関ヶ原で西軍が勝つにはどうすればよかったんや
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多分これについてはよく議論されてるんやろうけど、話したくなったw
一つ一つの出来事を詳しく書いていってほしい >>226
秀頼は豊臣家なんだから関白にはなれても武士の頂点である征夷大将軍はなれないんじゃないかな? 宇喜多や加藤や福島は血統の面から不安要素が多いし >>229
そもそも家康に将軍任官を豊臣は後押ししてたやろ 四の五の言わずに三成が単体で東軍蹴散らせば良かったんだよ >>250
東漢氏は渡来系でもともと蘇我氏の陪臣のような氏族だった。
同じ源氏とはいえ源頼朝の陪臣(御家人)だった足利氏が将軍になったわけだから、摂関家である豊臣姓の加藤、福島が将軍になるのがそんなに無理とは思えないな。
小早川秀秋も関白になれると自他ともに思っていたわけでしょ? >>251
豊臣政権当時、武家の棟梁は武家関白だよ。 >東漢氏は渡来系でもともと蘇我氏の陪臣のような氏族だった。
田村麻呂自身は近衛府から出仕して紛れもない直臣だし、天皇の信任は歴史的にも稀に見る厚さ。
加藤や福島なんか当時の天皇からすればどこの馬の骨か分からぬ上に、秀吉の子分に過ぎない。
秀吉がゴリ押ししたとしてもそのせめぎあいの姿を諸大名に晒し、時間を浪費するだけだろ。
>同じ源氏とはいえ源頼朝の陪臣(御家人)だった足利氏が将軍になったわけだから、
源氏の分家筋だし、全国の武家を二分する一方の指導者だろ
>摂関家である豊臣姓の加藤、福島が将軍になるのがそんなに無理とは思えないな
加藤や福島が豊臣本家を乗っ取る形で諸大名に号令する立場になり、家系図も源氏なりそれなりの家に書き換えればなれるかも。 豊臣の家臣内ですら内輪もめするような加藤や福島が
征夷大将軍を名乗るだけの統率力には値しないだろ。
足利のような確かな血筋でもないし。 >>256
坂上田村麻呂のときの桓武天皇と、秀吉が関白になって以降の天皇じゃ持ってる権力が全然違う。
せめぎあいになんぞならんよ。
実際、秀吉は臣下を内大臣やら大納言にもしている。
あと、足利が源氏の分家筋なら、加藤福島小早川も豊臣の分家筋。
豊臣は摂関家で武家の棟梁だから、わざわざ源氏になどなる必要はない。
あなたは、源氏や将軍を特別視しすぎなんじゃね? >>255
だよなぁ…
征夷大将軍ガーという議論は、滑稽以外の何物でもないw >>255
秀吉が五摂家に取り入ったから関白になれたわけだからあくまで貴族の官位じゃん? 武士の頂点は征夷大将軍だと思うんだけど >>253
関ヶ原での三成って細川と黒田に入れ代わり立ち代わり攻め込まれても頑張って持ちこたえてたよな >>261
豊臣姓を下賜されて武家関白家となったよ。
武家関白は貴族の官位ではなく、武家の棟梁として認知されているから、秀吉は将軍を置かなかったわけだ。
自分の意のままに動かせる傀儡将軍が必要なら鎌倉幕府みたいに摂関なり親王なりを据えれば済むことだけど、そんなものは必要無かった。 >>257
鎌倉幕府四代将軍は摂家の非嫡子で、しかも3歳の幼児だったから、摂家分家筋も統率力も天皇の信任も全く問題にならないということだな。 >>264
なるほも あと気になったのは豊臣姓を下賜されたのは太政大臣になってからだと思ったんだけど違ったかな? 坂上田村麻呂は長年失敗してきた奥州平定に成功したし、天皇の近臣として厚い信頼を寄せられた。
頼朝や尊氏は源氏の血筋で、しかも多くの武家従えていた。
福島や加藤は豊臣の配下としては猛将かもしれないが、それまで叙任された征夷大将軍
としては豊臣家配下として同僚といさかい起こしている程度の人物で小物過ぎるし、
血筋も頼朝や尊氏に比べ不確か、大名としても二〇万石程度と小身、
少なくとも利家のように仲の悪い三成と清正を丸め込んでまとめる度量ぐらいは必要。
。 >>265
ある程度支える武力があればな
鎌倉には北条がいたから将軍が雑魚でも倒れなかった
しかし豊臣にはそんな勢力はないんでね
徳川が絶対服従なら話は別だけど >>268
秀吉に武力が無いとか不思議なことを言う人だね(笑) 加藤、福島の征夷大将軍に成れるか問題点とかw
こんな続くから逆に信憑性あるのかな >>269
秀吉亡き後の秀頼にないっていう話だろ。関ヶ原の時秀吉は存命だったのか?
ちなみに加藤福島が将軍になったら将軍の権威にひれ伏す連中連れて東軍についてしまうわw >>271
一番初め>>226に「秀吉存命中に」とあるよ。もはや、君に説得力ある意見を
求めるのは無理のようだね。
秀吉存命中に、朝鮮出兵時の司令官を征夷大将軍に叙任することが可能だというのは、もはや議論の余地が無いと思う。
「将軍ガー」君の蒸し返しに答えるのはこれで終わりにする。さようなら。
問題は、その場合でも関ヶ原(のようなもの)が起きて、徳川の世が訪れるかどうかということ。
俺自身は、それについての考えは固まっていないが、最終的に徳川の世になったとしても、そのプロセスは史実とは違った様相を呈するのではないかと思う。
賢明な諸兄のご意見を賜りたい。 つうかだなあ、太閤が自ら乗り出して、隣国の征服作戦に邁進しているその期間に、
何が悲しくて、部下にわざわざ征夷大将軍になってもらおうとするんだよ('A`)
そんなわけわからんことをして、唐入りの作戦遂行に、何かプラスにでもなることがあるのか? 天皇を北京に移して秀次を明の関白に、宇喜田秀家を日本の関白にするという
秀吉のアジア構想が実現すれば、家康の征夷大将軍もありえるかもな 諸国大名を腕力で黙らせて
最終的には帝の認定を貰う
これが長らく日本の最終的秩序だな 唐入りしたことがすべての元凶だな
朝鮮の冬の寒さに耐えきらず凍死者だしてるようじゃ華北も占領できん
戦力以前にそうしたことがダメ >>276
満州は関係ないでしょ
戦とは兵站で決まるもの、当時に三成より優れた人はいない 家康の将軍就任は、秀頼家臣から家康家臣に鞍替えしたかった諸大名に口実を与えた訳で、
将軍職を長生きしそうな別の奴にくれとくのは面白い嫌がらせ。
清正とか武張った奴に与えるより、ひょうげ者に与えて、将軍職の権威を落としておく方がいいと思うが。
しかし、将軍職は口実であって、その前の事実としての権力交代を防がないとな。 >>278
古織将軍ですか(笑)
それはそれで面白いですね。
ただ、あまり小者だと、将軍ごと担がれてしまうリスクがありますね。
そこそこ力があり、できれば秀吉と血縁のある豊臣姓のものが最適かなとは思います。 結城秀康と徳川秀忠や本田正信と大久保長安など徳川内部か抱えている対立を煽る。
出来そうな奴が西軍に居ればだが。 結局ペリー来航のあたりで歴史のブレークラインでチャラになるんですが
誰が支配してても結果は同じって所が日本の持ち味じゃないの? >>1
どうすれば西軍が勝てたか?
