>>563
元広島39D、途中熊本58Dに転属させた森金千秋氏の引用抜粋抜粋の続き。
「人権が無視されていた戦国時代でも、戦場で士卒が戦死すれば、その身分を子や孫が
継承して生活は保障される。戦功次第では歌下士は上士となり子孫がこれを継承する
しくみであったが、、天皇の軍隊は功績は上級将校が独占し、兵には何も与えなかった。
戦死者はの妻子は雀の涙のような「御下賜金」をもらって路頭に迷わなければならない
のである。兵の階級が一、二階級上がったところで奴隷的報酬の域は出なかったし、
一時金も下級将校の何十分の一という、名目だけのものであった。名誉の戦死と
言いながら、実質上に犬死に同然であった。
 戦国時代の下士や足軽には自分の意思で戦列を離れる自由があったが、
天皇の軍隊では、戦列を離れたりすれば、極刑の死刑が待っており、その非難排撃は
一族にまでおよぶしくみとなっていた。…兵の給料は月額五円八〇銭(昭和十七年当時)、
これは当時の中学生の小遣い銭の額であった。社会にあって月額一〇〇円の収入の
ある者でも、一律に五円八〇銭となり、戦死しても五円八〇銭に相当する補償しか
ないから、戦死者の遺家族はその日から路頭に迷う者があったと思われるのに、
名誉の戦死として一片の公報で片付づけ、後は一顧だにしなかったのである。
共産圏諸国では、政治犯を出すとその累が家族にもおよぶしくみとなっているそうだが、
これと同様のことが往年の天皇制社会ではまかり通っていたのである。全体主義社会の
恐ろしさを今さらのように思い知ることができるのである。」