の分家筋なら、加藤福島小早川も豊臣の分家筋。
豊臣は摂関家で武家の棟梁だから、わざわざ源氏になどなる必要はない。
あなたは、源氏や将軍を特別視しすぎなんじゃね? >>255
だよなぁ…
征夷大将軍ガーという議論は、滑稽以外の何物でもないw >>255
秀吉が五摂家に取り入ったから関白になれたわけだからあくまで貴族の官位じゃん? 武士の頂点は征夷大将軍だと思うんだけど >>253
関ヶ原での三成って細川と黒田に入れ代わり立ち代わり攻め込まれても頑張って持ちこたえてたよな >>261
豊臣姓を下賜されて武家関白家となったよ。
武家関白は貴族の官位ではなく、武家の棟梁として認知されているから、秀吉は将軍を置かなかったわけだ。
自分の意のままに動かせる傀儡将軍が必要なら鎌倉幕府みたいに摂関なり親王なりを据えれば済むことだけど、そんなものは必要無かった。 >>257
鎌倉幕府四代将軍は摂家の非嫡子で、しかも3歳の幼児だったから、摂家分家筋も統率力も天皇の信任も全く問題にならないということだな。 >>264
なるほも あと気になったのは豊臣姓を下賜されたのは太政大臣になってからだと思ったんだけど違ったかな? 坂上田村麻呂は長年失敗してきた奥州平定に成功したし、天皇の近臣として厚い信頼を寄せられた。
頼朝や尊氏は源氏の血筋で、しかも多くの武家従えていた。
福島や加藤は豊臣の配下としては猛将かもしれないが、それまで叙任された征夷大将軍
としては豊臣家配下として同僚といさかい起こしている程度の人物で小物過ぎるし、
血筋も頼朝や尊氏に比べ不確か、大名としても二〇万石程度と小身、
少なくとも利家のように仲の悪い三成と清正を丸め込んでまとめる度量ぐらいは必要。
。 >>265
ある程度支える武力があればな
鎌倉には北条がいたから将軍が雑魚でも倒れなかった
しかし豊臣にはそんな勢力はないんでね
徳川が絶対服従なら話は別だけど >>268
秀吉に武力が無いとか不思議なことを言う人だね(笑) 加藤、福島の征夷大将軍に成れるか問題点とかw
こんな続くから逆に信憑性あるのかな >>269
秀吉亡き後の秀頼にないっていう話だろ。関ヶ原の時秀吉は存命だったのか?
ちなみに加藤福島が将軍になったら将軍の権威にひれ伏す連中連れて東軍についてしまうわw >>271
一番初め>>226に「秀吉存命中に」とあるよ。もはや、君に説得力ある意見を
求めるのは無理のようだね。
秀吉存命中に、朝鮮出兵時の司令官を征夷大将軍に叙任することが可能だというのは、もはや議論の余地が無いと思う。
「将軍ガー」君の蒸し返しに答えるのはこれで終わりにする。さようなら。
問題は、その場合でも関ヶ原(のようなもの)が起きて、徳川の世が訪れるかどうかということ。
俺自身は、それについての考えは固まっていないが、最終的に徳川の世になったとしても、そのプロセスは史実とは違った様相を呈するのではないかと思う。
賢明な諸兄のご意見を賜りたい。 つうかだなあ、太閤が自ら乗り出して、隣国の征服作戦に邁進しているその期間に、
何が悲しくて、部下にわざわざ征夷大将軍になってもらおうとするんだよ('A`)
そんなわけわからんことをして、唐入りの作戦遂行に、何かプラスにでもなることがあるのか? 天皇を北京に移して秀次を明の関白に、宇喜田秀家を日本の関白にするという
秀吉のアジア構想が実現すれば、家康の征夷大将軍もありえるかもな 諸国大名を腕力で黙らせて
最終的には帝の認定を貰う
これが長らく日本の最終的秩序だな 唐入りしたことがすべての元凶だな
朝鮮の冬の寒さに耐えきらず凍死者だしてるようじゃ華北も占領できん
戦力以前にそうしたことがダメ >>276
満州は関係ないでしょ
戦とは兵站で決まるもの、当時に三成より優れた人はいない 家康の将軍就任は、秀頼家臣から家康家臣に鞍替えしたかった諸大名に口実を与えた訳で、
将軍職を長生きしそうな別の奴にくれとくのは面白い嫌がらせ。
清正とか武張った奴に与えるより、ひょうげ者に与えて、将軍職の権威を落としておく方がいいと思うが。
しかし、将軍職は口実であって、その前の事実としての権力交代を防がないとな。 >>278
古織将軍ですか(笑)
それはそれで面白いですね。
ただ、あまり小者だと、将軍ごと担がれてしまうリスクがありますね。
そこそこ力があり、できれば秀吉と血縁のある豊臣姓のものが最適かなとは思います。 結城秀康と徳川秀忠や本田正信と大久保長安など徳川内部か抱えている対立を煽る。
出来そうな奴が西軍に居ればだが。 結局ペリー来航のあたりで歴史のブレークラインでチャラになるんですが
誰が支配してても結果は同じって所が日本の持ち味じゃないの? >>1
どうすれば西軍が勝てたか?
もう答えは出ているだろ。
秀頼が出陣するだけで勝てたはずだ。
西軍の陣頭に秀頼が自ら立ちはだかれば、東軍の軍勢はことごとくその場にひれ伏し、戦にもならなかっただろう。 >>184
絶対的な指揮者がいないから愚策。
離間工作して各個撃破。まずは上杉討伐,そして石田・毛利の本拠地を攻める
しびれを切らして戦端を開いたのは石田側。家康の死を待っても…
京を押さえられたら朝敵にされる恐れも
>>272
その征夷大将軍とやらは加藤にしろ福島にしろ石田三成を襲撃した際殺害しちゃうのでは。
でも上下関係が判らないよな
>>284
鳥羽・伏見のときの明治帝は幼かったけど慶喜は撤退したが >>285
帝を頂いたという強気と相手の動揺を嘗めんな
将軍の息子と比べるな 太陽を背に戦わなかったから負けたんやで
こんなの神武以来の常識や 日本人の戦争には常に正義と悪がある
帝を担いだら正義
それ以外は悪
指導者はこれを無視する事ができない
民衆が納得しないからだ
当然納得した兵士と納得しない兵士で戦えば結果は見えてる >>24
でも関西在住としては、西軍が勝ち政治の中心が関西となる歴史も見るたかった。 毛利や島津に戦勝後、豊臣政権での執権的な立場を約束するとか
タヌキが得意な根回しを、石田さんもしっかりしとくべきだったね >>220
だからその場で家康を討ち取らないとダメ 小早川秀秋が裏切る前に南宮山の毛利勢が土壇場で家康との内応を反古にして背後から襲ってその場で首を取れば歴史は変わってた。家康が毛利勢が動かないのを見て、前進を始めたタイミングなら絶妙。 家康が早死しててら歴史はどうなってのかな(´・ω・`)
秀忠と幕閣だけでも秀吉無き豊臣を圧倒してそうだけど 家康領を分割しないと無理
秀忠を江戸20万石
秀康の結城10万石
四天王も各10万石で他所に移す てか秀吉が死んだ時点で豊臣政権=徳川政権くらい家康に全部委ねてるから西軍に勝ち目ゼロ。 >>266
まぁ秀吉は関白を世襲するために結構裏技使ったからな…
既にここらへんから綻びは始まってたのかもしれん。 天下の豊臣が全力出しても倒せなかった徳川を、
一奉行に過ぎなかった石田がどうやって倒す?
無理だろ。三成に非はない。 >>299
秀吉が死んだ瞬間、すげー勢いで家康に擦り寄るってのはどうだ? 万が一、関ヶ原で家康が敗れても、家康さえ生きていれば無傷の徳川本隊が残っているから、何度でも復活戦できる
関ヶ原で1回負けただけで終了してしまった西軍とは大違い >>302
裏返せば家康さえゴルゴ13が討ち取れば東軍は烏合の衆で崩壊だな
総大将の代わりがいない
ゴルゴは冗談だが、桶狭間合戦のように家康本陣だけを奇襲して家康を討ち取る軍師が西軍にいればな
秀吉が天下を取った後に軍師の黒田官兵衛を冷遇していなければ、
官兵衛が秀吉死後の豊臣家を守るために知恵の限りを尽くしてくれただろうに 家康本隊だけでも西軍主力と同じくらいいて、さらに最前線に犬どもが頑張っているのに、
西軍の誰がどうやって家康本隊まで突撃出来るかねぇ。 個人的にはなんで三成は小早川秀秋なんてのを自軍に組み込んでたんだ…?
伝説を加味してもとても豊臣に忠義感じてそうには思えないんだが… >>306
家康は伊賀と甲賀が味方してるし、
剣豪柳生一族まで付いてるから並大抵の連中じゃ無理そうじゃないか。
冬の陣だが、豊臣の決死隊が秀忠襲ったけど柳生宗矩一人に蹴散らされたし。 >>305
徳川家康も律儀もので通ってたらしいから秀吉ってひとたらしとか言われるわりに人を見る目がないな
最も心の底から秀吉を尊敬しついていった人間がどれだけいたのやら
晩年こ数々のやらかしで人心は離れてったからこそのしょぼい結末 >>303
それは言えてる勘兵衛を恐れたからというがそれなら家康に250万石もの大領地を与えたのはうかつすぎる
もっと分散させなきゃ >>307
実際の忍者の役割は逃走補助と情報収集
戦闘能力は低い
ましてや暗殺なんて無理 >>303
それができたとしたら吉川広家だったと思う
東軍とは関ヶ原開戦前に内応していたと言われるがそれを土壇場で反古にして毛利勢が山を下り背後から家康を襲えば桶狭間の再現になったかも知れない >>310
実際、家康は戦国時代基準で見ると無茶苦茶律儀者なのよ。
恩義にはかなり忠実だし、その上交友関係がかなり広い。
織田から成り上がった秀吉は、悪く言えば織田を乗っ取って天下人になったから旧織田家臣団を抑えてくれる管理職は何人いても足りんくらいだった。
信長の盟友で、律儀者の家康は最高の人材だった >>126
領土配分でいえば、もし三成が挙兵せずに何もしなかった場合、
上杉は徳川連合軍に滅ぼされるだろう(もしくは上杉降伏)
その場合、上杉領の会津120万石をどう配分するかだな
(上杉が降伏した場合は、上杉は取り潰しされずに生き残る可能性があるので、
家康が上杉から召し上げた領土はもっと少なくなる)
あれだけ多くの大名を動員して、遠く奥州の上杉征伐に駆り出したのだから、
恩賞を与える必要になる
史実では関ヶ原合戦があったから、家康は味方に与える恩賞が莫大にあったが、
関ヶ原合戦が無かったらどうなってたのだろうか >>315
そうしたら@前田をいちゃもんつけて潰しに行くA毛利にいちゃもん(ry、B宇喜多に(ry、とやってくつもりだったのかねぇ… >>315
降伏したら上杉景勝と直江兼続は切腹かな >>316
前田にはすでにいちゃもんつけて攻撃しようとしたところ屈伏してきたので不問にしたこの時点で前田は実質徳川一味になってしまった
上杉が潰されたらもちろん次々に喧嘩吹っ掛けて潰していったろうな >>317
うろ覚えだけど、有名な直江状は種々の研究によると江戸時代に創作された偽書の可能性が高く、
当時の史料からは直江兼続は速攻徳川に土下座して事情を説明してる可能性が大とか言われてなかった?
だとすると上杉討伐は割と徳川のポーズで、
本命は石田三成一本釣りだった可能性も… 三傑の流れって割と奇跡だよな
ここまで役割分担にしろ引き継ぎにしろ、完璧な流れってそうないだろ
人類の発展シミュレーションをスパコンで何度やってもここまで完璧な流れはそうあるまい とりつぶすといえば戊辰の会津戦争みたいになるから
景勝に15万石くらい安堵だろ
上杉の家督は長員
藤田を大名取り立て
直江は本多の倅を送り込む
史実と大差ない
これじゃ恩賞が足りないから
次のいちゃもんは毛利だろう 史実では家康が上杉から取り上げた領土90万石(上杉は会津120万石から米沢30万石へ削減)は、
蒲生(取り分は会津)と最上(取り分は出羽庄内)と伊達(取り分は白石)に主に分割された
ただの上杉征伐だけなら、戦後の恩賞問題が大変なことになる
それと徳川の天下が長期化した一因は東海道と畿内を徳川色にほぼ固め、
幕領を400万石まで増やせたからだ
上杉征伐毛利征伐宇喜多征伐を成就したとしても、史実のようにはいかないだろうな 90万石以上あるよね実際は
伊達が白石2万石
蒲生が会津と二本松、白河で60万石
最上が庄内24万石(残りは小野寺などから召し上げ6万石)
天領(代官は大久保)が佐渡14万石 まぁ1番の狙いは徳川にちゃちゃいれてきそうな奴を潰すことより、
豊臣同士を潰し合わせてその上で豊臣蔵入地の処分にあったかもしれんから… 小牧・長久手の敗北って豊臣の終わりの始まりだよな
ここで完勝して家康をぶっ潰せば、歴史は変わってたろ >>327
秀次が潰されたのが痛過ぎる。負け方が酷い。敵の背後取ろうとしてテメェの背後突かれて壊滅とか聞こえも最悪だし…
地震がなければ、とか言われてるけど徳川も北条・伊達等に反秀吉連合呼びかけてたから和睦して無かったらマジでここが最終決戦だったな… >>327
その通りだと思う。
堺は秀吉が押さえていたのだし、イエズス会のキリシタン大名たちも秀吉側
だったのだから、高山とか小西とか蒲生とか黒田とかの神がかったカルト兵
の鉄砲隊で圧倒すれば、徳川家康を滅ぼすことは可能だったはず。
関ケ原時点では、もう手遅れだよね。政権に全然人望が集まってなかったし、
秀頼は秀吉の種ではないことは皆が知っていたし。
キリシタン禁教を解除して、信仰を許すって布告して、高山右近とかを呼び
戻せれば、すごいことになったかもしれないが。 朝鮮出兵したおかげで豊臣政権は内部崩壊
反石田派が家康に味方してしまった
朝鮮出兵でなく第二次関東出兵で家康を滅ぼしていたら豊臣政権は続いていただろうに >>331
動機が無いってのが最大のネックだな
北条を攻めた時の軍功考えると領土増やさないといけなかったし… >>332
無いものを作るのが政治
関ヶ原前に家康に攻撃されそうになった上杉にも大軍おくられるようなことはしてない
直江状も架空なんて話もある ただ豊臣政権は秀次一味粛正と朝鮮出兵で求心力を失ってたので徳川が滅んでても関ヶ原での豊臣造反組が他の誰かを担ぎ上げて崩壊してた気もする 秀吉が存命中その気になれば濡れ衣でも謀反の疑いがあると言えば家康でも潰された >>333
北条攻めの前だと北条とタッグを組んで大戦争になるし、
北条攻めの後だと軍功あった奴に毒盃で応じたことになって豊臣の人望が地に落ちるし…
大義名分に拘ると家康は潰し難いとは思う。
しかも家康は義理の弟だし… 亡くなった父が日本一の権力者で、おばさんの旦那さんが日本で二番目の権力者の家康さん。叔父と甥が仲悪いなんて世間にははいて捨てるほどある。 なぜ秀吉は家康を暗殺しなかったのか
宴会にかこつけて目障りな部下や政敵殺すなんて中国じゃお家芸なんだが
考えられる理由その1:そもそも秀吉は家康を敵と見なしてなかった
将来の禍根と見ていなかった
理由その2:家康を警戒し、やりたかったができなかった。家臣のガード等硬すぎて無理
理由その3:物理的にはやろうと思えば可能だった
しかし、集団統治型の当時の日本では謀反の疑い、命令違反をしていない律儀物の家康を殺すことは、大名の支持を失い
それが豊臣政権にとって致命的になってしまい無理 秀吉晩年期では家康は対武家では信長の盟友、律儀者という評判から豊臣政権と武将達の折衝役を務め、
対朝廷では、秀頼が成人するまで大臣職を五摂家より守護する重石となっていた。
また、秀吉は家康が源氏の一族で、故に将軍を狙っているとも知っていたが、朝廷での工作が功を奏して家康が将軍になる可能性は無かった。
だから家康が天下を握るなら秀頼を奉じるしかないと考えた。
この考えは半ば当たってはいた。 てか最近だと関ヶ原は決戦じゃなくて逃走する西軍を東軍が追撃する掃討戦で、
小早川も裏切った訳じゃなくて東軍が西軍を捉えた時に牙を剥いたって話になってたが… 秀吉が足利義昭の猶子になることに成功し足利16代将軍になっていたら家康も幕府を
潰すのに二の足を踏むと思うんだが。 源氏って朝廷にも勢力強いし、秀吉だとかなり厳しそう。
内部分裂起こしてた五摂家の方が与し易い感じ。 秀吉が将軍になってたら歴史は大分変わっただろうな。
もしくは、武家の関白は公家の関白と違う、と朝廷から逸脱した存在になるか… そういえば秀吉は、八条宮や近衛前子を猶子にはしたけれど、皇女や摂家の娘と結婚しようとはしなかったな。娶ったら正室にしないといけないから、北政所に遠慮があったのか。 小早川が立てこもったところを西軍が包囲して、東軍が開囲作戦に来ただけじゃないのかな
結果として決戦になってしまったけど 田辺城など5000もいればいいから残りの10000を大津にまわし、
大津の立花宗茂・小早川秀包・毛利元康の3将を含む10000を関ケ原に投入すれば勝っていた。 毛利な、ほんと毛利次第だよ
秀吉は天下統一なんてしてなかったってことや 346
朝廷の政治は藤原氏、催事は源氏って言われてんだけどね まあ主な公家源氏らが当たったんだけどね
摂津源氏以降は武家源氏となった 明治に天皇の側近を務めた岩倉具視なんてのは村上源氏の子孫言われてるでしょ
どっちかっちゃ側近として代々天皇の世話をしたのが源氏の連中らなの
南北朝のときに後醍醐天皇の側近から南朝の中心人物として指揮を取ったのが同じく村上源氏の北畠氏やからな >>353
桓武平氏は高棟王流は公家平氏になったが、清和源氏の公家源氏はいたの? 356
おらんでしょほとんど
どっちかっちゃ御家人(荘園領主)に流れたのばっかり 初代の源経基王ってのはかなりの腰抜けだったんだってさ
他人の手柄がなぜか経基王の手柄になったみたいなんで名が上がった
武編に優れてたと言われるのはその子供の源満仲だったんだよ 経基王自体が自分の実力で朝廷内に勢力築けなかったからな
満仲は京都廻りの大将
これでもはや決まった 武家源氏的な公家源氏では嵯峨源氏や宇田源氏いるが昇殿できたのそちらでしょ 日本の源氏物語りは1008年に書かれたでしょ
源氏物語りのモデルになったんは醍醐天皇の王子の源高明だと思うんだがね
一世源氏と呼ばれ左大臣にまで上がり尊貴な人物と呼ばれた
清和源氏の経基は関東遠征軍の大将だよ
満仲は京都見廻りで公家の連中らから源氏の大将と呼ばれた 源氏って皇族中でも特殊な一族らしいし、
気位もコネも充分あるしですげぇ厄介そう。
むしろ家康が将軍及び源氏長者になれた方がイレギュラーな感じある 公家の連中らが御家人らみたいな荘園領主に流れたのは武家よりも後なんだよ
公家領主らみたいなんも現れだしたが室町あたりからだろ 秀頼を石田陣に鎮座させれば
加藤と福島は動けないだろ
仮に徳川譜代で使えば逆に秀頼を守るために動いただろう 豊臣に無断で毛利の軍を大坂城に入れてる時点で豊臣の支援は無くなったと思った方が良さそう。
そんなのに賛同したら豊臣の威光ガタ落ちやん。 島津ってのは南九州に御家人として設置したの頼朝だぞ 毛利は大江だろ
鎌倉幕府に朝廷から話し合うために鎌倉に参内した朝廷の使者が始まりやで
そっから御家人となった 武家自体の歴史は1020年ころだから平安時代中期には始まりそっからの記録もバッチリ取ってあるだよ
鎌倉幕府が成立したのはその170年あとだ 織田氏の祖先は忌部氏だってさ
忌部親実と言う人物
織田氏平家説はこの忌部親実が平資盛の子供で忌部氏に養子に入ったとする説 忌部氏(斎部氏)は天太玉命から始まり古代朝廷で祭事を執り行った氏族
もともと神官の出だしな、織田氏 系図は
高皇産霊尊一天太玉命一忌部氏→忌部親実→織田信長 >>366
毛利は奉行衆からの要請を請けて大坂城に軍を入れとる。これは書状からも明らかなんだが、
この動きには秀頼や豊臣家のお墨付きが無いので完全に西軍の独断専行。
こうなると秀頼が西軍につかないのも当たり前ってことよ。
勝手に軍入れられてそいつらに乗ったら豊臣家は乗っ取られたも同然よ。 関ヶ原関連のスレはカルピスっていう狂ったやつに荒らされて閉鎖、機能不全に陥ったけどここは無事みたいだな 正直関ヶ原のタイミングでは詰んでるわけだが、
どーすりゃよかったんだろうねぇ…
てか石田三成が言われてる程豊臣に忠実ではないしな 関ヶ原は家臣同士の覇権争い。
元々、ねね(尾張武官)派と茶々(近江文官)派の対立が伏線としてあり、秀長と利家が利害を調節していたから、前者は黙っていたが、2人が居なくなって、家康しか茶々(近江文官)派の横暴を止められなくなった。
それでねね(尾張武官)派は東軍に付いた。この時点で勝敗は決していた。
その上、家康が三浦按針に輸入させた東インド会社経由の最新式鉄砲・大砲の雨を降らせ、西軍は瞬時に瓦解した。 一番おかしいのは、中央での統制を強化したい4奉行派と、地方分権で行きたい毛利・島津・長曾我部・上杉が組んでるところ。
本来なら統制派のトップである家康体制に反抗して4奉行が武装蜂起する意味が分からない。
やはり、三成とかは責任被せられただけで、首謀者は上杉・毛利なんじゃないか >>376
島津維新は鳥居元忠に伏見城入場を拒まれ、仕方なく西軍についたんじゃないか? 377.378の様に、西軍ってマジでバラバラの烏合の衆なんだよなぁ…
なんとなく利害が一致してる(っぽい)ってだけで軍を挙げたわけで幾らなんでも適当すぎる… 決死の覚悟のないやつばかり。
肝心の石田三成でさえ、腰が引け最初から逃げ腰である。
他の西軍で命がけの覚悟のあったのは大谷刑部だけ。
大谷がせめて2万の軍勢をもっていたら状況は全然違っていただろう。
小早川秀秋に刺客を向け事前に殺していたらと思う。 総大将の毛利や小早川が何をしたかったのかわからん
徳川に通じてるなら最初から東軍についてればいいだけ
関ヶ原の勝敗結果は西洋人にはどうしても理解できんらしいな 関ヶ原は決戦ではなく、敗走する西軍を東軍が掃討したって話が最近出てたけどそれによれば、
小早川→当初から東軍派で、岐阜城陥落と共に完全に見切りをつけて西軍を攻撃するつもりだった。東軍が陣についた=小早川だけで西軍とやり合う危険性が無くなった時点で西軍を攻撃した。
毛利→石田三成と語らって徳川が握ってた実権を手に入れようと画策。しかし、打つ手全てが裏目を引いていたので保険として徳川と和睦の交渉を行う。岐阜城陥落で完全に西軍に見切りをつけて「もし自分たち以外で東軍をやっつけられたら西軍に味方しよう」程度の考えで布陣。関ヶ原終了後は全力で石田三成に責任を押し付けた。 大谷は関ケ原時身体が相当悪く与力の平塚為広や戸田重政が代わりに指揮を執った聞くが? 西軍総大将毛利輝元が、秀頼に挨拶もせずに、関ヶ原の結果を聞いて大坂城から逃げ出したのは、家康が按針に輸入させた最新鋭のイギリス製銃火器にやられる恐怖から。 毛利からすりゃ、大坂城に豊臣に無断で兵を入れた時点で反逆者扱いされておかしくないからなぁ。
関ヶ原が終わった時点で無条件降伏しないとどんな事になるかわからんもん。 令和になっても「寧(尾張閥)と淀(近江閥)」なんて言ってる化石頭が存在することに驚いた。 東軍に西軍のような日和見がいなかったのはなぜ?
徳川にそこまでカリスマ性があるとは思えんなあ
譜代家臣ならともかく、豊臣恩顧のヤツらがなぜ家康に
完全に轡替えしたんだ そりゃ圧倒的な軍事力を持つ相手には忠誠心がなくても長いものには巻かれよの精神でついていくだろ >>389
1 秀次事件で秀吉の昔からの部下の多くが粛清されて豊臣系の有力者が居なくなった=外様の影響力が拡大
2 豊臣政権内部で出来てしまった派閥は大きく分けると徳川派・前田派・毛利(奉行)派となるんだが、前田利家の死によって前田派の大多数が徳川派に参加した。理由は毛利・石田三成への反感。
勿論、徳川家康のカリスマもあるんだろうがそれ以上に石田三成らに政権を渡す訳にはいかない、石田三成が俺たちの上に立つくらいなら家康が立った方が遥かにマシ、って思う連中が多かった。 >>391
家康はコイツらに担がれたところが大きいわな
ただコイツらは豊臣政権内で家康をトップに据えようとしたのかそれとも豊臣自体を見限ったのか
どっちだろう
家康は時流を読んでそのまま天下をとった >>388
まあ研究もハッキリしたことはわかってないし
どっちでもいいんじゃね >>383
確定ではないけど
そう考えたらあれほどの大軍が1日で壊滅したツジツマがあうな >>382
いわゆる西軍よりの2枚腰だったと思われる >>365
真相はどうなんだろう?
豊臣が喜んで迎えて起きながら
負けた途端に反逆者の石田、毛利とか言った可能性はないのかな?
今出てきてる史料にはそういうのは残ってなさそうだけどね >>392
戦国大名ってのはビジネスライクなところがないと生き残れんからなぁ。
家康が将軍になって、天下人たる力を見せつけていく中、豊臣の力はどんどん凋落した。
こうなると、豊臣は主君が出す御恩を用意出来ない。
御恩と奉公は御恩があって成り立つから、豊臣がスカンピンってなると… いくら三成が無能でも豊臣家臣は手のひらを簡単に返しすぎ。
もっとも馬鹿なのは福島正則、あとの運命を読めず馬鹿みたいに猛勇を振るった。
家康も呆れ返ったはずだ。
二番目の馬鹿は小早川秀秋。
こいつは真正の馬鹿だ。
由緒ある小早川家の家系をすべてぶち壊した。
戦後、秀吉の亡霊に取り憑かれ狂い死んだのは当然の報い、地上最低の輩だ。
三番目は毛利に吉川、あの世で秀吉に顔向けできるか。
四番目は黒田長政、こいつも家康にペコペコへなへな東軍の先頭を切る本物の馬鹿。
たとえ黒田家は存続しても何の値打ちもない。
五番目、六番目もいるが情け無く恥ずかしい奴ばかり。
関ヶ原の戦いは日本歴史上最低の戦いだった。 >>398
史上最低なのには同意
戦というより予定調和のやらせショーをみてるような感じ 軍事より政治がモノを言うある意味日本らしい戦だよ
なんにせよ豊臣恩顧の連中は、家康の腹のうちをわかった上で東軍についてるのだから
これはもう豊臣に対する裏切りと言っていい >>400
日本人の心の有り様、方向性が決定づけられた戦だったのかもしれないな >>398
黒田はもう豊臣の天下を秀吉が死んだ時点で見捨てていたと思うよ
だから秀吉の養女(蜂須賀小六の娘)をさっさと離縁し、家康の養女と再婚
そもそも秀吉のために戦功多い黒田が、秀吉が天下を取って与えられたのは
豊前13万石だけ。
しかも秀吉から冷遇され、たびたび処罰され、疑われて出家せざるをえない始末。
もう豊臣には恩義どころか恨みしかなかったろう >>402 >>398
半兵衛が長命で関ケ原時生きていたらどうなっていただろう。 >>399
岐阜城が落ちた時点で勝負は決してたらしいからな
織田秀信に領土をやらなかった秀吉が悪いのだが >>402
黒田官兵衛は石高を自己申告してもいいよって
言われての12万石だったはず。
いくらなんでも六郡で12万石は少なすぎ。 >>398
福島正則は能吏である伊奈図書の切腹を無理やり迫ったのが大きな失敗。
小早川秀秋は無理やり西軍に組み込まれたものの、伏見城攻め後は
病と称して西軍首脳の言うことを聞かなくなってて、松尾山の砦から
西軍大名の伊藤某を追い出して居座り、東軍への合流を図ってるので、
こんな人を西軍の一翼にと考えた石田三成の判断が間違ってる。 最近の研究で、関ヶ原は決戦ではなく、
西軍を離れて東軍に合流しようとした小早川を西軍が処罰しようとしたら東軍に追いつかれて潰された
なんてのもあるくらいだしあからさまに怪しいんだよなあ、小早川さんは… >>398
福島「は? 三成が無能だからじゃねえよ。 三成は俺の敵だから、敵の敵の徳川についたんだよ」
毛利&吉川「は? うちの領土は全部うちの爺様以来実力で切り取ったもので、猿から恩を受けた覚えはありませんが?」 >>406
石田は戦の素人だな
出来るのはせいぜい兵站で前線の司令官が務まる器じゃない ていうか石田三成が西軍の指揮が出来た筈がない。
石高や権威で圧倒的だった毛利を無視出来ないから。
だから平時は確かに三成が指揮してたんだろうが、
土壇場になると自分達の判断で行動してたんじゃないの。
烏合の衆って往々にしてこんなムーヴやりがちだし。 もし関ケ原がなくて豊臣方が家康の死をひたすら待っていたらどうだったんだろうね? 秀吉が人生の後半頭おかしくなった時点で、もう諸侯の心は離れてたわけで。 この時の毛利の当主が元就だったら、「領土はもう拡大しないでこの程度でよい」は最早通用せず、家康を蹴落として自分が仕切るか、家康が天下を取って自身の領土は大幅に削られるか、の局面を理解していたと思う。 毛利がちょっと中途半端な対応してるからね…
とはいえ、岐阜城陥落してもう負けが確定してるのとなると後はどう負けるか?ってのが重要だからしゃーないところもあるけど。 そもそも西軍の大半は戦意がなかったのだから、関ヶ原で決戦をする必要がなかった。
総大将の毛利輝元が、全軍勢を大坂城周辺に引き上げさせ、「秀頼公を護衛する」ことに
専念して、膠着状態に持ち込み、東軍との和議をゆっくり進めればよかった。
毛利、島津、長曾我部、宇喜多などの主力が大坂城周辺に集結すれば、東軍は手が出せない。 >>419
西軍は東軍の内情を知らないから、家康が近くまで来てると
知らず、江戸で留まってると思ってた。
西軍主力が押し出してきたのは、美濃の城が次々奪われてるので、
東軍先鋒を叩いて前線を押し返すため。
決戦するつもりはなかった。
家康が来てると知ってたら近畿まで前線を下げたと思う。 家中騒動で戦力が怪しくなってる宇喜多が現実を省みず、内府憎しでハナから戦意のない毛利を神輿に持ち上げ蟄居中の石田を無理やり参謀に据えたところでどうにもならんで てか東軍は家康の動きがヤバいんだよな。
作戦?そんなんお前らわかってるだろ!関東は吉報を待ってるぞ!
え?家康に出馬してほしい?わっーたよ!行く行く!
とか言いながら行かなかったり、と思ったら約束より早く出発したり。
西軍の諜報網をきりきり舞いさせてる。
対して西軍は三成筆頭に頭の固い戦法とってるから東軍に捕捉されてたみたいだし、 毛利輝元に家康を蹴落として自分が政権を牛耳るだけの胆力と器量が求められる。 >>422
>対して西軍は三成筆頭に頭の固い戦法とってるから
安濃津、丹後田辺、近江大津城とかわざわざ
攻めに行かなくてもって気はするな。
その辺は西軍の勢力内で孤立した弧城だし、近隣の小大名に
牽制させておくだけでよかったと思う。
東軍先鋒が押し出してきたのを迎撃して打撃を与え、大垣や岐阜辺りに
まとまった軍を込めておけば決戦は避けられて大阪城を握ったまま
>>419氏の言うとおりのこう着状態に持ち込めたかと。 >>407
畿内の東軍孤城攻めるくらいなら、態度が怪しい小早川を
さっさと始末すべきだったと思う。
小早川も上杉討伐に参加するつもりで大阪に着いたら西軍が決起してて、
東海道を下ろうとしても長束に阻まれ、立てこもる城もないまま
無理やり西軍に組み込まれたから可哀想ではあるんだが。 三成からすると、まさか旧織田家臣の豊臣派が秀信を攻撃するとは思ってなかったんかな。
なお躊躇わなかった模様。武士だからね、仕方ないね。 >>427
福島・池田とも岐阜中納言には直接何の恩顧も受けてないから、なおさらね。 >>429
島津は成り行きのまま西軍として戦っている。
小早川は東軍と合流しようとした。 豊臣家は、初代当主からして、主君の子の信孝を平気で殺しに行けるメンタリティ。 まぁ当時の御恩と奉公ってのは基本一代限りだし、
主君の家に忠義を尽くす武士像ってのは江戸時代に入ってからだし…多少はね?
とはいえ、織田秀信に織田の旧領を与えなかった事が、
関ヶ原での西軍敗北、その後の豊臣滅亡に繋がってると考えると歴史ってのは面白いなーと 合戦当日の布陣図、三成の右手に陣取ってる小部隊が謎…
地図によって「豊臣麾下」、wikiでは「織田信高」、
ひどいのだと凸マークだけで名無しだったり。
あとは部隊そのものが無かったりも
詳しい人教えてください。 >>432
>とはいえ、織田秀信に織田の旧領を与えなかった事が、
確か十二万石くらいだっけ?
東海地方は小大名が碁石みたいに並んでて、家康の盾になる
大大名がいないのが苦しい。
せめて美濃、尾張、伊勢辺りで百万石くらい持つ大名がいれば。
(ただし三介どのは除くw) >>434
秀信に織田の旧領全部与えなかった事は、織田の家督争いを考えればわからなくはないのだが、
その後紆余曲折ありながら尚秀信に織田旧領を与えなかったのは割と解せない。
おそらくは秀信に何十万石とやってしまうと信長恩顧の連中が何を考えるかわからなかったからなのだろうが…
岐阜城が落ちたのは、秀信が強力な支配を敷けなかったが故に、敵の侵攻に対して打って出ざるを得なかったから…
なんて聞いたけどはたして… >>430
島津は伏見城に入城して東軍に合流しようとしたぞ。
鳥居元忠が島津を入城させとったらどうなっていただろうね?
維新以下全員討ち死にしてたんかな? 島津にしろ、本当は東軍に…って言うけどどれだけ信用できるんだろう。
実際あり得る話ではあるし(鳥居からすると「もし島津が西軍に通じていたら伏見は最悪の落ちかたをする。入れられない」って感じだろうし、島津からすると「伏見に入れないで西軍と戦うのは無謀すぎる」って感じだろうし)
ただ、西軍に与した連中が助かる為には「実は東軍でした」って言うしか無いわけで… 石田&宇喜多&立花以外は東下するのを阻まれたり
成り行きでしぶしぶ西軍に組みしたりで戦意が乏しい
そもそも「西軍」と区分けできるのかも怪しい。
徳川勢が赤坂に入るころに瓦解しててもおかしくない。
逆に考えると開戦当日まで離脱者を出さずによくぞ家康を向かえたなと。
奇跡。 >>440
成り行きで組み込まれた連中に対して、九州や四国勢には
家康は寛大な処置してるな。
立てこもる城もないし領国に帰るに帰れないしで、
仕方なかったと認めてるんだろう。
ただし近畿や北陸勢に対しては
「立てこもる拠点があっただろ?現に大津や丹後田辺みたいに
小勢でも立てこもった連中がいるんだから」
って感じで処置が厳しくなってるな。 承久の乱がそうだったが、畿内で東国政権打倒の動きが出たとき、畿内や西国の武士は
巻き込まれて心ならずも味方するしかなくなる。
西軍側の多くの大名たちは身の処し方が難しかったと思う。 西軍側の決起メンバー。
石田三成、長束正家、安国寺恵瓊、小西行長、宇喜多秀家。
誘われて積極的に参加。
毛利輝元、大谷吉継、立花宗茂、丹羽長重。
成り行き上、仕方なく参加。
近畿では増田長盛、前田玄以など。
九州・四国の島津、長曽我部、鍋島などの大名。
近畿の十万石以下の大名は毛利の大軍が大阪にいるから
従わざるを得なかっただろうな。
篭城した京極なんて凄い博打だと思う。 > 日本史学者・元国士舘大学教授の安藤英男は、増田長盛が三成失脚後に100万石以上に
> 相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに
> 蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、
> 関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。 >>443
大谷は三成挙兵にしぶしぶokしたのではないか? >>>445
一々言葉尻を捉えるなよ面倒くせえな。
大谷、三成をいさめるが三成の決意が固いので、それならと
積極的に参加して西軍の味方を増やした。
前田以外の北陸を西軍で固めたのはこの人の活躍。
これくらい言わないとわからないか? 大谷、いったん味方すると決めたらめっちゃ積極的だからな
それはそれとして、毛利は本当に巻き込まれた側なのか?
毛利が加担しなければ破綻する計画だよ?
安国寺恵瓊の説得だけを当てにして、輝元に根回しもしないで始めるか?
戦後に首謀者じゃなかったんですぅ、って言い訳しただけじゃないのか? 大谷が石田を諌めた、なんて与太話を真に受けるなよ。 大谷が諫めたとか色々な逸話に事欠かないけど、
三成が決起人とか西軍ヤル気なかったろうなとは思う。
現代に例えると陸軍大将に噛み付いた内務省の一役人みたいなもんじゃろ?
勝つとか戦略とかそんなことより負けた時の言い訳考えてそう。 関が原でやる前に夜襲をかけていたら
それが失敗のもと
西の軍団は統率が取れていないから
個別で夜襲をかけて迎え撃つなど
できるわけがない。
司馬仲達がいない。 >>449
輝元に持って行った時点で、「二枚膏薬貼ってるんだよ、言わせんな、恥ずかしい」って言われるだけ >>451
まぁ世の中には敵を攻撃しますとか言いながら敵に降伏する連中もいるしねぇ… >>447
「前田、上杉と難癖つけられて、残る百万石の大名は毛利だけですよ?
今起たないと潰されますよ?」
とでも言われて決意したのかな。
そして西軍は輝元の承諾なしには決起できないわな。
輝元が鎮圧側に回ったら西軍決起メンバーじゃ対処できない。 毛利が秀吉の死の直後に三成と交わした誓約状があるらしいが、その時から既に接近してたのかもな 秀頼を輝元本人が大阪城で抑えたまま兵も動かさずに損耗させないという漁夫の利狙う気満々感 >>451
夜襲の話は宇喜多と大谷と島津が大乗り気であったが三成の大反対にあい頓挫ということだが。
大谷は自分の言う事はすべて聞けと言う条件で三成に味方したはずなんだが。 西軍の小早川秀秋が東軍に寝返ったからですよ。
有名な話です。 毛利が所領を維持したければ、家康を倒して自身が政権を仕切るしかない。
元春の「今の所領が安堵されればOK」というのは情勢の読みが甘い。
「所領は取り上げられても毛利のお家は存続」まで割り切っていたとも思えない。 関が原の時点ではもう無理だろ。
家康の力が大きくなったばかりか、秀吉恩顧の有力大名が家康に飼い慣らされてしまっている。
秀吉が家康に難癖付けて、領地を50万石くらいに減らせなかったのが全て。
家康は、秀吉に改易の口実を与えないために必死だったらしいが、
家康は、関東移封後に江戸城の改修や街並み整備や土地開発に力を注いでいたので、
「大きな工事をしているのは謀反の準備の疑いあり」とかで改易できなかったものかねぇ・・・ > 蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば
事務員の長盛には無理だろ。
100万石の事務で精一杯だ。
保身のために家康と通じていたが、結局どっちつかずで身を滅ぼしている。
駆け引きは無理。 >>461
そもそも、倉入地は各大名家の領地に分散してて、秀吉存命中から横領が問題になってたのに、
東軍大名の領地内から物資・人員を集められると思う方がおかしい。 そもそも豊臣蔵入地って本当に豊臣の物なのか?
豊臣領を家臣、若しくは大名に経営させてるなら問題も少なそうだけど、
豊臣に属した連中の領土に一方的に設定したのだとしたら絶対問題の火種と化すと思うんだが… 一般的には、新領地を与えるときに隣接する倉入地の管理を任されてる。
一国を任されてるように見えても、倉入地の比重が高いと、実際の収入・権限は低くなる。
服従した大名家の元領地を倉入地にして、その大名に管理を任せたケースってあるのかな? >>463
家康が天領を創設したのも、蔵入地の失敗(大名に管理を任せる)
を見ていたからなんだろうな。
自前で代官を育成して差配させた方が効率がいいと。 大名の領地に蔵入地を作れば統治機構的には楽なんだろうけど、
大名からすれば土地のピンハネみたいなもんだし、
いざ戦争になってもその大名が好意的じゃなければ手出しが出来なかったりするだろうし
不利だよなぁ、色々… 輝元が秀頼を前面に押し立てて、自ら京都まで進軍させる。
戦後は毛利閥で政権を組み、徳川系の大名は取り潰す構想を綿密に用意しておく。 結果論的に毛利の「このままの所領を家康が認めればそれで良い」という見通しは甘かったと思う。
毛利が家康を蹴落として天下を仕切るか、家康が天下を取って毛利は大減封されるか、の瀬戸際だった。 >>470
それ建前で、家さえ残れば減俸されても仕方ない、ってことで飲んだ和議だから。
三成に責任押し付けようとしても、毛利家が首謀者なのはバレバレだったわけで。 >>467
秀吉の代だと蔵入地を考え出すのが精一杯だったかもな。
歴代政権を考察してみた。
鎌倉幕府:将軍はみんなのお神輿で直轄地、直属兵は無いに等しい。
実力が無いので、臣下から簡単に挿げ替えられる。
室町幕府:鎌倉幕府の反省を生かして山城の国やその周辺で
直轄地を得て、奉公衆という名の親衛隊を創設。
それでも大大名に実力で劣るのは否めずたびたび都落ちも。
秀吉:室町幕府の反省を生かし、和泉、河内、摂津を直轄地に。
また各大名の領地に蔵入地を作り、豊臣家の収入に。
直轄65万石+蔵入地150万石で220万石だ!
親衛隊の七手組も1万人と大幅強化だ!
だが蔵入地は関が原の戦いの論功行賞で分配され、
親衛隊も1万じゃ足りなかった。
江戸幕府:秀吉の反省を生かし、全国各地に天領という名の
直轄地を設けて自分で経営する。
旗本、御家人もおよそ2万を数え原則として江戸在住に。
大名の妻子は江戸住まいで入り鉄砲に出女と出入りを厳しく。
ここまでされたら大名は謀反できない。
これで江戸幕府は250年続くことに。 毛利輝元は大阪入城の段階で自分の領地を拡大しよう、という程度で自身が政権を支配しよう、とまでは思っていなかった。
徳川家康は三成挙兵を聞いた段階で、反家康勢力を一網打尽にして自身の政権を盤石にしよう、と意図していたと思われる。 流石に大坂に兵引き入れてきて誓って天下は狙ってませんは通らんでしょ。
少なくとも豊臣はそう思わんはず。 >>453
織田秀信が籠城した岐阜城支援に向かった西軍大名の中にはそれをやった奴もいた 大阪に兵を入れたと言っても一方で九州や四国にも兵力を分散させて天下よりも東軍についた大名の領地をせこせこかすめ取ろう、
というちぐはぐな動きをしている。 >>476
関ヶ原で決戦になるなんて誰も思ってなかった。
小田原も小牧長久手も、大勢力同士の戦いは年単位で時間がかかってたんだから。
毛利家は長期間(年単位で)東軍が関東から戻れず孤立している間に、東軍諸大名の領地を侵略して、
立ち枯れにしようとしていたとしか考えられない。 に、対して
東海道筋の大名から城を貰ってノーリスクで動ける
↑によって家康の動きが読めなくなる
更に東軍は迷う事なく岐阜城を攻撃
岐阜城を守る織田秀信は国人衆の党首なので打って出ないとならなくなり粉砕される
とかいうことになればなぁ… >>476 >>477
それは西軍が立つのが早すぎた。
上杉が上杉領ぎりぎり深くまで家康を引き込んだ後佐竹と供に立てば良かった。 当時の毛利にはちまちま地方の領地をかすめ取るより、大阪と京都を掌握して、政権の主催者は自分である、
と示すのが重要なことを分からなかった。この教訓が明治維新に生きたのだろう。 >>477
毛利輝元は持久戦にしようと考えていたんだろうね。
大坂城という戦略拠点を押さえていること、豊臣秀頼や朝廷を押さえて旗印を持っている
ことは西軍にとって有利なのだから、じっくり時間をかければよい。
一方、西軍の弱点は戦意のない武将が多いことなので、決戦を避けたほうがよい。
場合によっては美濃を放棄し、関ヶ原の西側(垂井とか彦根あたり)まで軍勢を下げて
「東軍を畿内に入れない」作戦を徹底すべきだった。 >>477 >>481
三成は佐和山城が最前線になるのは避けたかった。 家康相手に輝元じゃ役者が違い過ぎる。元就クラスじゃないと無理。 それでも蒲生氏郷が生きていたら輝元でも勝てたんじゃない?
輝元と景勝じゃ荷が重い。 石田三成の
徳川包囲網作戦がとん挫した
その時点で負け
上杉も 輝元は大阪に居座るのではなく自ら陣頭に立って京都に進軍し朝廷を掌握しておくべきだった。
全国制覇を争う戦いなのに、局地的な領土の獲得に目が行ってしまったあたりがまだ戦国の気風が抜けていなかった。
幕末に徹底的に朝廷工作をやって徳川をひっくり返したのはこの教訓が生きているのだろう。 どうあがいても豊臣の許し無く挙兵した時点で何しても無駄。
アンチ徳川でまとめようにも、その徳川が豊臣の命によって動いてる以上どうもできん。 >>416
そうだね
それが豊臣政権転覆の本当の理由で
三成は憎っくき坊主のけさにすぎない >>431
秀吉もなにげに酷いことやりまくって来たんだよな
とくに当時の基準からしても秀次事件の一族皆殺しは人身が離れるには十分過ぎた
真田丸では秀吉は勘違いのすれ違いで勝手に自殺されただけだったのになぁ
みたいなとぼけたこといってたが
じゃあその後の皆殺しはなんなのって思うわ >>459
元春?
空弁野郎の広家さんじゃないですかね
そう言えば今の徳川家投手も広家だったっけ
あれもミンス党から出馬して落選したボンクラだけど
広家ってゲンの悪い名前だねw >>471
名実ともに総大将だもんな
何が西軍を率いる石田三成だよ
こんなホラが結構世間での認識としてまかり通ってるのがね 輝元も家康のように各大名に恩賞を約した書状とか出しているのかな?まあ出していたとしても、戦後は絶対に破棄されただろうけど。 石田博英は石橋湛山政権が何十年も続くほどの大臣ポストの手形を切りまくった。 >>494
多分あったとは思う。
それが戦後に押さえられた毛利首謀の証なんだろうし。 >>439
島津は庄内の乱で、
家康に許可をもらって、
三成派の伊集院を叩いて、
それで関が原に参加している。
それが東軍につく事を許されなかった時点で、
家康が島津を潰しに来ている事を理解し、
西軍敗戦後に、家康に戦いを挑んで、
それで、その後の島津討伐に備えたと言うのが一連の流れ。 恩賞を約束する立場の者が総大将になるわけだから、東軍は当然家康が各大名に恩賞の書付を送っているし、それが戦後の論功行賞の根拠になった。
西軍で恩賞の約状が残っているのは送り主が石田三成であり、一介の19万石の大名に過ぎない三成では諸大名にとっては空手形に等しいと感じただろう。 >>493
俺も当主を投手と間違えたw
やけくそ出馬で投げてるから
ある意味正しいけどw >>481
輝元にそこまでの戦略があったのか
吉川広元が黒田長政の策略で本領安堵の口約束を取り付けると
一戦も交えず大坂城退去しているし
持久戦ならもうちょっと大坂城で粘るだろう
西軍は豊臣秀頼を擁しており
諸大名たちも関ケ原までは妻子を皆主君である秀頼の人質に出して
大坂城下に住まわせていたのだし >>502
それ以前の段階で、岐阜城が落ちたぐらいから吉川経由で停戦交渉始めてるんだし、
東軍が勢力を維持したまま西上したことで前提条件が崩れたから、勝てないと判断したんだろ。
関ヶ原で主力が四散してしまってるんだから、持久戦やろうにも戦力が足らん。 >>503
いや、持久戦というからには輝元は大坂城を決戦の地と考えていなければ意味がない
もっと手前で止めたいなら自分が前線に出て指揮取らないと
東軍総大将・徳川家康が自ら戦場に出て
何としてでも天下を奪い取ってみせると第一線で各大名に指揮命令しているのに
西軍総大将の毛利元就が戦場にも行かずに日和見で石田三成が第一線では
西軍大名が言うこと聞くわけがない 豊臣から命を受けて戦争してるなら兎も角、豊臣との打ち合わせも無しに大坂城を占拠してるんだからこれ以上の闘争は無意味じゃろ。
関ヶ原の後大人しく退去すれば全ては石田三成のせいにできる。
立て籠れば最悪首が無くなる。 豊臣ごときが家康さんには勝てませーん!
www
秀吉より全てで家康が上ですから! >>506
じゃあなんで秀吉存命中にクーデター起こさなかったんだよ
そもそも秀吉信長がいなきゃ天下そのものが取れなかった雑魚っしょ >>508
それいうと秀吉も信長いなかったら一農民で終わってたんだよなぁ…
やっぱ人間、運が全てよ >>505
だから毛利輝元は最初からやる気なしだろ
石田三成ごときが家康に勝てるとは思っていなかったが自分は合戦に出て行かず
黒田長政が領地安堵の口約束したから家康に完全に許されたと思い込んで
大坂城を退去した >>509
つまり
信長が何かの間違いで死んでしまったのでそいつらみたいなパチもんどもに天下がまわってしまったんだよな >>508
まあ家康なんてランキングつけたら五本の指にもはいってないね >>511
まぁ逆に言えば、
信長には天下人たる運がなく、
秀吉も天下人たる運がなかった。
ただ家康だけが天下人たる運があった。
それだけなのかもね。 >>509
信長も父信秀の領土を引き継いだからそれなりに伸びたのであって、
秀吉と同じ出自なら土民で終わっていたんだよね。 別に信長が死んだのって何かの間違いではないし
自業自得だろ >>515
後継者らがパチもんなのは否定しないのな 家康が上杉討ちに行った後も
光成が佐和山で毎日鼻糞ほじりながらごろ寝してたら
家康何もできず歳重ねて死ぬだけだったんだよな。
無能な働き者ほど厄介。 三成が立たんかったらどうなってたかは凄い気になるけど
家康の将軍宣下は1600年前には確定してたろうから上杉家が粉砕されて、その功績として家康が将軍就任…
そんなに未来は変わらん気がする。 三成は家康が上杉と戦端を開いてから挙兵したらどうなっていただろう?
それとともに佐竹義宣も挙兵。 >>519
その前提で上杉征伐軍に大勢の離脱、西軍転向という流れになればいい勝負になったと思う 518
義家の子孫じゃなきゃ将軍にならないって暗黙の了解あったけどね 古賀公方家の場合は源氏のもともとの独占職、鎮守府将軍なんやね 秀吉が家康を東海5カ国から関東に転封した件ですが、よく考えたら
太閤検地の前じゃないですか?
(少なくとも北条領は)
検地前に丸ごと転封なんて前代未聞だと思うのですが。 家康を旧領119万石に留めおく
北条氏直を関東255万石、織田信雄を濃尾109万石で残しておく 関ヶ原時点では割と西軍は詰んどるからなぁ。
西軍離脱した小早川を逃すわけにはいかんだろうし。 >>529
田辺城に15000もいらんだろう。
多くて5000。
10000を大津城に.
そして立花宗成・小早川秀包・毛利元康を関ケ原に。 細川幽斎のカリスマ力が高過ぎたのがよろしくない。
田辺城は威信を懸けて落とさないといけない城でもあったし。
なお尤も落とされてはならない岐阜城を粉砕された模様 ,r '" ̄"'''丶,
./.゙゙゙゙゙ .l゙~゙゙゙゙ ヽ\
. i´ ri⌒.'li、 .'⌒ヽ 'i::`i,
.| ′ .゙゜ .゙゙゙″ .:::l::::::!
|, ,r'!ヾ・ ヽ, .::::.|:::::::i オマエの負け!