もう答えは出ているだろ。
秀頼が出陣するだけで勝てたはずだ。
西軍の陣頭に秀頼が自ら立ちはだかれば、東軍の軍勢はことごとくその場にひれ伏し、戦にもならなかっただろう。 >>184
絶対的な指揮者がいないから愚策。
離間工作して各個撃破。まずは上杉討伐,そして石田・毛利の本拠地を攻める
しびれを切らして戦端を開いたのは石田側。家康の死を待っても…
京を押さえられたら朝敵にされる恐れも
>>272
その征夷大将軍とやらは加藤にしろ福島にしろ石田三成を襲撃した際殺害しちゃうのでは。
でも上下関係が判らないよな
>>284
鳥羽・伏見のときの明治帝は幼かったけど慶喜は撤退したが >>285
帝を頂いたという強気と相手の動揺を嘗めんな
将軍の息子と比べるな 太陽を背に戦わなかったから負けたんやで
こんなの神武以来の常識や 日本人の戦争には常に正義と悪がある
帝を担いだら正義
それ以外は悪
指導者はこれを無視する事ができない
民衆が納得しないからだ
当然納得した兵士と納得しない兵士で戦えば結果は見えてる >>24
でも関西在住としては、西軍が勝ち政治の中心が関西となる歴史も見るたかった。 毛利や島津に戦勝後、豊臣政権での執権的な立場を約束するとか
タヌキが得意な根回しを、石田さんもしっかりしとくべきだったね >>220
だからその場で家康を討ち取らないとダメ 小早川秀秋が裏切る前に南宮山の毛利勢が土壇場で家康との内応を反古にして背後から襲ってその場で首を取れば歴史は変わってた。家康が毛利勢が動かないのを見て、前進を始めたタイミングなら絶妙。 家康が早死しててら歴史はどうなってのかな(´・ω・`)
秀忠と幕閣だけでも秀吉無き豊臣を圧倒してそうだけど 家康領を分割しないと無理
秀忠を江戸20万石
秀康の結城10万石
四天王も各10万石で他所に移す てか秀吉が死んだ時点で豊臣政権=徳川政権くらい家康に全部委ねてるから西軍に勝ち目ゼロ。 >>266
まぁ秀吉は関白を世襲するために結構裏技使ったからな…
既にここらへんから綻びは始まってたのかもしれん。 天下の豊臣が全力出しても倒せなかった徳川を、
一奉行に過ぎなかった石田がどうやって倒す?
無理だろ。三成に非はない。 >>299
秀吉が死んだ瞬間、すげー勢いで家康に擦り寄るってのはどうだ? 万が一、関ヶ原で家康が敗れても、家康さえ生きていれば無傷の徳川本隊が残っているから、何度でも復活戦できる
関ヶ原で1回負けただけで終了してしまった西軍とは大違い >>302
裏返せば家康さえゴルゴ13が討ち取れば東軍は烏合の衆で崩壊だな
総大将の代わりがいない
ゴルゴは冗談だが、桶狭間合戦のように家康本陣だけを奇襲して家康を討ち取る軍師が西軍にいればな
秀吉が天下を取った後に軍師の黒田官兵衛を冷遇していなければ、
官兵衛が秀吉死後の豊臣家を守るために知恵の限りを尽くしてくれただろうに 家康本隊だけでも西軍主力と同じくらいいて、さらに最前線に犬どもが頑張っているのに、
西軍の誰がどうやって家康本隊まで突撃出来るかねぇ。 個人的にはなんで三成は小早川秀秋なんてのを自軍に組み込んでたんだ…?
伝説を加味してもとても豊臣に忠義感じてそうには思えないんだが… >>306
家康は伊賀と甲賀が味方してるし、
剣豪柳生一族まで付いてるから並大抵の連中じゃ無理そうじゃないか。
冬の陣だが、豊臣の決死隊が秀忠襲ったけど柳生宗矩一人に蹴散らされたし。 >>305
徳川家康も律儀もので通ってたらしいから秀吉ってひとたらしとか言われるわりに人を見る目がないな
最も心の底から秀吉を尊敬しついていった人間がどれだけいたのやら
晩年こ数々のやらかしで人心は離れてったからこそのしょぼい結末 >>303
それは言えてる勘兵衛を恐れたからというがそれなら家康に250万石もの大領地を与えたのはうかつすぎる
もっと分散させなきゃ >>307
実際の忍者の役割は逃走補助と情報収集
戦闘能力は低い
ましてや暗殺なんて無理 >>303
それができたとしたら吉川広家だったと思う
東軍とは関ヶ原開戦前に内応していたと言われるがそれを土壇場で反古にして毛利勢が山を下り背後から家康を襲えば桶狭間の再現になったかも知れない >>310
実際、家康は戦国時代基準で見ると無茶苦茶律儀者なのよ。
恩義にはかなり忠実だし、その上交友関係がかなり広い。
織田から成り上がった秀吉は、悪く言えば織田を乗っ取って天下人になったから旧織田家臣団を抑えてくれる管理職は何人いても足りんくらいだった。
信長の盟友で、律儀者の家康は最高の人材だった >>126
領土配分でいえば、もし三成が挙兵せずに何もしなかった場合、
上杉は徳川連合軍に滅ぼされるだろう(もしくは上杉降伏)
その場合、上杉領の会津120万石をどう配分するかだな
(上杉が降伏した場合は、上杉は取り潰しされずに生き残る可能性があるので、
家康が上杉から召し上げた領土はもっと少なくなる)
あれだけ多くの大名を動員して、遠く奥州の上杉征伐に駆り出したのだから、
恩賞を与える必要になる
史実では関ヶ原合戦があったから、家康は味方に与える恩賞が莫大にあったが、
関ヶ原合戦が無かったらどうなってたのだろうか >>315
そうしたら@前田をいちゃもんつけて潰しに行くA毛利にいちゃもん(ry、B宇喜多に(ry、とやってくつもりだったのかねぇ… >>315
降伏したら上杉景勝と直江兼続は切腹かな >>316
前田にはすでにいちゃもんつけて攻撃しようとしたところ屈伏してきたので不問にしたこの時点で前田は実質徳川一味になってしまった
上杉が潰されたらもちろん次々に喧嘩吹っ掛けて潰していったろうな >>317
うろ覚えだけど、有名な直江状は種々の研究によると江戸時代に創作された偽書の可能性が高く、
当時の史料からは直江兼続は速攻徳川に土下座して事情を説明してる可能性が大とか言われてなかった?
だとすると上杉討伐は割と徳川のポーズで、
本命は石田三成一本釣りだった可能性も… 三傑の流れって割と奇跡だよな
ここまで役割分担にしろ引き継ぎにしろ、完璧な流れってそうないだろ
人類の発展シミュレーションをスパコンで何度やってもここまで完璧な流れはそうあるまい とりつぶすといえば戊辰の会津戦争みたいになるから
景勝に15万石くらい安堵だろ
上杉の家督は長員
藤田を大名取り立て
直江は本多の倅を送り込む
史実と大差ない
これじゃ恩賞が足りないから
次のいちゃもんは毛利だろう 史実では家康が上杉から取り上げた領土90万石(上杉は会津120万石から米沢30万石へ削減)は、
蒲生(取り分は会津)と最上(取り分は出羽庄内)と伊達(取り分は白石)に主に分割された
ただの上杉征伐だけなら、戦後の恩賞問題が大変なことになる
それと徳川の天下が長期化した一因は東海道と畿内を徳川色にほぼ固め、
幕領を400万石まで増やせたからだ
上杉征伐毛利征伐宇喜多征伐を成就したとしても、史実のようにはいかないだろうな 90万石以上あるよね実際は
伊達が白石2万石
蒲生が会津と二本松、白河で60万石
最上が庄内24万石(残りは小野寺などから召し上げ6万石)
天領(代官は大久保)が佐渡14万石 まぁ1番の狙いは徳川にちゃちゃいれてきそうな奴を潰すことより、
豊臣同士を潰し合わせてその上で豊臣蔵入地の処分にあったかもしれんから… 小牧・長久手の敗北って豊臣の終わりの始まりだよな
ここで完勝して家康をぶっ潰せば、歴史は変わってたろ >>327
秀次が潰されたのが痛過ぎる。負け方が酷い。敵の背後取ろうとしてテメェの背後突かれて壊滅とか聞こえも最悪だし…
地震がなければ、とか言われてるけど徳川も北条・伊達等に反秀吉連合呼びかけてたから和睦して無かったらマジでここが最終決戦だったな… >>327
その通りだと思う。
堺は秀吉が押さえていたのだし、イエズス会のキリシタン大名たちも秀吉側
だったのだから、高山とか小西とか蒲生とか黒田とかの神がかったカルト兵
の鉄砲隊で圧倒すれば、徳川家康を滅ぼすことは可能だったはず。
関ケ原時点では、もう手遅れだよね。政権に全然人望が集まってなかったし、
秀頼は秀吉の種ではないことは皆が知っていたし。
キリシタン禁教を解除して、信仰を許すって布告して、高山右近とかを呼び
戻せれば、すごいことになったかもしれないが。 朝鮮出兵したおかげで豊臣政権は内部崩壊
反石田派が家康に味方してしまった
朝鮮出兵でなく第二次関東出兵で家康を滅ぼしていたら豊臣政権は続いていただろうに >>331
動機が無いってのが最大のネックだな
北条を攻めた時の軍功考えると領土増やさないといけなかったし… >>332
無いものを作るのが政治
関ヶ原前に家康に攻撃されそうになった上杉にも大軍おくられるようなことはしてない
直江状も架空なんて話もある ただ豊臣政権は秀次一味粛正と朝鮮出兵で求心力を失ってたので徳川が滅んでても関ヶ原での豊臣造反組が他の誰かを担ぎ上げて崩壊してた気もする 秀吉が存命中その気になれば濡れ衣でも謀反の疑いがあると言えば家康でも潰された >>333
北条攻めの前だと北条とタッグを組んで大戦争になるし、
北条攻めの後だと軍功あった奴に毒盃で応じたことになって豊臣の人望が地に落ちるし…
大義名分に拘ると家康は潰し難いとは思う。
しかも家康は義理の弟だし… 亡くなった父が日本一の権力者で、おばさんの旦那さんが日本で二番目の権力者の家康さん。叔父と甥が仲悪いなんて世間にははいて捨てるほどある。 なぜ秀吉は家康を暗殺しなかったのか
宴会にかこつけて目障りな部下や政敵殺すなんて中国じゃお家芸なんだが
考えられる理由その1:そもそも秀吉は家康を敵と見なしてなかった
将来の禍根と見ていなかった
理由その2:家康を警戒し、やりたかったができなかった。家臣のガード等硬すぎて無理
理由その3:物理的にはやろうと思えば可能だった
しかし、集団統治型の当時の日本では謀反の疑い、命令違反をしていない律儀物の家康を殺すことは、大名の支持を失い
それが豊臣政権にとって致命的になってしまい無理 秀吉晩年期では家康は対武家では信長の盟友、律儀者という評判から豊臣政権と武将達の折衝役を務め、
対朝廷では、秀頼が成人するまで大臣職を五摂家より守護する重石となっていた。
また、秀吉は家康が源氏の一族で、故に将軍を狙っているとも知っていたが、朝廷での工作が功を奏して家康が将軍になる可能性は無かった。
だから家康が天下を握るなら秀頼を奉じるしかないと考えた。
この考えは半ば当たってはいた。 てか最近だと関ヶ原は決戦じゃなくて逃走する西軍を東軍が追撃する掃討戦で、
小早川も裏切った訳じゃなくて東軍が西軍を捉えた時に牙を剥いたって話になってたが… 秀吉が足利義昭の猶子になることに成功し足利16代将軍になっていたら家康も幕府を
潰すのに二の足を踏むと思うんだが。 源氏って朝廷にも勢力強いし、秀吉だとかなり厳しそう。
内部分裂起こしてた五摂家の方が与し易い感じ。 秀吉が将軍になってたら歴史は大分変わっただろうな。
もしくは、武家の関白は公家の関白と違う、と朝廷から逸脱した存在になるか… そういえば秀吉は、八条宮や近衛前子を猶子にはしたけれど、皇女や摂家の娘と結婚しようとはしなかったな。娶ったら正室にしないといけないから、北政所に遠慮があったのか。 小早川が立てこもったところを西軍が包囲して、東軍が開囲作戦に来ただけじゃないのかな
結果として決戦になってしまったけど 田辺城など5000もいればいいから残りの10000を大津にまわし、
大津の立花宗茂・小早川秀包・毛利元康の3将を含む10000を関ケ原に投入すれば勝っていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています