附属池田小事件
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宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた。
宅間家の男子にも代々受け継がれ、法律や警察関係の仕事を行う者が多かった。

武士だった宅間の曽祖父は、明治維新の直後に丁髷を落として警察官に就任し、
鹿児島県から奄美大島に渡った後、大阪・河内へ移住した。
宅間の祖父は、宅間の父親が17歳になった年の春に死去している。
宅間の父親は小学校で学歴を終え、宅間家一家の大黒柱として6人の家族を養ってきた。

宅間の父親は、宅間の祖父と幼い頃から自宅の庭で木刀を打ち合っていたといい、
「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドを生涯持ち続けていた。
父親によれば「『誰にも迷惑をかけない』というのは、大きな私のテーマでありました」と語っている。
また、「(宅間家の男子は)何代にも渡って厳しい修身教育(道徳)を受けてきたため、(甲家の男子は)『真のサムライたれ』と教育された。
ワシも父親に厳しくそれを仕込まれたし、どんな出身地や身分にも関係無く『教育勅語』というものがあった。
これがあったから日本人はちゃんとしとったんですよ」という。
父親は極めて平凡な頑固親父で、人生の勝利者にはなり得なかったけれども自分の人生にプライドを持っていたという。

宅間の父親は、家族全員に対して激しい暴力をふるっており、
宅間自身も父親から厳しく接せられていた(なお、父親自身も放任されて育っていた様子である)。
宅間は暴力をふるう父親を憎悪し、寝ている間に包丁で刺殺してやろうと思ったこともあると述懐している。
宅間が自衛隊を退職して非行に走るようになると親子関係はさらに悪化し、
取っ組み合いをして父親が宅間を何度も石で殴打する出来事もあった。
事件後、父親は宅間のことを「物事が上手くいかないとすべて人のせいにする人間」と評している。