.i, ./,r──ヽ, :::::::i::::,r'
゙ヽ、 .ヾ!゙゙゙゙゙゙'''ヽ、_ノ
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へ、 | ̄\ー フ ̄ |\ー
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, ┤ |/|_/ ̄\_| \|
| \_/ ヽ
| __( ̄ |
| __) 〜ノ
人 __) ノ 関ヶ原の役後に一度改易されたとは言え西側の主力として加担したのに立花はよく大名に復帰出来たなと思う 秀頼の関ヶ原参陣もしくは西軍側総大将に秀頼を据え、大阪城に居て、毛利輝元は関ヶ原に参陣して現地における采配指揮の総大将とすれば、毛利両川の小早川秀秋、吉川広家の裏切りもなかった。
また秀頼が総大将として大阪城に控え、毛利が現場指揮長となれば西軍側の士気は否応にも高まり、また東軍に付いていた福島正則はじめ豊臣家恩顧の大名の中で西軍側への寝返りもあるだろうし東軍はかなり厳しかったはず。実際、三成が総大将だったこと自体が初めから指揮系統が崩れているからな。
それにもし、秀吉の本室だった、おねの方のお墨付きを得ていたら確実に関ヶ原は西軍の勝ち戦となったろうが、ここは家康が抑えていたから東軍は一枚岩となれたし、そもそも戦をやれた要因だし、淀との関係から、秀頼とおねの方両方のお墨付きを得ることは無理だから、事実上ありえないけどね。
まあでも関ヶ原で西軍が勝った後の事後処理としては負けた徳川方が江戸城へ後退し、それを追撃し、大阪の陣のように、徳川を滅亡まで追いやれるかどうかで真に歴史は変わるわけで、関ヶ原に勝ったから即歴史が変わるとは言えないけどな。 毛利が大坂城を占拠してなけりゃな。
秀吉の遺言にすら刃向かう暴挙だし(実際、清正か誰かがこの事件を毛利・石田の豊臣への叛逆と非難してたはず)
秀頼が西軍に与する可能性をけした。
仮に秀頼を担いでも東軍からは「武力で秀頼を脅す卑怯者」呼ばわりされてオシマイだろうし。 >>533
宗茂は改易されて浪人になった後
江戸へ出て家康側近の譜代・本多忠勝の庇護下に入ったからだろ
加藤清正や前田利長が召し抱えようとしたが外様の家臣になってたまるかと
譜代の本多忠勝から家康の直臣に取り立ててもらえるよう懇願した
同情した忠勝の家康への助言により念願かなって大名にまでなった >>537
島津は明・朝鮮との和睦交渉口だったから潰せなかった疑惑がある >>538
それでも不問で通したのは不自然なんだよな
上杉や佐竹なんかはガッツリ減らされてるのに >>539
島津は主に明国との和睦交渉を担当していて、
関ヶ原の責任を追求して潰せば当然この交渉は暗礁に乗り上げた挙句、明が何してくるか分からなかった。
関ヶ原で反徳川派を一掃した今、朝鮮出兵再びという事態は避けねばならなかった。
それに島津忠恒が大の徳川派なので目溢しして問題無いと思ったんじゃないか。 外交文書偽造しても西軍についても本領安堵の対馬の宗氏が一番だろ 宗氏も対朝鮮の交渉口になってたので徳川からすると潰す事が出来ない場所の一つと化してたって説が…
ついでに言うと、朝鮮出兵に関する外交は全部源家康が責任者として執り行ってるので、
関ヶ原で万が一家康が敗れるとこれらの外交が破綻した挙句何が起こるか分からんと言う恐怖心が、武断派を家康支持に向かわせたんじゃ無いかって話も… 薩摩はポルトガルとも交易してたしな
貿易のノウハウを持ってたから下手に潰せなかったのかもな
長崎で交易もこの時点で見据えてたのかね 外国との交渉重視して自国の政権にとって危うい存在を放置とか意味不明
まあ日本は伝統的に、海外に比べ戦後処理がぬるいけど 島津は潰さないにしても、薩摩か大隅だけを別の領地と入れ替えて、親藩か譜代に入れ替えたり、池田家のように兄弟にそれぞれ分割したりとかして、「背後から攻められる心配の無いまとまった勢力」という有利な立場で残さない工夫が出来ると良かったと思われる。 >>544
家康が鮮やかに解決したから忘れられがちだけど、
対外戦争は終結させる事が重要。
明・朝鮮との講和が成立しないと向こうから襲いかかってくる事もあり得るし、国交が無いのだから情報交換や貿易も行えなくなる。
もし交渉決裂ともなれば最悪再出兵しないといけないが、文禄慶長の役で朝鮮がどんなところか知れ渡ってるので行きたい奴は皆無。当然徳川も行きたくない。
それに比べれば島津だの宗氏だのは些細なものさ。 >>544
日本は諸侯、大名を死罪にする文化がない
江戸時代260年の間でも大名の死罪は1人しかいない
真っ向徳川に逆らった上杉真田が国替え追放、三成は切腹すら許さない
斬首という厳しい処遇からもそれがよくわかる 小早川隆景を甦らせて、西軍の総大将になって頂く。これなら、なんとかなるだろう。
どうやって甦らせるか、が一番の問題ですが。
もっとも、小早川を甦らせられるなら、秀吉を復活させられるだろうから、
そっちの方が手っ取り早い。
というか、そもそも家康とケンカしなくて済む。 西軍で万石未満の武将(陪臣?)は一旦改易されて子の代になって旗本とかになった時、実質加増みたいな扱い受けてるのがチラホラ居るな 黒田如水を総大将にすれば、なんとかなるかも知れない。 如水は確かに才覚ある武将だったとは思う。
ただ、黒田長政が朝鮮出兵の蔚山城救援にて臆病にも攻撃しなかったと秀吉に処罰されたものを徳川家康に名誉回復して貰ってるからなぁ。
家康に刃向かう事は出来ないだろうし…如水も秀吉に叱責されて死も覚悟したことあるって話だし… >>555
関ケ原の時に7歳の秀頼は動きようがないし
公家の日記に残っている通り
「淀殿と家康の結婚」ぐらいしか味方につける方法がないわな >>556
よく言われてる「家康の婚姻問題」って大名達との縁戚じゃなくて、この淀君と家康の結婚だった可能性大って話だよなぁ。
結局流れたけど >>557
淀殿と家康の結婚問題は秀吉の遺言だろ
そう書いてあるし
家康が問題視された大名との私婚はまた別
家康が親類やら家臣やらの娘を数十人いっきに養女にして
秀吉の死後わずか1,2年の間にいっきに外様大名に嫁がせ義父となった
すでに正室がいる大名には離縁させて家康養女を正室として娶らせた >>558
確かそれは江戸時代にまとめられた史料が元で、当時の史料だと、
19日に縁組の件で問題が起こり、20日には解決した(言経卿記)とあるだけだとか。
おそらく、大老・奉行衆が家康に淀君との婚姻を行うよう申し込む→家康が応じる、以上の事は起こらなかったと思われてるとか… >>559
記述があるのは一次史料の「多聞院日記」
「大坂にて去る十日秀頼母、家康と祝言これあり候、
太閤の書置ある由に候」
秀吉の遺言で淀殿と家康の祝言が取り決められていたとある 諸大名との婚姻なら徳川家康の権力からして問題にすらさせずに押し通せるだろうから、
淀君との婚姻問題が地味に大きかったんだろう。 毛利輝元を関ヶ原に連れて行くしかない。
来ない限り、西軍は開戦せす大阪城戻り、尚毛利輝元と秀頼立つの求める。 西軍勝ってたらご先祖様改易、よくて東北へ1〜2万程度で飛ばされてたなw
石田三成が大将な時点で勝つ見込みないだろ
毛利輝元が現地にいても同じ 誰がいればとか小早川がとかさんざん言われてきたことだと思うから装備に注視したいとは思うけど
そういう資料は無いだろうね 毛利輝元大将
勿論、形は秀頼を出して豊臣の旗掲げる。
関ヶ原で小早川その他寝返り組と徳川軍相手に戦はせず、撤退。
大阪城で、淀君と輝元が容易に納得しないだろうけど。
そうなったら家康もそのまま大阪城に進軍しないか。
あの段階で福島辺が大阪城攻めるとも思えないし。 ぶっちゃけ関ヶ原の前に池田前田を切り崩しに行かなきゃ無理ゲーだよ 吉川家の書状とか見るに
岐阜城落ちる→毛利は家康と和睦(不戦の約定取り付ける)→小早川が三成らの許さなく出撃→松尾山を占拠する→「小早川裏切り」と西軍出撃→西軍の動きに気付いて東軍出撃
って流れだから小早川云々を前に岐阜城を全力で守護らないと…でも出来るかなぁ… 岐阜陥落も結局の所秀吉がバカやったおかげだなんだよなぁ
数少ない身内を殺しまくり 三成(言うて織田秀信が守ってるんだし、織田恩顧組も豊臣恩顧組みも攻めにくいやろなぁ…)
佐渡「お前たち何をしている?関東は吉報を待っているぞ!」
福島「マ?よっしゃみんなイクゾー!」
織田信長と豊臣秀吉の威光どうなってるんだよ… 秀吉の臣下は、秀吉自身が美濃の信孝を殺して、伊勢の信雄を領地没収して平然としてたわけだから、
織田家を攻めるのに抵抗があったとは思えない。 >>572
それが一番大きい
あと秀信の石高が少ない。まぁそれなりにあったけどやっぱり少なかった。 >>574
実質的には国人衆の頭目だったらしいしなぁ秀信…
だから領国に侵入されたら引きこもってる訳にはいかんかったとか。後三成が佐和山に防備厚くしてたのが裏目を引いた。 秀信も西軍ついちゃったのがな
東軍に居たら織田宗家は今も残ってたのかね >>576
西軍で生き残った叔父の三人は実質加増みたいな扱いされてるもんな
織田一族自体が豊臣遺臣達を納得させる為の駒としては充分価値はあっただろうし、生き残ってたら潰さずにそれなりの俸禄にして残してたと思う。 てか秀信だけ改易後お家お取り潰しか
こうなったらどうやっても詰みだわ 秀信さん何が可哀想って
高 野 山 送 り
嫌味かキサマッ!(血涙) >>575
>>569も言ってるけど、岐阜城は籠城しても無駄。
斎藤道三のころから、岐阜城は見張り台として敵軍の動きを把握するのに活用して、
渡河地点に迎撃部隊を集中して迎え撃つのが美濃防衛の基本戦略。
だから、秀信としては出撃するしかない。
問題は、東軍を迎撃するのは兵力が足りな過ぎたこと。
つまり、三成が大垣城を防衛線に設定して、織田に援軍を出さなかったのが悪い。
全軍で渡河を阻止してれば、池田も福島も撃退できてる。 小山評定なくてそのまま会津向かって、三成軍とサンドウィッチ作戦やってたらどうなったか? 大坂城に兵隊入れたんじゃあ豊臣から手助けして貰えなくなるしなぁ… 織田秀信が東軍についていれば、戦局は違っていた。
美濃が東軍側になるので、西軍は関ケ原以西を防衛線にすることになり、主力を大坂城
や京都近辺に集結させることになる。
二条城や大坂城に籠城もできるので、西軍はかなり長期にわたって粘れる。
有利な条件で和平に持ち込むことも可能だ。 それじゃ秀信を必死に誘ったミッちゃんが馬鹿みたいじゃん… 秀信が東軍だったら信長の野望の数値が全ステ+20ぐらいだったんだろうなぁw
武将としての力量もそこまで悪くないよな。
むしろ真田信繁みたいに最後だけの人が英雄視されるだけで・・・ >>583
豊臣が京都に持っていたのは京都新城
大坂城の毛利や淀殿周辺は非戦論のため
三成は美濃大垣城に入って秀信と三成が美濃で徳川軍を止める計画だったんだろ
むしろ挟み撃ちする予定の上杉が徳川の矛先が西へ向いた途端
知らん顔で徳川軍を追撃しなかったこと
三成が大坂城に入って秀頼淀殿もろとも籠城しましょうだったら追い出されてたんじゃないか >>571
部下に裏切られてばかりの信長に威光なんてあるのかよw 威光はあるんじゃねえの?
信長の子ってだけで命取られず大名復帰できた信雄もいるし。
江戸期の織田家は小大名でも官位は国持大名クラスだったし、
旗本でも高家旗本だったから信長と血縁あるってだけで優遇されてたんでしょ。 真高信貞なんて関ヶ原の西軍で何も活躍しなかったのに戦後実質加増の扱い受けてたからな
完全に信長の威光だわ、 織田信長の威光あったでしょ
信雄は最初の頃から行動を共にしてたし
あと信貞とか斬らなかったのは家康の性格なんでしょ
これがあったから天下取れたんだし。
秀吉になかった人心掌握の術 西軍側は戦意が低いので戦ったら負けだ
決戦を避けて防衛に徹して長期戦に持ち込む
秀頼を擁しているので政治的に有利になり、東軍の武将の切り崩しを狙える 大坂城を握っていても何の役にも立たないと言うのは岐阜落城で明らか。
クーデター軍である西軍こそが短期決戦せねばならなかった。
正統性に勝る東軍を倒すには速攻しかない。 >>588
信雄は大坂の役の前に大坂城から出て豊臣に味方していないため
家康が命を奪う理由もなかっただろ
それに家康は信雄に5万石しか呉れてやらなかった
小牧長久手の戦いで家康は信雄を担いだにしてはかなりの冷遇 >>593
織田信雄は関ヶ原では西軍に与してるので実は立場上徳川の敵だった。まぁ良く大名に戻れたよねっていう。
おそらく豊臣を売るタイミングが完璧だったんだろう。
豊臣の味方面をして、徳川が最も喜ぶ情報、「片桐且元を殺して徳川と決戦しよう、と言ってる連中がいる」を徳川に伝えたからね。これで豊臣は「取次を成敗しただけ」って言い訳が効かなくなって無事賊徒となった。
信雄さんは最後の選択はミスしなかった。 >>594
関ケ原はなあ
だいたい西軍総大将の毛利ですら減封だけで処刑されていない
家康が適当に忖度してやってて西軍だからって処分が平等ではない >>593
大坂の陣だと豊臣家65万石しか没収できなかったから、外様の信雄に5万石は十分過ぎる恩賞でしょ。そこはやはり信長の子ってのが生きてるはず。
しかも官位も従四位下で国持大名並みだし、かつては内大臣ではあったが二度も改易されて、よくあそこまで持ち直せたなと思うよ。 最初から協力した浅野以外の五奉行の人間はとにかく排除したい意思は感じ取れる 浅野も元々は家康と敵対していた
家康以外の四大老+五奉行で家康を糾弾している 奉行衆が家康を糾弾したっていうのが何かわからないけれど、
家康の所謂婚姻問題だとしたら、実はそんな問題なかった説があるよね。
家康が勝手に婚姻したとか三中老が糾弾とかは江戸時代になって出てくる話で、当時の記録では「19日に問題が起こって翌日には解決した」って話しか見つかってない。
また、家康が婚姻関係でトラブった形跡が無い(もし大名同士の婚姻が問題なら徳川だけで無く相手方の大名も訴えられてないとおかしい)
おそらくこの婚姻ってのは家康と淀君の婚姻で、これが秀吉の遺言だったって説。 >>598
四大老は減俸はすれどかなり忖度してるように見えるんだよね。宇喜多は内部崩壊してるからいっそ潰しちゃえって判断かもしれんけど。 元々五大老制が機能不全起こしてるもんね
実質家康と利家のツートップ体制でしかない
五大老も五奉行も法定された制度じゃない(どころか五大老や五奉行という名前すら未来に作られたもの)から、
要は大老衆と奉行衆の利害関係が一致して出来上がった砂上の楼閣に過ぎん。
利家が生きてる間は何とか動いていたけど、利家の死で豊臣武断派が雪崩を打って徳川支配に入ってバランスは崩壊した。 簡単に言うと長生きした者勝ち
前田利家があと10年長く生きてたら家康が天下取れたかというと >>602
利長がとても有能には見えない
利家が長生き+嫡子が利常ならワンチャンあった 細川忠興が前田利長に「三成が内府を倒すよう大納言に頼んでるのは、内府も大納言も居なくなれば自分の天下だと思っているからさ。大納言の体調が安定している内に事を進めたいんだって。」って話したって逸話があるくらいにはパワーが無いからね利長殿… >>604
人事権も実質利常が仕切ってたしな
家康に「俺は昔何度もお前ぶっ殺そうと考えてたわ」ぐらい言わせるようなエピソードも無いしダメすぎる。 そもそも豊臣秀吉が存命の時に倒せなかった徳川家康を三成が倒せるはずがない。
三成に責任おっかぶせるのは間違っている気がする。 奉行って立場がよろしくない。
三成がやってた奉行・軍目付ってのは他家の興亡にも関わる立場だったもの。
諸将からのヘイトがね… 前田利家って11歳のガキを孕ませたんだよなぁ
しかも従妹だし 現代から見るとアレだけど、
8歳で結婚する時代だし >>606
三成が本当に首謀者だったのかは判らず仕舞いだけど(一応、毛利輝元の奉行衆向け起請文の内容を添削し、輝元を奉行衆の後ろ盾にしようとしてるので首謀者でもおかしくはない)
外国人の日記か何かで「三成が首謀者の様にして…」って記述もあるので毛利家や島津家を守る為にスケープゴートにされた可能性もある… 前田利家は名家の出だからケツの人気もあったからな
後の北政所ねねには逃げられたけど逆に言うとねねは前田家から縁談が来るくらいの旧家だったってことだね 七将襲撃事件と加賀討伐で豊臣政権は家康のものになってるからね。
五大老:前田利長(家康に人質出して臣従)・毛利輝元(家康宛起請文で臣従を約束)
五奉行:石田三成(隠居)・浅野長政(徳川派)・増田長盛(前田を徳川に臣従させた原因)
五大老の三人、五奉行(から一人欠けて四奉行)の二人を支配下に置いてる。このまま時が過ぎれば家康が秀頼を飾りに天下取るのは目に見えてた。 増田長盛って西軍にいながら三成への資金援助しなかったり相当東軍勝利に貢献してるのに、
結局改易されちゃったんだよな。後は子が大坂の陣で豊臣方に参加した咎で切腹って・・・。 旗本として残ってるし
息子は自ら出て行ったんだからしゃーないだろ おそらく積極的に東軍参加の意思表示をしなかったところが嫌われてしまったんじゃろう。
こっそり裏切りってパターンは余り好かれないからね… 同じ関ヶ原関係でも島津や伊達みたいな外野からの便乗か、争いの当事者の差は大きいよな >>612
秀次とその側近団粛清後の政権安定のために家康を政権中枢に入れちゃったからな。
そりゃ秀吉死んだら家康一強になるわな。大身外様を政権に関わらせちゃダメなんだよな。 てか秀吉の譜代ってのが全然居ないのがなぁ
秀吉の血族だと秀次か秀長くらいしか有名なのおらんし
秀長死んで秀次一族粛正したらもう誰が残ってるのかレベル >>618
秀吉が0から成り上がった人間だからなあ、織田や家康はひと地域を統一して成り上がった訳で、プロセスが全く違うから仕方ない
純粋な豊臣譜代と言うと石河光元になるのかね。 秀次を粛清したのが豊臣家の致命傷になった。
もし関白秀次が健在なら、秀吉没後の権力は秀次に一元化されるので、関ヶ原の合戦は起こらない。
仮に家康が不穏な動きをしようとしても、清州城を拠点とする秀次の広大な所領が東海道にあるので、
家康は畿内周辺に大規模な兵力を動員するのは難しい。 秀次生きてたらどーなってたかね
武将的にゴミだったから結局家康に天下を取られてた気がするw >秀次存命
秀次子飼いの家臣と秀吉子飼いの家臣が上手く折り合えるのかが、鍵だろうな。
秀次の男子たちがみんな大人になるまで生きていれば、分家も作れて、血統としては安定する。
秀頼は、秀次の娘と結婚するとして、融和が出来るのか。
秀吉亡き後も、北政所あたりが上手く両者を裁いていられれば良いけれど…。 >>621
武将的には秀忠も秀次と大して変わらん
二代目の武将的評価ならこんなもんだろ
足利義詮>>>豊臣秀次=徳川秀忠>平宗盛 秀次の場合、家康にコテンパンにされてるのが印象悪いんだよねぇ…
それはそれとして、秀次が生きていた場合朝鮮出兵が面倒なことになる未来もあり得る。
明、及び朝鮮は秀吉の死後、豊臣とは関係の無い徳川家康が日本の支配者になったので講和に応じてる。
豊臣秀次が存命の場合、明と朝鮮が講和に応じない危険性がある。そうしたらダラダラと外征が長引くことになる。
そうなったら何が起こるか誰にもわからない。 秀次一派殺した結果秀頼も死ぬことになったし
秀吉は最悪な一手をおこなったんだよねぇ。
あれで家康に接近した武将が多かったし 秀吉は朝鮮出兵するという名目で西日本から兵を集めたら徳川攻撃に行くべきだった
大坂の陣と逆パターンになればさすがの徳川も勝てんだろう
もちろん徳川の兵力は大坂の陣の豊臣より多いから秀吉も苦戦するだろうけど >>626
徳川攻撃する理由がないじゃん。
織田信雄改易みたいに、秀吉の命(国替え)に逆らったとかならやりやすいけど、
家康は秀吉には全く逆らってないからなぁ。 家康に関東を与えたの大失敗なんだが
秀吉アホなん? 家康の関東移封は仕方がないんじゃよ。
家康の本領は実入もそれなりにあるし、何より京に近い。
いくら家康が秀吉に頭を下げたとはいえ、裏切らない保証は無い。いきなり数万の兵を率いて上洛なんて事態は避けたい。
じゃあどこに置くかって問題があるんだけど、まず東北は伊達政宗(かつて家康と同調して秀吉包囲網に参加)と前田利家(柴田勝家を裏切った前科あり)がいる。
西は毛利輝元と宇喜多秀家に任せてるから置きたくない。
だからあっ関東のここ空いてんじゃーん!で関東250万石をあげてその周りを豊臣恩顧で固めて封鎖した。
ここまではよかったんだけどなぁ… 伊達や島津はなんで五奉行や五大老に含まれないんだろ
完全な外野扱いか そもそも五大老や五奉行って言葉は江戸時代以降出来たもので、それまでは「ごにんのしゅ」「おとな」と呼ばれてた(太閤御遺言等)
で、秀吉から指名されて五人の大名と五人の奉行が政権運営者として格別視された。
つまり何故伊達や島津が入ってないかというと秀吉からそこまで好かれてなかったからとしか…
一応、距離の問題もあるんだろうけど。 >>633
つまり、五大老五奉行ってのは秀吉が「貴方はこの条件を満たしてるので五大老/五奉行に任命する」ってものじゃなくて秀吉が遺言で任命した有力者十人がある意味勝手に名乗っていたもの。伊達や島津もその気があれば割って入れたのかもしれない… 大名の規模としては五大老とそんなに変わんねえもんな>伊達島津
そんな気楽な立場だったから関ヶ原である程度好きに動けたのもあるけど >>630
結果論では失敗かもしれんが、加増を口実にして、畿内から遠ざけるのと地盤である東海から追い出すのは最上策だったろう。
関東は北条遺臣も多いし、北条も善政敷いてたから関東経営の方策誤れば一揆起きる可能性もあったからなぁ。
秀吉はそこを狙ってたはずだが家康は上手いこと治めてしまったんで、改易or減封もできなかった。 秀吉は家康を滅ぼしたいならそうしてただろ
理由なんか小牧長久手で戦ってるんだしいくらでも作れる
秀吉は家康が好きすぎて自分で加増して天下のナンバー2にしたんだよ
関東は鎌倉幕府があり室町幕府は将軍の弟を関東公方としておいていたし
武家政権のトップやナンバー2が住む場所だった
自分の死後は秀頼を安心して託せる相手だと思い込んでいた
まあ家康のほうは秀吉が大嫌いで常々殺したかったんだろうけどな
大坂の役の後、家康は秀頼の遺児国松を捕まえて市中引き回しして六条河原で処刑したが
国松は父・祖父の代わりに罰を受けるのだとして
これは秀吉を市中引き回しして処刑しているのだと公言したし
すでに亡くなっている秀吉の墓まで暴いてぶち壊したからな
尋常ではない 秀吉の弱点は成り上がり故の地盤の脆さ。
周囲にいる人間は同等以上であり誰も信用出来ない。
小牧長久手で家康に戦略的に敗北して、義弟にする形で取り込んだ。取り込んだは良かったけど自分の近くには置いておけない。信長の盟友で織田家臣団とも親しい。
だから丁度空いていた関東に移して、その周りを豊臣恩顧武将で固めた。
文禄二年、秀吉は浅野長政・幸長に甲斐を与えて取次職を命じている。これは対徳川を想定した編成と言われる。
つまり秀吉は最初から家康を信頼なんかしてない。家康を信頼していたら、家康を取次に頼むだろう。子飼いの浅野を取次にしたのは、豊臣恩顧武将が徳川と繋がる事を封じる為であった。
これが裏目に出たのは皮肉にも秀吉の行いであった。
秀次事件で浅野幸長に謀反の疑いがかけられ(これは石田三成の陰謀だったという)、徳川家康がこれを助けた。
恩を感じた浅野家は家康に急接近。
徳川封鎖網が頭目から家康に寝返るという最悪の事態を招いた。 豊臣政権が室町幕府のようにオワコンになりながらしぶとく生存出来なかった理由はなんだろう
清和源氏と貧農の家柄の差だと俺は思うが
日本は血脈家柄重視だからね戦国でも 秀吉が関白になったから。割とマジで。
征夷大将軍も確かに相当の血統を要求されるけど関白の比じゃない。関白は日本の歴史を牛耳ってきた藤原氏の職でそれ故に一家独占が出来ない。
将軍は興味を示すのが源氏くらいだし、公家源氏は将軍職を求めてない。だから5歳6歳でもなれるし、将軍はお飾りで実権は有力者ってのもやりやすい。
だが関白はそうはいかない。藤氏長者と関白がセットなので藤原氏は全員関白になりたいし、必然資格も厳しい。
だから関白になれない奴が後継者になると政権が崩壊してしまう。何故なら政権の名目的当主がいなくなるから。
豊臣政権は僅か三代目でそうなっただけさ。 秀頼が有能だったら田舎に転封を申し出て今も残ってる
豊臣という名も捨てて母方の苗字にし浅井秀頼とあざとく生き残ったかもな 秀頼はなぁ…大坂城の支配権すら失っていたからね…
家臣団が好き勝手やって弁明すら出来なかったし、
いざ戦争してみたら少し苦しくなったら、秀頼はヤル気満々なのにギブアップだし。
幾ら徳川による情報工作部隊が暗躍していたとはいえ… 三成は自分の評判についてどう思ってたんだろう。
武断派から目の敵にされてるのに。 西軍は縄文人+百済+女真族(平家)
東軍は縄文人+高句麗+契丹人+女真族(東北が混じっていれば)
契丹人に百済人は絶対勝てない。
明治維新は西洋人が知恵付けた分西が有利になったが第二次大戦で命乞いのざまだ。 やっぱり秀次事件で豊臣家の結束が弱まったのが痛いな。
この事件さえなければ、家臣団が分裂し、一方が徳川方につくなどなかった。
関白のもと家臣団さえ結束していれば、徳川方に勝ち目はなく、そもそも合戦は起きない。 豊臣政権の終焉は色々な要素が混じり合ってるのがね
太閤・秀吉派と関白・秀次派、
朝鮮出兵賛成派(武断派)と反対派(石田三成・小西行長)
そして豊臣派とそれ以外の外様派(筆頭徳川家康)
問題はこれらの要素がかなり危険な混ざり方をしてることで、
例えば秀吉は朝鮮出兵賛成派だがその秀吉派の石田三成は朝鮮出兵に反対してるし、五奉行の浅野長政は秀吉派と思われていたが秀次事件で失脚しかけ徳川家康に接近した。
また、秀吉派で朝鮮出兵賛成派の加藤清正は朝鮮での外交関係で石田三成らと悶着を起こし、秀吉の信任ではクビが危ういと考えて徳川家康に接近した。
こうした流れが多くの武将達の間で起こり、気付いたら秀吉派も秀次派も徳川派に統合されてしまった。
三成や毛利輝元からすれば、このまま秀頼が関白になれば徳川派が天下を握る。つまり良くて冷や飯喰い、悪けりゃ改易される。そうなる前に潰してしまおうとしたが関ヶ原で敗北した。 >>647
戦国武将というより政治家徳川家康と言われる所以だな >>642
おとなしくしてれば大和の国で細々とやって幕末の際には薩摩徴集とともに打倒徳川としゃれこめたのに
毛利は輝元以降ヘタレで幕末の代にいたってもヘタレ殿様だったみたいだがw >>637
タヌキはやっぱ陰湿だな
嫌われる要素満載だw 秀頼と千姫の間に男子が居たらまた違った展開だったのかな
流石にその男子を斬る事は出来ないでしょ 秀吉は長政の嫡男を串刺しにしたけど。あれはお市の子じゃないんだっけ? >>652
お市の子じゃない説が有力だった気がする。 >>637
家柄血統重視の家康にとってどん百姓の君主に使えるのはこれ以上ない
屈辱だったろう
まあこれは家康に限らんけど >>654
家康も出自は良くはなかったから新田源氏諸流得川氏に無理矢理繋げたわけだが
織田信雄にも5万石の捨て扶持しか呉れてやらないし >>656
それは酸っぱいブドウの
負け惜しみっていうんですよ >>654
徳川幕府が滅びた途端
黒田や蜂須賀が中心になって全国から寄付を募って豊国神社が再建されたし
そりゃあ豊国さん(豊臣秀吉)の人気は絶大で慕う人は多かったんじゃね
諸国大名だって幕末には東照大権現公の御子孫に弓ひいたんだし 黒田や蜂須賀のような元家臣は豊臣家への思いは格別だったのだろうな。
だが、大多数の大名は豊臣家に対してどんな思いだったのだろうか?
また、織田家の元家臣は、織田信雄や織田有楽斎の家系に対する思い入れはなかったのか? >>660
記憶の美化だろ
秀吉時代の悪い記憶は時間とともに捨象された
幕末の尊皇もそう
朝廷に虐げられていた武士時代の記憶を捨象していたから、尊皇意識が出てこれた >>661
織田は大名として生き残っていたからね
織田が豊臣のように絶えていたら、記憶が美化されて顕彰運動が活発になっていたよ
室町時代の南朝宮家も、後南朝は支持を失って事実上絶えたんだが、
絶えた後に南朝が美化されて顕彰運動が活発になった >>662
徳川家によって秀吉の神号が廃止されて豊国社が廃された後も
各地で秀吉信仰が残り、秀吉の神像も造られていた
豊臣は悪い記憶、徳側の世は天国だったら作るかね?
逆に明治以降、滅んだ江戸幕府のために家康が美化されて
家に家康神像を置く人とか続出したのかね
>>664
明治に入って旧士族は江戸幕府あった頃が良かったって思ってた人多いだろうけどね。
没落して貧民窟で生活する旧士族も多かったらしいし。
家康を美化されて崇拝されてたのかは知らんが。 >>664
徳川へのアンチテーゼ、滅んだ豊臣への同情も込みだろう
秀吉時代の悪い記憶が捨象されていき、良き思い出が美化されていく
黒田なんて官兵衛も長政も、秀吉死後の豊臣政権を守ろうとさえしていない
明治になって黒田の子孫が秀吉と先祖の官兵衛との思い出を美化して、秀吉を顕彰するようになった
徳川で言うなら幕末の会津藩を後々美化した
幕末当時の会津藩では、領民は長年の京都守護職に伴う税負担に苦しみ、藩を嫌うものも多かった
幕末が遠く過ぎると、悪い記憶が捨象され、会津藩は美化された 趣旨は少し違うが当時と後世の評価が違うのは井伊直弼にもいえる
直弼が生きていた当時は天皇の勅許もなく条約を結び
多くの勤王家を弾圧した逆賊
直弼死後の後世には日本の開国を進めた英雄へと評価されるように >>665
大名層は華族になって明治に入ってからも文句なかったし
旧士族は失業したから不満だったのであって
西郷みたいな地元の名士を押し立てて戦ったことはあっても
徳川なんかどうでも良かったよね >>666
官兵衛はずっと中立で関ケ原の情勢見ながら西軍が勝てば
そっちにつくつもりだっただろ
家康が勝ったので最終的に東軍についただけ
ほとんどの大名はそうだろう
反秀吉派で好家康だったわけでなくただ強いほうについだだけ >>667
違うぞ
井伊直弼が生きていた頃には直弼は幕府を守ろうとする体制派であり
安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内は逆賊のテロリスト
明治維新後に吉田松陰の教え子たちが出世したため井伊直弼は悪い奴になった
井伊直弼は今となっては開国をした英雄になってる?違うだろ
井伊直弼が結んだ不平等条約は今もあまりにも無知すぎて
諸外国に馬鹿にされすぎだと全く評価されていない >>669
黒田如水、伊達政宗、真田昌幸とかは一応東軍西軍のどちらかには属してたけど、
長期戦になってきたら状況次第で優位な方につくか、もしくは第三勢力として引っ?き回して勢力拡大を狙ってただろうね。
結局短期決戦になって野望は潰えたけど。 ぶっちゃけた話誰も1日で決着つくとは思ってもみなかった
つーか当事者全員思っても居ないでしょ
ご先祖様もそう思って動いてたけど息子ががっつり家康側だったしなぁ 黒田長政に関しては、秀吉の死後にさっさと秀吉の養女と離縁して家康の養女と結婚している 徳川家康vs毛利輝元・石田三成
兵力がほぼ同数なら、どっちの大将が戦上手かで勝敗が決まる
当時の常識でも家康の方が戦上手でしょ 秀吉が武家関白で諸大名を従える先例作ったお陰で、秀頼も関白にならないと政権維持できない状態だったからなぁ。
関白なるには最低でも10数年待たないといけない状態じゃ目端の利いた大名は豊臣なんて砂上の楼閣さっさと見切るでしょ。 大谷吉継は佐和山に撤退させ水攻め覚悟でとりあえず大垣城に籠城するしかない >>671
火事場泥棒のように勢力拡大の意図はあるにせよ、伊達や黒田官兵衛が西軍、真田昌幸が東軍へ転じることは考えにくい
伊達は豊臣政権に領地を大幅に削られ、国替もさせられた恨みがある、また長女を徳川に嫁がせてある
黒田は三成に恨みがある、だから加藤福島とともに三成邸を襲撃した、秀吉の養女と離縁して家康の養女とも結婚した
真田昌幸は徳川を破り、独立大名になった自負がある、それに信繁の妻は大谷吉継の娘だ >>677
勢力拡大のためなら過去の恨みなんて置いといて手を握るってのはありうるけどなぁ。
この三人なんて若い頃からそういう事散々やってのし上がったくちでしょ。 >>677
伊達が蘆名を滅ぼし会津を支配した期間などほんの僅かでありあっという間に秀吉に降伏しているので実質的にはそんなに領地は減っていない
それほど恨んでいるとは思えない
最上の恨みはよくわかるが >>679
さすがに恨んでないはないわ
苦労して会津を手中にした努力と汗と血の結晶がつゆと消えたんやから 秀吉による家康の関東移封は超優遇だった
江戸時代に徳川幕府が冷遇だと言っていたのはひどいプロパガンダだった 蒲生氏郷が長生きしていれば会津から関東襲撃、上杉も越後から呼応するだろうから徳川も動きにくかっただろうな。
氏郷の代役に景勝を会津に入れたけど、景勝にとっては重すぎる役割だっただろう。 >>682
上杉景勝と伊達政宗はどちらが上条上杉氏の正統かで争う間柄 >>681
織田秀信を冷遇しすぎたのも響いた
知行高も少ないし織田秀信よりも若い小早川秀秋を先に中納言にしたのも人としてどうかと思う >>684
そりゃ旧主家に力付けさせちゃまずいからな。旧織田家臣への影響力も大きくなっちゃうし、豊臣政権維持の上では危険。
だから世間的には官位は高めにして「旧主家の織田家によくしてる」イメージだけ持たせて、実は与えないようにしたんでしょ。 仮に関ヶ原で、というか一連の戦いの中で西軍が勝っていたら、
五大老は宇喜多、毛利、上杉に加えて佐竹と前田利政か。
奉行は浅野長政がはじかれて代わりに小西行長だな。 >>685
それにしても秀吉の後継者候補から外れた年少の小早川秀秋が秀吉の旧主である織田秀信よりも格上はひどい待遇だ 三成が動かず、関ヶ原が起こらずに上杉征伐が実行されたらどうなったかね
上杉領の会津120万石と全国に散在してある豊臣直轄領200万石を徳川に加勢した諸侯に分配
徳川260年の鉄板の地盤になった幕領400万石は無理で、藩屏たる御三家も史実より縮小だろう >>688
大坂城の豊臣家に加えて、毛利輝元、長宗我部盛親、宇喜多秀家、小早川秀秋、織田秀信のほか
奉行たちが無傷で残ると、徳川の天下はかなり不安定なものになるな
たとえ征夷大将軍になって幕府を作っても、豊臣政権の行政機構が併存してしまうと思う >>688
次は毛利、宇喜多を屈服させたんだろうな。
まずはお家騒動の影響で家中が不安定な宇喜多を減封させるだろう。
毛利は関ヶ原より前に一度屈服させてるけど、また言いがかり付けて減封狙いかもね。
奉行衆も解体させて畿内から追い出して、代わって徳川譜代を入れて史実通りに展開。 結局さ家康があと16年生き延びるので
どっちみち西軍は詰みよ 東海地方の大名である駿河の中村、遠江浜松の堀尾、尾張の福島を中国地方に、遠江掛川の山内を土佐、三河岡崎の田中を北九州筑後へ加増転封して、
徳川一色で東海地方で固めたのが、江戸幕府の礎になった
関ヶ原の合戦がないと、東海地方が徳川の地盤じゃなくなるかも >>688
関ヶ原がない場合は、会津120万石を地元東軍勢の最上、伊達、蒲生に手厚く分配しないといけない
それに上方の小大名を奥州へ転封させるには、ある程度加増しないと不満が残るから、家康も頭を悩ませるだろう
あと常陸の佐竹が上杉征伐に積極的に加わってきたら、史実のように関東から佐竹を追い出せない 面白い
あまり知られてないが関ヶ原がないと越前が闕所にならず福井藩67万石ができん >>689
上杉征伐だけだと三奉行と大老の毛利宇喜多が健在だから、史実のように豊臣蔵入地を摂津河内和泉65万石にまで大幅に減らすのは無理だな
辺境の奥州会津120万石+豊臣領数十万石を東軍諸侯へ分配するのみとなる
そのうち、会津旧領主の伊達と蒲生には多めに会津を分与しないといけない
家康にとって上杉征伐は初の自分主導の天下取りに着手する戦だ
味方の諸大名に恩賞を適切に配らないと、求心力を失う 徳川からの恩賞と称して豊臣の領土を切り取って親徳川大名に与えていくんだろう
三奉行なんて腰抜けだし宇喜田はお家騒動でボロボロだし毛利は覇気がなさすぎ
前田利長も徳川についてしまった以上は家康を止める実力者なんてどこにもいないよ 七将に襲撃されて三成は失脚。
奉行衆は家康支持だし、毛利と前田も家康支持。
名目も実質も家康政権よ。 大坂以外の豊臣直轄領はメインは紀伊伊勢大和近江山城播磨といった上方周辺だ
上方と会津のみで領土分配だと、外様大名の配置を江戸や京から離す史実の配置が難しい
そして何より親徳川大名への恩賞で一杯になり、直属の譜代家臣を譜代大名として立藩させる規模は小さくなる 関ヶ原合戦を経ないと史実のような配置の幕藩体制ができないということだな
さらに重要なのは、豊臣直轄地の大部分、毛利・宇喜多の大老と奉行が残るから
豊臣政権の行政機構がほぼそのまま残るということだ
この状況で徳川家康は征夷大将軍任官に踏み切るだろうか?
むしろ豊臣政権の大老としての指導力発揮のほうに重点を置くのではないか? 会津征伐だけで、どこまで時間がかかるか
1600年中に終わるかね 取り合えず家康の寿命が1616年だから
01年に討伐終了した所で残り15年か
天ぷらぱくぱく食べて糖尿悪化させなきゃもう少しいきれたかもだけどさ 関ヶ原がないと徳川譜代大名が育たない
家康が関東250万石の大名の時に、徳川譜代の家臣で10万石以上は井伊、榊原、本多忠勝、次男の結城秀康のみで、大多数は1万石2万石と小粒だ
秀吉ですら、子飼いの大名には20万石以上が何人かいたから、豊臣政権以上に徳川の天下が不安定になる 豊臣政権の実権も握っている時点で家康無双だろ
もし西軍が決起しなかったら戦もしないまま西軍は個別に潰されて徳川親藩譜代が勢力を伸ばすだけ
前田も伊達も家康に諂うしか能がないんだし >>703
伊達は100万石のお墨付き通りに加増されるね
家康も改易の正当な理由なく改易はできないよ
諸侯から「徳川殿こそ天下を治めるにふさわしい」とで支持を得なきゃいけない時期だ
だから秀吉死後から関ヶ原町まで、改易はなく、家康が堀尾吉晴に越前府中6万石を与えたり加増だけだ 直江状が来た時は家康も内心でガッツポーズだろ
武力討伐の大義名分ができた
前田のように恭順でもされたら、むしり取っても120万石を60万石に減らすのが関の山
しかも辺境の奥州 直江兼続ってほんとアホだよなw
あんなのが大河ドラマになるぐらいだからやっぱりネタがないんだよなー
立花宗茂のがよっぽどおもろいのに 秀吉はどうして上杉を越後から会津へ移したんだろ
関東の徳川への抑えなら越後・北信濃の方が有効だろうに 上杉討伐は周辺国からの訴えが原因なので家康の内心に関わらず実行される。てか実行されないと豊臣がやばい。 今でこそ会津は辺境に見えるかも知れんが当時は交通の要衝だからね
だから最初は蒲生氏郷をそこに込めた 東北の大名抑えるにはいい場所だったしねー
辺境地であるけど 越後を上杉から堀にして、全く徳川の抑えとして機能しなくなった
旧上杉領の北信濃は豊臣直轄領にしたが、秀吉死後に家康が、美濃の森に国替させて与えてしまった
上杉には越後の本拠地のままで、米沢加増程度でよかったと思う 家康にとっては蒲生氏郷、小早川隆景、前田利家などライバルになりうる人材が先にバタバタ死んでもらって助かっただろうな。
さすがにこの三人に毛利と上杉がスクラム組んだら家康もどうしようもなかっただろう。 結局長く生きた者が勝ったって話
秀吉があと10年生きてたらこうなってないし 長男信康が切腹した時に家康は37歳だが、次男秀康は5歳で三男秀忠は生後半年という幼少さだ
かつて幼い家康を拘束した織田信秀は41歳で病死だ
家康は同じような年齢で早くポックリ逝かないよう、長生きに全力を尽くした
関ヶ原合戦の時に家康は59歳で黒田官兵衛の没年と同じ、将軍になったのは62歳で秀吉の没年と同じ
家康の健康が家康の天下を助けている >>712
小田原攻めでの北国勢(上杉・前田・真田勢)が関東の徳川の抑えで良かったのに 蒲生氏郷って有能かもしれんけど旧織田家臣だし、
秀吉は徳川伊達の抑えにするようなほど彼に信頼を置いてたのかね?
それとも蒲生徳川伊達で揉めてもらって三者自滅を狙ってたのかね。 蒲生氏郷は前田利家を慕っていたという話はあるね
秀吉の次の天下人は利家だと豪語したという
でも氏郷の死後に蒲生秀行は秀吉の命令で会津92万石から宇都宮19万石へ大幅減封
家康の娘婿だった縁もあって前田派から実質離反してしまった 徳川と会津蒲生・会津上杉は所領が隣接していない
常陸に佐竹がいるし下野には宇都宮がいた >>719
ただの荒れくれ者扱い
伊達と同じカテゴリ 島津や伊達は豊臣政権下で要職についているわけじゃないからねぇ 秀吉にとって自身の与力以外の旧織田家臣は前田利家を除けばほぼ仮想敵じゃね。
氏郷は警戒されて大領を餌に東国へ追っただけでしょ。あと伊達と揉めて惣無事違反犯せばどっちも取り潰せるし一挙両得。 蒲生氏郷は、親前田だから、徳川や上杉の牽制には良いだろうという見通しはありそう。
それが、秀行の代には親徳川になってしまったので、利用価値が低くなり、宇都宮に減封させられた。 >>722
だからこそ島津はお咎め無しですんだ
豊臣政権でほぼ絡まないのはでかい >>723
前田利家も正直仮想敵だったと思うわ。こいつ柴田勝家を土壇場で裏切ったからな。一度裏切ったなら二度目が無いとは言い切れん。
だから豊臣政権下では外様の徳川家康の風下に置かれた。
十全の信頼は置けなかったんだろう。 秀吉と利家はマブダチでズッ友だよ
何てたって羽柴筑前守利家なんだから
秀吉唯一の娘(豪姫)の実父が利家だ 利家と秀吉はマブダチだろ
前田利家を仮想敵にするならもう味方なんてなしじゃね 秀吉が豊臣政権を安定させるためには宇喜田秀家を関白にして秀頼の後見人にするしかなかったか
家康に対抗できる器ではないが秀家相手に家康が表立ってケンカを売ることもないだろうし
秀家が豊臣代表として政権握れば家康の上杉征伐は実施されることもなかった 会津に向かう前に黒田長政に的を絞り暗殺
こいつがキーマンだ
徳川から見た外様大名で最初から徳川に天下を取らせる気満々だったのはこいつだけだ 駒姫は助命すべきだった
駒姫が生きていたら元々伊達と不仲の最上に牽制させ上杉と佐竹とで追撃できたかもしれない 宇喜多でも関白に出来るなら、小早川秀秋や結城秀康でもOKという理屈になって、
混沌としそうだけどな。関白の価値が相対的に下がってしまう。その方が、「家」としての力の勝負になって一応の自力のある豊臣家に有利だった可能性はあるけれど。 高吉が跡継ぐか、秀保が長生きするかで大和大納言家が残っていれば高虎が徳川に走ることもなかっただろうにな。 東軍切り崩しなんか諦めて岐阜を最終決戦地にするってのは? >>667
違うぞ。
井伊直弼はぎりぎりまで開国したくない、開国するにしても自分は責任を負いたくないと、
現場にl極力条約結ぶな、ってあやふやな指示出してぶん投げた人。
このままではまずいと開国に踏み切ったのは、徳川幕府の優秀な官僚。
この人たちは直弼に冷や飯食わされた。
条約の最初の内容は優秀な官僚が交渉したおかげでまともな内容だった。
国辱的な内容に変わったのは、攘夷派のやらかしたテロ行為の賠償のため。 もし大和大納言家が残っていれば高虎はそのまま仕えてたとは思うが、
秀保を西軍には付かせず表向き中立で、裏でせっせと徳川に情報流してたんだろうな。 大和大納言家残ってたらそもそも家康一強にはなってないんじゃないの?
秀保が若年でも生きていれば外様に対する抑止力にはなってただろう。 仮に秀長が生きてたら秀次事件はなかっただろうし
そうなると家康もここまで発言権はなかった 秀長の跡を誰が継ごうが
大和に豊臣一門の巨大勢力が健在なら
関ヶ原の状況にはなってないな 秀保が生きていても秀次事件に連座してそう
秀吉が豊臣家の家督を継げる者は秀頼ただ一人だけにしたからな
秀吉の養子で秀頼の兄貴分だった小早川秀秋すら東軍に寝返ったし
大和大納言家が存続しても家康に取っちゃあ掌で転がせそう
秀頼さえ死ねば豊臣家督はお前のものとか言ってそう 秀長が生きてれば別だがそうじゃなきゃ黒田長政を引き入れた家康の勝ちはかわらんよ 会社に「この人は石田三成の生まれ変わりではないか」と思える人がいる。
言うことは筋が通ってるし、こういう人がいないと組織がたるんでくるのだが、
そばにいられると苦手なタイプ。管理職に入るが決してトップには向いてない。
社長や部長を陰で支えるのが一番似合ってる人だ。 >>744
家康は勝てると確信持たないと動かなさそうだけどな。
大和紀伊に豊臣一門がいたら大人しく大老やってそうな気もするが。 /:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::.:.:.:.:.:.:.:.:ヽー-、、
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ル l( '⌒ヽ:. ..::'" 彳;;;;;;;;;-、t:.:.:.:.:.:./:::ノ
!`チ'゙゙'ー'^':.. ,,..:::: 彡;;;/´ )、:.:.:.:/´
市 ヾ‐-、_ ゙" ,リ〉=三ノ;;;ヽノ
〉=ニ=チ ノ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i'
民 (_,,.ノ 〃;;;;;;;;;;;;;;;;;;;〉
i''^ '个;;;;;;;;;;;;;;;;;ソ
| l, ..:: :''" イ;;从;;;;;;;;;;;;;ミ
丶ー---┐::.. ::: :'" tソチ;;;;;;;;;;;;;;;;;ヾ
! ヽ:: ''彡シ;;;;;;;;;;;;;;;ゞミ
_,:イ シルリソえr'"i`
_,, :-一''"i´ l! t,,_
Q.米国が北朝鮮を攻撃したら―――
A. 日本を相手に戦います 織田家と豊臣家、豊臣家と徳川家の力関係が逆転して乗っ取られる様は中国の禅譲に似てる
日本じゃあまり例がないな 秀長生きてたら、って思うけど、
考えたら秀長って横領事件で秀吉から叱責されてたよな
秀次ごと粉砕されそう >>747
家康は大阪城に秀頼がいても秀吉死んだその日から天下取りに動いたから
大和紀伊の豊臣分家など恐れるに足りない
確実に自分が天下を取れると踏んだだろ
秀保は小早川秀秋と大して年齢差がなく老獪家康に勝てるはずなし >>749
鎌倉幕府の源氏→北条氏も似たようなもんかな 大坂の毛利が即家康に和睦して三成らを討伐する
そうすれば家康が西軍の頭になって残りカスの三成を討伐するから西軍が勝つわ(ヤケクソ 家康は三成を討つという名目で秀頼からの恩賞と称して
豊臣の領地を奪い取って徳川家が日本一の領地を得て征夷大将軍になることが目的
家康が東軍だろうが西軍だろうが家康勝利なら
どっちみち領地奪って征夷大将軍になったのだから
どうせ結果は同じだったな 秀長家臣団の面子からして大和大納言家存続なら
家康とは上手くやりそうなんだよな
大和大納言家が畿内にしっかり睨み効かせてると
石田も毛利も何もできず関が原も起こらない
家康も大老筆頭のままじゃないか ┌─┐
│先│
│祖│
│代│
│々│ . /⌒ヽウタメニダ〜
│ば│ / `∀´>
│か│ | J J
┌┴─┴┐∠__ノ
│| 三三 |│
 ̄.凸( ̄)凸 ̄ >>756
大和大納言家の家臣団の面子なら
真っ先に家康に人質だして家康の家臣に志願しそうだ
大和大納言家は大和郡山城から追い出されて
捨て扶持貰って細々存続
織田信雄が貰った5万石程度 大和大納言家(大和国)と関白秀次(尾張国)が残っていれば、大坂城の秀頼と併せて
交通の要衝を抑えた状態となり、関ヶ原合戦は起きないだろう。
秀吉の失敗は、豊臣家にとって最も重要な藩屏を失ってしまったこと。
慎重に運営していれば、豊臣家が滅ぼされるはずもなかった。 秀保も謎の死だから秀吉に始末されたのかもしれんな。 >>759
秀吉は秀頼可愛さに身内が一番の敵だとばかり粛清しちゃったのがなぁ。
ただでさえ身内の男子少ないのに。 >>755
実は関ヶ原の前から豊臣蔵入地は削られてるんやで
理由は蔵入地が大名達にクソ嫌われてたから。
「蔵入地解消しろ」って声が多かった。
で、蔵入地をガンガン解消したらどんどん豊臣の領土が減った。
実は豊臣の統治機構にも問題がある。 関ヶ原合戦半年前の1600年3月に、森忠政が美濃から信濃川中島へ国替え
その時に信濃川中島の豊臣蔵入地9万石が廃止されて森に与えられている ┌─┐
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│祖│
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│々│ . /⌒ヽウタメニダ〜
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| │ `ヽ ニダニダ
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| ヽ |粘着性で朝鮮ヒトモドキの
'、 'i |右に出る生物はいないニダ
ヽ | |
|レ' | ヌット
l '( | ヌトォ〜
l ) ) | ____
B■∧ ________
━ (,, ゚Д゚) / /
| つ< この歌、歌って
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∪∪ ♪
∧_∧ ♪ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
<丶`∀´> < 迷子の 迷子の チョンコ君
( チョンコ ) │あなたの国籍 どこですか
| | | │祖国を聞いても 分からない
〈_フ__フ │名前を聞いたら 二つある
│ふぁんふぁん ファビョーん
│ふぁんふぁん ファビョーん
│タカってばかりいる チョンコ君
♪ │犬の 7割半
│喰われて しまって
│わんわん わわん
♪ │わんわん わわん
\__________ ∧_∧ <強制連行された従軍慰安婦など、存在しません!
⊂(・ω・ )
∧_∧と)
<゚`Д´゚ >⊃ <歴史の検証は、データより国民感情を優先すべきニダ!
(つ /J
| (⌒)
し⌒
∧_∧ <彼女たちは半島人に雇用された「追軍売春婦」です!
..(・ω・ )⊃
∧_∧ )
⊂<゚`Д´゚ヽ>゚ <民族の自尊心を挫く現実など、とうてい受け入れられないニダ!
ヽ ⊂ )
(⌒) |
三 `J
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 2006.02.21 |
| 従軍慰安婦は |
| 存在しない! .|
| ∧_∧ |
 ̄ ̄∩(・ω・ )∩<これがアメリカ連邦最高裁判所の “最終判断” です!
∧_∧ )
<゚`Д´゚ >⊃ <韓国に対する愛情はないニカ!?
(つ /J
| (⌒)
し⌒ NHKの番組で仮に小早川が裏切らないで、西軍として戦闘参加した場合をAIシュミレーションやってたけど、それでも東軍勝ちだった。
本当に小早川軍いても西軍負けたかな? :∧∽∧:
:< ∩∩ >. アイゴー
:(´__ノ ノ.:
:ム_)_):
∧∽∧ ウリナリが考えた
〃,< ∩Д´> 最高の捏造史が
/(_.ノ ィ \ また論破されたニダ・・・
⊂こ_)_)`ヽ.つ
アイゴーーーーー!!!!!
:∧∽∧:
:<、 ⌒ヽo:
:(_,,ィ、__つつ
ニダーリ
∧∽∧ 今ちょっと
⊂⌒<ヽ `∀´> かわいそうと思ったニカ?
`ヽ_つ ⊂ノ その気持ちを大事にするニダ! >>769
小早川が動いても毛利があのままだったら結局東軍のほうが多いから。 >>166
赤壁みたいに家康をコテンパンにするってのはなかなか痛快だな
キーになる孔明は誰になるか 赤壁で孔明は何もしてません
周瑜の代わりになる人が必要です >>769
小早川秀秋に突然天から上杉謙信の霊が舞い降りれば家康本陣まで突進したよ >>774
小早川が死んで終わるだけだろう
東軍の家康は天下とれないなら死んでいい覚悟で譜代ともども決死だからな
西軍は本気の奴はほとんどいなかった 大津城攻略軍が間に合ってたらどうだろう?
かなり西軍が補強されると思うんだが 秀吉を始末するこっちゃで
子作りもできんものが、
天下とって何の意味があるんや 輝元と秀頼が関ヶ原に出陣して、石田・宇喜多を背後から攻撃してせん滅する。
輝=西軍、石田=中軍、家康=東軍
これで西軍の勝ち。
輝元「おれはしょうきにもどった。 三成に騙されていたのだ。 責任をとって隠居する」
秀頼「こたびのもうりけのこうせきはまことにおおきい。備前・土佐はもうりにあたえる」 >>779
実際に大津城攻略軍が間に合っていたら、西軍がかなり強化されるように思うんだが、
戦局に影響でるよね? 東軍の中には西軍が正しいと思っていた部将もいたという
やはり家の存続が大事
その根回しをした家康
純粋に義理、人情で戦った西軍
西軍が勝つには生真面目さを捨てていい加減さがあったら勝てたのではないかと思う 関ヶ原については、今月号のドリフターズでスキピオが解説してる 関ケ原の戦い
西軍(ポルトガル)VS東軍(スペイン)
戊辰戦争
新政府軍(イギリス)VS旧幕府軍(フランス) 大坂の陣
豊臣方(スペイン)VS徳川方(オランダ) 西軍の武将は戦意の低い者が多かった。元々、合戦なんかしたくなかったわけだ。ならば、
毛利・島津・長曾我部など戦意の低い武将は大坂城近辺に配置して前線に出さない。
石田・宇喜多・小西・大谷など戦意の高い武将だけ前線に出る。
しかし、戦局が不利になれば、早めに撤退し、大坂城まで退却して持久戦に持ち込む。
いわば、小牧・長久手の合戦のように、じりじりと位攻めにして、家康の上洛・和睦を
促せばよいのだ。持久戦が長引けば、東軍の加藤・福島・蜂須賀など豊臣恩顧の武将は
和睦を求めるようになる。 毛利は関ケ原前は派手に動いてたし
長宗我部も闘う気マンマンだったんじゃないか >>787
毛利は派手に動いた挙句、四国でも九州でも反撃されて、
本国防衛の戦力も足りなくなってて、関ヶ原どころじゃなかった >>782
福島や加藤は豊臣の親族なのに三成憎しで家康に就いた
家康も「三成を殺すためたけの戦い。秀頼公は関係がない」
と熱弁振るって豊臣恩顧武将を東軍に誘った
三成が死ねば東軍の豊臣恩顧大名は関ケ原を起こす理由がなくなるし
そのために家康は福島や加藤が三成を暗殺しようとしたときに
わざわざ仲介役を買って出てしかるべき決戦まで三成に生きていてもらうべく手配した 光成憎しの理由はわかるけど、
光成殺してやりたいほど、なぜ憎んでたのかな? 頭戦国で、メンツを傷つけられたら相手をコロス、ってのが常識だからじゃね? 東軍を牟田口れんやのような者が指揮すれば、西軍は勝てた。 賤ヶ岳で秀吉が街道封鎖したみたく
東海道を封鎖できなかったのかね?
まあ後ろから小早川にやられたら無理だけど 徳川が上杉攻撃を始めるまでは三成は兵を動かすべきではなかった
古狸の家康は直江状に怒るふりをしたが本気で上杉を滅ぼそうとは思わなかった
会津城は堅固で容易に落とせる城ではなく雪が降れば和睦していた可能性が高い >>794
岐阜を防衛ラインにする構想だったのに、攻撃を防げるだけの戦力を集めて
置かなかったのが悪い
岐阜城は当方から渡河してくる敵を迎撃するための見張り台として存在していて、
現に織田家は渡河攻撃の片方は抑え込めたけど、戦力不足で福島の渡河は
防げなかった。
美濃で河を挟んで防衛線を引くべきで、そのために必要な戦力を集めておくべきだった。 >>795
何もしないでいるうちに西に残っていた諸将はどんどん徳川陣営についていくんだけど
そもそもよーいどんの時点で西軍は出遅れているんだからこれ以上の出遅れは致命傷となる 幻の白河決戦 上杉佐竹連合軍対徳川軍を実現してほしかった
https://www.aidu.server-shared.com/~ishida-a/ieyasusinkoudu.pdf 仮に秀次が生きていたとしても北政所に通じているから東軍の味方になったと思う
小早川秀秋の寝返りも北政所が家康に通じていたと考えれば納得できる 北マンはどちらかというと西軍よりなんだが。
いまだに司馬遼小説をうのみにしちゃってるタイプ? 西軍全軍で大阪城に籠城するば負けなかっただろう
東軍は時間がたつにつれ崩壊。家康は江戸に逃げ帰るしかなくなる >>797
そこまで諸大名が味方して大軍になっても上杉を滅ぼせなかったら、家康の武威が落ちるね
というか会津120万石を恩賞として、味方の諸大名にどう切り分けるんだろうとは思うが >>799
関ヶ原の時に東軍がどさくさに紛れて
北政所が住む京都新城ぶち壊しているから
北政所が東軍だったというのはガセ 北政所は東軍ではなく、親徳川家康
東軍についた、親徳川家康でない武将に恨まれていても不思議ではない 北政所は徳川家康と親しくないけど
三成と親しかったことは知られている 承久の乱の時の北条政子のように北政所が表立って「太閤殿下の恩に報いるため三成に加勢なさい」と言っていたら豊臣恩顧の大名の行動も違っていたかもしれない 日本人は殺し合わなかった
信頼と助けあいの共生文化だ
だから武器なんか作らなかった
だから天皇一味の襲来には、あっさり負けていた
それは島国の英国だって同じだ
やはり大陸の毎日殺し合いをしている連中は強い
つまり、英国王室は英国人ではない
じゃあ、日本国内で無数に発生している殺し合いは
日本人ではないなと推測される
なんたら合戦だの、なんたらの乱だの
地名で呼ばれるが、いったい何が戦っているのか
「民の幸せと国の平和を祈る」と妄言を吐く天皇が襲来してから日本は戦場になった
天皇による原住民の殺戮
そして二人の天皇の私利私欲の恥ずかしい戦いが繰り広げられた
天皇の争いであることは隠されて、適当な理由をでっちあげているが
じゃあ、南北朝時代よりずっと前から始まっている二匹の天皇の犬猿の争いの原因は何か?
天皇の本当の初代は1300年前の文武天皇683年〜である
こいつは新羅人であり、後に北朝天皇とも呼ばれる
そこから100年遅れて >>804
家康は関ケ原で東軍が壊した豊臣の城・京都新城を修理するどころか
北政所に立ち退きを命じ関ケ原後に完全に破壊した
豊臣恩顧大名に配慮して北政所の願寺&住まいとして
東山に高台寺を建てることで収まった
京都新城破壊は東軍が勝手にやったことではなく家康の意向だよ >>806
頭の中は昭和で止まってるのか?
西軍で真っ先に挙兵した宇喜田軍に激励の使者を飛ばしたのは他ならぬ北政所だぞ そもそも福島など豊臣系の武将が家康についていってる時に西軍が挙兵したのであり、
北政所がいくら何を言ってもその場にいない連中に声が届くはずがないだろ。
806はこの時代にインターネットや電話やテレビがあったとでも勘違いしてるんじゃないの? 西軍が勝ったら、九州半分を与える、という条件で黒田官兵衛を大阪城に召喚して西軍の指揮をとらせる 裏切りが濃厚な小早川秀秋らを関ヶ原に置き去りにして、佐和山城にと大阪城に籠城する 偉そうに講釈垂れてるおまえらが実際にその時代に居ても小作人だけどね 三成が毛利吉川らがいる味方の諸将の前で、
「忍びの知らせによれば、徳川は福島正則に安芸備後2か国を与えると約束したようじゃ」
といえば、吉川も空弁当サボタージュしないかとw >>795
あのまま事態が推移すれば、石田三成の失脚は確定して、徳川家康の味方は増大して
政治的地位も高まっていく。だから、三成は自分の影響力が残っているうちに短期決戦
に持ち込んで、家康を一気に倒す必要があった。
そのために企画したのが関ヶ原の合戦。
三成クラスの地位でここまでの企画を実現できたことは、すごいことだったと思う。
成功していれば、秀吉の中国大返し・山崎の合戦・主家乗っ取りに匹敵するくらいの
成功例になっていた。 >>814
毛利家の積極姿勢がばれて、大減俸が決まったのは
毛利家の大坂城撤退後だけどな >>816
勝てるとは思ってなかっただろ
たださらに先に行けばもっと勝算がなくなる
味方の上杉を見殺しにしたら上杉の戦力ばかりか佐竹なども完全に敵に回すことになるんだぞ そもそも秀吉が家康を仕留めておかなかったのが諸悪の根源なのに
三成に文句言ってるやつってどんだけ馬鹿なのw 秀吉は北条が滅亡した後に家康を関東に移し家康の旧領に信雄を入れるつもりだった
あの時に家康が関東への移領を拒否していたらここぞとばかりに三河攻めをしていたと思う
小牧長久手の戦いの時と違い日本のほとんどの大名が秀吉に従っているので家康に勝ち目はない 秀吉はむしろ三成を仕留めておくべきだった
そうすれば豊臣存続のチャンスが微粒子レベルで存在した 晩年の秀吉は痴呆だから、まともな判断や行動ができる訳がない。
唯一の拠り所の前田利家は、秀吉没後、間もなく死去。
あとをついだ前田利長は家康に屈伏して役立たず。その時点で豊臣終了している。 >>818
三成こそ「鳴くまで待とうホトトギス」の心で、家康の死を待つべきだった
家康だって秀吉の天下を認めて頭を下げて、秀吉が死んだとたんに牙を剥きだした
三成もそれを真似て、家康の天下を受け入れて、家康の死を待つべきだった >>822
利長は意外としたたかだぞ
小松城の丹羽に「足止め」されて、関ヶ原に行かないんだから
ぜったいわざとだね 石田三成は、七将の襲撃を受け、命は助かったが、政権からは失脚した。
家康の死ぬのを待っている余裕はない。 >>823
慧眼!
関ヶ原に結局間に合わなかった将軍秀忠(35歳)の不人気は大御所家康の悩みの種で、大坂の陣で高齢の家康(71歳)がわざわざ出陣したのは、戦況が不利と見るや、諸大名が秀忠を裏切るのを知っていたためと宣教師が書いている。 >>819
家康を関八州に転封したのは、表向き臣従したばかりの佐竹や伊達の牽制のため
慶長江戸城を築いた段階でも伊達政宗の謀反を、今度は家康が警戒しているw
関白秀吉政権にも不安定要素はあるので、義弟家康を抹殺したりしてしまうと、その隙に乗じて各地で反乱が起き、収拾がつかなくなる恐れこれ有あり 三成以前に宇喜多秀家が打倒家康のために挙兵して、北政所側近の親族が上杉援護のために会津戦線に駆けつけた時点で、
三成が待とうがどうにもならなかったことも知らない人が多いことに驚き。 石田三成は政治生命の存続のためには、合戦を起こすしかなかった。
だから、毛利輝元など西軍の大名は、石田三成を討ち取るか幽閉して合戦を防ぐべきだった。
輝元が大坂城に陣取り、島津・長曾我部・宇喜多などの主力を京都周辺に集結して、戦いを
起こさず、持久戦に持ち込むべきだった。
そして、加藤・福島・浅野・黒田・蜂須賀など豊臣恩顧の大名を切り崩していけばよかった。 >>828
> 北政所側近の親族が上杉援護のために会津戦線に駆けつけた
誰? そんなもん自分で調べろ
今すぐ図書館に行ってこい
ネットでしか知識をつけようとしないからその程度のことも知らないんだよ と言いたいところだが、今回はサービス。とりあえず歴史群像シリーズの石田三成を参照のこと。
側近の名は孝蔵主。あとは白川さんの研究成果を読んでくれ。俺がここで語るのは白川さんに失礼だ。 >>832
だったら歴史を語る必要もないね。二度と来なくていいよ。サイナラ 西軍が勝つためには、徳川家康が突然死すれば良かった。 戦板の方で散々議論された末に西軍がミサイル開発すれば勝てるという結論に至ったやろ 自衛隊がタイムスリップして、戦車とヘリと迫撃砲で西軍として戦えば勝てたかもしれない そこまでくると「本能寺の変がなかったら信長はアジアを統一していた」とほざくバカ井沢と同レベルだ
それを書いて売れるかどうかが井沢との違いであるわけだが >>838が井沢の足下にも及ばない、糞素人ということは解ったw >>839の頭に糞が詰まっていることだけは理解した 本能寺の変こそ家康生涯最大の危機だったが本当の黒幕は家康だったという説まである 本能寺の変の時に、家康を暗殺しておけば西軍は勝てた。
しかし、それでは関ヶ原の戦い自体が起きないか 大津城攻撃の立花などの部隊と合流していたら、少しは西軍の勝機はあっただろう。
裏切り者小早川に要衝をとられ関ヶ原で迂闊に野戦に持ち込んだ時点で、西軍敗北確定 挙兵から関ヶ原まで自棄っぱちに見えるな西軍は
毛利は若干冷静だったか 秀吉が家康を封じ込めるために東海道に配置していた大名は、家康の上杉征伐についていって、ほぼ全員が家康の味方になってしまった。 石田三成も上杉征伐について行って、戦いが始まったら、裏切って家康を攻撃すれば良かったかもしれない >>846
関東の家康の抑えとして、秀吉が秀次を尾張に置いて、
三河遠江駿河の諸大名を秀次の与力にしたのにな
秀次を粛清して、秀吉自身で家康の抑えを潰してしまった
ただ家康の大名配置は成功したと言われるが、全部成功してはいない
最大の大大名の前田の抑えとして、越前に次男の秀康、越後信濃に六男の忠輝を配置して、
前田を東西から家康の子供たちが挟み込む形を作った
ところが忠輝は家康から勘当されて改易、秀康の子の忠直についても秀忠が暴君ぶり
を問題視して改易してしまった 尾張に関白秀次、大和に大和大納言家がいることが豊臣政権にとって重要な軍事拠点
であったし、藩屏でもあった。
また、関白秀次が執務する聚楽第は豊臣政権の行政機関でもあった。この行政機関が
機能していれば、家康のような外様大名が実権を持つこともなかった。
秀次を粛清し、家康に大老として権力を持たせたことが関ヶ原合戦、そして豊臣政権の
瓦解につながった。 >>840だが誤爆スマソw
>>838の頭に糞尿が詰まっていることだけは理解したw 秀吉は家康の抑えとして当初は甲斐信濃を豊臣秀勝に与えていたのにな
すぐに美濃に国替えさせてしまったあたり、秀吉が家康を少し見くびっていたのかもしれない 自民党=徳川家康
公明党=前田利長
立憲民主党=石田三成、宇喜田秀家、小西行長、大谷吉継連合
国民民主党=長束、増田
共産党=島津義弘
維新の会=小早川秀秋
無党派層=毛利、上杉 豊臣秀頼と淀殿を毒殺して、宇喜多秀家が秀吉の養子として豊臣家の後継者になれば西軍の勝ちだった 秀家が後継者になっていれば、というIFはありかもな。
ただ加藤福島など思慮の足りない連中が秀家に忠誠を誓うかというと疑問ではある。
関ケ原+大坂の陣を豊臣有利にしたような戦争が起こっていたかもしれんね。 秀吉の養子の中で一番有能だったのは家康の次男秀康だったと思う
秀康が後継者なら家臣を統率できたはずだし結城家に養子へ出したのは戦略の面でも失敗
家康が関ケ原に向かった時に秀康が抑えになったので直江兼続は追撃を断念せざるを得ない 上杉軍が、家康を追撃しなかったのは、上杉景勝が反対したかららしい。
上杉軍は最上攻めに出るが、長谷堂城落城前に関ヶ原で西軍が敗退し終了。 上杉景勝は凡将だったから会津若松城を捨ててでも結城攻めする気骨がなかった
上杉が佐竹と連携して結城を攻めていれば秀康は降参し関ケ原の戦い前に江戸城を包囲できた ていうかよー右大臣家が西側で出陣すれば関ヶ原の合戦の結果は変わったろうけど、所詮は夢物語 上杉が徳川を攻めていたら、終戦後、上杉景勝と直江兼続は打ち首で、上杉藩とり潰しだっただろう 逆賊徳川家康追討の勅命を朝廷から獲得する。
家康に味方した者は冠位剥奪、朝廷が所領没収 >>860
逆ギレして将門の乱の再来
家康が新皇に 家康に勝ったら、伊豆あたりを割譲するという条件で、スペイン、ポルトガルを西軍に取り込む。
西軍が負けた時にはフィリピンへ逃亡できる なにその選挙に勝つために在日創価を取り込むどこかの反日政党みたいなやり方 こういうの考えれば考えるほど西軍詰んでるわってなるな
木曽川防衛できてたら…と思うがどうやっても防衛できる気がしないし 秀吉最晩年の時点で家康は豊臣政権の大老(最高幹部)であったことが大きい。
だから、家康に味方することは、形の上では豊臣家への反逆ではなく、「豊臣家を守る
ため」という名分が立つことになる。
家康を豊臣政権の幹部にしてしまった(せざるを得なくなった)ことが秀吉最晩年の
最大にして致命的な失策だった。
家康はあくまで外様大名として、実権を持たせてはならなかった。
これは毛利や前田についても同様である。 朝廷を巻き込んで天皇を大阪城へ 勅命さえ出されば勝ったも同然
現実は朝廷も徳川派閥が多くなってきたところ 百戦錬磨の家康に、戦下手の三成が野戦でまともに勝てるわけがない
会津上杉征伐に石田も大谷も従軍して、
頃合いを見て上杉と内通して寝返って家康本陣を奇襲して潰走させるぐらいか
大内義隆の出雲征伐失敗を参考に 秀吉が家康を倒しておかなかったのが悪いわけで
もちろんそれが可能だったかというと疑問 陸上自衛隊がタイムスリップして、ヘリコプターで家康を急襲して暗殺するしかない どこの戦国自衛隊だよwww
家康のことだから自衛隊隊長を調略して味方につけるはず 徳川家康の人質幼年時代に、ターミネーターを派遣して抹殺する 石田三成軍六千の兵が火の玉になって東軍七万五千を蹴散らせばよかった >>865
江戸幕府は大大名に実権を持たせなかったのはこれだよな
あと鎌倉幕府が姻戚(北条)に乗っ取られたからそれも出来ないようにした
あと室町幕府は各地の大名が好き勝手に戦を始めて崩壊したので参勤交代で縛った
これで合ってる? >>873
室町幕府については、守護大名に京都定府させていた結果
守護代や国人が台頭して戦国になったことを踏まえて、
参勤交代制にして水戸藩等の例外を除いては定府
を認めず、参勤させることにした、の方が正しいと思う 小早川秀秋を総大将にして、家康が小早川秀秋の領地である九州へ攻め込むようにする。 室町幕府の守護大名の多くは、足利将軍家の一門(分家)なんだよね
だから、紛争も多かったけど、足利宗家を支える仕組みでもあった
幕府の幹部の多くは一門だし、直属部隊や文官は足利宗家の家臣団だった
秀吉晩年以降の豊臣家は、この室町幕府よりさらにもろい仕組みになっている 室町時代の3代義満以降は鎌倉公方足利家が足利将軍家の脅威であり続け、争いの火種であり続けた
江戸時代の徳川御三家でも由井正雪の後ろ盾になった疑惑がある紀州頼宣、
8代将軍吉宗と何かと衝突して隠居近臣を命じられた尾張宗春をみると、
徳川将軍家の脅威になっていた
だから八代将軍吉宗は将軍家の脅威にならずに盾になりうる御三卿を設立したのだろう
御三卿の当主は江戸城内に留め置かれ、家臣は直参の出向、領地は飛び地で幕府が実質任免する代官が管理。 そもそも大津城に一万以上の軍を縛り付けておいたのが失敗ではあったね
秀包がくればさすがに秀元も参戦しないわけにはいかんだろう
立花の戦力も魅力だが秀包の影響力は西軍にとって必要不可欠だった 小早川秀秋と吉川広家を大津城攻めの援軍という名目で追いやり、代わりに立花宗茂と小早川秀包を関ヶ原に布陣させる 岐阜城が落ちた時点で毛利は降伏してるし、
小早川はとっくにコントロール離れてるしでもう詰んでるんだよなぁ >>873
大大名というか大名の規模にかかわらず家康は
自分が生まれる前から松平家のために命をささげてきた譜代しか
幕政に参加させなかった
姻戚関係については江が摂家の姫を養女として江戸城に呼んで
家光の正室としたことが慣例となり江戸幕府将軍の正室は皇族か五摂家となった
874氏も言ってるが室町幕府は応仁の乱で守護が都へ駆り出され
留守になった国許で下克上が起こり幕府が統治できなくなった
江戸幕府では幕府の役職に就く譜代は江戸留めも多かったが
外様には用がないので1年置きに国許へ帰れといった 関ヶ原で勝つ、なんてのは無理なんだよ。
西軍が全力でようやく互角近くまで持ち込んだのが清州まで進軍した時だったんだから。
関ヶ原の合戦の時はすでに壇ノ浦の平家レベル。 上杉vs最上は、豊臣派が優勢だったろうよ。
佐竹とか調略して取り込んどけば、、、
ってか、なんで上杉と連携出来てないんだ、
実は石田三成ってそんな冷静でもないし結構な馬鹿なんじゃねーの 関ヶ原では戦わず、佐和山城に籠城する。
東軍が佐和山城を攻めてきたら、大阪城から残った部隊を出現させて挟み撃ち
これで東軍は退却し長期戦になる >>884
上杉は関ケ原まで三成と連携して東軍の伊達や最上と戦ってただろ
関ケ原での三成敗走を聞いたため勝ち目がないとみて家康に降伏した 上杉軍が家康を追撃していたら、関ヶ原合戦は起きなかっただろう。
直江は家康追撃を主張したが、上杉景勝が反対して駄目になった >>887
家康を追撃したら伊達に攻め込まれるからだろ
秀吉が死ぬとその5か月後、徳川と伊達は私婚を結び
家康の六男忠輝と政宗の長女五郎八姫が婚礼をあげる
伊達はどの大名よりも先んじて家康の天下取りに協力すると宣言した 伊達は交渉次第で中立可能
上杉軍が勝ちそうなら、西軍に寝返る可能性もある
佐竹も家康追撃に参加するかもしれない
宇都宮に残っていた結城秀康とか、千人くらいで包囲しとけば動けまい 岐阜城陥落→西軍動揺、毛利は徳川に降伏→西軍指揮を離れてた小早川、突如松尾山を占拠。
松尾山は大垣城と佐和山城を繋ぐ道を臨む超重要拠点なのでこの時点で西軍は佐和山に行けなくなる
石田三成ら出撃、小早川を攻める→東軍諸将関ヶ原に突撃、毛利は動けず傍観→三成ら西軍諸将は小早川と東軍に挟み撃ちにされ撃滅される 毛利は知らないうちに徳川に降伏してたのか?
吉川広家は徳川と密通して、毛利は関ヶ原で戦闘参加できなかったようだが
あと小早川は関ヶ原では途中まで中立では?? >>889
伊達は上杉と所領争いしてもともと仲が悪かったから
家康から上杉の土地を好きに切り取ってよしと言われて喜んで出兵したんだよ
上杉が交渉すればよし分かったと中立なんてないないw >>891
小早川秀秋の動きを見てみればわかる。
そもそも秀秋は伊勢攻略を任されていたみたいだが、京でのんびり鷹狩りをしていたらしい。
そこから岐阜城が陥落する。
八月二十八日、徳川の使者が秀秋に東軍に寝返るよう打診。それを受けて
九月一日、秀秋の使者が家康に謁見。同月八日、上方の情報を全て伝えたという(慶長年中卜斎記)
同時期、秀秋は高宮に移動。
更に十四日、秀秋は高宮より松尾山に移動。松尾山にいた大垣城主・伊藤盛正を追い出して布陣する。松尾山は大垣と佐和山を結ぶところに位置する要所である。
秀秋は西軍の指揮に従わず、剰え急所を乗っ取った。これで中立は言い訳出来ないんじゃないか。
十七日、秀秋裏切りと知った三成は出撃する(広家書状)も既に東軍は関ヶ原に迫っていた… 伊達は、最上を攻めていた上杉軍を放置して、最上が負けるのを待っていたのだから、伊達は東軍を裏切る可能性もあった >>894
そもそも伊達政宗は家康の上杉征討に従軍させられ家康と行動を共にし
最前線で戦うことになっていた
三成挙兵を聞いた家康は大阪へ向け引き返したが政宗は東北に残され
上杉の領土を切り取るべしと上杉の動きを見張り出陣することを求められた
伊達は親類の最上から上杉軍侵略の知らせを受けるとすぐさま叔父を先んじて派遣
上杉の家老直江兼続の敗戦を聞くと自ら出陣して上杉領内に侵攻した
最上が負けるのを待っていたこともなければ上杉軍を放置もしていない ここで三成叩いてるやつに聞くけど
三成叩く前に家康の息の根を止めなかった秀吉の責任はどうなのよw 秀吉からすりゃ、家康に刃向かった三成の方が想定外だったろう 伊達は家康の会津討伐に従軍していたのか?
それが本当なら、小山評定の前に伊達は途中で消えたのか?
徳川家康は伊達政宗に信夫口からの出兵は命令していたようだが。
これだと伊達領内からの出兵になるが 義演准后日記によれば伊達政宗は大坂城を出発した家康の上杉討伐軍に参加してる。
そのまま七月二十四日に上杉の白石城を攻撃して落としてる。
この翌日が小山評定。その後、政宗は上杉と講和に動くけど東軍とも綿密な連絡をしてるので恐らく時間稼ぎなのだろう。
最上が攻められると援軍を送ってるしね。
これはおそらく、九月十二日の清洲からの書状で東軍の西軍殲滅作戦(関ヶ原)を知ったからだろう
もう時間稼ぎは不要と見て反転攻勢に出てきた。 >>896
三成が余計なことしなければ家康は豊臣家の大老のママだろ じゃあなんで
>上杉vs最上は、豊臣派が優勢だったろうよ。
って書いてんの? 別人ならなんでそいつにツッコミ入れないの?
もしかして最上が豊臣派というなら話は別 じゃあなんで、ってのが何処から繋がってるかわからないけど
東北戦線での最上・伊達らの戦略は当初は圧倒的な徳川家康率いる征伐軍によって上杉を粉砕するってもの。
でも三成が決起した。そこで最上・伊達らはこの戦争が長期化する事を想定して牛歩戦術に出た。つまりニセ降伏や守る気もない交渉で時間稼ぎに出た。
ところが八月に岐阜城が陥落、東軍主戦力が西軍の心臓部大垣-佐和山に到達する事が確定した事で東軍勝利も確定。東北戦線は一度に巻き返しに打って出る。
上杉のミスはこの情報を掴み損ねた挙句、関ヶ原での西軍敗北の報を掴んでしまったこと。泡を食って逃げ出したところを最上に猛追されて大打撃を被り徳川との戦争は死を意味する事に(まぁよしんば無事でも無理だったけど)
だからこの八月以前に東北戦線は東軍も西軍も有利不利は一切無い。結末がいきなり降ってきた。 いまだに関ヶ原を「豊臣vs徳川」みたいに思ってる小学生レベルの馬鹿がいることに驚きだわ 上杉が家康軍を追撃しとけば、関ケ原の戦いは起きなかっただろう
全ては上杉景勝の責任 いうて最上も伊達もいる中でそんな真似は出来ないんじゃないか
完全な連携も取れてる訳じゃ無いし >>903
ある面では正しいからね。
西軍はあくまで「豊臣vs徳川」の構造にしようとしてたし。
でも正直、東軍諸将は気にしてなかったと思う
結局この件で東軍諸将は「徳川に」御恩を賜ったと思ってる訳で。
家康が豊臣公儀の云々とかはどーでも良かったのさ。そこら辺を三成たちも見誤ったんだろう。 西軍(秀吉の旧恩と北政所)vs東軍(秀頼への忠義と淀殿)
こんなところか あーそうだね、ねねちゃんこそキーマンだったんだろうね
豊臣家って秀次の件とか毒まんじゅう説とか闇が深すぎる。
そういう内部事情間近で見てきた人たちの中で出世競争に参加しないでいい立場なら、
一歩引いたところに居たい気持ちも判る。
チャチャも内心そんな気持ちがあって「家康やべぇー」と思っていても三成と距離置いた心理的可能性は十分ある。
三成程度じゃ豊臣家の闇文化を解消出来ないだろうし、そんなブラックのまま存続ありきでイキったのが間違ってるな
つまり三成は冷静でもないし見えてない奴なんだよ。
器じゃねー、ってやつさね >>907
秀頼への忠義なんて東軍にはねえだろ
福島正則以外は秀吉亡き後は徳川の天下でよいと思っていたよ 秀吉が織田の天下を簒奪したことで「天下は回り持ち」が武家社会の共通認識になってしまい、秀吉の死後に家康が豊臣の天下を簒奪することに正統性を付与してしまったという皮肉 >>904
上杉景勝は本領を最上に奪われたくなかった
真田昌幸が結城攻めに動いていれば時間稼ぎにはなった 真田が家康軍に潜りこんで、家康を暗殺されていたら、西軍が勝っていたかもしれない >>908
じゃあ家康に対抗して豊臣を背負っていける器の人物って誰よw 土方かな、なんたって秀吉と出が同じで戦略家だ。
先ず関白になった時点で大政奉還しちゃってOKだろ。次にニセ北条倒して伊達に謁見させた時点で征夷大将軍を廃止。
征夷大将軍なんて幕府を立てる言い訳にされるだけで、そもそも存在理由とする敵が国連なみにおかしい。
三成はビジョンが無いんだよ。関ヶ原も歴史の転換点のなのに大義がない。家康にも豊臣家への忠義という理由を与えてしまっている。
そんな大義を削れない程度の器じゃムリ。
せめて誰か征夷大将軍を立ててからおっぱじめろよ。関東管領はいっそ鮭様でもいいぞ、伊達への牽制にもなる 征夷大将軍は令外官だから廃止しても
征夷大将軍が武士の棟梁という武士の価値観を返さずなきゃ同じこと
明治維新のような強引な意識改革しなきゃ価値観は変わらないよ
秀吉秀次2代で武家関白制が根付けばよかったんだけど秀吉自身が後継関白殺してるしね 武家の棟梁って、、、、
朝敵がクスぶって生活してた半農民を従わせる方便としてファンタジー小説に出てくる言葉じゃねーのか。
誰の責任で恩賞を与えるか、命を掛けて従った評価を正しくするのは誰か。
そういうことだろ、平氏も源氏もみな天皇家の流れだろうよ
意識改革すべきは公家の方だろ、普通。関白なんだし 征夷大将軍に就くことよりも幕府を開くことのほうが重要
だから鎌倉幕府は頼朝の征夷大将軍就任の1192年ではなく
政所設置の1185年になってる
鎌倉幕府の実権は征夷大将軍にではなく執権にあったし 上杉・伊達・佐竹が連合して家康を追撃してたら勝てた 佐竹が本気出して後方から襲い掛かり毛利と挟撃すれば勝てた >>915
へ〜土方って関ヶ原の時代にいたのか
で、何をしてたの?
っていうのはさておき、当時の武将で家康に対抗しうる人物が三成以外にいたの?
宇喜多秀家? 毛利輝元? 小西行長?
立花宗茂をあげる人は多いけど、あれは猛将だが戦略という点では三成に全然及ばないよ。 西軍が勝ったら200万石やろう
と伊達政宗を西軍で戦わせる 伊達が西軍につくとして、どのように戦闘に参加するのかな。
徳川相手に戦うためには上杉領を通過せねばならんが、景勝が政宗をすんなり信用するかねぇ。
「こいつ味方になったといいながら実は会津に攻め込むんでは」って疑心暗鬼になるだろうよ。 >>919
伊達を味方につける前に徳川を味方につけたほうが早いんでね? なんとかして徳川の重臣を内応させるくらいはしなきゃな 豊臣秀頼を出陣させて西軍を指揮させる
実質的な指揮官は大野治長あたりでよい
これで豊臣系大名の大半は西軍を攻撃できなくなる 秀頼が出陣すれば、淀殿が召喚して大野治長は西軍にかけつける 西軍が普通に戦ってれば勝った
毛利が先頭きって戦えば西軍も全員戦ったろう 毛利はそもそも家中が徳川派(広家)と奉行派(安国寺)に分かれてる。
7月14日に広家は榊原に「安国寺が陰謀を巡らしている。我らに控えるように…触れ回ってるのはけしからぬこと。輝元は何も知らないのに」
と書状を送ってる(同じ内容を黒田如水・黒田長政にも送る)
黒田長政らはこれを家康に送って「この挙兵は輝元の意思ではなく安国寺・石田らの暴走」という雰囲気を作り上げる。
如水は8月4日広家に返書してこの戦は整わない事と仲が変わらない事を約束。
事態は岐阜城陥落と共に動き出し、9月3日如水は広家に「内府が西上するがその進路に貴方がいるから心配だ。行動を間違えるな。上方の兵は全て内府方なので自分を大事にしろ」と警告。
この時点で毛利は徳川との講和に動き出していた事になる。 西軍が勝ったら日本を半分やろう、
と朝鮮軍と明軍を西軍に召喚する 明は内乱だらけでそれどころじゃないだろ
もうすぐヌルハチさんもくるし 西軍が勝ったら年貢は3年間なしにする、
と関ヶ原周辺の百姓を総動員して戦わせる >>934
明は内乱だらけになって、南に北に大軍を派遣してたから、秀吉はその隙に乗じて、漁夫の利を得ようとしただけなんだよね 関が原以前に秀吉が家康をシメておかなかったのが敗因
三成はもともと家康の敵ではないよ
ただ三成以外に家康に立ち向かえる人材がいなかっただけ
白鵬が家康なら日馬富士が前田利家で稀勢の里が三成ってところだろう
キセは白鵬に歯が立たなかったが決して弱い力士ではない 日本中の寺社に、家康氏ね!と祈祷させ、
大阪城や京都御所には、あちこちに、家康氏ね! の張り紙をする
そして、家康呪い唄を、全国に流行らせる >>935
土地を直接支配していたのは大名たちで
将軍や関白といえども天領以外の土地は管轄してなかったから
関ケ原を西軍のものにはできんだろ つーか中国朝鮮からの援軍が間に合うと思ってんのかなw 徳川家康を西軍総大将に任命する
東軍の大将は織田信雄あたり むしろ小牧長久手の戦いで秀吉が信雄と和睦せず戦闘が長びいていたらの方に興味がある >>928
自分の息子を見捨てるなんて冷たい奴だな いいから64式を近代化改修してバトルライフルにすればええねん徳川家を分割して互いに牽制し合うように弱体化すればよかったねん バトルライフルってなんやねん
徳川家分裂ってどうやるねん >>954
結城秀康は秀吉の養子だったから
もっと秀忠と徳川を二分するくらいに取り立てればよかったんだな
秀吉が生きてるうちに朝鮮出兵するくらいの熱量で
徳川つぶしておくのが一番だったが >>953
秀頼は関ヶ原で家康相手に戦ったわけではないぞ
大野の妻・淀は家康よりだから東軍参加は間違いではない 西軍の後ろには徳川と手を握ったというか、
秀吉にやられた李朝が九州北部を荒らし、
挟み撃ちで、如何なる策を用いても西軍に勝ち目はない。 小早川の裏切りの逆をやるしかない
大谷と三成が示しあわせて、大谷は最初から徳川軍に加わる
三成挙兵の企みを最初に家康に通報してもいい
そして関ヶ原の合戦の最中に大谷が寝返りをうって、家康を討ちとる 小早川秀秋は秀吉の親族であり、官位も中納言、石高も59万石と、重鎮クラスの大名だ。
このクラスの大名が重要局面で寝返ったのが大きかった。
徳川方で言えば、結城秀康クラス+譜代の重臣が寝返ったくらいの打撃だと思う。 デイビークロケット一発で徳川勢ノックアウト
撃った俺も被曝 百戦錬磨の横綱である家康に、前頭レベルで戦の経験値もあまりない三成が戦いを挑むんだぞ
三成は「自分は豊臣家の忠臣で、正義は我にあり」と思っているから、
正々堂々と家康と戦おうとしたようだが、前頭が横綱と正々堂々と戦ってどうすんだよという話
裏切りでも毒を盛るでも闇討ちでも、家康に勝つためなら何でもやらないと 秀吉が滅ぼしたのも織田家の家臣団ばかりやからな
北条も秀吉に朝廷が付いたときに滅ぼされた
名目はもうだいたい分かっとる
家康はその手から逃れたんだろ 豊臣を滅ぼさなければ家康が死んだら徳川は間違いなく滅ぼされたと思うよ そりゃデカすぎるもんな
家康が急死して秀忠と三成ならどうなってたか >>965
大坂の陣終了後なら秀頼も人望失ってるから生かしても害はないと思う 毛利が東軍に味方しなかったら勝ってた
1.吉川・小早川の裏切り
2.毛利輝元が大阪城に居て一歩も動かずで帰国
そいつらが長州となり、幕末禁門の変を起こし、京から天皇を奪い東京一極集中を作った
安倍一族や岸田としていまだに東京から踏み付けてるのが日本だ
ちなみに毛利の先祖は鎌倉幕府政所別当の大江広元
河内源氏の源頼朝一族を皆殺しにし、坂東平家に権力を与えた奴
自民党を倒すってのは何百年もの歴史を取り戻すことだ なに一緒に考えてんだよ
浅ましいやつらだな(・∀・) >>970
自分たち寄生虫(ニートナマポ勝ち逃げ老害労働貴族敵性害人etc)に
都合の悪い政党を嫌ってるだけでしょアンタラは >>972
ネトウヨって自分を労働貴族だと規定してるの?
労働貴族って共産主義国家の模範国民だぞw >>973
スクープ
ケンモニートの読解力、池沼並み! 安倍支持者は国民の生命財産や公共の福祉なんかよりも一握りの上級国民や創価学会幹部の繁栄が大事なんだよなw
自分がド底辺の奴隷であるにもかかわらず自民が勝てば自分も勝ち組だと思えるんだからある意味幸せな連中だわ。
こいつらには北朝鮮政府や中国共産党政府のほうがふさわしいよ。 >>975
ワープアの敵は金持ちじゃなくて労働貴族
共産党やれいわは労働者の味方じゃなくて不労者の味方
工作員多用してるのもサヨクや支那
現実見ろよ不労者 >>976
工作員認定w
そんなに安倍ちゃんに反対する言論は反日だから認めねーなんて国にいたいなら、
ロシアか中国かに帰化すればいいのにw >>977
工作員認定なんてしてないだろ
お前はただの不労者だろうが
「俺たちニートに都合の良い共産やれいわのためにネット工作
頑張るぞ!俺たちに厳しい自民維新とその支持者は絶対許さねえ!」
どうせこんなやつら 金持ちパヨク「野党負けたか残念」
ニートネトウヨ「敗北が知りたいw」 右寄り=組織の維持が一番
左寄り=国民の生活が一番
さてあなたはどちら? >>970
大江広元の4男が毛利氏の初代なのは知ってるが、今の自民党(安倍や岸など)まで繋げるのは無理があるな
長州藩系ではあるけど毛利氏とは血が繋がってないし つないだとしたらとんでもない悪霊がのさばってるな!てことになるの 毛利は大江広元の子孫だけど、小早川は土肥実平の子孫なんだね
源頼朝に近い御家人がこんな遠くで繁栄していたことに驚く 守護になったの北条だが鎌倉幕府の役人らが詰めてたんだぞ >>986
それを言うなら、吉川も梶原景時の変で活躍したよね。 >>986
中央政界から遠いからこそ権力闘争の渦に巻き込まれずに生き延びたと思う 過去に探題府が置かれてるだろ
太宰府(鎮西探題、九州管領)
山口県(長門探題)
京都府(六波羅探題)
鎌倉府、古賀市(関東管領)
仙台市(奥州探題、奥羽管領)
その近くには子孫らはおる可能性はあるわな 探題府が置かれたのが鎌倉時代
管領家が置かれたのが室町時代 武家が京都の本所としたのが六波羅府
そこに鎌倉幕府の役人ら詰めてたんだろ >>990
大江氏とか、中央の本家は権力闘争で滅んで、
地方の分家が各地で生き残ってるだけだし 足利尊氏なんてのは元は六波羅探題に出仕していた様な連中らを配下に収めて室町幕府を創建したんだしな
佐々木や赤松なんてのも元は六波羅衆だよ 長門探題のあったとこはなぜか大内が守護になってしまったしな
九州管領は足利一門の今川、渋川なんてのが務めたが九州大名らの反発くらい滅亡
関東管領は尊氏の三男、基氏の家系が継いだし奥羽管領は足利一門の司馬が代々継承してきた 新田は南朝方として後醍醐から北陸の平定を命ぜられてるし戦力もほとんどそちらに向けてたんだよ
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