【鵯越・後白河】一ノ谷の戦い【敦盛最期・首渡】
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義経逆落しの華やかな伝説の一方で、後白河院が平家方に和平をほのめかして油断させたとも云われる黒い側面。
敦盛、知章ら若い公達の大量死。
小宰相入水や公達の首渡など戦後のエピソードにも事欠かない。
話題豊富な一ノ谷の戦いについて語りましょう。 切り方の失敗で下顎のない首級を取ってしまう事はよくあったらしい
霧社事件関連の写真でそれらしいものが幾つか見える >>12
当時、反乱などの重罪人の生首は獄門にかけられていたが、
獄門になる前に、検非違使たちが都の大路を首を掲げて練り歩いていたのが「首渡し」。
姓名を記した赤札(おそらく木簡)を髪などに結び付けられ、それぞれの首を槍の先に刺して
都大路を獄まで引き回していた。 首渡の場面は陰惨だからか、あまり有名ではないけど、陰惨で残酷だからこそ、むしろ平家物語でも屈指の場面だと思うな。
つい数日前まで、笛を吹いていた美少年や、雅な和歌の名手、勇敢に闘っていた若武者たち。
その彼らが無惨に首を切られ、更にその表情と血の気を失った生首を槍で串刺しにされて引き回される・・・。
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XW0 一の谷の戦いというが、主力はずっと東の福原で睨みあっていたんだよな。
南北朝時代の湊川の戦もそうだけど、主力より有名武将が戦った場所を名前にしているのは違和感がある。 若い公達が大勢討ち死にして、なにが一番悲しいって彼らの父君も母君も多くが存命だったということ。
討たれた敦盛ら公達当人にも憐憫の情を覚えるが、戦をしている以上死は避けられない。
武人である父君たちも同様。
でも、いくら武家の人間とはいえ母親はたまらんと思うな。
戦に同行していた治部卿局が最後に知章と会ったのはいつだったのだろうか。
彼女の記憶の中の最後の息子の姿は鎧・直垂を着込んだ凛々しい姿だったのだろう。
それが夫を庇って首を切られて死んだと聞いてどう思っただろう。
師盛の母、藤原経子は重盛の死後に出家したと聞く。
我が子が首を切られて死んだだけでなく、首だけになって京に戻ってきて、
獄門の憂き目に遭ったことを知ってどれほど嘆いたことか。
獄門にかけられた首を引き取って供養したと信じたい。 >>21
師盛の母は経子ではないかも
ある研究者の論考によれば、東大に保管されてある古系図では母は経子になっていない
当時の日記に師盛は庶子扱いされてて、庶子のために重盛の末子扱いで系図に記載された可能性がある
14歳というのは読み物系平家によるもので、史料性が高く古態を残しているといわれる延慶本には年齢は書かれていなかったと思う
実際師盛の子、源智が存在するし、記録により源智には姉妹が二人いた可能性もあり、20歳以上だった可能性が高いといっている研究者がいる >>22
これは興味深いな。
師盛には子供の件もあるけど、都落ち以前に従軍した記録もあるそうで、
自分も14歳は間違いじゃないかと思っていた。
24歳を14歳と書き損じた説を有力視していた。
一方で、子供の順番を間違えるのも変な話で思案していたが、庶子ということなら説得力がある。 林「強盗キャンペンいまやるの?
今じゃないでしょ」 タコが言うのよタコが
日本は熊襲の産地で極めて文明度が低いって スダレスガ「強盗トラブルでアベコロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています