関ヶ原で西軍が勝つにはどうすればよかったんや
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
多分これについてはよく議論されてるんやろうけど、話したくなったw
一つ一つの出来事を詳しく書いていってほしい >>24
でも関西在住としては、西軍が勝ち政治の中心が関西となる歴史も見るたかった。 毛利や島津に戦勝後、豊臣政権での執権的な立場を約束するとか
タヌキが得意な根回しを、石田さんもしっかりしとくべきだったね >>220
だからその場で家康を討ち取らないとダメ 小早川秀秋が裏切る前に南宮山の毛利勢が土壇場で家康との内応を反古にして背後から襲ってその場で首を取れば歴史は変わってた。家康が毛利勢が動かないのを見て、前進を始めたタイミングなら絶妙。 家康が早死しててら歴史はどうなってのかな(´・ω・`)
秀忠と幕閣だけでも秀吉無き豊臣を圧倒してそうだけど 家康領を分割しないと無理
秀忠を江戸20万石
秀康の結城10万石
四天王も各10万石で他所に移す てか秀吉が死んだ時点で豊臣政権=徳川政権くらい家康に全部委ねてるから西軍に勝ち目ゼロ。 >>266
まぁ秀吉は関白を世襲するために結構裏技使ったからな…
既にここらへんから綻びは始まってたのかもしれん。 天下の豊臣が全力出しても倒せなかった徳川を、
一奉行に過ぎなかった石田がどうやって倒す?
無理だろ。三成に非はない。 >>299
秀吉が死んだ瞬間、すげー勢いで家康に擦り寄るってのはどうだ? 万が一、関ヶ原で家康が敗れても、家康さえ生きていれば無傷の徳川本隊が残っているから、何度でも復活戦できる
関ヶ原で1回負けただけで終了してしまった西軍とは大違い >>302
裏返せば家康さえゴルゴ13が討ち取れば東軍は烏合の衆で崩壊だな
総大将の代わりがいない
ゴルゴは冗談だが、桶狭間合戦のように家康本陣だけを奇襲して家康を討ち取る軍師が西軍にいればな
秀吉が天下を取った後に軍師の黒田官兵衛を冷遇していなければ、
官兵衛が秀吉死後の豊臣家を守るために知恵の限りを尽くしてくれただろうに 家康本隊だけでも西軍主力と同じくらいいて、さらに最前線に犬どもが頑張っているのに、
西軍の誰がどうやって家康本隊まで突撃出来るかねぇ。 個人的にはなんで三成は小早川秀秋なんてのを自軍に組み込んでたんだ…?
伝説を加味してもとても豊臣に忠義感じてそうには思えないんだが… >>306
家康は伊賀と甲賀が味方してるし、
剣豪柳生一族まで付いてるから並大抵の連中じゃ無理そうじゃないか。
冬の陣だが、豊臣の決死隊が秀忠襲ったけど柳生宗矩一人に蹴散らされたし。 >>305
徳川家康も律儀もので通ってたらしいから秀吉ってひとたらしとか言われるわりに人を見る目がないな
最も心の底から秀吉を尊敬しついていった人間がどれだけいたのやら
晩年こ数々のやらかしで人心は離れてったからこそのしょぼい結末 >>303
それは言えてる勘兵衛を恐れたからというがそれなら家康に250万石もの大領地を与えたのはうかつすぎる
もっと分散させなきゃ >>307
実際の忍者の役割は逃走補助と情報収集
戦闘能力は低い
ましてや暗殺なんて無理 >>303
それができたとしたら吉川広家だったと思う
東軍とは関ヶ原開戦前に内応していたと言われるがそれを土壇場で反古にして毛利勢が山を下り背後から家康を襲えば桶狭間の再現になったかも知れない >>310
実際、家康は戦国時代基準で見ると無茶苦茶律儀者なのよ。
恩義にはかなり忠実だし、その上交友関係がかなり広い。
織田から成り上がった秀吉は、悪く言えば織田を乗っ取って天下人になったから旧織田家臣団を抑えてくれる管理職は何人いても足りんくらいだった。
信長の盟友で、律儀者の家康は最高の人材だった >>126
領土配分でいえば、もし三成が挙兵せずに何もしなかった場合、
上杉は徳川連合軍に滅ぼされるだろう(もしくは上杉降伏)
その場合、上杉領の会津120万石をどう配分するかだな
(上杉が降伏した場合は、上杉は取り潰しされずに生き残る可能性があるので、
家康が上杉から召し上げた領土はもっと少なくなる)
あれだけ多くの大名を動員して、遠く奥州の上杉征伐に駆り出したのだから、
恩賞を与える必要になる
史実では関ヶ原合戦があったから、家康は味方に与える恩賞が莫大にあったが、
関ヶ原合戦が無かったらどうなってたのだろうか >>315
そうしたら@前田をいちゃもんつけて潰しに行くA毛利にいちゃもん(ry、B宇喜多に(ry、とやってくつもりだったのかねぇ… >>315
降伏したら上杉景勝と直江兼続は切腹かな >>316
前田にはすでにいちゃもんつけて攻撃しようとしたところ屈伏してきたので不問にしたこの時点で前田は実質徳川一味になってしまった
上杉が潰されたらもちろん次々に喧嘩吹っ掛けて潰していったろうな >>317
うろ覚えだけど、有名な直江状は種々の研究によると江戸時代に創作された偽書の可能性が高く、
当時の史料からは直江兼続は速攻徳川に土下座して事情を説明してる可能性が大とか言われてなかった?
だとすると上杉討伐は割と徳川のポーズで、
本命は石田三成一本釣りだった可能性も… 三傑の流れって割と奇跡だよな
ここまで役割分担にしろ引き継ぎにしろ、完璧な流れってそうないだろ
人類の発展シミュレーションをスパコンで何度やってもここまで完璧な流れはそうあるまい とりつぶすといえば戊辰の会津戦争みたいになるから
景勝に15万石くらい安堵だろ
上杉の家督は長員
藤田を大名取り立て
直江は本多の倅を送り込む
史実と大差ない
これじゃ恩賞が足りないから
次のいちゃもんは毛利だろう 史実では家康が上杉から取り上げた領土90万石(上杉は会津120万石から米沢30万石へ削減)は、
蒲生(取り分は会津)と最上(取り分は出羽庄内)と伊達(取り分は白石)に主に分割された
ただの上杉征伐だけなら、戦後の恩賞問題が大変なことになる
それと徳川の天下が長期化した一因は東海道と畿内を徳川色にほぼ固め、
幕領を400万石まで増やせたからだ
上杉征伐毛利征伐宇喜多征伐を成就したとしても、史実のようにはいかないだろうな 90万石以上あるよね実際は
伊達が白石2万石
蒲生が会津と二本松、白河で60万石
最上が庄内24万石(残りは小野寺などから召し上げ6万石)
天領(代官は大久保)が佐渡14万石 まぁ1番の狙いは徳川にちゃちゃいれてきそうな奴を潰すことより、
豊臣同士を潰し合わせてその上で豊臣蔵入地の処分にあったかもしれんから… 小牧・長久手の敗北って豊臣の終わりの始まりだよな
ここで完勝して家康をぶっ潰せば、歴史は変わってたろ >>327
秀次が潰されたのが痛過ぎる。負け方が酷い。敵の背後取ろうとしてテメェの背後突かれて壊滅とか聞こえも最悪だし…
地震がなければ、とか言われてるけど徳川も北条・伊達等に反秀吉連合呼びかけてたから和睦して無かったらマジでここが最終決戦だったな… >>327
その通りだと思う。
堺は秀吉が押さえていたのだし、イエズス会のキリシタン大名たちも秀吉側
だったのだから、高山とか小西とか蒲生とか黒田とかの神がかったカルト兵
の鉄砲隊で圧倒すれば、徳川家康を滅ぼすことは可能だったはず。
関ケ原時点では、もう手遅れだよね。政権に全然人望が集まってなかったし、
秀頼は秀吉の種ではないことは皆が知っていたし。
キリシタン禁教を解除して、信仰を許すって布告して、高山右近とかを呼び
戻せれば、すごいことになったかもしれないが。 朝鮮出兵したおかげで豊臣政権は内部崩壊
反石田派が家康に味方してしまった
朝鮮出兵でなく第二次関東出兵で家康を滅ぼしていたら豊臣政権は続いていただろうに >>331
動機が無いってのが最大のネックだな
北条を攻めた時の軍功考えると領土増やさないといけなかったし… >>332
無いものを作るのが政治
関ヶ原前に家康に攻撃されそうになった上杉にも大軍おくられるようなことはしてない
直江状も架空なんて話もある ただ豊臣政権は秀次一味粛正と朝鮮出兵で求心力を失ってたので徳川が滅んでても関ヶ原での豊臣造反組が他の誰かを担ぎ上げて崩壊してた気もする 秀吉が存命中その気になれば濡れ衣でも謀反の疑いがあると言えば家康でも潰された >>333
北条攻めの前だと北条とタッグを組んで大戦争になるし、
北条攻めの後だと軍功あった奴に毒盃で応じたことになって豊臣の人望が地に落ちるし…
大義名分に拘ると家康は潰し難いとは思う。
しかも家康は義理の弟だし… 亡くなった父が日本一の権力者で、おばさんの旦那さんが日本で二番目の権力者の家康さん。叔父と甥が仲悪いなんて世間にははいて捨てるほどある。 なぜ秀吉は家康を暗殺しなかったのか
宴会にかこつけて目障りな部下や政敵殺すなんて中国じゃお家芸なんだが
考えられる理由その1:そもそも秀吉は家康を敵と見なしてなかった
将来の禍根と見ていなかった
理由その2:家康を警戒し、やりたかったができなかった。家臣のガード等硬すぎて無理
理由その3:物理的にはやろうと思えば可能だった
しかし、集団統治型の当時の日本では謀反の疑い、命令違反をしていない律儀物の家康を殺すことは、大名の支持を失い
それが豊臣政権にとって致命的になってしまい無理 秀吉晩年期では家康は対武家では信長の盟友、律儀者という評判から豊臣政権と武将達の折衝役を務め、
対朝廷では、秀頼が成人するまで大臣職を五摂家より守護する重石となっていた。
また、秀吉は家康が源氏の一族で、故に将軍を狙っているとも知っていたが、朝廷での工作が功を奏して家康が将軍になる可能性は無かった。
だから家康が天下を握るなら秀頼を奉じるしかないと考えた。
この考えは半ば当たってはいた。 てか最近だと関ヶ原は決戦じゃなくて逃走する西軍を東軍が追撃する掃討戦で、
小早川も裏切った訳じゃなくて東軍が西軍を捉えた時に牙を剥いたって話になってたが… 秀吉が足利義昭の猶子になることに成功し足利16代将軍になっていたら家康も幕府を
潰すのに二の足を踏むと思うんだが。 源氏って朝廷にも勢力強いし、秀吉だとかなり厳しそう。
内部分裂起こしてた五摂家の方が与し易い感じ。 秀吉が将軍になってたら歴史は大分変わっただろうな。
もしくは、武家の関白は公家の関白と違う、と朝廷から逸脱した存在になるか… そういえば秀吉は、八条宮や近衛前子を猶子にはしたけれど、皇女や摂家の娘と結婚しようとはしなかったな。娶ったら正室にしないといけないから、北政所に遠慮があったのか。 小早川が立てこもったところを西軍が包囲して、東軍が開囲作戦に来ただけじゃないのかな
結果として決戦になってしまったけど 田辺城など5000もいればいいから残りの10000を大津にまわし、
大津の立花宗茂・小早川秀包・毛利元康の3将を含む10000を関ケ原に投入すれば勝っていた。 毛利な、ほんと毛利次第だよ
秀吉は天下統一なんてしてなかったってことや 346
朝廷の政治は藤原氏、催事は源氏って言われてんだけどね まあ主な公家源氏らが当たったんだけどね
摂津源氏以降は武家源氏となった 明治に天皇の側近を務めた岩倉具視なんてのは村上源氏の子孫言われてるでしょ
どっちかっちゃ側近として代々天皇の世話をしたのが源氏の連中らなの
南北朝のときに後醍醐天皇の側近から南朝の中心人物として指揮を取ったのが同じく村上源氏の北畠氏やからな >>353
桓武平氏は高棟王流は公家平氏になったが、清和源氏の公家源氏はいたの? 356
おらんでしょほとんど
どっちかっちゃ御家人(荘園領主)に流れたのばっかり 初代の源経基王ってのはかなりの腰抜けだったんだってさ
他人の手柄がなぜか経基王の手柄になったみたいなんで名が上がった
武編に優れてたと言われるのはその子供の源満仲だったんだよ 経基王自体が自分の実力で朝廷内に勢力築けなかったからな
満仲は京都廻りの大将
これでもはや決まった 武家源氏的な公家源氏では嵯峨源氏や宇田源氏いるが昇殿できたのそちらでしょ 日本の源氏物語りは1008年に書かれたでしょ
源氏物語りのモデルになったんは醍醐天皇の王子の源高明だと思うんだがね
一世源氏と呼ばれ左大臣にまで上がり尊貴な人物と呼ばれた
清和源氏の経基は関東遠征軍の大将だよ
満仲は京都見廻りで公家の連中らから源氏の大将と呼ばれた 源氏って皇族中でも特殊な一族らしいし、
気位もコネも充分あるしですげぇ厄介そう。
むしろ家康が将軍及び源氏長者になれた方がイレギュラーな感じある 公家の連中らが御家人らみたいな荘園領主に流れたのは武家よりも後なんだよ
公家領主らみたいなんも現れだしたが室町あたりからだろ 秀頼を石田陣に鎮座させれば
加藤と福島は動けないだろ
仮に徳川譜代で使えば逆に秀頼を守るために動いただろう 豊臣に無断で毛利の軍を大坂城に入れてる時点で豊臣の支援は無くなったと思った方が良さそう。
そんなのに賛同したら豊臣の威光ガタ落ちやん。 島津ってのは南九州に御家人として設置したの頼朝だぞ 毛利は大江だろ
鎌倉幕府に朝廷から話し合うために鎌倉に参内した朝廷の使者が始まりやで
そっから御家人となった 武家自体の歴史は1020年ころだから平安時代中期には始まりそっからの記録もバッチリ取ってあるだよ
鎌倉幕府が成立したのはその170年あとだ 織田氏の祖先は忌部氏だってさ
忌部親実と言う人物
織田氏平家説はこの忌部親実が平資盛の子供で忌部氏に養子に入ったとする説 忌部氏(斎部氏)は天太玉命から始まり古代朝廷で祭事を執り行った氏族
もともと神官の出だしな、織田氏 系図は
高皇産霊尊一天太玉命一忌部氏→忌部親実→織田信長 >>366
毛利は奉行衆からの要請を請けて大坂城に軍を入れとる。これは書状からも明らかなんだが、
この動きには秀頼や豊臣家のお墨付きが無いので完全に西軍の独断専行。
こうなると秀頼が西軍につかないのも当たり前ってことよ。
勝手に軍入れられてそいつらに乗ったら豊臣家は乗っ取られたも同然よ。 関ヶ原関連のスレはカルピスっていう狂ったやつに荒らされて閉鎖、機能不全に陥ったけどここは無事みたいだな 正直関ヶ原のタイミングでは詰んでるわけだが、
どーすりゃよかったんだろうねぇ…
てか石田三成が言われてる程豊臣に忠実ではないしな 関ヶ原は家臣同士の覇権争い。
元々、ねね(尾張武官)派と茶々(近江文官)派の対立が伏線としてあり、秀長と利家が利害を調節していたから、前者は黙っていたが、2人が居なくなって、家康しか茶々(近江文官)派の横暴を止められなくなった。
それでねね(尾張武官)派は東軍に付いた。この時点で勝敗は決していた。
その上、家康が三浦按針に輸入させた東インド会社経由の最新式鉄砲・大砲の雨を降らせ、西軍は瞬時に瓦解した。 一番おかしいのは、中央での統制を強化したい4奉行派と、地方分権で行きたい毛利・島津・長曾我部・上杉が組んでるところ。
本来なら統制派のトップである家康体制に反抗して4奉行が武装蜂起する意味が分からない。
やはり、三成とかは責任被せられただけで、首謀者は上杉・毛利なんじゃないか >>376
島津維新は鳥居元忠に伏見城入場を拒まれ、仕方なく西軍についたんじゃないか? 377.378の様に、西軍ってマジでバラバラの烏合の衆なんだよなぁ…
なんとなく利害が一致してる(っぽい)ってだけで軍を挙げたわけで幾らなんでも適当すぎる… 決死の覚悟のないやつばかり。
肝心の石田三成でさえ、腰が引け最初から逃げ腰である。
他の西軍で命がけの覚悟のあったのは大谷刑部だけ。
大谷がせめて2万の軍勢をもっていたら状況は全然違っていただろう。
小早川秀秋に刺客を向け事前に殺していたらと思う。 総大将の毛利や小早川が何をしたかったのかわからん
徳川に通じてるなら最初から東軍についてればいいだけ
関ヶ原の勝敗結果は西洋人にはどうしても理解できんらしいな 関ヶ原は決戦ではなく、敗走する西軍を東軍が掃討したって話が最近出てたけどそれによれば、
小早川→当初から東軍派で、岐阜城陥落と共に完全に見切りをつけて西軍を攻撃するつもりだった。東軍が陣についた=小早川だけで西軍とやり合う危険性が無くなった時点で西軍を攻撃した。
毛利→石田三成と語らって徳川が握ってた実権を手に入れようと画策。しかし、打つ手全てが裏目を引いていたので保険として徳川と和睦の交渉を行う。岐阜城陥落で完全に西軍に見切りをつけて「もし自分たち以外で東軍をやっつけられたら西軍に味方しよう」程度の考えで布陣。関ヶ原終了後は全力で石田三成に責任を押し付けた。 大谷は関ケ原時身体が相当悪く与力の平塚為広や戸田重政が代わりに指揮を執った聞くが? 西軍総大将毛利輝元が、秀頼に挨拶もせずに、関ヶ原の結果を聞いて大坂城から逃げ出したのは、家康が按針に輸入させた最新鋭のイギリス製銃火器にやられる恐怖から。 毛利からすりゃ、大坂城に豊臣に無断で兵を入れた時点で反逆者扱いされておかしくないからなぁ。
関ヶ原が終わった時点で無条件降伏しないとどんな事になるかわからんもん。 令和になっても「寧(尾張閥)と淀(近江閥)」なんて言ってる化石頭が存在することに驚いた。 東軍に西軍のような日和見がいなかったのはなぜ?
徳川にそこまでカリスマ性があるとは思えんなあ
譜代家臣ならともかく、豊臣恩顧のヤツらがなぜ家康に
完全に轡替えしたんだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています