関ヶ原で西軍が勝つにはどうすればよかったんや
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多分これについてはよく議論されてるんやろうけど、話したくなったw
一つ一つの出来事を詳しく書いていってほしい 系図は
高皇産霊尊一天太玉命一忌部氏→忌部親実→織田信長 >>366
毛利は奉行衆からの要請を請けて大坂城に軍を入れとる。これは書状からも明らかなんだが、
この動きには秀頼や豊臣家のお墨付きが無いので完全に西軍の独断専行。
こうなると秀頼が西軍につかないのも当たり前ってことよ。
勝手に軍入れられてそいつらに乗ったら豊臣家は乗っ取られたも同然よ。 関ヶ原関連のスレはカルピスっていう狂ったやつに荒らされて閉鎖、機能不全に陥ったけどここは無事みたいだな 正直関ヶ原のタイミングでは詰んでるわけだが、
どーすりゃよかったんだろうねぇ…
てか石田三成が言われてる程豊臣に忠実ではないしな 関ヶ原は家臣同士の覇権争い。
元々、ねね(尾張武官)派と茶々(近江文官)派の対立が伏線としてあり、秀長と利家が利害を調節していたから、前者は黙っていたが、2人が居なくなって、家康しか茶々(近江文官)派の横暴を止められなくなった。
それでねね(尾張武官)派は東軍に付いた。この時点で勝敗は決していた。
その上、家康が三浦按針に輸入させた東インド会社経由の最新式鉄砲・大砲の雨を降らせ、西軍は瞬時に瓦解した。 一番おかしいのは、中央での統制を強化したい4奉行派と、地方分権で行きたい毛利・島津・長曾我部・上杉が組んでるところ。
本来なら統制派のトップである家康体制に反抗して4奉行が武装蜂起する意味が分からない。
やはり、三成とかは責任被せられただけで、首謀者は上杉・毛利なんじゃないか >>376
島津維新は鳥居元忠に伏見城入場を拒まれ、仕方なく西軍についたんじゃないか? 377.378の様に、西軍ってマジでバラバラの烏合の衆なんだよなぁ…
なんとなく利害が一致してる(っぽい)ってだけで軍を挙げたわけで幾らなんでも適当すぎる… 決死の覚悟のないやつばかり。
肝心の石田三成でさえ、腰が引け最初から逃げ腰である。
他の西軍で命がけの覚悟のあったのは大谷刑部だけ。
大谷がせめて2万の軍勢をもっていたら状況は全然違っていただろう。
小早川秀秋に刺客を向け事前に殺していたらと思う。 総大将の毛利や小早川が何をしたかったのかわからん
徳川に通じてるなら最初から東軍についてればいいだけ
関ヶ原の勝敗結果は西洋人にはどうしても理解できんらしいな 関ヶ原は決戦ではなく、敗走する西軍を東軍が掃討したって話が最近出てたけどそれによれば、
小早川→当初から東軍派で、岐阜城陥落と共に完全に見切りをつけて西軍を攻撃するつもりだった。東軍が陣についた=小早川だけで西軍とやり合う危険性が無くなった時点で西軍を攻撃した。
毛利→石田三成と語らって徳川が握ってた実権を手に入れようと画策。しかし、打つ手全てが裏目を引いていたので保険として徳川と和睦の交渉を行う。岐阜城陥落で完全に西軍に見切りをつけて「もし自分たち以外で東軍をやっつけられたら西軍に味方しよう」程度の考えで布陣。関ヶ原終了後は全力で石田三成に責任を押し付けた。 大谷は関ケ原時身体が相当悪く与力の平塚為広や戸田重政が代わりに指揮を執った聞くが? 西軍総大将毛利輝元が、秀頼に挨拶もせずに、関ヶ原の結果を聞いて大坂城から逃げ出したのは、家康が按針に輸入させた最新鋭のイギリス製銃火器にやられる恐怖から。 毛利からすりゃ、大坂城に豊臣に無断で兵を入れた時点で反逆者扱いされておかしくないからなぁ。
関ヶ原が終わった時点で無条件降伏しないとどんな事になるかわからんもん。 令和になっても「寧(尾張閥)と淀(近江閥)」なんて言ってる化石頭が存在することに驚いた。 東軍に西軍のような日和見がいなかったのはなぜ?
徳川にそこまでカリスマ性があるとは思えんなあ
譜代家臣ならともかく、豊臣恩顧のヤツらがなぜ家康に
完全に轡替えしたんだ そりゃ圧倒的な軍事力を持つ相手には忠誠心がなくても長いものには巻かれよの精神でついていくだろ >>389
1 秀次事件で秀吉の昔からの部下の多くが粛清されて豊臣系の有力者が居なくなった=外様の影響力が拡大
2 豊臣政権内部で出来てしまった派閥は大きく分けると徳川派・前田派・毛利(奉行)派となるんだが、前田利家の死によって前田派の大多数が徳川派に参加した。理由は毛利・石田三成への反感。
勿論、徳川家康のカリスマもあるんだろうがそれ以上に石田三成らに政権を渡す訳にはいかない、石田三成が俺たちの上に立つくらいなら家康が立った方が遥かにマシ、って思う連中が多かった。 >>391
家康はコイツらに担がれたところが大きいわな
ただコイツらは豊臣政権内で家康をトップに据えようとしたのかそれとも豊臣自体を見限ったのか
どっちだろう
家康は時流を読んでそのまま天下をとった >>388
まあ研究もハッキリしたことはわかってないし
どっちでもいいんじゃね >>383
確定ではないけど
そう考えたらあれほどの大軍が1日で壊滅したツジツマがあうな >>382
いわゆる西軍よりの2枚腰だったと思われる >>365
真相はどうなんだろう?
豊臣が喜んで迎えて起きながら
負けた途端に反逆者の石田、毛利とか言った可能性はないのかな?
今出てきてる史料にはそういうのは残ってなさそうだけどね >>392
戦国大名ってのはビジネスライクなところがないと生き残れんからなぁ。
家康が将軍になって、天下人たる力を見せつけていく中、豊臣の力はどんどん凋落した。
こうなると、豊臣は主君が出す御恩を用意出来ない。
御恩と奉公は御恩があって成り立つから、豊臣がスカンピンってなると… いくら三成が無能でも豊臣家臣は手のひらを簡単に返しすぎ。
もっとも馬鹿なのは福島正則、あとの運命を読めず馬鹿みたいに猛勇を振るった。
家康も呆れ返ったはずだ。
二番目の馬鹿は小早川秀秋。
こいつは真正の馬鹿だ。
由緒ある小早川家の家系をすべてぶち壊した。
戦後、秀吉の亡霊に取り憑かれ狂い死んだのは当然の報い、地上最低の輩だ。
三番目は毛利に吉川、あの世で秀吉に顔向けできるか。
四番目は黒田長政、こいつも家康にペコペコへなへな東軍の先頭を切る本物の馬鹿。
たとえ黒田家は存続しても何の値打ちもない。
五番目、六番目もいるが情け無く恥ずかしい奴ばかり。
関ヶ原の戦いは日本歴史上最低の戦いだった。 >>398
史上最低なのには同意
戦というより予定調和のやらせショーをみてるような感じ 軍事より政治がモノを言うある意味日本らしい戦だよ
なんにせよ豊臣恩顧の連中は、家康の腹のうちをわかった上で東軍についてるのだから
これはもう豊臣に対する裏切りと言っていい >>400
日本人の心の有り様、方向性が決定づけられた戦だったのかもしれないな >>398
黒田はもう豊臣の天下を秀吉が死んだ時点で見捨てていたと思うよ
だから秀吉の養女(蜂須賀小六の娘)をさっさと離縁し、家康の養女と再婚
そもそも秀吉のために戦功多い黒田が、秀吉が天下を取って与えられたのは
豊前13万石だけ。
しかも秀吉から冷遇され、たびたび処罰され、疑われて出家せざるをえない始末。
もう豊臣には恩義どころか恨みしかなかったろう >>402 >>398
半兵衛が長命で関ケ原時生きていたらどうなっていただろう。 >>399
岐阜城が落ちた時点で勝負は決してたらしいからな
織田秀信に領土をやらなかった秀吉が悪いのだが >>402
黒田官兵衛は石高を自己申告してもいいよって
言われての12万石だったはず。
いくらなんでも六郡で12万石は少なすぎ。 >>398
福島正則は能吏である伊奈図書の切腹を無理やり迫ったのが大きな失敗。
小早川秀秋は無理やり西軍に組み込まれたものの、伏見城攻め後は
病と称して西軍首脳の言うことを聞かなくなってて、松尾山の砦から
西軍大名の伊藤某を追い出して居座り、東軍への合流を図ってるので、
こんな人を西軍の一翼にと考えた石田三成の判断が間違ってる。 最近の研究で、関ヶ原は決戦ではなく、
西軍を離れて東軍に合流しようとした小早川を西軍が処罰しようとしたら東軍に追いつかれて潰された
なんてのもあるくらいだしあからさまに怪しいんだよなあ、小早川さんは… >>398
福島「は? 三成が無能だからじゃねえよ。 三成は俺の敵だから、敵の敵の徳川についたんだよ」
毛利&吉川「は? うちの領土は全部うちの爺様以来実力で切り取ったもので、猿から恩を受けた覚えはありませんが?」 >>406
石田は戦の素人だな
出来るのはせいぜい兵站で前線の司令官が務まる器じゃない ていうか石田三成が西軍の指揮が出来た筈がない。
石高や権威で圧倒的だった毛利を無視出来ないから。
だから平時は確かに三成が指揮してたんだろうが、
土壇場になると自分達の判断で行動してたんじゃないの。
烏合の衆って往々にしてこんなムーヴやりがちだし。 もし関ケ原がなくて豊臣方が家康の死をひたすら待っていたらどうだったんだろうね? 秀吉が人生の後半頭おかしくなった時点で、もう諸侯の心は離れてたわけで。 この時の毛利の当主が元就だったら、「領土はもう拡大しないでこの程度でよい」は最早通用せず、家康を蹴落として自分が仕切るか、家康が天下を取って自身の領土は大幅に削られるか、の局面を理解していたと思う。 毛利がちょっと中途半端な対応してるからね…
とはいえ、岐阜城陥落してもう負けが確定してるのとなると後はどう負けるか?ってのが重要だからしゃーないところもあるけど。 そもそも西軍の大半は戦意がなかったのだから、関ヶ原で決戦をする必要がなかった。
総大将の毛利輝元が、全軍勢を大坂城周辺に引き上げさせ、「秀頼公を護衛する」ことに
専念して、膠着状態に持ち込み、東軍との和議をゆっくり進めればよかった。
毛利、島津、長曾我部、宇喜多などの主力が大坂城周辺に集結すれば、東軍は手が出せない。 >>419
西軍は東軍の内情を知らないから、家康が近くまで来てると
知らず、江戸で留まってると思ってた。
西軍主力が押し出してきたのは、美濃の城が次々奪われてるので、
東軍先鋒を叩いて前線を押し返すため。
決戦するつもりはなかった。
家康が来てると知ってたら近畿まで前線を下げたと思う。 家中騒動で戦力が怪しくなってる宇喜多が現実を省みず、内府憎しでハナから戦意のない毛利を神輿に持ち上げ蟄居中の石田を無理やり参謀に据えたところでどうにもならんで てか東軍は家康の動きがヤバいんだよな。
作戦?そんなんお前らわかってるだろ!関東は吉報を待ってるぞ!
え?家康に出馬してほしい?わっーたよ!行く行く!
とか言いながら行かなかったり、と思ったら約束より早く出発したり。
西軍の諜報網をきりきり舞いさせてる。
対して西軍は三成筆頭に頭の固い戦法とってるから東軍に捕捉されてたみたいだし、 毛利輝元に家康を蹴落として自分が政権を牛耳るだけの胆力と器量が求められる。 >>422
>対して西軍は三成筆頭に頭の固い戦法とってるから
安濃津、丹後田辺、近江大津城とかわざわざ
攻めに行かなくてもって気はするな。
その辺は西軍の勢力内で孤立した弧城だし、近隣の小大名に
牽制させておくだけでよかったと思う。
東軍先鋒が押し出してきたのを迎撃して打撃を与え、大垣や岐阜辺りに
まとまった軍を込めておけば決戦は避けられて大阪城を握ったまま
>>419氏の言うとおりのこう着状態に持ち込めたかと。 >>407
畿内の東軍孤城攻めるくらいなら、態度が怪しい小早川を
さっさと始末すべきだったと思う。
小早川も上杉討伐に参加するつもりで大阪に着いたら西軍が決起してて、
東海道を下ろうとしても長束に阻まれ、立てこもる城もないまま
無理やり西軍に組み込まれたから可哀想ではあるんだが。 三成からすると、まさか旧織田家臣の豊臣派が秀信を攻撃するとは思ってなかったんかな。
なお躊躇わなかった模様。武士だからね、仕方ないね。 >>427
福島・池田とも岐阜中納言には直接何の恩顧も受けてないから、なおさらね。 >>429
島津は成り行きのまま西軍として戦っている。
小早川は東軍と合流しようとした。 豊臣家は、初代当主からして、主君の子の信孝を平気で殺しに行けるメンタリティ。 まぁ当時の御恩と奉公ってのは基本一代限りだし、
主君の家に忠義を尽くす武士像ってのは江戸時代に入ってからだし…多少はね?
とはいえ、織田秀信に織田の旧領を与えなかった事が、
関ヶ原での西軍敗北、その後の豊臣滅亡に繋がってると考えると歴史ってのは面白いなーと 合戦当日の布陣図、三成の右手に陣取ってる小部隊が謎…
地図によって「豊臣麾下」、wikiでは「織田信高」、
ひどいのだと凸マークだけで名無しだったり。
あとは部隊そのものが無かったりも
詳しい人教えてください。 >>432
>とはいえ、織田秀信に織田の旧領を与えなかった事が、
確か十二万石くらいだっけ?
東海地方は小大名が碁石みたいに並んでて、家康の盾になる
大大名がいないのが苦しい。
せめて美濃、尾張、伊勢辺りで百万石くらい持つ大名がいれば。
(ただし三介どのは除くw) >>434
秀信に織田の旧領全部与えなかった事は、織田の家督争いを考えればわからなくはないのだが、
その後紆余曲折ありながら尚秀信に織田旧領を与えなかったのは割と解せない。
おそらくは秀信に何十万石とやってしまうと信長恩顧の連中が何を考えるかわからなかったからなのだろうが…
岐阜城が落ちたのは、秀信が強力な支配を敷けなかったが故に、敵の侵攻に対して打って出ざるを得なかったから…
なんて聞いたけどはたして… >>430
島津は伏見城に入城して東軍に合流しようとしたぞ。
鳥居元忠が島津を入城させとったらどうなっていただろうね?
維新以下全員討ち死にしてたんかな? 島津にしろ、本当は東軍に…って言うけどどれだけ信用できるんだろう。
実際あり得る話ではあるし(鳥居からすると「もし島津が西軍に通じていたら伏見は最悪の落ちかたをする。入れられない」って感じだろうし、島津からすると「伏見に入れないで西軍と戦うのは無謀すぎる」って感じだろうし)
ただ、西軍に与した連中が助かる為には「実は東軍でした」って言うしか無いわけで… 石田&宇喜多&立花以外は東下するのを阻まれたり
成り行きでしぶしぶ西軍に組みしたりで戦意が乏しい
そもそも「西軍」と区分けできるのかも怪しい。
徳川勢が赤坂に入るころに瓦解しててもおかしくない。
逆に考えると開戦当日まで離脱者を出さずによくぞ家康を向かえたなと。
奇跡。 >>440
成り行きで組み込まれた連中に対して、九州や四国勢には
家康は寛大な処置してるな。
立てこもる城もないし領国に帰るに帰れないしで、
仕方なかったと認めてるんだろう。
ただし近畿や北陸勢に対しては
「立てこもる拠点があっただろ?現に大津や丹後田辺みたいに
小勢でも立てこもった連中がいるんだから」
って感じで処置が厳しくなってるな。 承久の乱がそうだったが、畿内で東国政権打倒の動きが出たとき、畿内や西国の武士は
巻き込まれて心ならずも味方するしかなくなる。
西軍側の多くの大名たちは身の処し方が難しかったと思う。 西軍側の決起メンバー。
石田三成、長束正家、安国寺恵瓊、小西行長、宇喜多秀家。
誘われて積極的に参加。
毛利輝元、大谷吉継、立花宗茂、丹羽長重。
成り行き上、仕方なく参加。
近畿では増田長盛、前田玄以など。
九州・四国の島津、長曽我部、鍋島などの大名。
近畿の十万石以下の大名は毛利の大軍が大阪にいるから
従わざるを得なかっただろうな。
篭城した京極なんて凄い博打だと思う。 > 日本史学者・元国士舘大学教授の安藤英男は、増田長盛が三成失脚後に100万石以上に
> 相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに
> 蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、
> 関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。 >>443
大谷は三成挙兵にしぶしぶokしたのではないか? >>>445
一々言葉尻を捉えるなよ面倒くせえな。
大谷、三成をいさめるが三成の決意が固いので、それならと
積極的に参加して西軍の味方を増やした。
前田以外の北陸を西軍で固めたのはこの人の活躍。
これくらい言わないとわからないか? 大谷、いったん味方すると決めたらめっちゃ積極的だからな
それはそれとして、毛利は本当に巻き込まれた側なのか?
毛利が加担しなければ破綻する計画だよ?
安国寺恵瓊の説得だけを当てにして、輝元に根回しもしないで始めるか?
戦後に首謀者じゃなかったんですぅ、って言い訳しただけじゃないのか? 大谷が石田を諌めた、なんて与太話を真に受けるなよ。 大谷が諫めたとか色々な逸話に事欠かないけど、
三成が決起人とか西軍ヤル気なかったろうなとは思う。
現代に例えると陸軍大将に噛み付いた内務省の一役人みたいなもんじゃろ?
勝つとか戦略とかそんなことより負けた時の言い訳考えてそう。 関が原でやる前に夜襲をかけていたら
それが失敗のもと
西の軍団は統率が取れていないから
個別で夜襲をかけて迎え撃つなど
できるわけがない。
司馬仲達がいない。 >>449
輝元に持って行った時点で、「二枚膏薬貼ってるんだよ、言わせんな、恥ずかしい」って言われるだけ >>451
まぁ世の中には敵を攻撃しますとか言いながら敵に降伏する連中もいるしねぇ… >>447
「前田、上杉と難癖つけられて、残る百万石の大名は毛利だけですよ?
今起たないと潰されますよ?」
とでも言われて決意したのかな。
そして西軍は輝元の承諾なしには決起できないわな。
輝元が鎮圧側に回ったら西軍決起メンバーじゃ対処できない。 毛利が秀吉の死の直後に三成と交わした誓約状があるらしいが、その時から既に接近してたのかもな 秀頼を輝元本人が大阪城で抑えたまま兵も動かさずに損耗させないという漁夫の利狙う気満々感 >>451
夜襲の話は宇喜多と大谷と島津が大乗り気であったが三成の大反対にあい頓挫ということだが。
大谷は自分の言う事はすべて聞けと言う条件で三成に味方したはずなんだが。 西軍の小早川秀秋が東軍に寝返ったからですよ。
有名な話です。 毛利が所領を維持したければ、家康を倒して自身が政権を仕切るしかない。
元春の「今の所領が安堵されればOK」というのは情勢の読みが甘い。
「所領は取り上げられても毛利のお家は存続」まで割り切っていたとも思えない。 関が原の時点ではもう無理だろ。
家康の力が大きくなったばかりか、秀吉恩顧の有力大名が家康に飼い慣らされてしまっている。
秀吉が家康に難癖付けて、領地を50万石くらいに減らせなかったのが全て。
家康は、秀吉に改易の口実を与えないために必死だったらしいが、
家康は、関東移封後に江戸城の改修や街並み整備や土地開発に力を注いでいたので、
「大きな工事をしているのは謀反の準備の疑いあり」とかで改易できなかったものかねぇ・・・ > 蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば
事務員の長盛には無理だろ。
100万石の事務で精一杯だ。
保身のために家康と通じていたが、結局どっちつかずで身を滅ぼしている。
駆け引きは無理。 >>461
そもそも、倉入地は各大名家の領地に分散してて、秀吉存命中から横領が問題になってたのに、
東軍大名の領地内から物資・人員を集められると思う方がおかしい。 そもそも豊臣蔵入地って本当に豊臣の物なのか?
豊臣領を家臣、若しくは大名に経営させてるなら問題も少なそうだけど、
豊臣に属した連中の領土に一方的に設定したのだとしたら絶対問題の火種と化すと思うんだが… 一般的には、新領地を与えるときに隣接する倉入地の管理を任されてる。
一国を任されてるように見えても、倉入地の比重が高いと、実際の収入・権限は低くなる。
服従した大名家の元領地を倉入地にして、その大名に管理を任せたケースってあるのかな? >>463
家康が天領を創設したのも、蔵入地の失敗(大名に管理を任せる)
を見ていたからなんだろうな。
自前で代官を育成して差配させた方が効率がいいと。 大名の領地に蔵入地を作れば統治機構的には楽なんだろうけど、
大名からすれば土地のピンハネみたいなもんだし、
いざ戦争になってもその大名が好意的じゃなければ手出しが出来なかったりするだろうし
不利だよなぁ、色々… 輝元が秀頼を前面に押し立てて、自ら京都まで進軍させる。
戦後は毛利閥で政権を組み、徳川系の大名は取り潰す構想を綿密に用意しておく。 結果論的に毛利の「このままの所領を家康が認めればそれで良い」という見通しは甘かったと思う。
毛利が家康を蹴落として天下を仕切るか、家康が天下を取って毛利は大減封されるか、の瀬戸際だった。 >>470
それ建前で、家さえ残れば減俸されても仕方ない、ってことで飲んだ和議だから。
三成に責任押し付けようとしても、毛利家が首謀者なのはバレバレだったわけで。 >>467
秀吉の代だと蔵入地を考え出すのが精一杯だったかもな。
歴代政権を考察してみた。
鎌倉幕府:将軍はみんなのお神輿で直轄地、直属兵は無いに等しい。
実力が無いので、臣下から簡単に挿げ替えられる。
室町幕府:鎌倉幕府の反省を生かして山城の国やその周辺で
直轄地を得て、奉公衆という名の親衛隊を創設。
それでも大大名に実力で劣るのは否めずたびたび都落ちも。
秀吉:室町幕府の反省を生かし、和泉、河内、摂津を直轄地に。
また各大名の領地に蔵入地を作り、豊臣家の収入に。
直轄65万石+蔵入地150万石で220万石だ!
親衛隊の七手組も1万人と大幅強化だ!
だが蔵入地は関が原の戦いの論功行賞で分配され、
親衛隊も1万じゃ足りなかった。
江戸幕府:秀吉の反省を生かし、全国各地に天領という名の
直轄地を設けて自分で経営する。
旗本、御家人もおよそ2万を数え原則として江戸在住に。
大名の妻子は江戸住まいで入り鉄砲に出女と出入りを厳しく。
ここまでされたら大名は謀反できない。
これで江戸幕府は250年続くことに。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています