【日本刀】鈴木眞哉史観を疑う七太刀目【騎馬武者】
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>「倭は用槍に疎し」
明側の評価は、日本の槍は重くて使いづらいというものじゃなかったかな。
対日本刀用に針金鉄輪等で穂先を切り落とされないように加工していたんだろう。
槍同士なら少々リーチ差で負けていても素早く動ける方が有利だったのかも。 >>143
倭寇の刀に衝撃を受けて進歩した苗刀が大太刀サイズだから、野太刀・長巻ってことはねえよ。
辛酉刀法からして、影流を取り込んでるんだから、刀術だし。 揮刀如神
和冠の盛んなりし頃、明將の記文のうちに曰く、
倭奴刀を揮ふこと神の若し、人之を望めば輙ち懼れて走る、
其長ずる所の者は刀法のみ、其鳥嘴銃の類これ猶ほ我兵の如きなり、
弓矢の習猶ほこれ我兵の如く、此外殊に稱するに足るものなし、
唯だ倭性殺を好む一家一刀を蓄へざるものなく、童にして之を習ひ壯にして之に精し。
(中里介山 續日本武術神妙記より) 明側の評価をまとめると(明軍をAとした場合)
鉄砲 A
弓矢 A
槍 B以下
刀剣 S(神)
という事でいいのかな? >>143
「単刀法選」なんかでは五尺の長刀というのを出してるけど同文献から刃渡りを確認すると実は三尺いくらか程度
大陸側では柄を含めて刀剣類の長さとして表記する場合があったんじゃないかな
そうすると↓みたいに三、四尺ってのは八寸かそこらの柄の長さを入れた場合実は普通の打刀か
それよりいくらか長い三尺程度の太刀くらいになる
もっとも軍のトップである李如松提督ですら命からがら逃げ帰った戦いで正確に敵側の刀の長さを
確認できていたかは怪しいかもしれないが
柳成竜(朝鮮の領義政=総理)・著 『懲録』
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。 よく考えてみると、騎兵が短刀しか持ってないってなんだろう?
槍や弓はもってないのか? >>153
碧蹄館の戦いは北方騎兵が機動力を生かせない地形に誘い込まれて壊滅的被害を受ける戦いなので
それらの武器があったとしても狭隘な地形で肉薄してくる日本側相手に存在感を示せるほど
役に立たなかったということかもしれない
短剣というのもイメージするほど短い武器ではなく日本側の比較的長い刀剣との対比表現ではないかと思う チャイナの武器の分類でしょ。
長兵=槍、鉾、薙刀(大刀)等長柄の武器
短兵=刀剣類
短兵と言っても二尺程度のもので、馬上で片手で使うのには丁度良い長さなのかも知れない。
その手のものとしては日本刀が長過ぎるんだってw
まあ、それが利点ではあるんだろうけど。 数年前に韓国のマスコミが明代の「長刀」の意味をわからずに倭寇は「薙刀」で猛威を振るったみたいな記事書いてたり
当時の言葉とかその意味をちゃんと抑えないと変なイメージができあがるよね とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
TTF 歴史群像連載の樋口隆晴氏による
「武器と甲冑」が書籍化されれば少しは鈴木信者も減るよ。
樋口隆晴さんは
南北朝期〜室町期(戦国期除く)は薙刀が最強の武器だったとしながらも
太刀、大太刀、長巻といった
日本刀がメインウェポンの一つである時代だったと書いてるし、鈴木の本やガチ甲冑合戦も確認した上で戦国期に日本刀があまり使われなかった説に批判的なツイートをしている。
今はまだ戦国への序章編だけど。
東郷隆氏の連載が最近、書籍化されたけど
樋口隆晴氏も連載を書籍化したい旨のツイートをしていた。 だって戦国期に描かれた戦争についての絵で普通に日本刀持った侍が走り回ってんだから戦場で日本刀がほとんど使われなかったとかいうのは無理でしょw 秀吉の唐入りについての明の歴史書なんかでも日本兵の日本刀の切れ味が物凄かったことが書かれている
普通に切り込みしてるからこんな記述があるわけでね 鎧で完璧に武装してる人間はそう多くない
上の方の武士以外は戦場でも結構な軽装
普通に日本刀が能力発揮する場面は多かったはず 日本刀がお飾りという説は、選挙の泡沫候補がまかり間違って大統領になっちゃったかのような違和感があるんだよな >>159
絵と実際はよく違う。
絵は見栄えやわかりやすさ重視だもの 分かりやすさ重視だからこそ現実的でない表現は排除されて単純化されるだろうね >>163
大坂夏の陣図屏風とかどうみてもに行われたことをリアルに表現しようとしてる絵画でしょ
そういう絵画で刀を振り回している侍が大勢描かれているよ
もし戦場で刀をほとんど使わなったとしたらその描写は絵の価値をぶち壊すもので無駄な描写ってことになってしまうよ 兵器と戦術の日本史という本によると
弥生時代前期と中期が鉄鉾と盾と弓の時代で
弥生時代後期が鉄大刀(日本刀の前身)と盾と弓の時代とのこと。
戦列を組まない散兵戦、個人戦の場合は槍&盾よりも刀剣&盾の方が強いのだろう。
ちなみに古墳時代前期〜中期が両手で長槍持って密集隊形の時代、後期が再び大刀と盾の時代
あとは倭寇が野太刀や長巻で明軍の槍、朝倉軍の力士隊が野太刀で織田軍の槍、ランツクネヒトがツヴァイハンダーでパイクやハルバードの槍襖を切り開いているから大型刀剣は長柄武器に対して割と相性良いような気がする。長太龍太の中世ヨーロッパの武術の記述通りに。
戦国紫電将
http://paomaru.dousetsu.com
とらっしゅのーと 軍事史図書室
https://trushnote.exblog.jp/14951953/
この2つのサイトは古代と中世と近世の軍事を学ぶ上で役立つと思う。
あといつの間にかウィキペディアの武具の項目が結構 追記・修正されてないか?
剣
日本刀
太刀
大太刀
長巻
薙刀
倭刀
メイス
ツーハンデッドソード
バスタードソード
ハルバード
鎖帷子
の項目で確認したぞ。 大型刀剣は扱うのに腕力も技術も要るし、高価だけど長太龍太の中世ヨーロッパの武術によれば
長柄武器に対抗するのに最適で
複数の敵を相手にするのにも向いているんだよな。
マーティン j ドアティの図説 中世ヨーロッパ武器防具戦術百科でも武器として高く評価されていたし。 日本史板の住人なら模造刀の二本や三本持っていて当然だよな。 敗戦後は軍事研究がほぼ壊滅したからなあw
やっても、まず最初に旧日本軍のやり方全否定がスタートラインだし。
日本刀ガーもその一環じゃないの?
国内と海外の評価の差が大き過ぎてそういう見方にしかならん。 >>171
もう戦後70年過ぎたんだからイデオロギーとか抜きに冷静に研究して欲しいよね ボロ負けして味方を大量に無駄遣いしたダメ軍隊の戦法など何の役にも立たん >>166
いやそのサイト二つともどっから突っ込んでいいのやらと思うほど突っ込みどころ満載なんだが
歴オタ学生が適当に流し読みした覚えた者を羅列してる感じ
特に下は思い込みがひどすぎる 日本の戦について知りたければ武具の本ばかりではなく
平家物語
太平記
信長公記
ぐらい読まなければいかんのかね? 178です。一応、
近藤好和、
藤本正行、
笹間良彦、
中西立太、
歴史群像の樋口隆晴の武器と甲冑
新紀元社の本、
鈴木大先生(嫌味)の本(読んだ後捨てた)
辺りはチェックしてきたけど古典は雑兵物語の現代語訳しか持っていない。 >>177
具体的にどこがじゃなくて全部
このての軍オタ系の奴にありがちなんだけど「戦闘教義」とか「補給線」とか近代ヨーロッパで生まれた概念を平気で過去に投影している
当時の人々はあくまで当時の心性や価値観に従って行動しているわけで
そんな未来の概念に基づいて動いてるわけがない
現代合理主義による解釈をしてはいけないってのは史学を学ぶ上で常識的なことなんだが
そういう視点が欠如してるって時点でまぁ専門的に学んだことがない外野の人が書いてるんだろうなって思うよ こういの昔は軍事オンチの歴史学者がやってたもんだが
いまは歴史オンチの軍オタがやる時代か >>180
その「当時の心性や価値観」とやらは現代のイデオロギーの都合に合わせて作られた空想の産物だろ。
史料無視、合理的な説明もできないトンデモがまかり通るのは、まともな学問じゃない。 当時の史料をどうひっくり返しても出てこない近代西洋軍隊の概念に基づいて戦国武将が行動していたと思う方が
どう見てもまともじゃない空想だろ
軍オタっていつの時代の軍隊にも「合理的」な理由があるというイデオロギーに執着しているようだが
戦国の武将が占いや祈祷の結果に従って行動していたことにどう「合理的」な説明をこじつけるんだ?
あくまで当時の人々は当時の価値観や倫理観に従って行動してるわけで
近代以前の君主の頭の中に民主主義や男女平等や人権という概念がないのと同様
戦国武将が現代人から見て合理的な戦術や戦略を持っていたわけがない 武器は戦争でしか使わず、戦闘は合戦中にしか発生しないという偏見 話題になっている二つのサイトのうち、下の
とらっしゅのーと
の方は京都大学歴史研究所のサイトなんだよな とらっしゅのーとって昔は戦争か下の話ばかりだけど
最近は視野も広くなった し中の人の精神年齢が着実に成長してる感があって微笑ましい
すぐ極論から極論に走るところや木を見て森を見ずなとこは相変わらずだけど
>>184
武器は身分や職能を表すもので実用性はそれほど重視されていない
戦闘と戦争の区別が曖昧だったり「有事」という概念の欠如
このあたりは前近代においては普遍的だよね
戦争もあくまで「日常」の延長線上って考え方だから戦争法も存在しない 縄文人は信頼し合い助け合う共生文化であったので殺し合いをしなかった
殺し合わないので武器を作らなかった
武器を持たなかったので渡来人に、あっさり制圧されていまった
一方、大陸の方では、殺人と強姦をライフスタイルとする馬賊が
中国東北部あたりで幅をきかせていた
そいつらは朝鮮半島で王族を始め、それから日本に渡来して天皇を始めた
その手下が武士だ
日本各地で新羅の剣が発見されるので日本中を馬で駆けずり回っていたと思われる
そして狂暴な天皇は征夷大将軍を組織し、日本の原住民を狩っていた
捕らえられた日本の原住民が、天皇にひれ伏し震えおののく様子が
風になびく草のようであるため、日本の原住民は民草と呼ばれる
人間ではなく草であるという差別用語なので最近は使うのを控えられてしるが
最後に使ったのが確認されたのは三笠宮が2005年、自身の所属する組織の機関紙に寄稿した文章 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 渡来人が来て
武士が出てくるまで何百年かかってるw?
また武士が生まれてから、武士が権力握るまで
何百年たってる?
戦国時代の武将が兵站という概念がなかった?
当時荷駄隊の占めてた割合を考えて
当時の用兵家は孫子の兵法や他の中国古来の兵法書を知っていたし、
兵站は戦争の要だって春秋戦国時代から言われてること
ヨーロッパ発じゃないから
知っているのと理解度、運用法に個人差は当然あるだろうけど
戦においては常に兵站は問題になるから
補給線を維持するより荷駄隊を充実させ、雑兵には手弁当も持たせ
青田刈り等で現地調達する等
それぞれどの武将も苦労してたでしょ
そういった兵站について当時の資料
単なる日記や史実(多少の脚色あり)に書いてないからといって
否定するのはナンセンス NHK歴史秘話ヒストリアで元寇の時の日本刀戦が出てたな 一ヶ月くらい前に放送していたのかw
11月最初は「刀剣!」らしいけど内容はまだわからんよなあ。
海外のドキュメンタリー番組だと、日本刀が兵器として異様に持ち上げられていたりするw
日本国内では、全員が日本刀装備&日本刀対策が考えられている武器類装備。
一方、国外に出ると自分たち以外ほぼ日本刀無し、日本刀対策無しで有利になるという事なのだろうか?w 松平氏か誰かが出てる宝刀シリーズ見てる?
どのチャンネルか忘れたけど面白い
この前は女性剣士回だった 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>195
>戦国時代の武将が兵站という概念がなかった?
>当時荷駄隊の占めてた割合を考えて
領地から各々が荷馬と陣夫を徴発して物運ばせてるって感じで荷駄「隊」とかそんなもんあったようには見えないけどな
近世はいるまで寄親・寄子制が動員単位になってるのだから兵科ごとに部隊編成とかムリ
>当時の用兵家は孫子の兵法や他の中国古来の兵法書を知っていたし、
>兵站は戦争の要だって春秋戦国時代から言われてること
>ヨーロッパ発じゃないから
>知っているのと理解度、運用法に個人差は当然あるだろうけど
そうだねよくわかってるじゃないか
中世日本は古代中国みたいに中央集権制じゃないのだから古代中国の兵法書を知ってたからと言ってその通りに運用できるわけないよね
朝鮮出兵の際の朝鮮側の記録では日本軍は五衛の法つまり陣形がなく各自がそれぞれ戦っていると記しているしルイス・フロイスも似たようなこと書いてる
>補給線を維持するより荷駄隊を充実させ、雑兵には手弁当も持たせ
>青田刈り等で現地調達する等
>それぞれどの武将も苦労してたでしょ
「補給線」ってどういうものかわかってる?後方の兵站基地から前線へと物資を送る連絡路のことを言うのだけど
そんな大掛かりなものが中世日本にあったの?
そもそもどれだけの備蓄があるかわからない敵からの略奪頼りな時点でろくに補給が出来てない証拠なんですけど
>そういった兵站について当時の資料
>単なる日記や史実(多少の脚色あり)に書いてないからといって
>否定するのはナンセンス
史料にないことを想像をたくましくしてあったということにする方がよほどナンセンスだよね
それだと何でもあったことにできるからね 歴史秘話ヒストリア NHK総合1 午後10時25分〜 午後11時10分
「その切れ味は鋭く、美しく 日本人と刀 千年の物語」
http://www4.nhk.or.jp/historia/
今、盛り上がる「日本刀」ブーム!
「折れず、曲がらず、よく切れる」日本刀は、世界的にも高く評価される刀剣だ。
日本刀がこれほどの「逸品」となりえた背景には、特に京都の刀鍛冶たちが天皇や武士、あるいは時代の要請に応えるための努力と驚くべき技術革新があった。
現在、京都国立博物館で開催されている「京(みやこ)のかたな」展の名刀を井上あさひアナがリポートしながら、日本人と刀、千年の物語をお送りする。 英雄たちの選択でも特番を組んだが、ヒストリアもやるのか >>200
>ルイス・フロイスも似たようなこと書いてる
具体的になんて書いてるの? >青田刈り等で現地調達する等
青田刈りは嫌がらせであって兵糧調達じゃないよ
実ってないんだから当然だけど
日本の場合の「現地調達」は現地の商人から買うケースが結構あるみたいだな
北条だの毛利だのの大勢力がそのための銀や銭を現地に送ったケースがあると
「戦国大名の兵糧事情」に書かれている
他にも敵方の補給を遮断して撃退した戦いとか、荷駄隊が荷を下ろして撤退した例とかも
兵糧がらみの史実が色々載ってる
少ない材料であれこれ考えるより何か参考になるもの見たり史料に当たったほうがいいよ >単なる日記や史実(多少の脚色あり)に書いてないからといって
大名が発給した文書に「兵糧をこの地点に移動するように」と指示するものがいくつもあるんだから
そんな日記等に書いてなくても全く問題ないのでは? >「補給線」ってどういうものかわかってる?後方の兵站基地から前線へと物資を送る連絡路のことを言うのだけど
>そんな大掛かりなものが中世日本にあったの?
南北朝時代の文書にすら「兵糧之道」を断つという考え方が出てくるくらいですがね ところで
戦国期以前の
南北朝期〜室町期の太刀って打物騎兵にとってのメインウェポンだったの?
南北朝に野太刀、室町に長巻が
薙刀に次ぐメインウェポンだったのは大体わかるので
南北朝〜室町は日本刀が主力武器の一つだという説は理解できるのだが
太刀に関しては書籍によって主力武器と書いてあったりサブウェポンだったりでよくわからん。
最初から太刀だけで突撃する打物騎兵って結構いたのかね?
薙刀や野太刀や長巻の騎兵とぶつかったら乱戦にならん限りあっという間に倒されそうな気がしてならんのだが。
近世ヨーロッパでは胸甲騎兵が槍騎兵以上に最強だったけど槍騎兵と違って胸甲騎兵は鎧着てるし(槍騎兵には乱戦に弱いという弱点もあるがそれでも胸甲騎兵相手以外なら騎兵どうしの白兵でも有利)
あと近世ヨーロッパで活躍した胸甲騎兵、槍騎兵、竜騎兵、ユサールはサーベルや騎兵槍
以外に装備したピストルで敵の長槍や銃剣の戦列を突撃前に乱して突撃した上に
カービンを使う場合もあったが
近藤好和の本によれば日本の南北朝以降の騎兵は打物と弓を両方同時には携帯しない傾向があったんだよな。
太刀だけを主力武器にしてたんですかね?
南北朝〜室町の打物騎兵の方々は。 俺にとっての最大の謎は
鈴木説でも野太刀でも長巻でもなく……
太刀が戦国以前
南北朝〜室町の合戦のメインウェポンだったかどうかに尽きる。
詳しい方誰か教えて 日本刀は未来永劫メインウェポン。在日にだまされてはならない はー……何これ……まぁ、いいや。
あとそれと
南北朝に野太刀
室町に長巻と書いたが
笹間良彦の
図説 日本武道辞典と
イラストで時代考証2日本軍装図鑑 上に
よれば
安土桃山時代にも野太刀と長巻はよく使われたとのこと。
悪名高い鈴木眞哉の
戦闘報告書が語る日本中世の戦場のデータでも
戦国後期には刀傷が投石傷より少し少ない程度には増えている。 基本的に弓矢と刀しか持ってないだろw
メインとかサブとか現代人の感覚じゃないのかな?
本人がそうでなくても周りがDQNだらけだから、馬鹿みたいに無茶な事しないと周りが納得しないw
多分、ヤクザとかよりも暴走族辺りの行動原理を参考にした方がいいのかも知れん。
「逃げるのか臆病者!」なんて言われたら引き下がれない。
矢の打合いで終わらせたくても煽られたら斬り合い組討にまで行ったんじゃないのかな?w 鎌倉後期の戦闘様式が確認できる春日権現験記絵でも比較的遠間から抜刀して斬り込もうとしている騎馬武者もいるし
遠距離では弓近距離では打物というのは大体わかるにしてもそれを使い分ける厳密な距離なんかは結構アバウトというか
個人の感覚によって色々違ってたんだろうな 722 : 人間七七四年2015/06/01(月) 07:00:43.40 ID:gHYJcj5X
『北条五代記』三浦浄心(1565-1644)
(結城=松平=徳川)秀康卿仰せけるは、関東侍は馬上にて達者を働く由聞き及びぬ。さぞ強き馬を好みつらんと。
朝倉犬也(北条旧臣能登守景隆,相州浦郷=現横須賀)承りて、関東の侍あながち強き馬を好まず。
ただ自力にかないたる馬をもっぱらに乗り候。
それ馬に乗りて遠路を行くは足を休めんため、軍中にて乗るは馬上にて弓・槍を用に立てんため
なるが故に、むかし関東にて戦場をいまだ踏まざる若き者は、広き野原へあまた伴い出でて、
敵味方と人数を分ち、旗をさし弓・槍・長刀おのれおのれが得手の道具を持ちて馬に乗り、
馬を試みんため鉄砲を鳴らし、矢叫びの声をあげて喚き叫ぶ時に、
勇んで進む馬あり、おくれて退り、驚きて横へきるる馬あり。
山へ乗上げ、岨の崖道を乗り、堀を飛ばせ、自由に働くようにと鍛錬いたし、先陣にぬきんで
駆引き達者にふるまい、勝利に得んことを専らにたしなみ候。
秀康卿聞こし召し、犬也も若き頃はさぞ馬鍛錬しつらん。昔の面影をそと学んで見せよかし
との仰せなり。
犬也承りて、愚老七十に及び馬上の振舞かない難く候。しかれども貴命辞し申すに
かえって恐れあり。御遊興にそといにしえを学んで御目にかけ候べしと、
馬も心あるにや後ろをしたい来るを、また打乗って一散に走らせ、槍を自由に使って
駆回るを秀忠卿御覧にあって目を驚ろかし、御感斜めならず。
犬也、お召しにてあるぞと呼びければ、馬を静め近く乗りよせ飛んで下り御前に候す。 >>206
それ全然反論になってないと思うけど
補給基地とそれを運ぶ軍用路があったかどうかという話なんだから
個人的にはないと思う
何故なら陣城すら未発達で固定的な防御施設というのは戦国時代まで下らないと出てこないから
>>207
メインウェポンの定義は?よく軍オタ界隈の人が使ってるけど定義があやふやなタームフラれてもなぁ
一応、当時に兵科という概念があったかどうかわからないけど16世紀の軍忠状を見ていると
「太刀打衆」という太刀打ち戦を想定したと思われる部隊編成がちょいちょい出てくる >固定的な防御施設というのは戦国時代まで下らないと出てこないから
本当に?
具体的に何が根拠なんですか? >固定的な防御施設というのは戦国時代まで下らないと出てこないから
南北朝時代にどれだけ城攻めがあったと思ってるんだか
鈴木説並みのトンデモ信じちゃってるね
それとも「兵糧之道」同様に勝手なオレ定義ではぐらかす気かな? 戦国以前に堀・切岸・柵などを備えた固定式の防御施設は普通にあってそれを攻略する手段も確立されていた証拠ならあるけど
峰岸純夫「中世の合戦と城郭」
4 小山義政・若犬丸の乱と鷲城・祇園城
小山義政軍は次第に追いつめられ、本城である鷲城の攻防戦にいたる経過が示されている。
この間、義政は粟宮口などで「野臥」(野伏)というゲリラを放って鎌倉府軍に夜襲を
かけていることがうかがえる。城の攻防戦では「戸張口」といわれる城柵(バリケード)の入り口や
「切岸」といわれる城と思川の断崖面で激戦がおこなわれた様子がわかる。「堀埋」(埋草)合戦とは、
攻撃方が城の堀に草を投じて埋めて浅くして攻めこんだというものである。 完成度はともかく固定式の防御施設を備えた城郭ってのは
既に源平合戦に時期には出て来てるんじゃないのかな >>220
「固定的な防御施設というのは戦国時代まで下らないと出てこないから 」という説を知らないの? ドヤ顔でトンデモ語られても苦笑するしかないわいなw >>221
吉野ヶ里「」
その学者誰だか知らんが、随分物を知らない人だ 当たり前の話だけどさ、どんなもんでも段階踏んで進化発達発展していくわけよ。
ヘリコプターで富士山の頂上に到着!みたいな話には簡単にはならんわけよ。
天才が突然現れてそれまでの常識を覆す〜みたいなイベントも無いわけでは無いんだろうけど、それだってそれまでの蓄積があってのことだから、別に段階を幾つも飛ばしてできることでもないんだよ。 この人は新説を唱える学者さんなんだろうか
215日本@名無史さん2019/03/16(土) 12:30:45.37
>>206
それ全然反論になってないと思うけど
補給基地とそれを運ぶ軍用路があったかどうかという話なんだから
個人的にはないと思う
何故なら陣城すら未発達で固定的な防御施設というのは戦国時代まで下らないと出てこないから 「半固定的な攻城陣地は戦国時代まで無かった」の間違いじゃねえかな。
元寇の石垣も、東北各地の館も、鎌倉の切通しも、柵と堀で食い止める程度で、
攻略するのに陣城作って長期包囲しなきゃ落ちない、ってレベルじゃないし。
籠城して長期持久戦に持ち込んだ例って、楠木正成の前にある? 源平や南北朝どころか八幡太郎義家の時代の後三年合戦で金沢柵が落ちなかったので
兵糧攻めが選択されているな 南北朝の時代には2年にも渡る籠城が行われ攻城側によって坑道まで掘られた城がある 兵糧攻めや工作跡があるなら攻め手側に拠点になる陣地はありそうだ 関城の坑道攻めなんて常識だと思ってたけど戦国と南北朝両方興味ある人って意外と少ないの?
今でも城の防御施設とともにそれが確認できるのに >>230
それって、陣城とか付城とか作ってそこから坑道掘ってる?
「半固定的な攻城陣地は戦国時代まで無かった」んじゃないか、って言ってるんだが。
後三年役とかも野戦築城した記録ないべ? 固定的な防御施設というのは戦国時代まで下らないと出てこないから >>232
せっかくフォローしてやったのに、やはりただのアホか >>232
ひょっとして、石垣が無ければ防衛拠点じゃないとか考えてる人かな?
貴方のいう防衛拠点を知りたいな 高地性集落や古代城柵についてはどういう認識なんだろう >>236-240
最近の興味深いニュース系シリーズ もしかしたら天守閣の事を言っているのかも知れん。>戦国時代まで存在しない
あんなのただのお飾りですからw 天守閣は基本的に倉庫で余程のことがない限りは司令塔としては使わないと聞いたが、まぁ例外もあるだろうがな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています